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全部、僕。

どうしてこんなに大学の授業だけめんどくさいのだろう。

朝起きることも、電車に乗ることも、図書室に行くことも、講義室にいることも、ゼミの授業も受けることも、むしろ喜んでやることなのに、
授業となると、専ら、大学に関わることがすべてつまらなくなる。

朝起きることも、電車に乗ることも、図書室にいることも、講義室に行くことも、ゼミの授業を受けに行くことも。


全部自分が決めつけた


たかだか大学の授業をどうしてここまで嫌なのか。

普段、どんなにものがつまらなくても、おもしろいことを探すことが好きなのに、大学の授業にいたってはこれに当たらないのはなんなのか。

”講義っていうコンテンツはつまらない”

サッカー指導者になろうと思って、指導の勉強する場に飛び込んだことがきっかけでした。
そこに入って、そこの人と話して、一緒に何かつくって行く中で、勝手に講義形式のものは受動的だからつまらない、という固定観念を創り上げていました。

その頃から大学の授業となったら他のことに時間を使うための用事、と決まりきって、全く動きません。だから、他のことは楽しくても授業そのものは面白くないまま。

積み重ねたはずのものが、間違ったものになってしまったような、残念な感覚です。

講義だって、別に悪いことしたわけじゃない、必要だから存在しているのに。よりによって自分みたいな人間に嫌われてしまって、意味わかんないだろうと思います。

つまらない、のは自分が自分に決めたことでした。


目の前のことは全て決め事

目の前に見えるもの、全て自分で決めたことで出来上がっています。

強く照る太陽は体を刺してきて、都会の人混みは圧迫感を生み、
コーヒーを飲むことや自然に触れることは寿命の進みを忘れさせてくれる。

でも、太陽も都会の人混みもコーヒーも自然も、そんなことしているつもりはないでしょう。

彼らはなんもその気が無いのに、悪者にされたり、賞賛されたり。
僕はそういうことが大嫌い(は言い過ぎた)なので、あまり気持ちいいことでは無いなって、振り返るときふと思います。

世の中そんなことばっかりです。
誰が決めたかもわからない、良いこと悪いこと。どれもこれも全て何を信じたらいいのかわからないことだらけ。

どんなに信頼している人が良い悪いと言おうと、結局そんなこと自分で判断しないと、自分にしか良し悪しは分かりません。

面倒くさいです。

全部自分の思うように決めて、全て指図してくれる人がいたとしたら、どんなに楽なんだろうと、この時は思うのに、
ああしろこうしろ、と言われてみると、自我というものがそれを邪魔します。
誰ですか、こんな面倒くさい仕様に僕たちをつくったのは。

これまで、そういうことの板挟みで生きてきて、「結局お前は何をしたいのか」なんて散々言われてきました。

そんなの、僕だって分かりません。ただただ、出来るだけ苦痛を感じないように生きたいだけなのに、周りに対してああ思ったりこう思ったり、それを周りからはああだこうだと言われて。

知りませんよ。どこまで考えていれば気が済むのか。

だから、自分のことは自分が分かる通り、自分だけが分かる通りにすることが、まず一番です。


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