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嘉永生まれの男

「毎日書く」と目標を立てたつもりが、あらあら気がつけば、もう前回から1ヵ月も経ってしまっている。いやいや、こんなことではあまりに情けない。少しずつでも書いていこう。

 今日、タレントが街歩きをするテレビ番組を見ていたら、東京の青梅市が取り上げられていた。以前から、昔の洋画の看板で街を飾るなど、独特の町起こしをされているところだという認識はあったのだけれども、そのほかにもいろいろと「昭和レトロ」なお店やら施設やらが結構あるのだと知って、「ちょっと古いもの好き」の身としては、大変興味を惹かれた。

 それにしても、そこで取り上げられている電話機やらカメラやらコカ・コーラの瓶やら電話ボックスやら、私などの世代にとっては「あー、懐かしい」という多少の感慨はあっても、「珍しい」とか「特別なもの」だとかは感じない。しかし番組の中では、そうした品々が、もう半ば「骨董」として扱われて展示されていることに、少なからずショックを受けた。以前、自分よりも大分年下の人が「昭和時代には」と言ったときにも驚いたけれども、しかし、間に平成を挟んでもう令和なんである。「時代」をつけられてしまうのも無理ないか、私だって明治時代の祖父母の前で「明治時代が」と話していたものなぁ……などと思ったりもする。

 前回、前々回にも触れた、母方の祖母・英子(ふさこ)は、明治42(1909)年の生まれだったが、驚くのは、その父親、つまり私から見て曾祖父にあたる人は、なんと江戸時代の生まれだったということだ。嘉永6(1853)年生まれというから、あのペリーが黒船で来航した年である。それが「ひいおじいちゃん」というのは、江戸時代もそう遠くないと解釈すべきなのか、うちが極めてレアケースと見るべきか。とにかく英子が、まるで昨日のことのように自分の父親の思い出についても折に触れてあれこれ話してくれたので、昭和40年代生まれといえども、私にとっては、江戸時代も明治も大正も昭和もずーっとずーっと地続きなのだと感じられてきたのである。

 この曾祖父、名を福十郎と言って、いろいろと逸話が多い。明治時代に入る頃は、15歳ぐらい。本来であれば「元服」の年齢だ。とにかく「男子たるもの髷を切ってはならない」と言って、御一新の世になっても暫くは、ちょんまげを結っていたという話である。 その後、どういう教育を受け、どのような家庭環境で育ったのか詳細は不明なのだが、生まれ育ちが神戸だったので船乗りになり、機関手として日本中の港を行き来していたという。

 数年前、何か少しでも情報が得られるかと思って、ネットで名前を検索してみたところ、奇跡的にその当時の船と船員のリストにヒットした。それによると、「甲種二等機関手」とあり、「定繁場」が「品川湾」であり、「定航地方」が「三陸横浜」とある。そして住所が「東京府高輪南町14番地」と記されている。ん? 神戸ではない? なぜ東京? 「三陸横浜」ということは、その航路を担当していたということか。

 このリストが明治のいつぐらいのものか判明しないので、詳しいことはわからないのだが、そう言えば、独身時代、一時期東京に住んでいたというようなことを祖母が言っていたようにも記憶している。そうすると、東京がベースで、そこを拠点に品川湾を三陸まで行っていたということなのだろうか。何より、この非常にラフな住所は現在のどこに当たるのだろうと、元来「歴女」でもある私としては、どんどん気になり始めてしまった。こうなると「ひとりファミリーヒストリー取材班」状態である。古地図で見てみると、どうやらこの住所は現在の高輪プリンスホテル辺りではないかと思われるのだが、確かではない。ただ、当時はその近くまでが海であったはずなので、船乗りとしてはあの近辺は好都合の場所だったに違いない。

 乗っていた船の名は「玄武丸」。船主は「日本郵船会社」で、船の製造年は「1872年」(明治5年)、製造地は「米国ニューヨーク・ブルークリン」とある。そうか、アメリカ製の船に乗っていたのだな。この先は、もしかしたら日本郵船に問い合わせたりすれば、もう少し詳細がわかるのかもしれないが、まだそこまで行きついていない。いずれ調べてみたいと思う。

