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読書量を増やすのはライターにとって良いことなのか【タイ移住日記2024/03/10-16】


社会人になってからのほうが本を読む


美大大学院に合格し、シラバス的なものを受け取った。文芸創作なので、やはり本を読まなくてはならない。というかどんな専門でも「読む」という行為は切り離せないだろう。大学時代はほとんど小説というものを読まなかった。いやいや、よく思い返すと中学・高校も本はあまり読めていなかったので、小説は読んでいない。


中学・高校では小説がメディア化されたものばかりドラマで放映されていたので、それで「ああこんな内容なのね」と本屋に行かずに流行を掴んでいたと思う。
本当にもったいないないことをしたな、と思う。その時期に小説の名士の作品に触れておけば、もっと幅広い視点を持てていただろうに、考えることが最近多い。

社会人になってからコロナや電車の移動が増えたことで本を読む機会が増えたのでそれに比例して小説を読むようになった。自然と海外作家が目に入り、家の本棚の半分は海外作家の作品になった。社会人になってからわたしライブラリー所蔵書籍は300%増。しかも東京配属になったため4年間の一人京都暮らしを終えて実家に帰った。実家から1時間半かけて出社する。本を読む時間が一日3時間も増えたことになる(基本的に電車では携帯は触らず、本を読む)しかもコロナ禍で自宅待機となったのでなおさら本を読む時間が増えた。


その結果、毎週のように本が増えていく様を見て家族は辟易しただろう。
本棚は前後に本を置いたとしても足らず、サイン本や貴重な本は全く日の当たらないベッド下に頑丈に箱に入れられて補完されている。もちろん防虫剤や湿気取りもしっかり入っている。まあ自分が本の虫であるならこれぐらいをするのは当然だ。


幼いころの読書習慣と本の選び方

私はもともと本が多い環境で育ったわけではないのだが、祖母が長期休みの度に映画と本屋さんとオムライス屋さんに連れていってくれる「ダイヤモンドデー(勝手に作った造語。関西の人ならわかるかもしれない。施設の名前から取っている)」があった。

祖母が買ってくれるのは毎回3冊と決められており、厳選して選ぶ。新刊書店に行くと、3冊ではなく、1万円という基準になってしまったのだが、このように制限しようというこの感覚が今もある。

本は正直あればあるほどいいと思っているのだが、やはりお金は限りがあるので、選ばねばならない。積読はあたりまえなので、それは冊数制限と関係はない。

タイトルや帯だけでは判別がつかず、目次やはじめにの部分を読んで購入するかどうかを検討する。「これ探していたものだ!」であったり、「今の私にすぐ必要なアイデアだ!」となると即買いなのだが、頭の中では「今積読の中に読みたいものがあるしな」とよぎってしまい、後回しになることも。


私は祖母に買ってもらうときは、次の休みまでの間に長く読めるものを、と思い、なるべく長くて難しい本を選ぶ傾向があった。両親は本は買う派ではなく借りる派であったので、ほとんど本を買ってもらったことはない、と思う。でも図鑑は大きなものを全部揃えてくれた。

なので、小学校高学年ぐらいからは大人コーナーの推理小説をよく買ってもらっていた。低学年の時は、児童本のなかからそういったものを選ぼうとすると、シリーズものかマンガではない伝記シリーズである。今でも覚えているのが伝記アンソロジーの3冊を買ってもらったことだ。その中にあった徳川家康にハマって、次の長期休みの時に松本清張が中高生向けに書いた徳川家康の本を買ってもらった。

今はもう祖母は亡くなってしまっているので聞くことはできないが、学年にあった、もしくは学年以上かつ私の興味を伸ばせるような読むべき本を手に取るように選ばせていた気がする。

祖母に買ってもらった本を思い返すと、いわゆる名作や伝記ばかり。それか今も愛される有名な小説家たちの長編。

そういう背景があり、小学生のうちから、海外について夢見るようになったのだろう。日本以外の人々の営みを想像し、いつか海外に行く機会があればと小さい時から思っていた。ただ父は商社マンで仕事が忙しく、母も小さな子供二人を海外に連れていくのは厳しい、そして私はサッカー少年で練習が忙しかったのでなかなか海外に行けない。

