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チョコクロワッサン

僕はパンが嫌いだ。

朝食は決まって米と納豆と味噌汁。
今となっては朝食を取る習慣は無いのだが、
起きて直ぐ体に何を取り込むかと問われればそう答える。
朝だからというわけではない。
いつ何時、パンの類は求めない。
ピザもクレープも僕に言わせたら一緒である。
思い返せば、中学生以降、パンを食べたいと思ったことは一度もない。
なぜ中学生の時からなのかは分からないし、
パンに対する過去の因縁や恨みもない。
だから「理由は」と問われても困る。
とにかくある時を境に自分の意志でパンを食べる事は無くなったのだ。

そんな僕は今、
朝活と称して近所のカフェに通っては、
パンを食べている。


今日だって。


9時半に起床しゆっくり準備を始める。
煙草を一本吸い切るタイミングで、
「チャリ置いた」と携帯の画面に文字が浮かぶ。
時刻はちょうど10時。
二重の玄関を開けて外に出れば、
9月上旬のトロントの風が、
季節の変わり目を知らせる。
シャツの上にパーカーを着込んだ状態の身体に、
ホットコーヒーを入れればちょうど良い天候だ。
歩いて5分も掛からない近所のカフェに赴き、
コーヒーと全く魅力的じゃないパンケースの中から
チョコクロワッサンを選び注文する。
店の1番奥の席に腰を下ろし
「あと3時間は寝れたなぁ」
なんて考えながらコーヒーを一口啜り、
一杯500円から三文を得した気がした。
数世代前のパソコンみたいな鈍重な僕とは裏腹に、
彼女は抜けるような夏空みたいな声で溌剌と話す。

アイスラテを注文した彼女は、
パーカーを脱ぎback numberのライブで買ったという半袖Tシャツ一枚になった。

美容師である彼女の職場は、
僕の家の数軒隣にあった。
彼女があてたパーマを掻きむしりながら、
この人は客なんかよりずっと、
自分に似合う髪型を熟知しているに違いない、
と思った。
それくらい金色で染められた短髪が彼女には似合っていた。
高身長なのに威圧感は無く、むしろ柔らかくて温かい、一言で言えば晴々しい人だ。
スピッツの『君が思い出になる前に』という曲の冒頭に出てくる"はみだしそうな笑顔"とは、
彼女の笑みのことなんだと、
初めて会った時に思った。

ただ、
野球好きが過ぎて、応援するチームの勝敗によって語気が荒くなることがある。
おかげで僕は、天気予報をチェックするようにファンでもない野球チームの勝敗を気にするようになった。

そういえば、何故かを聞いたことがなかった。
僕の狩猟本能を刺激するかのように、
全身をそのままぎゅっと何分の一にも縮めたキリンのネックレスが揺れる。
きっとこの人は高価なブランドではなく、
自分の好きな物だけを身に纏うタイプに違いない。
家中キリングッズで溢れかえっていると知った時、
同棲している彼氏さんがいかに寛大かを知った。 
普段のメッセージのやりとりの中でも、
唐突にキリンはやってくる。
「風邪治った?」の後のリアルキリンスタンプに、
僕はもう反応する事はなくなったが。

今日は、
以前から意気揚々に予告された、トロント大恋愛物語とタイトルまで付けられた彼女の実体験を聞く日だった。
「第5章まであるからね」と告げられ、背もたれにもたれて足を楽にした。
彼女はよく怖い話をするかのように話を切り出す。
「あのさ」、「それでねぇ」の後に変な間を作るもんだから、毎回こちらは唾を飲み込んでしまう。

今回は違った。
呼吸を整え久方振りに話すからと、タンスの奥からセーターを取り出すみたいに記憶を寄せ集め、
ふっと笑ってから彼女は話し始めた。


数年前の話。


彼女の職場にある日本人男性がやってきた。
とにかく容姿端麗で高身長の男だ。
向井理と佐藤健を足して2で割ったような、と表現し話す彼女はどこか照れていた。
彼は毎月のように現れ、話していくうちに彼の人柄にも惹かれていった。
間もなく、彼女は恋に落ちたのだ。


僕にとって、髪を洗われている時間ほど気まずい時間は無い。会話をする体勢でも無い。会話が無かったら無かったで、
「こいつ何も話さないな」
「自分で頭持ち上げろよ」
なんて事を思ってるんじゃないかと想像してしまう。
終いには、そんな想像が全て見透かされている感覚にすら陥ってしまう。
顔を覆うタオルが無い時はもっと最悪だ。


「いつこの男は連絡先を聞いてくるんだろうか」
「私から聞いてみようかしら」
なんて事を、
彼の髪を洗いながら彼女は悶々としていた。
お誘いを見越した「オススメのレストランはなんですか?」という問いにも、
彼は素直に一問一答で返して彼女の期待を裏切った。

自分には興味が無いのだろう。
そう思うようにして、
彼女からこの鏡越しの関係を越える事は無かった。

急にその時は来た。
スポーツ観戦の話題になり、
自然な会話の流れで今度NBAを一緒に観ないかと誘われ「まずは食事でも」なんて事に話は進んだ、
と彼女は最近の出来事かのように嬉々として僕に話す。


