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【タイ移住日記2023/08/04-06】私の誕生日は原爆の日~戦争を考える

8月6日について考えました。私の誕生日であり、広島の日でもあります。少し長いエッセイとなりますが、最後までぜひ読んでいただきたいです。


海外で迎えるバースデー

1度目の誕生日の出来事

海外で誕生日を迎えるのは2度目だ。二十歳の誕生日を留学先のオーストラリア・シドニーのハーバーブリッジの近くのステーキ屋さんで同じ大学の留学仲間に祝ってもらった。私はオージースタイルのデカくてかっこいいBBQコンロでデカい肉を焼いてもらったのが印象的で祝ってくれたメンバーと会うたびにあれはいい思い出だった、最高の20代の門出だったと話をすると、

「え、それお前の誕生日にそんなんしたっけ、全然覚えてへんわ」

と言われる。まあナチュラルに祝ってくれたのであれば、私はあまりたいそうな感じで祝われると緊張してしまうのでそれはそれでいいと思い毎度感謝する、というのが通例だ。私の中ではむしろ一番濃いほうの記憶なんだけどなと思いながら、人間は受けた恩と嫌なことは忘れないというしそういうことなんだろう。

次はタイ

今回は妻と。忘れられないものになった。なんていったって人生初の海外移住で、そして結婚してから祝ってもらう初めての誕生日なのだから。妻は私が華々しく祝われるのが得意ではないことはよく知っているので、どうしようかと話していたら前日に私が動物園に行きたいと申し出て、パンダがいるというチェンマイ動物園に行った。犬に触るのも怖いぐらい動物を飼ったりすることはできないのだが、数年に一度動物を見たくなる。Brutasの動物園特集号もなぜかわからないが買ってしまう。異なるものに惹かれるのだろうか。動物の動きに見入ってしまう。動物も暑くてだるいんだ。人が来たら興味津々にこちらを窺う子たちもいる。お互いに見合っている。

動物だったら

自分が動物だったら、

①自由だけど自分で餌を探したり日々天敵に狙われながら生きる人生
②限られた空間でしか生活できないけど、時間になったら餌をくれて自分を食いに襲い掛かる敵に出会わない人生

どっちを選ぶ?という話をフンボルトペンギンを見ながら話した。私は前者、妻は後者を選んだ。妻は「だって楽だもん~」という。私は誰かに自由を狭められたくないなと言う。

でもどちらかというと、妻は自分の能力をちゃんと外に向かって出していくタイプで、実際に来たこともなかったタイへ就職。私は家の中でちまちまと好きなように文章を書いて時には空想の世界へ。時間になったらGrabで頼んで外にほとんど出ていかない。人生、隣の芝生は青いんだろうな。

夜ご飯はチェンマイに来てから一番のごちそう、寿司を食べに。寿司食べ放題の高級店で、僕のお昼ご飯の20倍ぐらい。生牡蠣もおいしくおなかに当たらない。カレーうどんまで食べられる。こっちでは珍しい日本で売ってるタイプのパリっとした皮のウインナー食べたときは同棲生活を埼玉で始めたときの情景が思い浮かんだ。ウインナーで泣けるほど心が豊かになった。むしろこれまで忙しすぎて人間の心を失っていたんだろう。人生暇な時間の方が大事だ。

誕生日の記憶はいつも黙とうの映像から始まる

「原爆の日」に生まれ落ちた私

「黙とう」

8月6日8時15分。場所は関西の祖父母の家。夏休みで毎年家族で祖父母の家に行き、いとこと遊ぶ。いつもは朝ドラが終わって朝ごはん食べようかという時間。この日だけは毎年広島からの中継で、黙とうが始まる時間。

親の教育では「原爆」について意識するようには全く言われたことがない。むしろ、私の誕生日だからとあえて言ってこなかったのかと思う。小さいころ私はクリスマスが誕生日の人いいなあと言っており、理由はプレゼント2倍もらえるからと意味のわからない子どもごころからそう言っていた。定かではないが家族からあまり意識するようには仕向けられてこなかったが、私が8月6日が日本にとって大事な日だと知ってから気になるようになった。小学校入ったくらいからだろうか。

