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遅すぎますが、「花束みたいな恋をした」を観ました

今回は映画の話です。去年大ヒットした映画『花束みたいな恋をした』をなんと今頃見ました。見終わった最初の印象は、「やー。深いなー」という感じでした。いい意味で普通で、何ら特別でもない二人によるロマンチックな恋愛とその終わりを2時間3分の中で見事に描き出したこの映画を見て、主人公麦と絹に共感や共鳴を感じた人も多いのではないでしょうか。何よりこの映画は、「細部に真実が宿る」というように、細かい描写、人物の表情やセリフから多くの事が語られている。これは本当に監督、脚本と演者が一流であるからなのだろう。

ということで、本映画で自分が感じたいくつかの点を軽くまとめて見ました。正直各プロットに対する自分の解釈がかなり主観的な部分もありますが、それもまた映画の良いところだと思ってます。一つ一つの映画(小説などもそうだが)はその観る人に対して違った言葉で語りかけるからです。

そっくりであり全く違う麦と絹

映画を観た方ならわかると思いますが、主人公麦と絹は本当に似たもの同士です。同じ靴を履き、同じ本を読み、同じ趣味を持ち、同じコンサートのチケットを買い、同じことを考えている二人(完全に同じとは言えないところも多々ありますが)。ここまで瓜二つな人間を現実世界で探すことはほぼ不可能でしょう。しかし、お互い意気投合した二人がずっと結ばれるかと思いきや、5年後二人は別れます。「こんなに意気投合していた二人ですら別れてしまうなんて…」と落胆してしまった人も少なくないでしょう。そのような二人の描写を通じて、この映画は恋愛の「難しさ」を描いているのか?

そうではないと自分は思いました。むしろ、ここでは、極端なまでに「似ている二人」の描写を通じて、二人が「全く違う」ということを強調しているのではないでしょうか。

ここまで似ている同士、どこが違うのか?二人が違う点は1)根底的な価値観、2)理想と現実の対立に対する向き合い方。

先ず、根本的な価値観とは何か、それはすなわちこの二人が何に対して価値があると考えているかである。この違いはガスタンクvsミイラ、老夫婦のパン屋さんvs駅のパンの対比から垣間見ることができます。映画を通してわかるのは、絹は気持ち、思いや愛情などみえない感情的なものがこもったものが好きで、そのようなものにときめく。演劇や歌などもここに含まれる。何千年前の人が死者への哀悼の気持ちを込めて作ったミイラ、ある人の人生の最終形態であるミイラ自体が放つ個性やストーリーなど、そのようなものにときめいていた絹が自分には見えました。老夫婦のパン屋さんが作った焼きそばもそれと同じで、一見「小麦粉、卵、水…」で作られるパンは駅のパン屋であっても街のパン屋さんであっても売られているものは同じでしょう。しかし、そこに込められている思いの重さが違うのです。そこに大きな価値を絹は見出していたように思います。そのような意味において、麦が好きな無機質なガスタンクとミイラ、老夫婦のパン屋と駅のパン屋という対比が密かに、二人の価値観の差を写し出す伏線であったように思えます。もちろん「二人の思い出の場所」でもあるパン屋さんは、同時に「思い出を大事」にする絹と、二人の関係を維持する為に「現実」と戦い、仕事の忙しさやプレッシャーによって変わってしまった麦と両者の行き違いを象徴する出来事であり、かなり重要なところでしたね。

一見生き写しのように似ている二人。でも本当はそっくりであり全く違う二人だった。この映画は一見社会の現実の中で燃え尽きる理想的恋愛をテーマにしていますが、どうやらそれだけに止まらず、運命的出会いとは何かという本質的問題を突いているようにも思えます。麦と絹はお互い「運命の人」でした。しかし、そもそも「運命の人」とは何か、この映画を通して、考えさせられたような気がします。

現実と理想と二人の葛藤

理想を追い求め恋をする二人に突きつけられた社会という名の現実とそれに対する二人の葛藤を、この映画は見事に描いています。その葛藤においてまた、二人は異なる選択を見せます。麦は絵描になりたい夢を捨て、二人の関係を永続させる為現実へと飛び込み、その結果その両者を失ってしまう。他方で、絹は二人の未来のために、理想を捨て現実を受け入れようとするが、結果として自分に対しての理想の価値を認めて、「好きなことをして生きていく」スタンスを貫こうとし、自分が守りたかった一番の理想である二人の関係性を失ってしまう。

麦と絹の目的は一緒だった、それは二人の関係を維持し、ずっとこうやって二人で暮らすことだった。しかしそれでも、この二人の間で行き違いが起きた理由は、その維持しようとする「関係」に対する認識と、それを得る手段が二人の間で根本的に異なっていた。ここの内容は一つ前で話したそっくりであり全く違う麦と絹というテーマにも共通する。

