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クロユリ

親子間の義務については、われわれとは根底から考え方が異なっている。

生物の雄と雌との交合は、種の保存と繁栄を目指す自然の偉大なる原理なのだから、人間の男女の結びつきも動物と何ら変わるところのない、肉欲に突き動かされた結果にすぎないと、リリパット人は言う。
生まれた子供に対する優しさも、そんな自然原理に基づくものにすぎないのだから、種をまいた父親に対しても、産んでくれた母親に対しても、子供は何の義理も感じる必要はないのだ。
悲嘆に満ちた人間の一生を思えば、この世に生まれてくることにはなんのありがたみもないし、両親の方としても、そのときは色恋にうつつを抜かしていただけなのだ。
だからこそ、子供の教育は、他の誰にもまして、けっして両親などに委ねておいてはならない。
この国にはどんな街にも必ず公営保育所があり、小作農や季節労働者を除いて、教育を始めることが可能とされる生後20ヶ月に達したら、子供の性別を問わずそこに預けて扶養と教育を任せなくてはならないと定められているのだ。

「ガリバー旅行記 リリパット皇帝編」








00


呪い。この世の呪い。親という呪い。子供という呪い。

人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し、災厄や不幸をもたらさしめんとする行為をいう。
特に人が人を呪い殺すために行うものは、古来日本では呪詛(じゅそ)、あるいは対象を「悪」と見做して滅するという建前の上で調伏(ちょうぶく)と言われることもあった




「悪意をもって」











悪意がなければ、呪いではない?







??






違う

悪意の有無は問題ではない







受け取り手であるわたしが そうとみなせば

それはもう 呪い なのだ














01

あぁ、具合が悪い。
どうしたものか。

7月下旬。日本の夏は年々暑くなっているようで、気温も40度近くなる日もある。
とにかく、暑い。エアコンがなければ死んでいる。確かな、そして無駄な確信がある。
土曜日の朝、午前11時。今日は仕事はしない。新宿区の自宅ベッドの上で、干からびている。
ボーっと、コンクリート状の天井を見つめる。まだ魔物は見えていない、大丈夫。
でもこのままだと、魔物がまた見えてしまう日も近いだろう。

具合が悪いのは、夏バテじゃない。
だって、体が硬いから。仙人にせっかく、「柔らかくなりましたね!」と言ってもらった体が、また硬いから。
皮膚に指を突き立てれば、すっと指が皮膚に入っていくような。しっかり指が沈む感覚を得られる。カラダにとって理想の柔らかさにせっかく近づいたのに。
今は、指が入らない。まるでアスファルトに指を突き立てるかの如く。

先日、仙人に擦ってもらったが、痛かった。

せっかく柔らかくなったのに。あの怪物、宏行と向き合って、対決したのに。金塊を見つけたと思ったのに。

「でもな。俺は親から愛されてなかったって言ってたけどな。もう父ちゃんは。沙耶香と廉だけが。産まれてから、ずっと生き甲斐なんだ。それだけは忘れないでくれ。」

こう言ってもらったのに。あれだけ感動して、涙をボロボロ流して。あぁ、俺は本当に愛されていた。俺は生まれてきてよかったんだ。本当に生きてきて苦しかったけど、お父さんも苦しませたくてそうしたわけじゃなかったんだ。ただ、想像力が足りなかっただけ。つい、自分の、「今、ここ」の気持ちしかみえなくて、ただ、そうしてしまうだけ。不器用なだけ。無能なだけ。お父さんの奥底は、俺への愛でいっぱいなんだ。あぁ、本当によかった。お父さんと、勇気を振り絞って。殺意を噛み締めながら、それでも。向き合って。対峙して。本当に良かった。

で、終わったのに。

なんか、すごくいい感じで終わったのに。
ここから俺の人生、バラ色じゃないの?
愛を知って、そこからどんどん気持ちと体がラクになって、人生のタスクにゴリゴリ取り組んで。それはもう別人のように、俺の人生、劇的に変わるんじゃなかったのか。

まぁ、そんなわけがないわな。
そんな簡単に、人生、変わるわけがない。

だってまだ、最初の壁を壊しただけだから。とてつもなく大きな壁だったけど、言っても最初の一枚目。今まで30年間、溜まりに溜まってきた負債が、そんな一つのアクションで変わるわけがない。

でも、俺は、今でも。これは俺の人生に革命をもたらしたアクションだったと、胸を張って言える。
本音を出して生きること。自分を本当の意味で大事にすること。
そして、どれだけ自分の本音を隠さず、自分を大事にして、健やかに生きることができているか。その答えは、カラダが常に教えてくれること。

これら、仙人が教えてくださったことは、何一つ間違ってない。

この世の真理過ぎて
この世の真理過ぎるからこそ 今俺は 具合が悪いのだ。

なぜか。

本音を出して生きること。まるで赤ん坊のように、正直に。己の願望に忠実に生きること。
仙人曰く、「赤ちゃんモード」と呼ばれる境地。
この境地に、右足だけ。右足の親指だけ踏み込んだからこそ、俺のカラダのセンサーが別人のように敏感になっている。

今まで30年間、ずっと蓋をしてきたカラダの皮膚という皮膚から。細胞という細胞から。この世のあらゆる事物を構成する原子、電子、陽子、中性子、素粒子。それらが振動して織りなすこの世界からの信号を受け取る。その敏感度合いが、劇的に高まっているからこそ。
そして、その信号を受け取って、うまいこと処理する手立てをまだ持ち合わせていないからこそ。

それらに翻弄されて、「具合が悪く」なっているのではないか。

死ぬほどダルいのだ。
宏行との関わりが。
あれだけ向き合って、「廉が父ちゃんの生き甲斐なんだ」とまで言ってくれた父親が。

うざったくてしょうがない。

最初は、己を疑った。
だって、あんなに愛に溢れていて、素晴らしい父親だ。本当に有り難いなって、思っていたから。
そんな父親を、うざったいと思うなんて。ましてや、怒りを覚えるなんて
俺は頭がおかしくなったんじゃないかと思った。どんだけ薄情なんだ俺は。

昨年
宏行に「父親への愛の確認」をしてから。
よく電話が掛かってくるようになった。

最初は、俺も、何も感じなかった。
あぁ、気にかけてくれてるんだなぁ。有り難いなぁ。
そんな感じだった。

でも、最近の電話は、もう本当にうざったくてしょうがない。

「廉!元気かー?」

「あぁ、元気だよ」

「それでさ、いつ太田帰ってくる?」

「いや、この前帰ったばっかじゃん」

「父ちゃん、もうさ、仕事が今はそこまで忙しくないからさ。火曜水曜は休みだから、どこかで帰ってこいよ!」

父。そりゃ俺は自分で仕事しているから、別にいいんだけどさ。平日って、普通皆忙しいんだよ。皆仕事しているし、俺だって社員さんからの連絡に対応したりとか、普通に仕事あるよ?平日に太田に帰る、しかも一泊するなんて、けっこうな労力なんだよ?

「あー。まぁ、どこかで都合つけて帰るよ。」

「そうかぁー。あ、会社の方はどうだ?順調か?」

「うーん、まぁまぁかな。この前社員さんが、」

「でも廉はすげーよな!自分で会社起こしてさー」

まだ喋ってんだよ、俺が。おい。
てか、お前が質問してきたんだよな?
しかも、「廉はすげーよなー」話は、もう 中学生のときにお前にパパ活女子奉公してたときから、もう1000回以上はきいてるよ?

「・・・。ちょっと今忙しいから、もう切るよ」

「あーそっか!ごめんごめん!じゃあまた連絡してくれな!」

「うん、また来週あたりれん」

「はーい!はい、はい、はいー」

ブツっ

ツー、ツー、ツー

・・・・・。

てめぇ!!!
ぶち殺すぞじじい!!!!

こう叫びたくなる自分が湧いて出てくる。

最近、父親のことを考えるだけで、イライラしてくる。
もちろん最初から、まだ話してるのに電話を切られただけで、「ぶち殺したい」と思うわけはない、さすがに俺だって。

ただ、父親と話すたびに、昔の記憶が蘇るのだ。
話せば話すほど、疲れが溜まり、魂が削り取られていく。
それが今、限界に達している気がする。
だから電話を途中で切られた瞬間、ぶち殺すぞ、になったのだ。

俺は頭がおかしくなったんじゃないかと思った。どんだけ薄情なんだ俺は。

最初はこう思っていたが、徐々に考えが変わってきた。
カラダのセンサーが研ぎ澄まされてきた今、俺は人の本質により早く察知し、そしてより深く気付ける様になっている。その感覚がある。

愛の確認をしてから、宏行も安心したのか、嬉しくてたまらないのか。
どんどん、洪水のように俺に素を見せるようになってきて。

それによって、俺のカラダのセンサーが警鐘を鳴らしている気がする。

“ コイツハ ヤバイヤツダカラ ハナレロ ”

今になって思えば、このメッセージを、カラダがくれていたんじゃないだろうか。
もちろん、この時の俺は、気づくはずもなかった。










02

結局また、太田に帰ってきてしまった。
太田駅の特急電車の駅ホームに降りたった。

俺の中で、まだ親への期待があるから?
“血が繋がっている”ことへの幻想・呪いに囚われているから?
自分の親は素晴らしい人間で、その素晴らしい親に俺は育ててもらえた、愛されていたんだ、と思い込みたいから?

分からない。
なぜ、俺は 無数にやりたいこと やるべきことがあるのに 宏行に時間を割いてしまうのだろうか

自分と向き合うようになってから
ずっと蓋をしていた幼少期の記憶が、脳内をかけめぐる
もういいよ もういいのに
不思議なもので 一度蓋をあけてしまうと
具合が悪くなればなるほど いらぬ情報が怒涛のように流れてくる

北千住駅から、群馬県の太田駅まで。
最近はさびれた特急両毛号の数がすくなく、特急リバティという新し目の電車が幅をきかせている。
きれいなリバティにのっても、全く心は動かない。
あぁ、ダルいなぁ めんどくさいなぁ また宏行の講演を聞かされるのかぁ とうんざりしていた。

本来は 少しでも「嫌だなぁ」「めんどくさいな」「うんざりするなぁ」というマイナスの感情を抱いたら、そこから離れるべきなのだ。
それが、本音で生きるということ。心とカラダを大事にする、生き方。
親子という呪いにかけられて。その呪いから自分を解放できてなかった俺は、また大事なことを見失っていた。
だから、モヤモヤしたままなのに、太田なんかに帰ってきてしまった。

カラダは絶対に、嘘をつかない。逃さない。
その代償を、俺はきっちり払わされることになる。

北千住駅からのリバティに乗りながら、ガラガラの社内で。
だんだんと東京の景色から埼玉の住宅街の景色。そして田んぼ・畑だらけの景色をへと変わっていく。変わりゆく様を、窓際の席でボーっと見ながら。間でPCを叩きながら。1時間21分、車内で過ごした。

今、太田駅に着いてからも、変わり映えのない風景が映し出される。南口の風俗店など立ち並ぶいかがわしい方面とは逆の、北口へ。
北口のロータリーに止まるなんの味気もないプリウスが見えた。
宏行は中にいるのだろう。

17時28分。
俺は、ここから、翌日11時までの流れを、超詳細に予測することができる。
全く変わることのない会話と行動。いや、会話ではなく、講演だ。双方向・インタラクティブ性が皆無なのだから、これは会話とは呼ばない。

17時28分〜17時45分。宏行の講演スタート。プリウスに乗りながら。
法定速度40kmを超えず。時速35~38kmを維持し、後続の車たちをイライラさせながら。講演の合間の小休憩に、「トゥールルットゥトゥ〜」という、どこから引用してきたかもわからない、18年前から変わらないバカみたいな鼻歌を口ずさむ。
17時45分、自宅に到着。「先に風呂入ってこいよ〜」と、部屋に入るなり、俺にいう。風俗嬢か、俺は。
18時半頃から、夕食が始まる。近所の居酒屋に鶏丼と刺し身、おかずの盛り合わせをつくってもらい、宏行が取りに行く。
それを肴に、宏行は煙草を吸いながらスーパードライをただひたすら、飲む。
変わり映えのない風景。昭和20年代に建てられた家の。その畳の、掘りごたつの部屋。今はクソ暑いからこたつの布は取っ払ってあり、ただの空洞と化しているだろう。あの怪物の爺さん。宏行の父が、酒を浴びて怒鳴り・喚き散らしていた部屋。そして今は、宏行が上機嫌で、顔を赤くして講演をする部屋。
酒飲みが始まって、1時間を過ぎ19時半を回ると、エンジンがかかる。宏行の人間レベルの底が見える、しょうもなさ全開の発言が連発する。
そして、同じ話を延々と繰り返す。親戚達から煙たがられる理由がよく分かる。俺しか話を聞いてくれる人間がいないのだろう。悲しい。
心底うんざりした気分で、20時半を迎える。俺は19時半頃から、いつもPCで仕事をしている。俺が宏行の顔も見ず、相槌をしてもしなくても勝手に一人で喋っているから。
で、23時頃寝て、7時頃起こされて朝食を食べて、9時頃から10時頃まで散歩。爺さんばあさん・先祖の墓参り。で、11時までリビングでお茶のんで、帰る。

この何の生産性もない。なんの喜びも、プラスの感情も一切ない17.5時間が、今、始まろうとしている。
グレーのプリウスの助手席のドアを開けて、始まる。
本当に、クソダルいなぁという感情を目一杯抱きながら、ドアを開けた。

「廉、よく帰ってきたな〜」

「うん」

元気にやってたか〜。

うん。

少し痩せたか?

