愛国心と天皇崇拝の極致! 「軍神杉本五郎中佐」を読んで考える
私は編集者をやっていたので、平均より少し本を読んでいるかもしれない。
戦後の、自分と同世代くらいの人までの本は、もう何が書かれているか、読まなくても分かる。「戦後思想」にはもう飽きた。
退職する少し前から、戦前の本を読むようにしている。
戦後教育からほぼ完全に排除された「戦前戦中の世界」には新鮮味がある。今の価値観から見て異世界の日本がそこには広がっている。
まして今の世界の状況がある。ウクライナ侵攻で「戦後」は終わった。新たな「戦前」の始まりだ、と言うこともできる。
現代思想なんかクソだ。みんなも戦前戦中の本を読もう! 幸い、今は国会図書館のデジタルコレクションで、タダでパソコンなどで読めるのだ。
戦中の大ベストセラー『大義』
「異世界の日本」の最たるものを見せてくれるのが、杉本五郎のものである。
杉本五郎は1900(明治33)年、広島県生まれ。1937(昭和12)年、支那事変(日中戦争)勃発とともに中隊長として中国激戦地に進軍。同年9月、山東省で戦死した。
その杉本が「遺書」として死の直前まで実家に送っていた手紙が、「大義」という書名で1938(昭和13)年に出版されると、終戦までに130万部のミリオンセラーとなった。
杉本は、手榴弾の爆風を浴びながら、皇居の方を向いて立ったまま死んだ、という「神話」が流通し、「軍神」と呼ばれるようになる。
今の若い人は杉本五郎を知らないだろうし、私も知らなかった。
しかし、もし昭和の戦争に日本が勝っていたら、杉本五郎は教科書に載っていただろうし、お札の顔になっていたかもしれない。何しろ37歳で死んで日本の「神」になった人であった。
自発的だった「杉本ブーム」
杉本五郎の『大義』は、当時としても極端なまでの尊皇心を発露したもので、多くの若者に衝撃を与え、終戦まで影響を及ぼした。
それも、終戦に近くなるほど影響力を増した。
その影響力は、必ずしも国や政府の強制によるものではない。
杉本自身は、極端な尊皇の立場から、政府や軍も批判していた(だから煙たがられ、激戦地に送られたとも言われる)。『大義』にも、検閲を通らずに伏字になった部分が残っている。
太平洋戦争の開始ごろ、一層の愛国心を調達するために、権力が杉本の「神話」を流布したのは事実だろう。
だが、『大義』が若者のあいだで爆発的に読まれたのは、むしろ敗色が濃くなってからであり、それは自発的なものだった。
文芸評論家の奥野健男がこう書いている。
「キルケゴールに匹敵する」
それは、大本営に飽き飽きし、当局の思想宣伝をバカにしていた、自由な校風のエリート校で、むしろ流行した。
彼らは、日本の当局にも飽き飽きしていたが、それを批判する左翼にも「浅はかで無責任だ」と反感を持っていた。だから、敗戦直後、多くが無責任に転向した後にも、それに反発する若いエリート層に『大義』が影響力があったことが、城山三郎の小説「大義の末」で分かる。
吉本隆明は、オウム真理教事件の時に出した本の中で、杉本への感動を述べている。Wikipedeiaによれば以下のとおり。
吉本によれば、杉本五郎の精神のほうが、実際の天皇よりも「深い」のである。
どんなことが書かれているか
実際、どんな内容なのか。最初の部分から引用しておこう。
歯切れのよい断言と、命令形の連続で綴られた文章。
その「突き抜け具合」こそ、インテリにも受けた部分だ。
城山三郎はこれを「無駄なく打ちこんでくる文体」と呼んだ。
「天皇陛下」でも「天皇さま」でもなく、「天皇」である点に注意。「正面から誠意を賭け切って対決しようとするとき、『天皇』という言葉以外使えなくなる」(城山三郎「大義の末」)ということである。
杉本は禅の修行を積んでいた。だから禅宗もこれを礼賛した。宇宙の深遠の哲理を説く経文のように思えた読者もいただろう。
「ムー」とか好きな人は、きっと気に入ると思うよ。
デジタルコレクションで読める伝記
残念ながら『大義』自体は、国会図書館のデジタルコレクションでも読めない。まさかGHQの「焚書」が続いているわけではないだろう。著作権不明という理由である。
ただ、復刊されたものが電子化され、500円くらいで売られている。
デジタルコレクションでは、1942(昭和17)年に大日本雄弁会講談社(現・講談社)から出た『軍神杉本五郎中佐』が読める。
杉本の伝記だが、もともとが青少年向けなので、旧かな旧字体とはいえ、今の我々にも読みやすい。
だが、言うまでもないが、この本に書かれているような愛国心や戦争の見方は、戦後はまったく否定されている。
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ウクライナ侵攻以来、よく愛国心について考える。
国家は、最終的には、命を捧げることを要求する対象である。それは9条があろうが、改憲しようが、関係ない。本質的にそういうものだ。
9条があろうがなかろうが、敵国が攻めてきたら、我々はそういう覚悟を要求される。
日本人の多くには愛国心がないから、戦わないで逃げるだろう。私もそうするかもしれない、と思うと、これまで考えてこなかったこと(これまではアメリカのはからいで考えなくて済んできたこと)を考えざるを得なくなるのである。
戦前は、この「大義」にあるような、天皇崇拝の「国体」のために黙って死ぬことを要求された。それは理不尽であった。
戦後は、それを否定したが(しかし保守や右翼の中に「国体」論は生きているが)、9条崇拝が戦後の「国体」のようなもので、その「平和主義」への信仰によって、他国が攻めてきても黙って死ぬことが要求される。それも理不尽である。
戦前も戦後も超えて、日本人は、そのために死ぬことが納得できる、愛国心の根拠を持つことができるのだろうか。
私はもう兵隊に採られることはないだろうから、若い人たちが考えるべきことだが、私もたぶん死ぬまで考える。
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