 こんな生活を続けていたせいか、福十郎は当時としては婚期が大分遅れてしまって、身を固めたのは36歳のときだったという。しかし、今と違って「人生50年時代」の36では印象が悪いと思ったのだろうか、26歳と偽って、18歳の嫁をもらったというので呆れてしまう話である。その騙された相手が私の曾祖母なのだが、一緒になったあとできっと真実を聞かされたに違いない。果たしてどんな気持ちだったのだろう。今だったら「詐欺まがい」のこの行為、大問題になりそうだが、当時は「そうだったのね」で済んだのかもしれない。祖母はいつも「笑い話」のように話していたので、きっと曾祖母もそう大らかに受け留めていたのだろう。
 夫婦の間には明治23年3月3日に第一子である娘が生まれるが、生まれた日から「さん」と名付けたというから、なんというラフさ。これも時代と言えば時代なのだろう。その後、5人立て続けに息子が生まれ、長女から19年経って生まれた末娘が私の祖母・英子ということになる。

 福十郎がいつ陸(おか)に上がり、いつ隠居したのかなどの詳しいこともわからない。もっと祖母に聞いておけばよかったと思う。なにしろ英子は、曾祖父が52歳のときの子なので、今の時代だったとしてもかなり遅い子どもだ。当時であれば完全に「孫」と言ってもおかしくない年の開きだった。よって、英子の語る曾祖父は、颯爽と海を行く若き日の姿ではなく、隠居した「おじいさん」の姿だった。

 それこそ船に乗っていたときは羽振りもよく、今の北海道庁前の土地を広く買って所有していただの、長女には蝶よ花よと片端から習い事をさせ教育熱心だっただの、華やかなエピソードが多い。しかし土地関連で人に騙されたことがきっかけで失敗、英子が成長する頃には殆どを失ってしまった。海のことしか知らない男は陸のことは何もわからなかったのだ。それなので、英子は両親と3人、兄たちの仕送りでつましく暮らして育ったという。福十郎の息子5人は、ひとりは養子に出され、ひとりが東京商船大学を卒業して外国航路の船員になり、残りの3人はそれぞれ、横浜商業高等学校(現横浜国大)、東京帝国大学に進んでその頃には社会に出ていたので、互いに協力すれば両親と妹の暮らしぐらいは何とか支えられたのだろう。

 とにかく福十郎は終日家にいるので、雨が降れば、英子の通う女学校に傘を持って迎えに来てくれる。若いきれいなお母さんたちが来る同級生の中、自分のところには、着物を尻端折りした「老人」がやってくるのである。迎えに来てくれてありがたいと思いつつも、娘心に恥ずかしいという思いも強く、「ありがとう、お父さん」とは言えず、いつも「ありがとう、おじいちゃん」と言っていたそうだ。そのときの福十郎の思いを想像すると、祖母に代わってちくりと胸が小さく痛んだりもする。

 海水浴に行けば、さあ着替えて帰ろうという段になって、浜で堂々と当時の水着である褌を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になって褌の水を絞る。着替えの小屋から出てその姿を見た英子はびっくり仰天。他人の振りをしようと思って目を背けたところへ「英子ぉ~!」と無邪気に父親が大声で呼びかけてきて穴があったら入りたいほど恥ずかしかったとも言っていた。似たようなことは、いつの時代の父娘にもあることだが、さすがに現代とははみ出し方のスケールが違って、昔のこととはいえ、英子が少し気の毒にはなるエピソードなのだった。

 大きな船を降りてからは、福十郎は瀬戸内海で、日本の港に不案内な外国船を案内する「パイロット」の仕事をしていたという。髷を結う「鎖国」の世の中に生まれ、そこから激動の明治維新を体験し、最後は外国と直に関わる海での仕事に就いた彼の目に、時代の移り変わりはどのように見えていたのだろう。祖母に聞いておくのだったと思うたくさんのことのひとつに、その曾祖父の気持ちがある。今、大河ドラマではちょうどその頃のことが描かれているが、毎週楽しみに見つつ、一庶民であった曾祖父のことを思ったりしている。

 



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