いや、痩せてないよ。

1~3個の質問を経て、例のやつがはじまる。

「父ちゃんはさ〜、最近、ダイエットしてるんだ! 朝しっかり食べて。毎朝鮭焼いてるんだけどさ。もうね、二匹焼くん。それで、白飯は少なめ。それで味噌汁もつくって。で、朝7時半には家を出るん。で、会社にいって、まぁ最近は17時ぐらいにはもう上がれるんだよな。そっからすごい時間があるからさ、よくブックマンズアカデミー(太田の大きめの書店)にいくんだよ。それで本をみてさ、面白い本があったら買うん。なんか、父ちゃん、小説が好きでさ。藤沢周平の本とか、はぁ、父ちゃんもう全部読んでるから!もう、藤沢周平に関してはね、誰にも負けないんですよ。もう、何でも知ってるん。それでさ、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx、--------------------------------------------------------------------------------------------------、*******************************************************************************************************、」

怒涛の講演。

なぁ、父よ。
あんた、なんなら昔よりもさらにパワーアップしとるやないか。
もうじじいなんだから、いい加減大人しくしたらどうだ。

最初の方は、俺も相槌打っていたけど。
もう、へー、とか、そうなんだー、とか 言う気力すら失せてくる。
ああ、この感じ。そうだ、この感じ。懐かしい。

俺があの栃木の忌まわしい家に引っ越してから。
定期的にパパ活女子奉公をさせられていた頃の、あの記憶。
ぶわーーーーーーーっと、蘇ってくる。

「廉は、最近どうだ?」

急に、質問が飛んできた。
そう、いつも唐突に。何の脈絡もなく。
てか、最近どうだって、なんだよ。
何が?

「どうって、何が?」

「仕事とかさ。順調なのか?」

別にあんたに言ってもわかんねーだろうが。

「うん、順調だよ」

「会社は今後、こうしていきたいとか、あるん?」

「そうだねー、今は川崎とか相模原中心だけど、名古屋とかにも需要ありそうだから、そっちの方にも事業所出していきたいかな」

「そうなん」

「・・・・。」

そう。この、「そうなん」という返し。
この、心底興味なさそうな、この返し。
お前が聞いてきたのに、なんなんだ?その感じは。
とりあえず自分がバーっと話すことに一段落して、満足したから、一旦ボールを俺に渡すか、みたいな。
別に俺が話す内容には興味がない、みたいな、その感じ。

まぁ、これは俺の父親に限らず、中年以降のコミュ障オヤジあるあるなんだろうけど。
うちの父親は、それが本当に酷い。

俺だって、最初は、気を使って会話してあげてたんだけど。
父親に対して、父親が紡いだ言葉を拾って、広げてあげよう、とか、一応会話のお作法的なものはしてあげてたんだけど。
尽く、俺からの問いかけに対しても、「あー、うん。」みたいな感じで、別に俺の問いかけだったり、リアクションに関しても完全にノータッチ、スルーだから。完全に会話する気力がなくなってくるのだ。魂が削り取られていく。

「父ちゃんさ、一つ目標ができたんだ!ずっと父ちゃんの中で、大学受験失敗したのが、頭に残っててさ―。だから、父ちゃん、5年後に、立教大学の夜間に、受験してみることにしたんだ!ガハハ。廉に笑われちゃうかなーって思ったんだけどさ!」

“そうなん”の返しのあと、すぐにまた自分のクソどうでもいい話を始める。
なんで5年後なんだとか、”廉に笑われちゃうかなー”とか、色々わけのわからんツッコミどころ満載だが、もはや突っ込む気力すらない。

お前はさ、俺の話とか、俺の今の感情とか、考えとか、そういうの 全く興味ないんだな。
じゃあ、なんで俺に執拗に、帰ってこいだの言いまくってきたり、電話かけまくってきたりするんだよ。

「いやー、廉は本当にすごいよな!中学生のときはロクに勉強してないのに足利高校行って。そこから勉強頑張り始めて横浜国立大学の、しかも経営学部。センター受験だけで一発で現役合格してさー! なんかもう、父ちゃんとは はぁ、頭が違いすぎて! とんびが鷹を産んじまったよな〜〜〜ははは」

このセリフ。もう、少なく見積もっても100回は聞いた。
この発言、なんの意味があるんだろう。

俺を褒めたい
俺を褒めて、いい気分にさせてあげたい?
いや、そんなわけないよな。
そもそも俺をいい気分にさせたい、であれば年中無休の講演披露はしないよな。
俺の気分、に着目しているなら、終始ゴミのようなリアクション、返しはしないよな。
てか、俺をいい気分にしたい、であれば、俺の表情に着目するはずだよな。
でも、俺の表情を見れば、俺の顔が 能面のように すべての皮膚筋肉が何も動いてないの、わかるよな。
でも、わかるはずないよな。

だって、俺といる間 俺の顔、一切見てないもんな。

ずーっと、煙草をふかして。遠くを見つめて。
お前、宇宙と交信でもしてんのか?

というか、「俺をいい気分にさせてあげたい」という思考になることすら、気持ち悪いしな。
まぁ、俺からしたら、宇宙人だからな。何を考えているのか、本当によくわからない。
一つ一つ、丹精込めて確認してあげれば、糸口が見つかるかもしれんが。その努力をする活力も、一切湧いてこない。

こんな通りの少ない田舎道なのに。後続の車を今回は3台も後ろにつけながら。時速35~ 38kmを維持し、馬鹿の一つ覚えの鼻歌を口ずさみ。
のどかな田舎道。長い直線を走った後、家に敷地に入るために、右折する。右折した時、後ろから、「やっと曲がったよ」という声が3台分、聞こえた気がした。

自宅に到着。
両脇に木々が生い茂る、車体1.5台分ぐらいの幅の道を進み、そこから広い敷地に出る。真ん中のでかい木が出迎える。
うんざりするほど、変わり映えのない景色。

敷地のど真ん中に車を停め、左手のオレンジの家へ。
どうせ風呂に入ってこいよ〜と言われるんだろうな、と思い、敷地内を歩きながら、風呂場に持っていくのはオールインワンジェルと洗顔、だけでいっか、などと考える。

昭和20年代に建てられた家の。その畳の、掘りごたつの部屋。
予想通り、夏で暑いからこたつの布は取っ払ってあった。ただの空洞と化していた。
壁の上側に並ぶ意味の分からない河合家家紋と、白黒の先代の爺さん婆さんたちの写真も変わらない。

「先に風呂入ってこいよ〜」と、宏行。
予想通りすぎてもう笑ってしまう。50分コースでよろしいですか?と切り返したくなる。

この17.5時間の中で、風呂場が一番好きだ。宏行の干渉を一切受けないから。
一番リラックスできるから。一番、というか唯一、だな。

風呂から出ると、宏行が夜会の準備をしていた。
近所の居酒屋から取ってきた、鶏丼と刺し身と、おかずの盛り合わせ。唐揚げなど。もう本当に、毎回同じ。これにも笑ってしまう。
青と白の金魚鉢のような灰皿と、タバコ。銘柄はhi-lite。そしてビールは、銀のスーパードライ。

特に乾杯などもせず、勝手に一人でビールを開け、勝手に一人で開始している。

「廉は結婚しないのか?」

また唐突に質問してくる。
はい、出ました、これ。
これも、10回ぐらい聞いたかな。
あの怒涛の愛の確認をしてから、約1年間。この短期間で、もう10回は聞かれた。

「どうだろうね」

「なんか廉、色は白いし髪もなげーし。風呂上がったらなんか顔に塗りたくってるし、女の子みたいだな。男が好きなのか?笑」

ぶん殴られたいのか、父よ。
めった刺しにしてさしあげましょうか。

日本の殺人事件、55%が親族間殺人だって、知ってるか?
通り魔はたしか15%ぐらいだったか。

その辺ほっつきあるいてる変質者より。
一番身近な親族が一番恐ろしいんだぞ、この国は。
なぜ、こんなにも親子・親族間で殺し合いが起きるのか、その当事者たちの気持ちがなんとなく分かる気がする。

親子なんだから、助け合いなさい
家族なんだから、助け合いなさい
子供は親を大事にしなさい
親が年を取ったら、しっかり親の面倒をみてあげなさい
親は一生懸命、汗水流して働いて、育ててくれたんだから、親には感謝しなきゃいけません
親が何かあったときに助けてあげないなんて、まぁ。なんて薄情な子なんでしょう
定期的に、ちゃんと里帰りしなさいね。親はいつだって、子の幸せを願っているんだから
元気な顔をみせてあげなさい、親は喜ぶから
初任給は、親に何か買ってあげなさい。育ててくれてありがとうって 感謝をつたえなさい
お父さん お母さん 私はあなたに大事に育ててもらって 愛情をたくさんもらって 幸せです ありがとう
父の日には 母の日には ご両親に感謝の気持ちを伝えましょう
たまには、温泉旅行でも連れてってあげなさい 親孝行しなきゃね
親にはなるべく長生きしてほしいと 子供は願うものよ だから、私達も長生きできるように頑張らなきゃ 子どもたちのためにもね
結婚相手は、家族を大事にしている人を選びなさい。ご家族を大事にできない人は、結婚相手も大事にできないから
わかったわ、お父さん お母さん 
お母さん お父さん 長生きしてね 

反吐が出る
現世にはびこる 未だに根強く残る 親という呪い。子供という呪い。

ただ、無神経なだけ。
ただ、無能なだけ。
ただ、人間として、しょうもないだけ。
ただ、話のレベルが低いだけ。
ただ、一緒にいるとつまらないだけ。楽しい時間が一瞬もない、だけ
ただ、一緒にいるとイライラするだけ。

悪い人じゃない。
悪い人じゃないんだ。

「でもな。俺は親から愛されてなかったって言ってたけどな。もう父ちゃんは。沙耶香と廉だけが。産まれてから、ずっと生き甲斐なんだ。それだけは忘れないでくれ。」

こうまで言ってくれた。
こうまで言ってくれるんだから、素晴らしいんだ。
素晴らしい親なんだ。

頭ではわかっているんだが。
どうしても、心がついてこない。
カラダは明確に、拒否反応を示している。
仙人から教えてもらった世界に、右足の親指を突っ込んでいる俺は、この拒否反応をしっかり感じ取れる。
感じ取れるし、これはスルーしちゃいけない、というのも分かる。

というか、仮に親じゃなかったら?
一緒にいて1mmも楽しくなくて、無神経でただイライラさせるだけの人間と、俺が関わるだろうか?
たぶん集団で飲んでいても、絶対に話しかけないし、話しかけてきても応じないだろう。

じゃあ、なんで俺は、こんな男に時間を費やしてあげてるんだろう?

