幸せとは何かを考えた時に、 考えるものではないということに気がつけたということ これ、ものすっごい大きな収穫だと思いませんか? 必死に考えて全然ダメだったことが、 考える必要がなかったと気がついた時の感動は計り知れません。 2023年は必死に考えることで始まりました。 とにかく血迷ってあれこれ手をつける自分にケリをつけようと、 とにかく決断を大切にする年として2023年を迎えたことを覚えています。 全ては己の「幸せ」のためでした。 必死に考え、なぜを突き詰め、考えては
世の中気になることだらけです。 あれもこれもに気になることがまとわりつくせいで、そのうちに、気になるのに知らないことだらけになってしまいます。 これは少々よろしくない。 それでは、気になる割に関わる気のない、気になる詐欺になってしまいます。 だからと言って、何でもかんでも、気になったら首を突っ込もうなんて思いついてやってみると、どれも中途半端になっていることに気が付きます。 これも少々よろしくない。 気になっているという気持ちを、結果的に裏切ることになります。
僕は、このnoteでの投稿を通して自分と向き合うようにしています。 だから、毎日投稿しようと決めてはいます。 ところが、投稿はまだらどころか、1ヶ月半ぶりです。 いつもはその日のことを書いていますが、 今日はここ最近考えていることを書こうかなと。 結局僕はどこに向かって行くのでしょうか。 こんな考えても仕方ないことを、未だにたくさん考えるんです。 まだまだ考えるべきなんでしょうか。 ここ最近、思うことは考えていたって仕方がない ということなのですが、ふとしたときに「
組織の緩みとか綻びっていうのは 指摘されると少しイラッとします。 組織っていうのは、僕一人では成り立ちませんから 変えようってもんで変えられないし、変えるにしても時間を要します。 でも、それは遡ってみると個人の問題で、指摘された頃には自分も緩んでいるというケースがほとんど。 自分だけの問題ではないのに、自分の方まで問題あったとまで言われると、ごもっともだからこそイラっとします。 とにかく悔しい、ムカつく。 しかも、そういうこと言うやつ、大体外から見てるやつなんですよ。
実は、僕の投稿のファンに日記を読み上げてもらう機会がありました。 最初は恥ずかしくて、やめて欲しかったのですが、思えば読み返していなかったので聞いてみると。 大体こんな感じの、聞いていて面倒臭い文章を書いていました。 それを機に最近のを見返してみると、 もっと短いです。文字数もそれまでの半分。 久しぶりに書いて、テイストが変わりました。 変わり種。でもないけど。 読み返してみて意識することが変わりました。 前までは、内容を誤解ないように読みやすく書こう、と必死でした
はい、落ち込むことはありません。 嘘です。 こちとら人間です。 ちょっとやそっと落ち込むことくらい、いくらでもあります。 でも、今日ふと言われた一言はまさにこの「落ち込むことあるの?」という言葉で、ちょっと困ってしまいました。 僕は、落ち込みます。 でも、3秒で立ち直ります。 先輩に同じような人がいます。 が、その人がまさにそうでした。 仮に上司からこっ酷く怒られても、 15秒落ち込んだら気持ちを切り替えるらしいです。 僕の場合、根っからのノーテンキなので、これ
僕は、自分のことが大好きです。 彼は、自分のことが大嫌いです。 彼は、人のことを批判的な目で見ることが多いです。 僕は、そんな彼の癖が嫌いです。 でも、彼の健気なところは大好きです。 時折、彼はすぐに見栄を張ります。 彼のそんなところが、少しだけ好きで、でもちょっと嫌いです。 ある日、彼に「それ、嫌い」と言いました。 すると、「『嫌い』っていう言葉が嫌い」と言われました。 みんなそうだと思います。 「嫌い」って人に言われるのは、嫌なものです。 僕も嫌です。そう言ってきた相
あまり頭も働かずに、何も考えないで過ごした今日、 そんな今日の最後のミッションは、犬の散歩でした。 幼馴染のお家には、犬がいます。 ちょっと大きめの、生まれて2年も経たないワンコです。 今日は散歩について行きました。 その時、将来はこういうワンコと二人で部屋でゆっくり暮らしたいと思っていたことを、思い出しました。 実は、今でも思っていると、思いました。 自分でも不思議なのが、 これだけ、人とのコミュニケーション力上昇に力を注ぎ、一生の友達を探そうと決めて、ようやく人と