広島

小学校の頃は私はとんでもない日に生まれてしまったんだと思っていた。とても重要な日に。使命なんだろうか、と勝手に思っていた。いや、今でも自分の誕生日を迎えると1年で世界は変わったのだろうか、と振り返るが、核に関する議論の進展なんてほとんどない。G7の首脳が広島に集まった。それは意味のあることだと思う。ただ、核を捨てた国なんかない。世界は何も変わっていないんだと毎年残念な気持ちになる。我が国の首相がスピーチを読み上げるが、全く響いてこない。現地の人たちのスピーチが染みる。大学のゼミでは広島に行った。私は移民難民研究をしており、ゼミは多文化社会についてのゼミであったため、広島から移民として海外に出て行った人たちの資料館に行った後、新しくなった原爆資料館に足を運んだ。現地の人たちは街中にあんな遺構が残っていたら意識せざるを得ないのではないか。ダークツーリズムで金儲けという人もいるのは知っているが、私は過去にあった出来事を今の世界に生きる人が考えることには価値があると思う。ただ、世界は変わっているようで変わらない。

海外で原爆を考える。

最近「#Bardenheimar」という単語がSNSを席巻した。アメリカで同日に公開しどちらも大ヒットしている『バービー』と『オッペンハイマー』を見ようという運動だ。アメリカではミームとしてその二つを組み合わせた画像がたくさん投稿され、公式がそれに反応する、というよく見る光景ではあるが、これが日本では物議となった。原爆を思わせるきのこ雲や爆発を描くミームに対し公式が好意的な反応をしているということで配給会社の日本側が声明を発表し、その後本国アメリカ本社が謝罪した。

これは唯一被害を受けた日本からしかこういった批判は出てこなかっただろう。ほとんどの国は長引く戦争を終わらせたヒーローとして原爆を捉えている。一方、ヒーローである原爆は今や世界では平和を脅かす脅迫道具として多くの国がもっていることを公言する。そうやって世界秩序が保たれているという見方もある、と国際政治学で学んだが、それを解決に導くのかを考える学者はたくさんいるが、誰も成功していない。現状を追認するだけだ。世界は変わっているようで変わらない。

海外で一緒に考える。

変わらないからもうしょうがない、諦めるしかない、だなんてことはない。私は以前日本語パートナーズ(ぜひググって調べてもらいたい。青年海外協力隊と一緒に参加を検討してみてほしいプログラム)としてインドネシア・スマトラ島へ派遣されていた。スマトラトラのスマトラである。大地震が起こったスマトラである。日本語パートナーズでは現地の高校の日本語教師(インドネシアの高校では第2外国語として日本語を学んでいる学校が多い)をサポートするティーチングアシスタントとして仕事をしていた。そこで先生の意向で、「やりたい授業作ってみてください。日本語の授業でなくて日本のことを教えてほしいです」と言われ、必死に授業を作った。私は社会学、歴史学を大学で学んでいたので、インドネシアと日本の関係史を取り上げた。一番多く時間を割いたのはやはり第2次世界大戦だ。日本は第二次世界大戦時インドネシアをオランダ統治下から奪い、日本の統治下においた。日本では歴史教育の一環で学ぶと思う、がそこまで深くは取り上げないだろう。ある人は日本はオランダの統治から救った英雄で、インドネシアの人々も喜んで受け入れたという人もいる。一方でいまだに日本を憎む人がいる。私は出会ったことがある。ただしごく一部だ。現地の高校生は日本に統治されたことは知っており(私の住んでいた場所がブキティンギBukit Tinggiという日本軍の塹壕が残る地で、そこは観光地として今はインドネシア国内から訪れる人が多い)、被害者としての歴史を語ってくれた。私は授業をするまでに塹壕を訪れたが、知らない話ばかりであった。塹壕でkitchenと呼ばれている場所は実は捕虜となったインドネシア人たちが調理される(=殺害される)という意味であった。それが現地では語り、紡がれている。私は自分の誕生日が原爆が落とされた日であり、平和について考えずにはいられないという話からはじめ、日本では何があったか、どう捉えられているかという話をした。互いに戦争では「敗戦国」であるため、わかりあえることが多いのだろう。一方で原爆をミームとして楽しんでしまう人達もいる。ただ、戦争に勝った国であっても受けた攻撃のことは忘れていないはずだ。そちらにもそちらの悲しい過去がある。戦争は負しか生まない。

私は高校生に平和について諦めないでほしい、それを作るのは私たちの世代だ。今からでも遅くはないということを確認しあった。いつもの授業はスカしている男の子も、その日だけは議論に参加していた。あきらめず語り継いでいくのが使命なのかもしれない。大きなことは誰もできないが、小さなものをたくさん作るのは我々市民にもできる。それを淡々と繋げていこう。人は受けた恩と嫌なことは忘れないのだから。




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