宏行の講演を全無視し、「俺はなんでこんなにイライラしているのに、この場に居続けているのだろうか」という違和感と格闘していた。

徐々に宏行がスーパードライのおかげで仕上がっていき、ギアが上がってきた。
声のトーンがうるさく、顔が赤い。遠くからでも分かる酒臭い息にうんざりする。

「廉は、最近どうだ?」

だから、最近どうだ?ってなんなんだ?
しかも、プリウスの中でも同じこと聞かれたし。

「どうって、何が?」

「仕事とかさ。順調なのか?」

別にあんたに言ってもわかんねーだろうが。
しかもその質問も、プリウスの中でされたよ。

「うん」

「会社は今後、こうしていきたいとか、あるん?」

すごいよな。もう、なんにも聞いてないんだな。
見事なまでに同じ話、同じ質問。同じ流れ。
俺が何を話した、とか、何も覚えてないんだな。
少しでも興味があれば覚えている話じゃないのか?
覚えてないってことは、俺に興味がないってことか?

俺に興味がないのに、俺を愛してる?どういうこと?

なんか、会話すること自体も、馬鹿らしくなってくる。

今までは質問されたら真面目に答えてきたが
イライラが募りすぎて、一つ線が切れた気がした
真面目に応える気力が完全に尽きた

「もう会社は売る」

「そうなん」

「・・・・」

「会社ってのは、売らないほうがいいぞ!せっかく立ち上げたんだからさ」

「・・・・」

「そんなさ、会社売るなんてさー」

「・・・・」

「会社売っちゃったら、社員が路頭に迷っちゃうがな!」

「・・・・」

「やっぱり、一度始めた会社ってのは、最後までやり抜かなきゃな。そりゃあ、病気とかになっちゃったらしょうがないけどな。会社ってのは、いろんな人の思いが集まって、いろんな人の協力があってできあがってるんだから!しかも廉の会社は、すごく社会貢献につながる事業だからな。父ちゃん、ほんとに素晴らしいとおもってるんだ!会社売っちゃったら、支援しているお客さん達も、困っちゃうがな。だいたい、廉の収入だってなくなっちゃうだろうし、会社は売るべきじゃないな。経営ってのはさ、~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx、--------------------------------------------------------------------------------------------------、*******************************************************************************************************、」

「・・・・・」

「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯、△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△、
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡、」

「・・・・・」

どれぐらい時間が経っただろうか。
目はずっと開いていたはずなんだけど。
ずーっと眠っていたような。この間の意識がすっぽり抜けてしまっている。

スマホをみた。時刻、20時32分。

絶望した。
まだ20時32分

俺はあと、これに2時間半も付き合わなきゃいけないのか?

頭がクラクラする。
そしてこの間も、怪物の呪文が俺の頭を貫きつづける。

「廉はいつ結婚するんだろうな〜〜〜」

「・・・・」

「結婚相手は、あんま派手な女はやめておいた方がいいぞ。ブランド物とか買い漁ったり、なんか爪が派手な女とか。ピアスが空いている女とか、髪の色が派手な女とか。」

・・・・・

「あと、気が強い女もやめたほうがいいな。やっぱり、男をしっかり立てる女が一番だよ。悪口になっちゃうからあれだけど、ママは気が強かったな〜〜笑」

ん?
なんだコイツ

お前たしか、妻には感謝しかないんだ、って言ってなかったか?
俺がお前に愛の確認をしたときに、

「まぁでも。ママには感謝しかないんだ。色々あったけど。ずっと廉とさやちゃんを育ててくれたのはママだからな。だからあんまりママの悪口は、言いたくないんだ。」

こう言ってなかったか?
まぁこんなもん、悪口のうちにも入らんのか。

ああ、やばいな。
無性に腹が立ってきた。

「父ちゃんは31歳で結婚したからな。廉も来年ぐらいかな〜〜」

「・・・・・」

「やっぱり男はさ。結婚して、子供をつくって。ご先祖様が代々守ってきたものを子供に継がせていく。これがつとめだよな」

「・・・・・」

「子供は二人はいたほうがいいぞ。一人っ子だと寂しい思いさせちゃうからな。従姉妹のりえちゃんとかさ、あれは一人っ子だったから寂しかったと思うんだよなー。」

「・・・・・」

「やっぱり子供は二人以上。うん、そうだな。一姫二太郎、だな。でも、最初が男の子でもいいぞ!」

「・・・・・」

「男の子は絶対いたほうがいいぞ。廉が河合家の5代目だからさ。ちゃんと6代目もいたほうがいいぞ」

「・・・・・」

「廉は幸せ者だよな〜。爺ちゃんにも婆ちゃんにも、すっごい可愛がられてさ〜。足もはえーし。運動神経がいいのは、父ちゃん似だな!だけど、父ちゃんは頭がな、、、笑 頭がいいのは、ママ似だな!ママは頭がよかった。廉はどっちの良いところも全部受け継いでっから!廉の息子はすごい子になるだろうな〜」

「・・・・・」

「父ちゃんさ。もう、はぁ この敷地も、田んぼも畑も、オレンジの家もピンクの家も。もう全部廉にくれてやっから!」

「・・・・・」

「廉が5代目だ! 河合家の資産は、全部廉のものだ」

「・・・・・」







ああ、本当に、バカみたい

もう、笑うしか無い。








「だけどな、父ちゃんがまだ生きているうちは、しっかり廉の結婚相手の女、見極めてやる! しっかり父ちゃんの前で三つ指ついて、”この家に住まわせてください”って、頭下げたら、住まわせてやっから!」



「っはははははははははははははははは!」





「?」

「あーあ。ほんとおもしろい」

「?ガハハ」

「帰る」

「え、帰る?泊まってくんじゃないのか?」

「・・・・」

「いや、帰るって、もう父ちゃん酒飲んでるから運転していけねーぞ」

「・・・・」

無視して、帰った

とにかく、今すぐ
この家から この敷地から すぐに出よう

走りはしないが
敷地真ん中の木を過ぎ、両脇に木々が生い茂る、車体1.5倍幅の道路につながる道を進み
県道に出る。

街中まで、歩く。田舎でも、タクシー会社に電話すれば、20分ぐらいでタクシーは呼べる。
20分歩いて着く地点にタクシーを呼んで、そこから太田駅にいって。すぐに、帰ろう。

涙がでた。

悲しい。

俺は こんな男の子供なのか
こんな男と 俺は血が繋がっているのか
俺はこんな男に、期待して、満たされていると、思ってしまったのか
俺は、俺という人間として、あの男の目に映ってなかった

俺がどういう気持で 何を考えていて どう生きていきたいのか

あの男は、何も考えてないんだな。

あれだけ、ピンクの家に 写真が飾ってあって。
小さい時の思い出を今でも大事にして
子供を愛している 立派な父親だと思っていた。

でも、本当にそうなのか?

「でもな。俺は親から愛されてなかったって言ってたけどな。もう父ちゃんは。沙耶香と廉だけが。産まれてから、ずっと生き甲斐なんだ。それだけは忘れないでくれ。」

この言葉の意味をずっと考えていた。

たしかに、あの男は、あの男なりに、俺を愛しているのだろう。
たしかに、生き甲斐なんだろう、俺の存在が。

あんな馬鹿みたいに 「今日学校でこんなことがあったんだよー!!」とママに一生懸命話しかける7歳児みたいに 俺に対してずっと 馬鹿みたいに一人でしゃべってんだから。

俺にとっての「愛する」って。というか、世の中の大体の共通認識って、

・相手の気持ちを思いやること
・相手の幸せを願うこと

とか、大体このあたりだろ。
思考・言動の根底に、「相手目線」が必ず入るだろ。
てか、それが入らなきゃそもそも「愛する」という概念って、成り立たないんじゃないのか?

でも、あの男の「愛する」って、「こうしてほしいを押し付ける」なんだよな。

人形やぬいぐるみを、ただいじるだけ。自分が好きな服を着させるだけ
人形やぬいぐるみの気持ちなんて、考える必要ない。だって人形なんだから

ネットで「愛する」を検索すると、


日本語[編集]

動詞[編集]

する (あいする)

  1. いつくしむ。かわいく思う。

  2. 恋愛の対象として慕い思う。

  3. (婉曲)性交する。

  4. 大切に思う。重んじる。惜しむ。

    • 国を愛する。

  5. 面白いと思う。このむ。めでる

    • 風景を愛する。



このような定義が出てくる。
あれ、意外としょうもないな。愛するって、こんなもんなのか。世の中的にこうなのか。崇高なものを想起する俺がむしろ少数派で、むしろ俺が世の中に対して、あの男に対して、押し付けているのか?

頭がグシャグシャになる。

あの男にとっての、「愛する」は、この定義、どれもしっくりこない。

というか、愛する、ですらないのか。
「こうしてほしいを押し付ける」だけなんだから。

ようは、俺に甘えているだけなのだ。
俺を母親とみなして、「今日こんなことがあったんだよー!!!」といって、「そっかそっか、よく頑張ったね〜〜」って言ってもらいたいだけだ。

そして、「廉はこうしたほうがいいぞ!」を押し付けて。

「子供のために色々考えてあげてる父親だなぁ。あぁ、俺ってすばらしい」

これに酔いたいのか。

そして、色々子供にしてあげるから、だから、子供から愛されたい。
子供に自分を愛してほしい。年中時間さえあれば実家に帰ってきて、俺の話を聞いてほしい。息子と一緒に居れる時間が何より好きだから。

この自分の感情に一生懸命なのだ。
そして、息子が俺と一緒にいて幸せかどうかは、どうでもいい

「父ちゃんは。沙耶香と廉だけが。産まれてから、ずっと生き甲斐なんだ。」

この言葉を、俺が都合よく解釈しすぎていただけなのかもしれない。
俺が、崇高なものを、あの男に押し付けていただけなのかもしれないな。

あぁ

バカみたい

あれだけ感動して ボロボロ泣いて
俺は愛されていた!よかったぁ!
生まれてきてよかったぁ
生きてきてよかったぁ
お父さんは悪い人じゃない
本当に素晴らしい人だ

なんてさ

悔しい

本当に情けない

あんなバカに騙されて

苦しい

涙なんか 流したくない
流したくないよ

あれ、 じゃあ振り出しか

俺は結局マスコットキャラだった
「あぁ〜かわいいぬいぐるみだね〜よしよし〜」
ってされていた、ただのぬいぐるみだったんだ

俺の気持ちに想いを馳せて
愛してくれた人なんて

結局、誰もいないじゃん

奥歯をギシギシいわせている自分に気づく。

懐かしい
腹の底に泥が溜まっているような感覚
そして泥以外に何もなくなったような感覚
殺意とも違うし、喪失感とも違う
なんと表現すればいいのだろう

ただ、心の支えがなくなったのは事実だ

あぁ、やばいな、これ
このまま放っておいたら また死にたくなる

すぐに、仙人に相談しなければ。

県道78号。21時04分。
歩いてる人間なんて誰も居ない。
家の灯りがポツポツとついている。

あれらには、温かい空間が存在しているのだろうか。
愛に溢れた家族団欒のひとときが流れているのだろうか。

なぜ、俺には与えられなかったんだ

誰も応えてくれない代わりに
バッタ、キリギリス、コオロギ達が翅をこすりあわせ、シリシリシリシリ・・・と夏の音を奏でる。
耳障りな演奏が鳴り響く夜の田舎道を、ひたすらに歩いた










03

「でも、自分の想像力の外に子供が出て行ってしまったら、親はどうすることができるんでしょう」
というミァハの母の瞳は潤んでおり、
「言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、わたしたちは良き親であろうと最大限努力したんです。倫理センターに相談にも行きましたし、正府のコミュニティの人たちにも助けを求めました。コミュニティの方々は親切に、何度もセッションを開いてくれました」
それしか思い浮かばなかったのだろうか、と私は少々辟易した気分になった。問題を抱えた子供に対する、みんなで寄ってたかって善意の海に溺れさせ、なにも考えることができないようにする
お決まりのプロトコル(段取り)だ。

「ハーモニー」伊藤計劃

起き上がれない、ことはない。
普通に10時頃目が覚めて、10分ぐらいボーっと、コンクリート状の天井を見つめて。
まだ、魔物は見えてない。特に何の特徴もない模様だ。
のそのそと起き上がり、水を飲み。納豆を食べて、シャワーを浴びて、歯を磨いて。
自宅のベッドにPCを置き、床にあぐらをかき。カタカタと仕事を始める。

もうこれ以上、頑張れない
俺は一体、何のために生きてきたんだろうか
何がしたくて、何をもとめて、生きてきたんだろうか
あぁ、死にたいなぁ

29歳の時のような、こんな感覚は今はない。
親への幻想、という憑き物が徐々に取れつつあるからだろうか。

特に、嫌なことを頑張る必要はない
親に認めてもらいたい!社会に俺を認めさせたい!にとらわれる必要もない
何のために生きるのか、なんて、別に設定する必要もない。
生まれたことに意味も理由もないのだから。
だから、何かを求める必須性もない。何かを求めたほうが人生の張り合いはあるけど。