麦は就活に砕ける絹や絹の両親と自分の親父に突きつけられた赤裸々な現実を目前に、今多少の犠牲(自分の理想や夢の犠牲、二人が理想とする関係、自分が嫌いだった社会に迎合するという精神的犠牲)を払っても、この関係を永続させるために必要なお金や社会的地位を手に入れる「現実」を選びました。すなわちここにおいての「二人の関係」とは、二人がずっと一緒に暮らせるということです。だが、絹にとっての「二人の関係」とは、初期の頃の麦と絹、理想的恋愛あっての「二人の関係」だったように思えます。言い換えれば、麦が守ろうとしていた二人の関係は、現実に対する理想の妥協を前提としており、絹が思い描いていた「二人」とはズレていた。麦の「二人」は、絹にとっての「二人」ではなり得なかった。何もかも同じな二人の間に生じた、根本的なズレ。それこそが現実と理想との間に位置づけられる「二人」がどこにあるかということにあるのです。

このようなズレが最も目立つのが最後のシーンにおいて別れ話を切り出す二人と隣に座るカップルから蘇る過去の自分達の様子を描いたシーンです。この二人は同じものを見ているようで実は全く異なるものを目にしていた。絹は「永遠に失われた未来」を、麦は「ノスタルジーに包まれた過去の自分達」を見ていたように窺えます。絹にとってあの初々しい大学生カップルは、自分達の過去であった。しかし、あのような理想的な二人の世界の永続を願った絹からしたら、あれは自分たちにもあったかもしれない未来、麦と別れを告げることによって完全に消滅する二人の未来なのである。他方、理想的恋愛をすっかり忘れてしまった(忘れたというよりは、キッパリとけじめをつけたや、妥協を受け入れたと言った方が良いのかもしれない)麦からしたら、それはいつかの過去にあった自分達であり、懐かしく、愛おしい初々しい頃の自分たちである。ここでの違いは、最後のグーグルマップに自分たちが映っていることに気付き一人ではしゃいでいた麦によってより一層強調されています。麦にとってはただの過去、絹にとってはあったはずの未来。最後のバートでは、これとタイトルを絡めて考えてみます。

摘みたての花とドライフラワー

「花束のような恋をした」という題名。花束のよう恋とはどういう意味なのか。前パートにおいて話した最後のシーンにおける二人の行き違いは正に花束に擬え考えれば、絹は摘みたての花束を願い、麦はドライフラワーを願っていた。つまりここでの花束は二つの意味を持っています。先ず、花束とはいくつもの花を摘み、まとめたものである。花束のような恋において、その一つ一つの花が二人のかけがえのない思い出なのです。しかし花はいつかは枯れます。その枯てしまった花束を手にした二人の選択こそが、前述した最後のファミレスシーンです。理想を追い求める絹にとって、枯れてしまった花束は、もはや彼女が求める理想とはかけ離れたものであった。それ故、別れる。絹が重きを置いていたのはその花束の新鮮さ、瑞々しさであった。「始まりは終わりの始まり」と彼女が言ったように、花束がいつか枯れてしまうことを彼女は既にどこかで予見していたようにも見えます。花の名前を聞かれた時に答えなかったのもそれを象徴しているように思えます(女の子に花の名前を聞いたら、その男の子はその花を見る度に彼女を思い出す。もし彼女がこのような終わりを予見していたとするなら、これはある種麦に対する優しさでもあったと解釈できると思います)。

他方、麦はドライフラワーであってもその花束がそこにあることに意味を感じていた。これはなぜ麦があんな最悪な状態で「結婚しよう」なんて言い出せるのかを理解する上で重要だと思います。すなわち、麦が求めていたのは、その中身の理想的恋愛というより、二人が一緒にいられる現実的な未来だった。ドライフラワーは摘みたての花束に比べれば萎み、色褪せている。しかし、それでも花束としてそこに存在し続けている。これは二人が求める関係性における未来像の根本的差異を明確に示しているように見える。

花束みたいな恋をした。それは終わりの始まりについての物語であると同時に、二つの異なる花束から映し出された理想と現実の対立関係を目の当たりにする二人の葛藤と、似て非なる二人の人間が共に歩む愛おしくて、なお切なく虚しいラブストーリーであった。

「ずっと一緒にいたいからやりたくないことをやる」

「私はやりたくないことしたくない、ちゃんと楽しく生きたいよ」

ここにおいて正しさなどはもはや何も意味を持たない。正しさもなければ、間違えもない。ただ普通で平凡な二人の若者が始めた物語とその終わりを通して、偶然と必然が生み出した愛と恋について考え、感じることを突きつける。それがこの映画の本当に凄いところである。

以上稚拙ですが、自分がこの映画を通して思ったことをまとめてみました。まだ全然話せてないこともあるし、自分が見落としたところもあります。本当に深い映画で稀に見る傑作です。




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