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「分断」は正しい 「中絶の権利」と憲法9条

米最高裁が24日、「中絶の権利」を認めた1973年のローVSウエイド判例を覆し、中絶を憲法上の権利と認めない判断をした。

事前に漏洩していた情報どおりであった。まさに歴史的判断といえる。


保守化と分断の懸念


日本のマスコミでは、バイデン大統領の苦い顔とトランプ前大統領の得意な顔を映し、「保守派の盛り返し」という文脈で報じているようだ。

そして、反対デモの映像を流し、「アメリカのさらなる『分断』が懸念される」といった結びになる。

政治的な流れとしてはそうだろうが、法や民主主義の問題として見ると、「懸念」だけの結論にはならないはずだ。

その点で、法や政治哲学の専門家からのコメントが、まだ不足している。私は専門家ではないが、自分の考えを書いておきたい。


民主制の強化


今回の判断が保守的であるのはその通りだが、「中絶の権利」を憲法的に否定したわけではない。

それが憲法上の権利であることを否定した、つまり憲法の権利としては認めない、というだけで、権利を認めるかどうかは、各州の州法に任される。

つまり、問題を、憲法(立憲主義)から、各州の議会(民主主義)に差し戻した、と言える。

現在、アメリカには、中絶を認める州と、認めない州がある。それを「分断」と言えばそうかもしれないが、中絶をしたい人は、中絶を認める州に移動する自由がある。

そうである限り、自由と人権は守られており、大統領の意思に反する判断ができた司法の独立を示し、民主主義という点では、議会の権限がより強化され、価値の多様性が守られたとも言える。


反響乏しい日本


日本で中絶反対については、かつて生長の家などの右派宗教団体が活発に運動していた。彼らは「経済的理由による中絶」を違法化するよう求めていた。

今はそういう運動は沈静化しているので、母体保護法(旧優生保護法)により、中絶の権利は守られている。

日本でも、それは憲法上の権利ではない(と思う)。だが、論争的な問題とは考えられていないようで、今回の米最高裁判断への反響も少ないように感じる。


9条問題との相同性


しかし、参院選でも焦点の1つとなっている憲法9条問題にも、それは関連している。

憲法9条の問題は、安全保障上の国の「権利(主権)」を、憲法で縛っていることにある。

井上達夫(東大名誉教授)などの立憲的改憲論は、「非武装中立」そのものを否定するのではなく、それが憲法に書き込まれ、民主的統制と代表制が効かなくなっていることを問題にする。

だから、井上によれば、9条は削除し、日本にとって最善の安全保障体制は、その都度、国会で民主的に決めるべきだ、となる。

これは、今回の「中絶の権利」否定と、似たような問題構成だ。

米最高裁は、「中絶の権利」は憲法になじまないと判断した。同様に、立憲的改憲論は、安全保障は憲法になじまないと考えている。


「分断」こそ常態


憲法に書き込むべきものは、つまり立憲主義が守るべきものは、民主主義の多数決によって否定されるかもしれない重要な価値、ということになるだろう。

それが何か、について難しい議論は私にはできないが、「中絶は正しくない」や「9条は間違っている」という人が現に無視できないほど多い以上、それが民主的討議の対象となり、世論が絶えず揺れ動くのはおかしいことではない。むしろそうすべきだからこそ、憲法から外すべきだ、という考え方はありうると思う。

中絶反対派は保守派と決まっているのだろうか。まだそういう議論は聞いたことがないが、左派中の左派であるアニマルライツの文脈で、中絶反対の主張に繋がっても、おかしくないと私は思う。いかなる命もおろそかにすべきではない、とするなら、胎児の権利はどうなる、といった議論だ。


それはともかく、問題の「答え」は民主的討議に委ねられるべきだ。その討議のルールを決めるのが憲法だ。というのは、井上の批判的民主主義の考えに近いだろう。

憲法で「答え」を先取りすべきではない。リベラル派はこれまで、憲法という「答え」を振り回しすぎて、肝心の民主的説得をおろそかにした、という反省が、今回の最高裁判断でリべラル派の中にもあった。

保守派も、リベラル派も、自分たちにとって都合のいい価値については「国民一丸」となることを求めがちだ。その価値について批判すると「分断を煽る」などと(とくにリベラルは)文句を言う。

だが、民主主義を守るならば「分断」はむしろ常態であることを、価値の多様性・多元性を言うリベラルならなおさら、今回の件で認識すべきではないか。




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