それぐらいのもんだろう。
前ほどはひどくないが。

懐かしい感覚に戻りつつある。
そもそも、「生まれたことに意味も理由もないのだから」というのが頭をよぎる時点で、ちょっと具合悪いですねぇ、と精神科医に言われそうだ。

仕事には集中できている。大丈夫。

9月下旬。
うだるような暑さは、ほぼなくなりつつある。
エアコンはつけずに、窓を開けていれば普通に涼しい。
自宅は新宿区ではあるが新宿駅からはかなり離れているので、騒々しくない。
注意を向ければ、車の音がするなぁ、というぐらい。

朝からPCに向かっていたが、以前のように、途中で息切れして、ベッドに倒れ込んでしまうこともない。
そこそこ集中して取り組んでいたら、あっという間に夕方になっていた。
18時34分
もう、夏場とは違って外は暗い。窓から流れてくる風が気持ちいい。

腹の底に泥が溜まっているような感覚
そして泥以外に何もなくなったような感覚
これが引き続き、ある。
別に宏行を殺したい、とかはない。

愛されていたんだけど、愛されてない

このような、宙吊り状態なのだ。今は。
心の支えと呼ぶにはあまりにも脆い。というか存在しないのと同じ。

“このまま放っておいたら、おそらく河合さん、死にたくなりますね”

先日仙人に相談した際に、このように言われた。
やっぱり。ですよね。
カラダは嘘をつかない。
また以前のような緊張状態が戻っている。表面が硬くなっている。

精神が異常をきたしているから、カラダの調子が悪くなるのか
カラダが異常をきたしているから、精神の調子が悪くなるのか

どちらなのだろうか。
鶏と玉子。

ずっと、精神がすべてを決定づけると考えていた。
人間は精神の生き物だから。自分の意志次第で、目に映るもの、感じるものが変わってくると。大多数の人が、おそらくこちら側の意見だろう。

ただ、最近はふと考える。
逆なのではないか。精神は、肉体がより健やかにその生を全うするための一つのツールに過ぎないのではないか。
肉体の側が、より自分に適した精神を求める。肉体が、より現在のステージにあった精神を求めて、とっかえひっかえしているのでは。
聖なる唯一の魂、という古典概念にずっと俺は囚われていたのでは。
仙人と出会い、己のカラダに着目して生きるようになってから、このようなことをふと考える。

まぁ、とにかくだ。
精神主導なのか、カラダ主導なのかはわからないが。いずれにせよ密接に関連しているのだ。ほぼイコールであるといってもいいほどに。
カラダは仙人に委ねている。
精神は、俺が一歩、しっかり前に踏み出さなきゃ、健やかにならない。
腹の底の泥を、取っ払いたい。
泥以外の、健全なもので己の器を満たしたい。

本丸に行かなきゃな

宏行と連絡を絶ってから約2ヶ月。
この想いが、少しずつ湧いてきた。
いつまでも逃げていられない。
宏行の件は、もうすこし時間をおいてから考えよう。
完全に切るか、それ以外を模索するか。

“河合さんは、まだ本当の愛情を知らない。どんな自分でも、愛してくれる。ありのままの自分を理解して、愛してくれる。そういう本当の安心感がないから、本当に父親に言いたいことをまだ出しきれてないし、「切るなら切る」という判断をするにも、躊躇しているのかもしれませんね。”

本当に仰るとおりだ。
仙人はこうも言っていた。

“血の繋がりは、それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、たまたまそこに生まれただけ。親とは価値観が合わない・精神的に合わないのであれば、無理に関係を保つ必要はありません。家族の外に、自分と本当に合うパートナーが必ずいますから。その人を見つければいいんです。”

この言葉にも、救われた。
父親に。「血の繋がった家族」というものに、やはり幻想と過度な期待を抱きすぎていた。
別に親に満たされる必要はないのだ。
だが、親と向き合わずして、本当のパートナーと出会い、良好な関係を築けるはずもない。
仙人はこれも仰っていた。

これを認識して、ようやく、決心がついた。

本当の安心感を手に入れるために、避けては通れない、一番恐ろしい存在。
理想のパートナーを見つけるためにも、本当に親というものに踏ん切りをつけなければいけない。愛情があるのかないのか、はっきりさせないと、次には進めない。
次には進めないと言うか、このまま放っておいたら、死にたくなる。「誰にも愛されてなかったし、これからも無いのでは」という絶望に、殺される。
またあの日々に逆戻り。いや、それ以上に酷い状態に陥る。

思えば、一番憎んでいるのは、本丸。母親の頼子なのだ。
宏行は、0~ 18歳まで、過ごした時間は一番短い。
だからこそ、最初に行きやすかったのかもしれない。

でも、賴子は違う。

あれは。あの女は。生まれた時からずっと一緒に居たんだ。

・物心ついたときから、狂ったように、俺に愛情表現をしていた女
・自分の味方をつくるために、「お前の父親はひどい男なのだ」と、沙耶香と俺を洗脳した女
・「廉くんは絶対ママを裏切らないよね」と言いながら新しい男をつくって、俺を捨てた女
・その後、気まぐれで俺を回収しにきた女
・俺の気持ちを1mmも理解せず、理解しようともせず。自分の男を「お父さんと呼びなさい」と言い捨てた女
・宏行や道から、「いかに私はひどい仕打ちを受けているか」を、名女優の如く演じきる女
・俺の気持ちには寄り添わないくせに、「私は今、こんなに辛いの」と語り続ける女
・「ダメな母親でごめんね」と夜23時に酒臭いまま、泣きながら息子に謝るが現状を一切変えようとしない女
・謝るが、何が息子を苦しめているかわからないままとりあえず泣きながら謝ろう、という魂胆が見え見えの女
・俺がパニック障害になったときも、「何で廉はそうなっちゃったんだろうね」と他人事のような感想を吐き捨てる女
・息子が壊れていく様を一番近くで見ていても、何もできないしアクションを起こす気配すらない、バカな女
・終いには、「廉は本当に変わってるよね」と吐き捨てて、すべてを諦めた女
・29年間、「母親を守れなかった弱い男」というレッテルを植え付け、自殺したくなるほどの呪いをかけた、あの女

俺が最後に見たときは、おそらく年齢は45歳あたりだったか。だが、精神年齢は14歳の少女の、あの女

仙人に出会うまで、俺は母親を恨んでいるなんて、思いもしなかった。
全部父親が悪いんだ。だから母親がこんなにつらい思いをするんだ。
そう思わされて、打ちのめされていた日々。
父親を殺したくても、殺せなかった。屈辱の日々。

これらは、母親は被害者でもなんでもない。
ただの加害者。状況を変えるために動かなかった、母親のせい。

これに気づくまでに、本当に時間がかかった。

本当に腹が立つ。
俺の気も知らないで、友達のような掛け合いをして、ケラケラ笑っていたあの女。

いつの間にか、ベッドに横たわっていた。
コンクリートの天井をぼーっと眺めていた。
視界から受け取る情報はシャットダウンされ、脳内の知覚情報が徐々に変わっていく。

あの忌まわしい、幼少期に
あの日。頼子が太田の、ピンクの家から出ていったあの日。




当時、8歳。頼子、35歳。

熱を出して、学校を休み。2Fの広い寝室で、一人寝ていた。
意識が朦朧とする中、天井を見ていた。
真っ白の 何の模様もない天井
何の温かみもない 天井
「純粋であること」を押し付けられていた、あの家にピッタリの天井
不気味で、孤独で、発狂しそうになる。まるで刑務所のような

寝室の扉が開いて、頼子が入ってきた。

“廉くん、大丈夫?”

頼子が俺の顔を覗き込む。心配していますよ、という顔をつくって。
あの時はただの違和感だった。胸が締め付けられる感覚。
が、今なら分かる。

普段とは明らかに違うメイク
露出が明らかに強い服装

普段と違う匂い。あれは香水。頼子のお気に入りの BURBERRY Weekend.
甘ったるくて 大人っぽくて 気持ち悪い匂い

母親 ではない 

生々しい 女が 俺の顔を覗き込んでいた

“うん...”

“ゆっくり寝ててね。あとでおばあちゃんが来るから、いい子にしててね”

“うん...”

馬鹿みたいに、素直に返事をして。

行かないで

って、本当は言いたかった。
でも、言えなかった。
言っても、絶対に断られる 惨めな思いをする、って分かっていたから

お前が欲しい時には俺を使って
要らない時は 子供が寝込んでいても どうでもいいんだな
嫁いだ先の義母に面倒を見させて
お前は男に抱かれにいくのか。

笑っちまうな

自分がバカで 惨めで 笑うしか無い

息子が素直に返事をして。それを見届けた頼子。
ニコッと俺に笑いかけて。
俺に背中を向けて、寝室を出ていった。
扉を閉める前に振り向いて、またニコッと笑うのかと思ったが それもせず
ただ、背を向けたまま、出ていった。

熱で寝返りをうつのもしんどかったのに
頭痛が酷く 意識が朦朧とする中 力を振り絞って ベッドの頭側にある出窓に手をかけて
窓をあける 顔を出す
下に 頼子のエメラルドグリーンの軽自動車Lapinが停まっていた。
1Fの玄関から出てきた頼子が、Lapinに乗り込む。
2Fの寝室の窓にも、顔を上げて見ることもなく。

少し、嬉しそうな顔の頼子

苦しい
惨め
バカみたい
辛い
悲しい
吐きそう
胸が痛い

なんで、隣にいてくれないの?
仕事してないよね?
暇だよね?
別に今日会えなくても、いつでも男には会えるよね?
俺がばあさんのおかゆ食ってるときに、お前は男と良い飯を食ってるのか?
それか、手料理なんか振る舞って 男に美味しいねって言われて バカみたいに喜んでるのか?

当然、頼子は応えない。
車のエンジンが掛かり、敷地の広場の真ん中の木を横切って、県道に入り。Lapinが去っていった。Lapinはすぐに、視界から消えていった。
しばらく、ボーっと外を見ていた。当時は、この時捨てられたって、気づくはずもないが。

母親がいなくなった
ただ、この感覚だけが、8歳の体を蝕み、埋め尽くしていた。
広い寝室で、一人取り残された。外が暗くなるまで一睡もできなかった。死ぬほど気だるいのに、眠れなかった。誰も俺を最優先してくれないんだ、という絶望が苦しすぎて、眠れなかった。

そして、頼子がピンクの家に戻ってくることはなかった。








脳内の知覚映像が切り替わる。
新宿の自宅の天井模様から反射された光を、眼球が受け取り。視細胞から電気信号に変換され、脳に入力されていく。俺は自宅で、天井を見上げて、ベッドに横たわっている。

あぁ、情けない
30歳男性が 幼少期の母親との記憶を思い出して
涙を流している

あぁ、気持ち悪い
本当に、自分が嫌になる。

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと
8歳のあの時から 俺の成長は止まっているんだ。
どうしようもなく気持ちを踏みにじられ 心を頼子にズタボロにされたあの日から

ずっと 母親を恨んでいる。
ずっと 女性を恐れている。
ずっと 女性の心に踏み込めないでいる
怖いから 
最後にはどうせ捨てられるって 勝手に思い込んで
どうせ傷つけられるから だったらその前に振って 傷つけてやろうって
傷つかないように 振られる時も 「あぁ、振られるな。別にいいや」って、勝手に気持ちの整理を自分でつけて はいはい、じゃあね って まるでどうでもいいかのような態度を取って

全部、自分が傷つきたくないから

自分の親に踏み込めないのに 他人である女性に踏み込めるわけがない

女性に愛されたいと思っているのに
女性を愛せる自分じゃないなら 愛されるわけがない

18歳で栃木を出た日から 12年間 ずっと空回りをしていた
ずっと自分で、勝手に苦しんでいた

でも、もう終わらそう。
怖いけど。

“えっ.... ?久しぶりに会ったのに... 廉、30にもなって何言ってるの?笑”

“何この子、超マザコンじゃん、気持ち悪いんだけど”

あの女はすぐに顔に出るからな。
露骨な表情をするだろう。

こう思われたら、どうしようかな。

やべー、涙出てきた

こんだけ俺を苦しめたのにさ 
あの女のせいで、自殺したいなって思うぐらいには、苦しかったのにさ
こんだけ俺が勇気を振り絞ったのにさ

そんな顔されたらさ

もう、殺していいんじゃない?