そういうことで海外留学という形で大学に入ってから初めて海外に行くことができた。

最近の読書

いわゆる乱読である。推理小説、エンタメ小説、エッセイ、仕事に関係するビジネス・技術書、哲学書、社会学・人類学関連書など興味があれば何でも読む。

そして同時に4冊は並行して読む。飽き性なので、違うジャンルで並行して読むことで携帯に気を取られることなく、違う本に手を伸ばすことでずっと読書を続けられる。

動画配信サービスでもいろんなシリーズを見る。続けて最終話まで見る人も多いと思うが、私はそれができない。つまらなくなってしまう感じがするので、数話見たら違うアニメやドラマ、映画にする。だから映画を見る方が飽きがなくてよい。ちなみに同じ映画をずっと最後まで見続けるのは可能だ。眠くならなければ、の話だが。

角田光代「しあわせのねだん」

今読んでいる本のうちのエッセイはこれだ。ガレージセールで譲ってもらった本。生活エッセイで何にお金をいくら使ったかが各エッセイのタイトルになっている。

「昼めし 977円」というエッセイは、角田氏の働き方と食欲について書かれたエッセイ。飯の話しだけでこんだけ拡がるのか!と驚いた。

エッセイの書き方の勉強にもなる。
読んでいて思うのは、SEO記事のようににニーズを満たす、とかインパクトを残さなければならないとかの圧力がなく、エッセイは「こんな話もあったなあ」といつか呼び起こせるぐらいの小インパクト(おもろさ)を提供するだけがいちばん心地よいのだと知った。

多くの人のnoteを読んでいるとエッセイや日記を書いていても、やはりライター、WEBライターと名乗って書いている人は、何かインパクトを残そう、キャッチ―さが最も重要という感じがすごい。

そういう人たちから見ると、エッセイは「だらだら書いている」という人も多い。エッセイはあくまでも生活の一コマを切り取って概念化して、そこに思いをのせるような感じなので、そう思うのだろう。

同じ書く人とも言えども、業界が違うのだと感じ取った。
私はどちらなのだろうと考えたら、おそらくライターというよりは、執筆家なのかもしれない、と思う。企業から依頼を受けてSEOコラム書くのは正直しんどい。接客業よりは向いているが、無機質な「私」のいないものを書くのが他人を装う気がして疲れる。でもすごく最先端な業界でワクワク感があるし、そんな媒体で書く場を与えてくれていることには感謝しかないのでこれはやはり「仕事」なのだと思い、本を読んだり、海外のサイトをうろついたりして仕事を少しずつ進めている。


読書量を増やすのはライターにとって良いことなのか


今日のnoteは書き散らしになってしまったが、タイトルのこれに回答すると、ライターにとってはもちろんいいことだ、と思う。人の物語に入り込むことで、もしくは、情報を取り入れることで、自分の生活に少なからずリンケージしてくる。そうすると、文章の内容の質量が上がるだけでなく、導入やまとめが企業のコラムであっても人間らしさが出てくる。

最近は企業のブランディングやマーケティングにおいてストーリーが重要視される傾向にある。インスタの「ストーリー」(言い方変わってないよね?)というように一部を切り取ったとしてもそこにその人の物語があるので見たくなってしまう。一度誰かのアイコンをタップしたらそこから少なくとも10分は沼にハマる。

そして他人の読書を見ることでもう一つ発見があった。
私は教育関連でも片足突っ込んで働いているので、彼らの文章を読むことがあるのだが、本をよく読む、本の話をする小学生・中学生ほど、やはり表現が豊かで、話の広がり方がすごい。奥行がある。そして集中力も素晴らしい。そして人の悪口を言わない。

いろんな人の身になって本と向き合う時間が長時間続くので、自動的に考えるクセがつき、やはり上記の特徴が現れるのだろうと思う。Twitterやストーリーは一方でストーリーは見えるけど、それはその人の物語というだけで、織の外から眺めているような感じ。その人になり切るという経験は得られない。SNSをしている子ほど、共感力は低いし、文章中の表現力も乏しい。

子供にとっても、大人にとってもそれは同じだ。
仕事で議事録をまとめたり、メールを書くだけでは文章力は伸びない。





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