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あなたは何色ですか?

4年前、初めて渋谷に来て以来、久しぶりに一人で渋谷の中イヤホンを外してみました。

音楽を聴くのが好きな上に、ガチャガチャとうるさいのが苦手な僕は、何か注目できるものがないと嫌な僕は、誰かと話しながら歩くか耳元で音楽を流すか、これしかしてきませんでした。

相変わらず、好きに慣れない街だと感じました。

無数の車、行手を阻む人混み、見上げてみれば巨大スクリーンに映るアニメのCM、それにカメラを向ける人だかり、巨大なBGM、色の統一されない建物の数々。諸々が嫌になって目線を下せば、誰が捨てたかもわからないものだらけ。

なんでもある場所に来たって、何も得られないものだと思います。
こんな街、心の底から好きな人がどれくらいいるのでしょうか。

そうして、僕の見た渋谷は、
何もかもがあるのに何も得られない場所になっていました。


明確に、先入観と主観は違うものです。

決めつけた動かないもので推しはかるのか
ただただ自分という実体のない主語で推しはかるのか

このコントロールが、人間難しいものだと感じます。

僕たちは身の回りの関わった人/モノで自らを形成し、それを意思という力に変えて日々生命活動をしています。

私たちは、主観があり、理性があるから動物と区別されるのであって、人間である以上、主観をつくると言える意思、感情、決断などは切っても切り離せません。

これこれには、境界線がなく、固定の値もないため、コントロールするというのは非常に難しいです。
メーターもなければ、観察することもできない。

無意識に、でも有意義に自身の中に積まれていきます。

先入観は、きっとこれには遠く及ばなくて、この主観の表面的なもののほんの一部を切り取っただけのものだと思います。


なんの話をしていたか忘れました。

とにかく、あの人の欲望がごった返しているように見える場所で、
誰も彼もがカメラを向けて景色を自分のところに遺そうとしています。

僕にとっては、その人の気持ちに全く共感できないです。
とにかく同じことをしたいとは思わない。

でも、これってやっぱり先入観なんです。

人が惚れるものというのは、何かしら魅力となる、特徴でも決定的なものでも眠っていると思います。

とある絵画が億単位で取引されること、とある音楽が何千万のヒットをすること、誰もが一度は宇宙に憧れること、なぜかみんな数字を利用すること。

大衆が受け入れるものは、最終的にそれを拒む人はいても、やっぱり何か決定的なものがあるではないかと。

でも、僕は
渋谷のそれがノイズや景色にブロックされてしまって、全く見えません。

そうしてすぐ目の前にあるもので、渋谷を判断せざるを得ない。

でも、きっと大切なのは、
それだけ何もかも無数にあるうちの、どれだけの要素が自分自身に訴えるのか。

自分の「主観」を見つけるヒントが溢れている場所であり、
それを感じさせ得ぬほどに派手な場所が今日の僕が渋谷だったのだと思います。

明日はどんな渋谷として目に映るのでしょうか。

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