そんな女さ、生きる価値ないよね?

天井のコンクリートの魔物に、問いかける。



お前も、そう思うよな









04

ここは、どこだ
懐かしいリビング。頼子と道が狂ったように喧嘩をしていた、あの16畳ほどのリビング。
栃木の家。
風景は似ているが、空間が歪んでいる。
黒と白の色しか無い。窓がない。外、という概念がない空間....?

テレビのリモコンやら、ティッシュやら、カーペットやら、雑誌やらが
あたりに散乱している。
まるで、強盗が入ったかのような跡。足の踏み場がない。

黒の液体も飛び散っている。
匂いは、かすかに感じ取れる。
血液の匂い。赤血球の中に存在するヘモグロビンが保有する、独特の鉄臭さ。

俺の手が 黒く染まっている。
これも、血....?


「いや、、、いやー!!!」


悲鳴が聞こえる。
急に目の前に、顔をボコボコに腫らし、鼻から黒の おそらく血、だろうか。血を流し、血と涙と鼻水で顔をグシャグシャにした女が、床に尻をついて、怯えた顔で 後ずさっている。腰を抜かしているのか、力が入らないのか、立ち上がって逃げれない様子だ。


「やめて、、助けて、、、、、 誰か―!!!!!」


女が泣き叫ぶ。狂ったように。まるで強盗に襲われ、今まさに殺されそう、という具合に。
これだけ叫んだら 誰か来るだろうし、警察に通報されるんじゃないかと思う。
が、なぜだろう。一向に誰か駆けつけることはないだろう、という感覚が、この空間には溢れている。

35歳ぐらいの、女。
ショートヘアで、小顔で目の大きい、女。
ピンクの家で、娘を風呂に沈めていた女。
息子を放り投げて、男に会いに行っていた女。

俺の意志と関係なく、俺の視界がどんどん女に近づいていく。
女のギョッとした顔が、どんどん俺に近づいてくる。

「誰,,,,誰,,,,,?」

後ろに後ずさり、顔をボロボロにして泣きじゃくる女。
途端に、表情がみるみる青ざめていく。

「廉......?」

「・・・・。」

どういう状況だ。
口が開かない。といっても、応じる言葉も見当たらないが。

「え、、、、なんで、、、、?」

このなんで、は、色々混ざりすぎたなんで、か。
なんで今更会いに来たの?
なんでこんなことするの?

のなんで、のようだ。

どういうことだ。
この女は、当時の頼子....?

なぜ、こんな顔がボロボロなんだ?
俺がやったのか?

そう考えている間に、俺の左腕が伸び、頼子の首を掴む。
頼子の顔が苦痛に歪む。

「なんで、、、なんでこんなことするの、、、、?」

俺が聞きたい
なんだ、この状況は。

応えることもできない、カラダの感覚がない。
気づいた時には、右手が動き、拳が頼子の左頬を殴っている。頼子が声にならない声を発し、後方に倒れる。

その瞬間、床に転がっていたナタを掴む。
全長18cmのナタ。刃の部分が怪しく光る。
3回ほど振り下ろせば、太ももぐらい楽々と切断できそうなナタ。
右手の前腕が上に上がる。

アンモニアの刺激臭が鼻に届いた。
女が失禁したようだった。股から液体が僅かに流れる

全身がしばらく震え続けてたが、なぜか俺の動きが止まっていると
次第に震えの度合いが弱まってきた。



「なんで、、、なんでこんなことされなきゃいけないのよ!!!!!!
一生懸命.....育ててあげたじゃない!!!!
こんな、、  こんな恨まれる筋合いないわよ!!!!」




眼球から血管が浮き出てるんじゃないかと思うほど、目をかっぴらき
金切り声をあげて、全身全霊の怒りと恐怖を震わせて、頼子が叫ぶ

 “あれが、、あれが一生懸命努力した結果か....? 笑わせるな”

どこからともなく、俺の声が部屋に響く。
不快極まりないが、目の前から映像が消えてくれない。

「私だって、、、私だって大変だったのよ!!
掃除も洗濯も、夕食も手の込んだものを毎日作らされて、お義父さんお義母さんから毎日嫌味を言われて..
毎日毎日毎日毎日毎日.....
沙耶香は学校に行かなくなるし。不登校になったら、母親の愛が足りないからだ!って責められるし。あの男は仕事だけやってて全然助けてくれないし!!!

愛が足りない....?ふざけないでよ!!!!

愛情がなきゃ、子育てなんてやってられないの!!!
専業主婦だって本当に、毎日大変なんだから...
家事をあんなに毎日きっちりやれって言われたら、本当に忙しいの!
忙しい中で、子供を二人を育てることがどれだけ大変か、あんたに分かる?
本当に 本当に大変なの

沙耶香は全然言う事聞かないし...
終いにはあの子、なんて言ったと思う?

“なんでママのところに生まれてきたんだろう,,,,”

って言ったのよ

そんな事言われたら、、風呂にだって沈めたくなるわよ!!!!」

頼子が泣き叫ぶ。
この女が抱えてきた苦悩の、ほんの一端しか見れてないが
それでも言葉を失うには十分過ぎる叫びだ

「本当に辛かった....
宏行なんか、仕事しているだけで本当に頼りにならないし、子育てのことだって全然助けてくれないし
“お前は家にいて暇なんだからしっかりやれ”って言ったのよ!!!

離婚したくなるのも当然でしょ!?

他に男つくって何が悪いのよ?

あんたは素直に私の言う事聞いてたからね
あんなに可愛がってあげたじゃない
あんなに優しくしてあげたじゃない

何が不満なのよ!!!

いい年したおっさんが,,, 気持ち悪いのよ!!!!」

面喰らう暇もなく、左手の拳が頼子の頬に伸び、また後方に倒れる。
白い歯たちが、倒れた頼子の顔の横に飛び散っている。
頼子の目が虚ろになる。

何が起こっているのか、理解ができない。

頼子の上にいつのまにかまたがっている。
ナタは手に持っていない。

上から見下ろす。

虚ろになっていた目が、正気を取り戻し
グリンと眼球がこちらを向き、狂気を宿し、こちらを睨みつける。

「あんたは素直だったからね。そりゃあ、愛情表現だってしてあげるわよ。沙耶香に比べればよっぽど可愛いもの

洗脳じゃないわ。現にあんたの父親はひどい男だったもの。ろくでもないのは、あんたがよく分かっているでしょう

“廉くんは絶対ママを裏切らないよね”? ふふ... そんなこと言ったかしら。

他人だからお父さんなんて呼びたくなかった? じゃあなんて呼ぶのよ? 籍入れてるんだから、戸籍上は父親なんだからお父さんって呼ぶのが当たり前でしょ
誰に養ってもらっていると思ってるの?

あんたの気持ちを1mmも理解しようとしなかった?
したわよ。したけど、あんたも沙耶香も、本当に、何を考えているのかよくわからない子供だった。

何が、 ”捨てられた” よ、くだらない。
ちょっと別の男のとこに行ってただけでしょ?

その後拾ってあげたんだからいいじゃない。
あの河合の家にいるよりはマシだったでしょう

何不自由なく育ててあげたのに、こんなことして

あんたなんか、絶対に許さない

呪い殺してやるわ」




一気に、頼子が畳み掛けてきた。
その間、一度も瞬きをせずに

心の底から 俺という男を軽蔑し 生きる価値のない外道として見下す目

なんで...
なんでそんな目で 俺を見るんだ

なんで...

次の瞬間 その眼球が俺の親指で覆われた。
上瞼ごと 親指が 左右の眼球を奥へ押し込む

鼓膜をつんざくほどの頼子の断末魔が、部屋中に響き渡る

ヌルヌルとした感触 タピオカのような弾力の眼球が凹み やがて耐えきれず爪が水晶体に切れ目をつくり、指が入り込む
ブツ、ブツ、と音を立てて、硝子体に風穴を開ける。
血が湧き出て、顔に飛び散る。
親指は一向に止まらず、眼球の残り滓とともに、視神経を脳側に押し込む

いつの間にか錠で拘束されている頼子の手が、手首ごともげるのではないかというほど動いていたが、やがて動きを止めた。


ビクッ ビクッ と、俺の下で カラダが大きく波打った。











05

ああ、それに、わたしの考えるところでは、あらゆるもののうち最もおそるべきこの病と悲惨をさらにおそるべきものたらしめる表現は、それが隠されているということである。
それは単に、この病にかかっている者が病を隠そうと思うことができるし、また事実隠すこともできるとか、この病はだれひとり、だれひとり発見する者がないようなふうに、ひそかに人間のうちに住むことができるとか、ということではない。
そうでなくて、この病が、それにかかっている当人自身でさえ知らないようなふうに人間のうちに隠れていることができる、ということなのである。

セーレン・キルケゴール

汗をびっしょりかいている。
エアコンで部屋は冷え切っているのに。

恐ろしい。こんな夢、見たことがない。
生々しく、血の匂い、アンモニア臭まで、リアルに覚えている。

夢自体も恐ろしいが
こんな夢をみて、ゲロを吐かずにただ冷や汗をかいているだけの自分が、さらに恐ろしい。

年々、本当に頭がおかしくなっている気がする。
自分の奥底に、8歳から抱えた病巣が 年を取るごとに大きくなっている感覚。
早く治療しなければ。この社会の構成員として不適格、とされ
爪弾きにされる。死刑台に送られる。

母親に雑に扱われたぐらいで、 ここまで殺意を抱くなんて。
自分の中で、何か別の病を発症しているのでは、と疑いたくなる。

頼子のようで、頼子でない。
夢に出てきた女は、姿形は幼少期に見ていた頼子そのものだったが
キャラクターは、あんなに凶暴だったか?
あれが素の頼子、なのか?
あれがあの女の本音、なのか?

自分の本音を吐露して、それをまたぐちゃぐちゃに踏み躙られるのが怖い。
本当に、怖ろしい。

実に12年ぶりの、母親だ。
今日、これから 遂に

新宿の自宅のベッドから、ゆっくりと身を起こす。
汗でびっしょりになったシーツから体が離れ、その瞬間、夏の終わりと相まって肌寒さを感じる。

“何不自由なく育ててあげたのに”

この言葉が脳裏に響き渡る。
頼子の言葉。

世の中全体で見れば 俺は恵まれているのだろう。
特段障害もなく、食事に困ったこともなく、大学まで行かせてもらえた。
まぁ、別に頼子に「私が育ててやった」と言われても、どの口が、という感覚しかないが。それでも、感謝すべきなのだろう。

親があっても、子は育つ。
もちろん、親はなくとも、子は育つ。

坂口安吾はよくいったものだ。
親というやくたいもない代物があるという事実をものともせず、子は子で一人前の人間に育つもんだ、と。

まぁ、俺が一人前かどうかは甚だ疑問だが。
不思議だ。どれだけ薄情で、非常識だ、と言われても反論ができない。
事実、そうだろう。
確かに、何かをもらったのだろうが、何も浮かんでこない。
微塵も、感謝の気持が湧いてこない。

完璧な家庭など存在しない。
両親から捨てられ、施設育ちとなる人間もいる。
大学に行かせてもらえない人間もいる。
両親から虐待を受け続け、自殺に追い込まれる人間もいる。

家庭に限った話ではないか。
そもそも、この世には完璧など存在しない。
なぜなら、人間が完璧ではないから
脳の仕組みが、完璧ではないから

今、1万円を受け取るか
1年後、2万円を受け取るか

人間は、今の1万円を選ぶ。
人間は、非合理な生き物だから。
脳の仕組みが 目の前の事象への価値判断が
合理的な指数曲線ではなく、非合理的な双曲線で描かれるように

そもそも、脳の仕組みがズレている生き物なのだ

そんな、根本的にズレた生物同士が交配し、子を成し、育てる。
ズレた脳を用いて。
人類史250万年の中で、ズレがズレを呼び、築き上げた社会。

完璧が存在しないなら、それを受け入れるしかない。

苦しみも、当然そこにあって然るべきもの、として位置づけられる。
人間は苦しすぎると、それ自体を肯定しないと正気を保てないから。
むしろ、苦しみは神からの賜りものだ、という洗脳がこの社会にはびこっている。

生きる上で、苦しいことは避けられない
苦しいことがあるから、私は幸福感を得られるのだ

苦痛とニュートラルとの差分に幸福感を見出そうとする

生きれば生きるほど、つらくなる。ジリ貧の戦い。

そりゃあ、地球上に自殺体の山が出来上がるわけだよな。

俺も、今までずっと。苦しいから幸せがあるんだ、だから今の状況は間違ってないんだ、と。
ずっと己を洗脳してきた。
危うく、死体の山に積み上げられるところだった。

でも、違うだろう。
別に、苦痛なんか、本当は日常的に感じる必要はない。
シンプルに、ニュートラルと幸福の差分を幸福、と見做したい。
そういう生き方があるんじゃないか。
そして、イレギュラーで発生する。ごく偶に発生する苦痛も受け止めて味わい。それも含めてこの世界を良しとみなせる。そういう余裕を自然と持ち合わせている状態
これが、人間のあるべき姿じゃないか。

もう30年、苦しかったから。
親から呪われた人生は卒業したい。
この想いが強すぎて、ややこしいことばかり考えてしまう。

「一生懸命育ててあげたじゃない!」

これは、本当にそうなんだろう。
これは、彼女の本心。彼女なりに、目の前の感情と闘い。人生のタスクと闘い。

その程度で 一生懸命なんだ

心の底から 辟易する。
ガッカリ、という言葉では言い表せない。
親が無能、というのはどうしてこれほどまでに哀しいのだろうか。

というか、何を一生懸命頑張る必要があったんだ

掃除も洗濯も完璧を求められて。夕食も手の込んだものを毎日作らされて。お義父さんお義母さんから毎日嫌味言われて...

