夫を思い出す【八〇〇文字の短編小説 #11】
夏の夕刻、ロンドンのユーストン駅で列車に乗ったパティは窓ガラスに映る自分を見て「また白髪が増えたわ」とひとりごちた。
ミルトン・キーンズへの小旅行。一カ月ほど前、ロンドンまで電車で三十分ほどの街に、息子のエドが家を買った。昨日の夜、エドは「新居での生活を祝うためにパーティーをやるんだ」と電話してきた。パティは相変わらず思いつきで行動するエドらしさに苦笑し、でも息子と結婚してくれたベスと、五歳になったばかりのマイルズにも久々に会えるのがうれしかった。
電車はまだ北へ向かう乗客たちを待っている。夕方という時間帯だからだろう、仕事帰りのビジネスパーソンの姿が目立つ。年金生活を送る自分には場違いのような気がしてくる。
パティはもう一度、窓ガラスに映る自分に目をやる。胸まで伸びた白髪ははりを失っているし、しわが増えた顔からは老いを感じざるを得ない。秋が来れば七十歳になる。
自分の人生も刻々と終わりに向かっているのだと考えていたパティは、右斜め前の席にある山高帽に気づいた。誰かの忘れ物だろうか。まるで取り残された魂のように見えて、息をのんだ。
行き場を失ったような山高帽は、否応なくドノヴァンの記憶を呼び覚ました。十八歳になったころに出会い、二十歳になるとすぐ付き合い始め、二十三歳のときに人生の伴侶となったドノヴァンは、エドが生まれ、父親になってから山高帽をことのほか気に入った。家族で出かけるときは欠かさず頭にのせ、カムデンタウンで買った濃紺の山高帽はいつしかドノヴァンの代名詞となった。
ドノヴァンがこの世を去ってもう五年が経つ。腎臓がんがわかったときは、もう手遅れだった。がんは肺と骨に転移していて、みるみるうちに痩せて、あっという間に人生の幕が降りた。パティは二人で過ごしたまばゆいほどの時間と、別人のように痩せたドノヴァンの姿を思い出し、涙をこぼした。
電車はまだ走り出さないし、山高帽に気を配る人は誰もいない。パティはずっと泣き続けている。
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