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「みんなちがって、みんないい」わけがない リベラルからの左翼批判

河野有理氏(政治学・政治思想、法政大教授)の金曜日のポストに、わたしはずっと立ち止まり、考え込んでいます。

日本を含め世界が滔々と「左傾化」しつつあるのは間違いないところで、要するに68年の革命が勝利した後の世界なわけですが、そうであればこそリベラルの精神は本来的に68年と何ら縁がないし、なんなら相互に敵対的なくらいであるということはいくら強調してもしすぎることはないと思います。

(河野有理 7月26日15:25)


本当にそうだなあ、と。

1960年代からこっち、先進国で正式に革命が起こったわけではないのに、先進国が滔々と「左傾化」の危機にさらされている。

これは、河野氏がいうとおり、一部の左翼が「1968年に革命が起こった」というのが、本当だったのかもしれん。


この河野氏のポストの後、その「68年」の本場のパリで、オリンピックの開会式があった。

わたしは見てなかったけど、その「左翼臭さ」に世界が驚いたそうじゃないですか。



左傾化の「危機」の、とりあえずの兆候として、「移民」と「LGBT」が挙げられる。

外からの危機と、内からの危機。

それで何が危険にさらされているかというと、社会の「秩序」であることは間違いない。


河野氏のいうとおり、リベラリズムは、この危機に何らかの有効な処方箋や対抗策を提示して然るべきだ。

しかしリベラリズムは、「移民」に関しても「LGBT」に関しても、有効なことを言えず、ただ左翼に押されているだけのように見える。

だから、これはリベラリズムの危機でもある。



リベラリズムが沈黙しているので、この「危機」について騒ぎ立ててるのはもっぱら右派だけになっている。

でも、「秩序」の危機には、本来、右も左もない。

それは國分功一郎と千葉雅也がいう「言語」の危機であり、ラカン哲学でいうところの象徴界の危機である。

(最後の一文は、ラカンいうところの他者の言語がわたしの無意識に働きかけて書かせたものだから、わたしが理解して書いているものではない)



先週、三品純氏が、『知の巨人、佐高信が吼えた!「一人で扇風機を持っている若者は嫌いだ」』というのをnoteに書いていた。


佐高信みたいなメディア内総会屋、死に損ない、クソバカの老害左翼には、どんな悪口を投げつけても許される(彼自身が他人を罵倒して生きてきたから)。

でも、佐高の「一人で扇風機を持っている若者は嫌いだ」には、「秩序」や「公共性」が失われゆくことへの不安が感じられて、わたしは三品氏と一緒に揶揄する気になれなかったのですね。

古い市民派として、佐高なりに秩序や公共性の崩壊を憂慮している。

もちろん佐高が、矛先を「ハンディファン」に向けるのは大いに筋違いだ。政治において、左翼こそが「自分たちだけよければいい、社会は関係ない」というふうに活動している、と世間は思っている。それに気づかない佐高はやはりクソバカだとしても。


電車の中で化粧をする、というだけでも、20年前には社会問題になっていた。

それが今や、「迷惑系」が当たり前にはびこり、このあいだの選挙でのバカ騒ぎですよ。

社会の秩序は崩壊に向かっている。

そして、それを止めるものが見当たらない。

そのうえでの「移民」と「LGBT」だから、人びとが危機感をつのらせるのは当然なんです。



左翼にとっては「シメシメ」だけど。

60年代に左翼が変わったとすれば、社会の行き先がわからないまま、「とにかく崩せばいい」と考えているところだろうな。

それまでは社会主義、その先は共産主義、と行き先があり、いちおう「科学的」手順があった。

今の左翼は、とにかく崩していけば「秩序のない共生社会」のようなものが可能で、それが理想だと妄想しているとしか思えない。



秩序とか権威とか権力とかを毛嫌いする。

それが左翼の特徴です。

われわれの世代は、左翼に教育を受けたから、みんなそういう考え方が染み込んでいる。

最近「梅津庸一」の話題で取り上げた、美術家の糸崎公朗氏も、Youtube動画の中で、やはり同じようなことを言っていた。

「左翼思考から抜け出すのが大変だった」と。

1960年代以降、もともとそういう西欧型の左翼思想が蔓延している。

アカデミズムとジャーナリズムは、ほぼそれに支配されていると言っていい。


しかし、冒頭の河野氏の述懐にあるとおり、冷戦終了後、ここまで「左翼」が力強く生き延びるとは思わなかった、というのが正直なところではないか。



リベラリズムが左翼に反論するのが難しいのは、同じ「人権派」だからだろうな。

でもリベラルは、人権の有効な保障のために、権力と法、つまり秩序が必須であることを理解しているはずなんですね。

権力が人権を侵す、という側面ばかりを言う左翼に対して、権力が人権を守る側面を強調しなければならない。

そこで権力行使の公正性を保つために、「人権」や「自由」をもっと精密に秩序化する必要があるはずだけど、そこがうまくいってないんだろうな。

人権は「天賦」だから、と言われると、黙っちゃうところがある。

人権は本当は「天賦」ではなく、「人為」だけど、それを言っちゃうと、リベラリズムの根本が崩れるんだろう。

難しいことはわからんけどね。

「みんなちがって、みんないい」わけはないじゃないか。

そんな詩みたいなこと言ってないで、どっかの時点で本音ベースで反対しないと、このまま世界は左翼に押し切られちゃうぞ。



<参考>


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