アホか。
嫌ならやらなきゃいいだろう。
だいたい、宏行と少し話せば、ヤバい男だってすぐにわかるだろう。
ヤバい家庭の男だってわかるだろう。
何を結婚なんかしてるんだよ。

専業主婦が嫌なら働けよ。ベビーシッターでも何でも雇って、自分の時間をつくれ。
娘を風呂に沈めなきゃいけないぐらいストレス抱えてるんだったら、さっさと逃げ出せよ。
下手に俺達に愛情表現している暇があったら、さっさと逃げ出せよ。
親同士が罵り合っているから、子供は辛いんだ。
それでいて愛情表現するだけして捨てられるから、辛いんだ。
だったら最初から、ないほうがいい。
だったら最初から、親なんていないほうがいい。

宏行が助けてくれない?
そりゃそうだろ。人を愛せる男じゃないんだから。
人のせいにしてないで、さっさと離婚しろ。
自分の不幸を人のせいにするな。自分の幸福を人に依存するな。

結局何もかもボロボロになるまで、離婚に踏み切れなかった。
世間体だのなんだの 経済的不安だのなんだの
そんな理由で自分と周りをボロボロにしきった お前の責任だろ
被害者ヅラすんな。

“なんでママのところに生まれてきたんだろう,,,,”

これは沙耶香のSOSだよ。
生きるのが苦しいよ、っていう。

それをお前。虐待してる場合じゃね―だろ。

結局自分のことしか見えてない
いや、自分のことすら見えてない
見ようとする勇気もないから

自分の気持により添えない
子供の気持ちにより添えない

だから、お前から人が離れていくんだ
宏行も 道も 3人目の夫だって 皆お前から離れていく
そんなんだから 沙耶香にも俺にも愛想尽かされて 音信不通なんだろう

無能だから
自分を大事にできなくて 家族を大事にできなくて

「一生懸命育ててあげたじゃない!」

心の底から、うんざりする。
そして、哀しい。

でも分かってる。

これはもう 俺のエゴなんだ

押し付け
押し付け
押し付け
押し付け
押し付け
押し付け
押し付け
押し付け

血の繋がりなど関係ない、と言いながら
子供はたまたま親元に生まれただけで、精神的なつながりが担保されるわけではない、とほざきながら

親を神格化している
心のどこかで、理想の親から愛されたいと願っている。
理想の親子像を手放せないでいる。

身勝手

こんな身勝手を拗らせてウダウダ人生病んでいる、俺が最たる無能ではないか

あぁ、もうやめだ。

これから解放されるためにも 
ゼロか100か

頼子が本当に 俺を愛していたのか
俺が期待するに値する親なのか

妄想しているだけじゃダメなんだ。
しっかり確認するんだ。

シャワーを浴び、歯を磨き、髪を手でとかしながら
どうでもいいことを頭にめぐらせ
親への怒りと、そして決意を握りしめていた

上下グレーの迷彩柄、田舎のチンピラを思わせるダル着ジャージに身を包み
下駄を履き、コンクリート上の壁に囲まれたドアを開けた。











06

たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数しかいない。
蜜を与えるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない。

エーリッヒ・フロム

また、北千住駅に来た。この一年は、よくこの駅に来た。
自分の安全地帯・東京と、戦場である故郷・群馬、栃木の間に位置する門。

グリーンのマークの地下鉄千代田線でいつも北千住駅まで来るから、
実はあまり北千住駅の外観は知らない。
地下鉄を降りて、駅ホームの東武線のマークを見つけ、案内通りに駅構内を歩いて行くだけ。
ほどほどの人波を避けながら、5分ほど歩いて、東武線の特急ホームに向かう。

宏行の時と、同じ想いをするだろうな

そんな直感がよぎる。
あんな残酷な夢を見ておきながら、あれだが。

高校を卒業して、上京する日。
最後に見た頼子の顔を思い返していた。
どんな表情をしていたかはうろ覚えだが。

「たぶん、この子はもう帰ってこないだろうな」

そんな顔をしていた気がする。
そんな、なんとも言えない顔をしていた気がする。
何かを諦めたような、そんな顔。
このよくわからない人間を、理解することを諦めた、そんな顔。

たぶん、あの夢のような、惨殺したくなるような展開にはならない。
もしかしたら、「ああ、なんてこの人は愛に満ち溢れた人なんだ」という感動を覚えるかもしれない。

でも、感動を覚えた後で、時間が経つにつれて。
具合が悪くなる。
「あれ、おかしいな」という、違和感が湧き出てくるんじゃないか。
なんかやっぱり違うな。というか、会えば会うほど虚しいな、という気持ちになるのではないか。

という、たちの悪い展開。一度絶頂に持ち上げられて突き落とされる、という展開になるんじゃないか。
そんな気がしている。

特急線のホームで足を組みながらボーッと待機していると、
特急リバティが目の前に現れた。
スカスカの車内に、10人ほどが列をなして車両に入り込んでいる。
俺も最後尾に付き、最後に乗り込む。

なんて切り出そうか。

12年ぶりの母親。
最後に見たのが、45歳。今は、57歳。
宏行のときのように、相当見た目が変わっているだろうな。
それは俺も同じだが。
たぶん、哀しい気持ちになるだろう。

老いた親をみるのは、やはり哀しい。
それは俺が 絶対的な理想を捨てきれないから。
親って本当はこうあるべき、という幻想を捨てきれてないから。

“こんにちは。お久しぶりです。
ところでさ、俺のこと、ちゃんと愛してた?”

笑ってしまう。
どこぞの大メンヘラがやってきたのか、と。
でも要は、これを聞くんだ。これを聞かなきゃいけないんだ。

“ちゃんと言葉で確認しないとダメです。カラダは誤魔化せませんから”

というのが、仙人の教えだ。
この親という呪い。子供という呪いから、己を解放しなければ。

憂鬱な気分を抱えたまま、なんとなく窓の外を見る。
ふと、大きな病院が見えた。
ベージュに塗られた建物。緑の広い庭。
遠くからでよく見えないが、老人が車椅子に乗り、おそらく家族であろう者に車椅子を押されている。

大きな病院なんて、別に珍しい建物じゃないが。
でも、この時はやけに目についた。
そして、あの時の光景が、ありありと。脳内の知覚情報として流れてきた。






高校三年の冬。1月のセンター試験が終わった翌日。

呼吸ができない

二次試験に向けた勉強のため参考書を開くと、息を吸っても吸っても、酸素が入ってこないのだ。あ、死ぬかも。18歳の冬、初めてそう思った。
前月の12月まで、頼子と道が自宅の1Fで死闘を繰り広げ、妹の若葉を俺の部屋に避難させていた日々。よしよしと抱えながら勉強した日もあった。
1月になったら、道が家に帰ってこなくなったから、戦闘は一時の休息をみていた。
家にはただの冷たい空気が流れているだけだったのに。

そこから、どうなったのか。記憶がないが、足利の日赤病院に俺は居た。
入院したのかどうかも、精神科医がなんと言ったのかもあまり覚えてないが。
病院を出る時、受付の女性が近所の同級生の母親だったことが何よりも嫌だった。
田舎で、未成年で、精神疾患者。田舎の人間たちの、格好のネタだ。

家に戻ってからは、抜け殻だった。
ボーっと、自分の部屋で。窓から外を見て過ごすだけ。
何もやる気にならない。勉強しようとすると発作が起こって死にそうになるからできない。

完全に、壊れた

しばらくは廃人の日々を過ごしていた。飯を食って、ベッドに横になり。たまにトイレにいき。一服し。また飯を食い、ベッドに横になり。
ずっと、何かに囚われて、取り憑かれたように動いていた日々を過ごしていたから、こんなにボーっとして過ごすのは初めてと言ってもいいのではないか。

幼稚園の時は、行きたくもない公文式に通わされていた。
小学校1年の時。最初の算数のテストで98点を取った。見て―、すごいでしょーと母親に見せたら、”なんで2点落としたの?”と言われた。ちなみに母親の最終学歴は、田舎の短大。偏差値などわざわざ調べるまでもない。
道は、トラックの運転手をしていた。”勉強しないとああなるわよ”と母親から言われた。
塾の帰り道、車で自宅に帰る途中。道路工事の作業員たちをみて、”勉強しないとああなるわよ”と母親から言われた。

証明したい。俺は、ろくでもない父親たちのような男ではないと。
俺はすごいんだ。俺はすごい男なんだ。
だから、勉強頑張って、いい大学に行って、いい会社に入るんだ。

好きだったサッカーもやめて、勉強を頑張る決意をした。
毎日勉強に取り組む決意をし、通信制の学習塾に入った。
でも、教材が送られてきた日に勉強に取り組まなかったら、”いつも口ばっかり。本当にやる気がないのね。お金なんか出してあげなければよかった”と、母親から嫌味を言われた。

心の中で中指を立てた。

死ね

心から、そう思った。

公文式なんか、行きたくなかった。
“98点も取れたんだね、すごいね!がんばったね〜”って言われたかった。
“お父さんはトラックの運転手。すごくストレスがかかる大変な仕事を頑張ってくれてるんだよ”って言ってほしかった。
“道路工事の人、頑張ってくれてありがたいね”って言ってほしかった。
“お父さんは毎日仕事頑張ってくれてありがたいね”って言ってほしかった。
“廉は本当に頑張り屋さんだね。でも頑張りすぎないでいいよ”って言ってほしかった。
“なんでサッカーやめちゃうの?何か辛いことでもあったの?”って言ってほしかった。

勉強、嫌いなら無理に頑張らなくていいよ
成績が落ちたっていいじゃない。成績なんかで人の価値は決まらない。
勉強は、あくまで自分の選択肢を広げるためにやるためだけのもの。
将来のためには成績がいいほうがいいけど、勉強するのがそんなに憂鬱になるなら、やっちゃだめ。
そんなに苦しまなくていいんだよ。

廉、いつも眉間にシワが寄ってるね....
気づいてあげられなくてごめんね。ずっと辛かったよね...
嫌な思いばかりさせて、本当にごめんね。
でも、お母さん、情けないんだけど,,どうしたらいいかわからないの。
どうしたら、廉は辛くないかな?廉の気持ちを教えて?