どうも 実は、以前に「毎日書く」という宣言をして以来 一度も日を空けずに投稿することができていません。 それまで毎日投稿してたのに、宣言した途端できなくなることある? 「心機一転」という言葉の意味を腐らせた僕の罪は重い。 愛ってなんだろう こういうはっきりしないものについて書くの、あんまり良くない気はしているけれど、最近よく会う人とはこういう話をすることが多いです。 なんなんでしょうねこいつ。 誰か賢い人がつくった悪魔なのかな。 愛というのは、あまりにも曖昧すぎ
4年前、初めて渋谷に来て以来、久しぶりに一人で渋谷の中イヤホンを外してみました。 音楽を聴くのが好きな上に、ガチャガチャとうるさいのが苦手な僕は、何か注目できるものがないと嫌な僕は、誰かと話しながら歩くか耳元で音楽を流すか、これしかしてきませんでした。 相変わらず、好きに慣れない街だと感じました。 無数の車、行手を阻む人混み、見上げてみれば巨大スクリーンに映るアニメのCM、それにカメラを向ける人だかり、巨大なBGM、色の統一されない建物の数々。諸々が嫌になって目線を下せ
今日、バイクでお寿司を届けるアルバイトをしたときに 一件目に届けにいったお家の主人さん。 インターホンを鳴らしてドアを開けた後の第一声は 「ご苦労様です。こんな暑い中ありがとうねえ。」 本来注文してもらって、利用してもらって、ありがとうという伝えるべきはこちらにも関わらず、真っ先に、相手から「ありがとう」と言われました。 自分はその時とんでもないです、なんていったけど、間違っていたと思う。 すかさず感謝を伝えるべきだった。 利用してくれてありがとう 配慮のある言葉をあ
どうしてこんなに大学の授業だけめんどくさいのだろう。 朝起きることも、電車に乗ることも、図書室に行くことも、講義室にいることも、ゼミの授業も受けることも、むしろ喜んでやることなのに、 授業となると、専ら、大学に関わることがすべてつまらなくなる。 朝起きることも、電車に乗ることも、図書室にいることも、講義室に行くことも、ゼミの授業を受けに行くことも。 全部自分が決めつけた たかだか大学の授業をどうしてここまで嫌なのか。 普段、どんなにものがつまらなくても、おもしろいこ
彼は突如、人物というよりも写真として現れました。 「会って10分でこれ」 と、普段あまり表情を見せないイメージの友人が、彼とスキンシップをしている写真を見せてきました。 狐にも騙されたような気分で、どのくらい時間が経ったかも分からないまま、その写真を見ていたような気がします。 写真なんか見ていなかったように時間が過ぎて、3ヶ月くらい経った頃でした。 自分のやっていることに限界を感じ、もっと自分以外の世界を知らないといけないという危機感に駆られ出した頃、ふと友人の顔が
(これを書いている日の)昨晩、体調をぶち壊しました。 朝、泊まっていた友人宅を出て試合、帰宅してご飯食べてよっしゃ午後の用事かますぜ!のその後、悲劇は起きました。 もちろん疲れていたので電車は席に座り、日本の平和さと座席の快適さにもたれながら爆睡していました。と、気がつけば目的地を通り越して1時間以上、、 折り返して戻る頃には午前中が嘘かのように疲れがドーンっとのしかかってきました。 正常に歩けているのかもわからないほどにフラフラで、(多分平気だった)楽しみだった午後
エモーショナルフットボール ロックンロール ヒップホップ 爆笑するのが大好き、感情を揺さぶられるものが大好きな僕が、その中でも特に外したくないと思う重要な要素がこういった類のものです。 相手や味方に対して声を荒げたり、世間一般の意見に対して中指を立てたり、周りの言うことそっちのけで自分の意思を貫いたり あるひとから見たら少し近寄りがたいこともあるけど、自分にとって大正解なもの 世間からの評価を上げるにしては逆行しているように見えるもの 人から求められなければ生きてい
大学のゼミで履修している西洋哲学。 今日そのゼミで書く卒論のテーマを決めました。 いや、なんの話やねん。っとなる前に少しくらい立ち寄って目をなぞってみてくださいな。 本来の芸術を知りたい 僕たちの芸術は 芸術、といえば 絵画、音楽、彫刻 いわば作品ってやつらです。 絵画だったら、今は写真やイラストもこれに近いし(っていうことにしておいて)音楽だったら、ロックにポップにヒップホップに演歌やオーケストラ。彫刻は少し馴染みの無さを感じる人が周りにも多い気が、 みんながこ