初めての食事はイタリアンだった。
ドレスコードのあるお洒落なお店に入っていくと、
既に彼は席で待っていた。
彼女が遅刻した事など気にもせず、
彼は流暢な英語でワインを注文した。
マスクも無い、鏡も無い。
彼女の目に映るはワインを片手に素敵に笑う彼の姿。


食後のデザートにティラミスとチョコケーキを一つずつ頼んでシェアした。
「ティラミスの方が美味しいね」
最後の一口だけ残ったケーキとティラミスに2人は中々手をつけずにいた。
彼女が遠慮してチョコを選んで食べた後、
彼はそっとティラミスが乗ったスプーンを彼女の口元に寄せた。 
「たまったもんじゃんない」
平然を装い身を委ねた、
と話す彼女はその時の感情のまま興奮しきっていた。
彼女の恋のピークは正にこの瞬間だった。
第1章はここで終わる。


それから、
何度かの食事を重ね、
帰り道は手を繋いで歩き、
いつしか帰り際に抱き合う仲へと発展した。
それでも、名前の無い2人の関係に彼女のもやもやは増すばかりだった。
意を決して告白したが、 
彼には日本に住む彼女がいた事を知る。
それでも彼女はこの曖昧な関係を続けた。
悲しくて切ない彼とのやりとりをまた、
彼女は一瞬涙を浮かべながら僕に話した。
とここまでが第3章だ。

第4章はほぼ下ネタだったので割愛する。

彼女は数ヶ月後には日本に帰国し、
彼もまたバンクーバーに異動する事が決まっていた。
いつか別れるし、というのがいつも心のどこかにあった。
頻繁に会っていくうち遅刻癖があったりと、彼の嫌な所ばかり目についてしまったのもあって、
気持ちが先に遠のいて行くのが分かった。

暫く連絡を取り合っていなかったある時、
彼からLINEのメッセージが届いた。

「この人には妻子がいます。どうか控えて下さい」
といった内容だった。 

彼女は驚きを通り越し、恐怖すら感じた。
既読も付けず、スクショだけして見なかった事にした。
知らされなかったとはいえ、
自分は今まで家庭を持つ男性と関係を持っていた事を知って、最大級の罪悪感に苛まれた。
気付いたらメッセージは送信取り消しになって、
既読が無いから大丈夫だと思ったのだろう、
何も知らない彼から再度連絡が送られてきた。
当然、彼女はそれ以降の彼からの連絡を無視し続けた。

彼がバンクーバーの異動の前夜。
またしても彼から連絡があった。

もう会わないし、最後だし。

彼女は彼からの電話を取った。
私は全てを知っていて、まだ向こうは嘘を付いている。
頭では分かっていても、
久しぶりと話す彼の声にやはり、
心が動かずにはいられなかった。

「何か隠してない?」
という彼女の何度目かの問いに彼は正直に白状した。

既婚者だった事は会ったその日から言うつもりだった。
それでも一目惚れしてどんどん好きになっていく内に、中々言えないでいた。
と彼の言い訳にうんざりしているような言い方で、
嬉しそうに話した。

結局のところ、
「最後に会いたい」と言われた時、
彼女はすっぴんのまま深夜の街に繰り出した。

真冬のトロントに、
2人は彼の車の中に居た。
エンジンはかけずにいた。
外気と変わらない車内の2人の息は白く、
手先はすっかり冷たい。
後部座席に並ぶ2人は最後のキスを交わし、
次第に彼の手が彼女の内側へと伸びる。
一枚一枚服を脱いでいく彼。
脱いでも脱いでも現れる服。
厚着の上に、狭い車内は高身長の彼を鈍化させた。

高身長で損した話を始めて聞いた気がした。

やっとのことでズボンを脱ぎ、
露わになった彼のアレに触れた瞬間、
彼女はまだ幼い自分の甥っ子を思い出した。

「タイガじゃん」

抗えない母性本能が騒ぎ出し、
すっかり冷めてしまった彼女は、
逃げるように車から降り、
去った。

向井理だったはずの彼は、
最後にタイガ君に成り果て

トロント大恋愛はこうして幕を閉じたのだ。


さっきまでのあの昂る感情はなんだったんだ。
色褪せない感情と淡白な移り変わりに翻弄された僕は、彼女の考えている事が益々分からなくなってきた。

彼女だけでは無いのかもしれない。

「女性ってのは、、、」

「いや、本当に喜怒哀楽に話すキミはーー」


1時間半に渡り話し続けた彼女は、
「仕事だりぃ」とため息を付いて仕事に向かった。


聞き下手な僕は、
上手く聞けたかななんて事を一瞬思ったけど、
彼女に限って無いかと直ぐ開き直って、

朝活の意味を忘れて、
また寝ることにした。


次はどんな話をしようか。
まだ眠い目をこすり、
動いてない脳みそのまま、
明日もまた、
コーヒーと嫌いなチョコクロワッサンを注文する。

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