目頭が熱くなっていることに気づく。
視界が現実に戻される。

いつの間にか特急線は、館林を通過していた。
いつの間にか あっという間に、列車の窓の外は、畑やら田んぼやら、山や川やら、鬱陶しいほどの自然に覆い尽くされていた。

親の心子知らず、という言葉がある。
「深い愛情と思慮に基づいて考えている親の心も知らないで、子供は勝手気ままな行動をしているという非難の言葉」
とのこと。

ふん、と鼻で笑いたくなる
とんでもない。

深い配慮を持って接してあげてる、子の心も知らないで
勝手気ままに行動する親。

勝手気ままに、俺が疲弊していることにも気づかずに、くだらない話をし続ける親
勝手気ままに、自分の不幸を周りのせいにして 不倫を繰り返す親

その陰で、子供が一生癒えない傷を負っているというのに
「傷を負ってしまったよ」と伝えても 「そうなん」としか言わない親

何が親の心子知らず、だ
子の心親知らず、の間違いだろう。

昔のくだらない記憶に思い出から、頭を切り替える。


“まもなく、足利市、足利市”



忌まわしい土地に列車がまもなく到着する旨を知らせるアナウンスが、車内に流れた。








07

足利市駅に着いた。
夕暮れ時。駅のホーム右手に、織姫神社が見える。
夕日に照らされた、渡良瀬川とその街並み。
昔、森高千里の「渡良瀬橋」という歌の舞台になった街並み。古い歌だが、地元では有名な歌。
いい歌だな、と思っていたが、同級生から「歌ってる人、廉のお母さんに似てるよな」と言われたから、聴かなくなった。

階段を降り、改札に向かう。
宏行の時のように、トイレには寄らなかった。
怖ろしいが、なぜか躊躇しなかった。

今になって思えば、もう展開が予想できていたから、だろうか
とにかくこの時は、妙に冷静な自分がいたのだ。

改札を抜ける。
右手の南口へ。足利の美容専門学校がある側。
バス停とタクシー乗り場が出迎える。

懐かしい。
駅前に、バス停・タクシー乗り場・コンビニしかない風景。
あとは住宅しか無い。

8歳で太田市から回収されて、そこから18歳まで過ごしたこの街。
12年ぶりに、帰ってきた。笑ってしまうぐらいに、何の変化もない。
人通りも少なく、歩みが皆、遅い。
ゆったりとした時間が、そこには流れている。
懐かしい匂いだが、特に心地よいものではない。この匂いに関連したいい思い出なんて、別にないのだから。

“白のレクサスまで来て”

母親から、そう言われていた。
レクサスなんて、随分生意気だな。
ただのOLが、なんだってそんな車に乗れているんだ。
まぁ別に、資金源については追求する気もないが。

タクシー広場を挟んだ向こう側に、それは居た。
155cm前後、ショートヘアの、丸顔の女。
空気を読んでいるつもりなのか、抑えめにした笑顔で、その女は俺を見ていた。
向こうも、俺も、すぐにわかった。
12年ぶりの、それ。

「久しぶり...」

それは、あっけないまでに母だった。母そのもの。
12年という時間が刻んだ老いがあれこそすれ、あの日何かを諦めたような表情で俺を見送った、あの母の顔そのものだった。57歳とは思えない風貌。

「....元気だった?」

「ああ」

元気なわけがないだろう。元気だったらこんなところに、帰ってこねーよ。
が、このシーンではこう発言するしかないだろうな。
母親の小さい小さいメモリにストックされた、「久しぶりにあった人間との序盤の会話」×「息子」というパターンを呼び出し、必死に掛け合わせているのだろう。

その辺りは、さすが、というか。当たり前のことなんだが。
宏行とは違って、頼子は、会話になるだけありがたい。
当たり障りのない会話ができる。キャッチボールができる。宏行というバグに触れてきたから、これの有り難みを認識しながら、車に乗り込む。

「廉、ありがとなぁ。」

父は会って早々に、この言葉を投げかけてきたが、母親は一向に投げかけてこない。
まるで、数カ月ぶりに会ったかのようなテンションで、会話を投げかけてくる。
頼子の、難しい事柄に向き合いたくない性分故、なのか。それとも、なんらかの価値観に基づき「息子を気遣って」の、このテンションなのか。
ただ早々に、「なんか廉、整形した?笑」と言われたので、前者・かつただのバカであることを思い出した。

やっぱり、夫婦なんだなぁ。

同じようなレベル感だからこそ、夫婦になったんだ。あの宏行と、この頼子は。
何も変わってない。
相手の心中を慮って、表情などから相手の気持ちを察して、会話する。
この作法を、遂に獲得することなく、57歳になった。そして死ぬまで獲得することもない。

宏行の時のようなガッカリ感は、もうない。
ただ、宿題をこなすこと。怖ろしい宿題をただ、こなすんだ。
この意識だけが、俺を動かしている。
頼子が乗ってきた白のレクサスに乗り込む。
車には興味がない。だから、型番やグレードなど、知ったこっちゃない。
が、座席シートの座り心地で、普通の車よりは高級であることが俺でもわかる。

なぜだか無性に、イラっとした。
レクサスのナビだかなんだかわからんが、アナウンスで、「シートベルトをお締めください」と言われて、ナビをへし折りたくなった。
このレクサスを我が物顔で当たり前のように乗りこなし、アクセルを踏んでハンドルを切りながら中身のない会話を続ける頼子にも、イラっとした。

まぁ、車内で真面目な話をすることもないか。
頼子のくだらない話に適当に相槌をうち、切り返し。
廉の同級生とこの前スーパーで会った、高校時代の友達と温泉旅行に行った、妹の若葉は地元の大学に通っている。
これを、宏行のようなただの演説ではなく、小気味良いテンポで、お互いに切り返していく。お互いに、かどうかは知らんが。少なくとも俺の方は、腹の底に強烈な怒りを抱えながら、適当に切り返し合う。

ふつふつと、幼少期からの怒りが、増長してくる。
同時に、哀しさと悔しさも、どうしようもなく込み上げてくる。

なぁんだ
別に俺が居なくたって、人生楽しくやってるんだな

こう思ってしまう自分が、本当に気持ち悪いし、悔しい。
なんだそれ。”廉くんがいなくて、本当に寂しかったよ....”と、大泣きしてほしかった、ってことか?
母親にとって、なくてはならない存在でありたかった、ということなんだろうか。
なんでだ。こんなにひどい母親なのに。

なんでこんなにひどい母親なのに、俺は生まれたときからずっと、「愛されたい」と、強烈に叫び続けているんだ。こんな、30にもなっても、ずっと。

もっと、愛して欲しい
もっと、大事にして欲しい
もっと、ちゃんと 愛して欲しい

…..。

もういい加減にして欲しい。
この親への執着、呪い。どうにかしてほしい。

もう どうにかしなくては。

田舎とはいえ、流石に12年経っていると景色も変わる。
例の渡良瀬橋を渡り、夕日に照らされた川と、河川敷のグラウンドでサッカーをしている少年たちが見えた。
河川敷を通り過ぎて大通りに入ると、競馬場の跡地に大きな病院が建っていた。
そして、当時から営業してんだかわからんようなボロボロの店は、跡形もなく無くなっている。

寂しさはない。
ただ、当時と変わっているな、という認識しかなかった。

大通りから、住宅街の細い道に入り込む。
足利市駅から10分ほど車で運ばれた後、我が家に到着した。

12年ぶりの我が家。
何も変わってない。
ふかし芋のような紫色のブロック塀。
砂利敷の駐車場。
二階建ての、普通の一戸建ての家。
一階はブラウン、二階はオフホワイトに塗られた、何の変哲もない、田舎の家。

太田の家に比べれば、家自体の広さも、当然敷地の広さも随分差がある。
だからどう、ということもないが。広さや家自体の立派さに関して、俺にとっては何のありがたみの差もない。どちらもただ、息が詰まる場所。ただそれだけ。
ここでの生活が始まったのは確か、小学校3年だったか。小学校が近かったから、朝起きるのが遅かった。家を出る時には、誰も居なかった。そして、帰ってくるのは一番早かったから、帰ってきても家には、誰も居なかった。行ってきます、も言わないし、ただいま、も言わない。いってらっしゃい、も言われないし、おかえり、とも言われない。

ただ、変わっていたのは。
まず、家の表札。表札の名前が、野村 ではなく、 堀越 に変わっていた。
沙耶香から聞かされていたが、ああ、本当にそうなんだな、と。
3人目の男。会ったこともないが、まぁろくでもない男らしい。

・角刈りで、メガネで、おそらく50代で、冴えない風貌
・いわゆる田舎育ちの男。発言の節々に無神経さが露わになる
・話していて疲れる感じ。宏行そっくり
・モラハラ。頼子に、「50過ぎた女がネイルなんかしてるんじゃねぇ」と言い放つ。まぁ、今目の前にいる頼子はバチバチにネイルしているから、もうとっくに別居しているのだろうか。
・妹の若葉に対しても、「お前は本当の娘じゃない」と言い放つ。

このろくでもない、3人目の男。
宏行も、道も、今となっては3人目の男も。どうしてしょうもない男ばかりと結婚するんだろうか、というのが子供の時は不思議でしょうがなかった。よく同級生から、「廉のお母さん綺麗だよなぁ〜」と言われていたから、ビジュアルはいいんだろうに。見た目も性格も、人間として終わっている男としか、なぜ結婚しなかったんだろう。

まぁ今となっては、かなり合点がいくが。
ただ、波長が合うのだろう。
量子力学。人間も分解していけば所詮はただの素粒子。
素粒子は振動している。人間も振動している
ただただ、その振動数があうのだ。波長・人間としてのレベル。
それで引き寄せ合うから、ただ、お互いが心地よかったから、一緒になった。
ただそれだけの話。
顔の作りがいい、とか、そんなことは関係ないのだ。
顔の作りがいいかどうかなんて、ただの遺伝子組み換えの話でしかない。
結果、顔を縦3等分・横を5等分し、それぞれの比率が1に近い。
それらの比率が整っていた、ただそれだけの話で。
別に人間としてどうだ、ではない。
動物としての感覚や、その生に対する価値観、生き方、畜生度合い。
これが、バッチリハマっていた。ただ、それだけ。

以前、沙耶香から聞かされた。沙耶香が帰省した際に、帰省の道中で頼子から突然。実は再婚すること。その3人目の男が、今家にいるから、挨拶してほしい、と言われたことを。
その時、沙耶香は号泣した。しばらく家に入れなかった。外に放し飼いにしていた犬、サク。サクをしばらく撫でて、呼吸を整えて、気持ちを整えて。それで、ものすごく嫌だったけど、家に入り。その3人目の男に会ってあげたらしい。そして、その場で、「婚姻届の証人欄に、名前書いて」と言われ、名前を書いた。押印した。泣きながら。

その時、頼子は、「なんでそんなに泣いてるの?」と、心底不思議でしょうがない、という顔をしていたらしい。さすが、共感力のかけらもない女。

そして、もうひとつ変わったことは
沙耶香が唯一心を許していたサクが、死んでいた。正確には、失踪していた。数年前に失踪したらしい、我が家の犬。ゴールデンレトリーバーと柴犬の雑種。顔はゴールデンレトリーバーなのに、カラダは全身真っ黒。田舎ならではの、家の中で飼わずに、外犬だった。
俺はあんまり犬は好きではなかったが、可愛かった。触ると、あぁ手を洗わなきゃなぁ、と思うが。俺を見たときに飛び回って、構って構って、と必死にアピールをする姿をみると、触らずにはいられない。そんなに求められることって、当時の、いや今もか。俺には貴重なことだったから。

そのサクは、数年前、鎖を引きちぎって、いなくなったのだそうだ。
そしてサクが失踪した時、頼子は、死ぬ姿を見せないために、いなくなっちゃったのかなぁ、と言っていたそうだ。

なんともおめでたい話じゃないか。
まるで、サクがお前らを悲しませたくないから姿を消した、とでもいいたいのか。

違うよ。
たしかにサクは老犬だった。死の間際であったのかもしれない。
でも犬が死ぬ間際に失踪するのは、野生時代の名残だ。「敵に襲われないよう」という、野性時代の本能。
犬は元々野生動物として過ごしてきた歴史がある。現代の人間とともに過ごしている犬にもその時代の習性が残っている。死ぬ間際というのは体力も殆ど残っておらず、敵が襲ってきても戦ったり、逃げたりする気力が残っていない。そのため、野生の犬たちは死ぬ間際に仲間から離れ、一人静かに休める場所を探す。
そして、弱みをみせまい、とする本能。動物は基本的に自分の弱さを相手に見せたくない。なぜなら、弱みを見せると敵に襲われてしまうから。

現代では犬の死に目に会える飼い主がほとんどだというのに、サクは脱走した。
10数年一緒に過ごしてきたのに、あいつらはサクから、敵、と思われていたのだ。

まぁ、そりゃそうだろうな。
だって、ワンワンと吠えれば、3人目の男に、ガムテープで口を塞がれるんだから。
そんな虐待をされているのに、どうやって家族とみなせばいいんだ?

