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vol.40 トルストイ「イワン・イリイチの死」を読んで(望月哲男訳)

今から130年前のロシア文学。

「このような死の感情を自分も経験するかもしれない」と思いながら読み終えた。

この小説は、健康で生き生きと気ままに生活をしている人と、瀕死の病に侵され、苦痛に耐えながら、ただ死を待つだけの絶望の時間を過ごしている人との、「断絶」が書かれていると思った。孤独な「死」と直面している主人公の「イワン・イリイチ」の、心理的葛藤の鋭い描写にグッと引き込まれた。たぶん僕にその順番が来た時、近い感情になるのではないかと思った。「死」に至るまでに何を考え、何を感じるのか。誰にでも来る「死」について、具体的な感情を想像できた気がする。

<あらすじ>
主人公の「イワン・イリイチ」の葬儀の場面からはじまる。そこに参列した職場の同僚や家族は、彼の「死」という結果が、自分にどう影響が出るかばかり考える。自分の立場がどう有利に働くのか、そこにしか興味を示さない。「イワン・イリイチの死」は、妻や娘や同僚らに、喜びに近い感情をもたらしている。・・・引用「同僚の死にともなって生じるであろう異動や栄転に関する憶測をたくましく・・・身近な知人の死という事実そのものが・・・喜びの感情をもたらしたのだ。死んだのが他のものであって自分ではなかったという喜びを」(p12)
時間は戻って、「イワン・イリイチ」が、いかに「気持ちのいい」生活を勝ち取るために世俗的な活動をしていたか、その半生を描いている。しかし、第4章以降は、フッとしたことからの体調不良を訴える。どうにもかんばしくない体調とは対照的に、家族はみんな元気を増す。そして、「気持ちのいい」生活が崩壊していく中で、死に向かう心理的葛藤の描写が続く。やがて、「死」を受け入れる思想にたどり着いて、結末を迎える。

特に僕は、「イワン・イリイチ」が、この病はもう治らないと悟った時、今までの人生を振り返りながら、疑問に持たなかった世俗的価値が薄っぺらく感じていく様に、とても強い関心を持った。

また、下記のような心理的葛藤がとても印象的だった。

「彼は頭の中で、自分の楽しい人生のうち最良の瞬間を次々と思い浮かべてみた。そうした楽しい人生の最良の瞬間は、今やどれもこれも、当時そう思われたものとは似ても似つかぬものに思えた。・・・当時は喜びと感じていた物事がことごとく、今彼の目の前で薄れ、何かしらくだらぬもの、しばしば唾廃すべきものに変わり果てていくのであった。こうして幼年期を遠ざかって現在に近づけば近づくほどますます、歓びだったものがつまらぬ胡散臭いものへと変貌した。」(p212)

一方、「イワン・イリイチ」が「死」を目前にして、様々な心理的変化をしていく中で、家族や同僚たちは、誰にでも来る「死」について無関係だと考えている。ここに思想家トルストイの「ざんげ」を感じた。

僕は娘を事故で亡くした。それはあまりにも突然だった。次の年に東日本大震災が起こった。「死」は、誰にでも直面している代理がきかない経験だと思った。また、似たような経験を持つご遺族と接する中で、「死」を共有できた。決して無関係じゃいられない。

結果的に僕は、避けることができない「死」に対する覚悟が、ぼんやりではあるけどできているような気がする。

そんな実感と読後の感想を持ちながら、「終わった後」の第1章をもう一度読んだ。この世俗感に、現代の日本の空気を感じた。これを下敷きにしているといわれる黒澤明の「生きる」をみたくなった。

(おわり)

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