それを知っていてもなお、頼子は3人目と別れなかった。
3人目を家から追い出さなかった。
そしてそれが沙耶香に知れ渡り、沙耶香とは音信不通になった。
おそらく、なぜ沙耶香が音信不通になったのかも、頼子は分かってないだろう。

そしてもちろん、なぜ俺が高校を出てから、一度も帰ってこなかったのかも。

それを、どこまで伝えるか。
どこまで、頼子と向き合えるのか。

頼子が玄関の鍵を、上下二つ解錠し、ドアを開ける。


この母が、この30年間。いや、俺が生まれる前から。
どんな生き方をしてきて、その時何を考えていたのか。


俺の気持ちが持つ限り、探ってやろう








08

親を、切る。
縁を、切る。

親の死に目にも、会えない。

親が片田舎に一人暮らし
頼れる親戚縁者は居ない
もちろんパートナーも、友人も居ない

親が死の間際、もがき、苦しむ。

助けて

そして、あなたの名前を呼ぶ。
あなたは当然、気づかない。

親はあなたの名前を呼び続け、息、絶えていく
死後3日目、新鮮期に入る。体内にガスが発生し、膨張期に入る。
死後10日を過ぎると、体内に充満したガスや水分などが体外に噴出し、その後、本格的な腐乱が始まる。

自分を産み、一生懸命育ててくれた親。
とっても、有り難い親。
その親から、乳製品やくさやが腐った臭い。ドブの臭い。生ゴミの腐敗臭が発生する。

近隣住民の通報か何かで、それは発覚する。
そして警察からあなたに、親の死が知らされる。





さぁ、切りましょう?
親を。縁を。血の繋がりを。
切れば、楽になれますよ





Shun Kanai



「何飲む?コーヒーか、緑茶か。玄米茶もあるけど。」

リビングに入り、座って俺に頼子が訪ねる。

コーヒー。

ホット?

うん。

必要最小限の単語数での、やりとり。

何も変わっていない。
12年という時が経っても、それがまるでなかったような。
12日ぐらいしか間隔が空いていないような。
息子と、母親のやりとり。

家の中も殆ど変わっていない。
リビングのテーブル、座椅子の配置。何もかも、12年前のまま。
テレビが新しくなっているぐらいだ。
あとは、若葉が小学生になって買ってもらったらしい、電子ピアノが新たに置いてあるぐらい。
ここで流れていた、頼子と道の冷戦、ときに死闘の日々。
今はもう、それが嘘だったかのような静けさだ。

ホットコーヒーを煎れ、頼子が二つ持ってきた。
変哲もないお盆に載せて。

俺は堀越が使っていたのであろう、上座の座布団に。
頼子の定位置なのであろう、ドア側の下座の座布団に、頼子が座る。
淹れたてのコーヒーの、香ばしい大好きな匂い。面倒な仕事のときほど、コーヒーが飲みたくなる。このシーンに、最も適した飲み物だ。

「大学生の時から会社やってたんでしょ?すごいね。どんな会社?」

おそらく沙耶香から聞いていたのだろう。
事業内容は沙耶香に伝えてある。ただ、沙耶香もよくわかってないのだろう。頼子には、「なんかよくわからない会社やってるみたいよ」ぐらいにしか言ってないのだろう。聞かれた質問に応えるが、やっぱりよくわからない、という顔をしている。

“なんで帰ってこなかったの?”

お前は、これを聞きたいのではないか。頼子の表情からは、よく読み取れないが。
昔から、何を考えているのかよくわからない母親だった。そもそも何も考えてないから、読み取りようもない、ということなのか。なんとも言えない表情をしている。

「この家は何も変わらないな」

「そうね〜。ま、変わりようもないからね」

「若葉は?」

「バイト。足女(足利女子校高校)の近くのうどん屋さんで、ずーーっとバイトしてるの」

「へー」

「で、バイト代、全部ジャニーズのコンサートとかに使ってて。もう年中、東京行ってるの。今月なんか、もう4回ぐらい東京に行ってんの」

「ウケんな」

「ねー、何がいいんだかね〜。部屋とかもすごいんだから。ポスターとかうちわとか」

俺が昔過ごしていた部屋を、若葉は使っているらしい。
俺の青春時代過ごした部屋が今はアイドルだらけになってるとは。なんとも悲しいものだ。

「廉は?アイドルとか好きじゃないの?」

「んなわけねーだろ」

「コンサートとかで、うちわ持って。似合いそうだけど笑」

「うるせーよ」

「笑笑」

そうそう、こういう女だった。
こういう会話が、くだらない会話が、無限に続いていた。この家で。
8歳から、18歳まで。
頼子が機嫌がいい時は、こうやって、キャッキャッと笑いながら、いつも俺を小馬鹿にして。かまってかまって、という、クラスに絶対一人はいる、こういう女。
愛想がよく、皆から好かれる。特に男から。

「中学の友達とか会わないの?琢磨とか、悠人とか」

「会ってない」

「えー連絡も取らないんだ」

「取らない。琢磨はシャブ中だし。悠人もカジノ誘ってくるから、もう会ってない」

「笑 ほんと悪いよね〜。昔から変わんないねー。」

小学校のマラソン大会で1位を争っていた琢磨は、完全に道を踏み外した。昔はずっと遊んでいたから、少しは悲しい気持ちもある。
琢磨の家も、特に父親が問題ありそうな感じだったから、生きづらそうなのはよく分かる。

琢磨や悠人なんて、かわいいもんだ。本当に悪いのは。本当に怖ろしいのは。お前みたいな女だ。


まぁ、もうだいぶ世間話には長いこと付き合ってやった。
そろそろ本題だな。



「廉は結婚とかしないの?」

「しない」

「なんでー。結婚しなさいよ〜」

「ウケんな、どの口が言ってんだ」

「・・・」

「結婚なんかするわけねーだろ、良い事例たくさん見せてもらったんだからよ」

「・・・」

キャッキャッ、という顔から一転。
何やら自分に都合の悪い展開だ、となると。
口を閉じる。目を伏せる。バツの悪い、気まずそうな顔になる。
俺が何か言うと、すぐこの顔になる。
本当に何も変わってなさすぎて、笑ってしまう。

「なんで結婚したの?」

「・・・え?」

「河合と。なんであんな男と?」

あんな、ビール腹でダサくて、男尊女卑で、資産があるなんていったって別にたかが知れてる、コミュ障で想像力のかけらもない、無神経なあんな男と。

「なんでって・・・。え、なんでそんなこと」

「ずっとひっかかってたから。あんな男と結婚して、あんなに毎日夫の悪口いって。地獄みたいな家庭で。さっさと別れればよかったのに」

「・・・・。」

頼子がムッとしてきた。そうそう。この感じ。
まぁ、たしかに、子供から生意気な口を聞かれれば、そうなるのもわかるけどさ。
生意気な口を聞かれちゃう時点で、たかが知れてんだよな。もう尊敬がないんだよ、お前には。子供から尊敬を失ったら、もう終わり。
そのチンケなプライドを捨てて、どこまで俺と向き合えるかな、この女は。

「・・・・」

「・・・・」

ずっとだんまりなんだ。そうそう、本当に、懐かしい。
自分に都合の悪い話、全然考えたこともない難しい話になると、絶対に黙り込む。
内省する、というコマンドが脳内にないのだろうか。
少しでも難易度の高い話になると、途端に思考がストップするのだ。

18歳までは、このだんまりにやられてきたが。
もう許さない。
精神崩壊するまで、追い詰めてやる。

「いつもそうだったよな。こういう話になると、黙り込んで」

「・・・・」

「それで俺が言うと、逆ギレしてさ」

「え、ていうかなんで、そんなこと聞くの?」

「ひっかかってたからって言ってんだろ。何度もいわせんな」

「ひっかかるってなによ」

「ずっとあの家の映像が残ってる。あのクソみたいな河合の家で、毎日毎日俺にグチ吐いて。河合とずっと喧嘩して。本当にしんどかった。あの時からずっと、親を恨んでる。」

ついに言った。ついに。
物心ついたときから、ずっと。
8歳で捨てられたときから、ずっと。

やばい、泣きそうだ。

蓋が開いた。
腹の奥底に溜まっていた、泥が。ついに溢れ出てきた。

「・・・・」

「恨んで、どんどんそれがデカくなって。それで仕事も全部うまくいかなくて、鬱になった。今もずっと残ってる。だからなんであんな家庭だったんだろう、って確認しにきた」

「・・・・」

頼子の目に涙が滲み始める。

昔から不思議だった。

この女の涙は、なんなんだろうか。
なぜ、いつも泣くのだろうか。
俺の苦しみに触れたから?俺の苦しみなんて、理解できるのか?
そもそも理解しよう、とする気なんてあるのか?
いや、理解しよう、という気があったなら。そんなことを思える人間なら、沙耶香にも、俺にも愛想尽かされる母親、じゃないよな?
じゃあ、なんだ。自分が久しぶりに会った息子に責め立てられて。あんなに一生懸命育ててあげたのに、連絡が途絶えて。12年ぶりに会ったとおもったら責められて、なんて私、可哀想なんでしょう、という涙?

そんな涙で俺が許すと思ったら、大間違いだ。ばかたれ。

「廉・・・ごめんね...」

「何が?」

「え...?」

「何で謝ってんの?」

「・・・・」

何を聞かれたのかわからない、という顔をする。
涙が一瞬引いた。潤った目が、元々大きい目がさらに開いている。
口も若干開いて、もう少しでアホみたいな顔になりそうだ。

とりあえず、怒ってそうだから謝らないと....
そんな魂胆か?
お前は、泣けばいつも、周りが許してくれたんだろうな。
それでここまで生きてきたんだからな。

俺が、なんで死にたくなるほど苦しかったのか
お前には想像もつかないだろうな。
想像もつかないだろうから
全部説明してやるよ

「なんで離婚しなかったの?」

「・・・・」

「毎日泣いてて、毎日夫の悪口を俺に聞かせて。そんなに辛かったのに、なんで?世間体?経済的に苦しいから?何?」

「・・・・」

また頼子がボロボロ泣きはじめた。
涙じゃなくて、思い出して欲しい。考えて欲しい。ちゃんと、回答して欲しい。

「・・・・。本当に、ごめんね...。なんでかな,,,。でも、子供の前で、父親の悪口を言うなんて、本当によくなかったよね... ごめんね,,,。」

「何が?」

「・・・え?」

「何がよくなかったの?何で良くなかったの?」

「・・・・?」

涙が止まった。ティッシュで鼻を押さえながら、頼子が俺を見る。
相変わらずの、何を聞かれたのかよくわからない、といった顔で。

「本当に苦しかった。子供は、生まれた時は親が大好きなんだよ、わかるかな?その親同士が、お互いを敵と見做して。毎日毎日毎日毎日、母親が父親を罵っている。あれはろくでもない男だ、廉はああなっちゃだめだよ、って。子供にとって親はすべて。親が感じることをそのまま感じ取る。母親が生きるのが辛くて、父親も辛い。2人分の辛さを一気に受け取るんだよ。あの家で、誰も俺が苦しいことに気づいてくれないし、気づこうとすらしないし。あぁ、愚痴を吐くだけ吐いて、俺の気持ちはどうでもいいんだなって。俺のことなんかどうでもいいんだなって。そう思わされた。ずーっとね。だから、”よくなかった” 、んだよ。わかるかな?」

まるで幼い娘を叱るように。怒りを必死に抑えようとするが漏れ出てしまう怒りとともに、ロジックで詰め寄る。自分が親だったら。娘に対して最低なことをしている、最低な親だな、と思うほどに、冷たく、詰め寄る。

頼子は泣いている。ずっと。

「ねぇ、わかるかな?」

「・・・・うん、うん。ほんとに、ごめんね....。」

「・・・・。」

ここで、大きな絶望を感じる。
仙人のおかげで、カラダのセンサーが敏感になっているから。

この女は、絶対に分かってない。
俺が勇気を振り絞って 30年分の辛さを、拒絶される怖さと戦いながら一生懸命出しているのに。
明らかに、何も分かってない反応だ。

わからないのはいいんだよ。
だって頭が悪いんだから。無能なんだから。共感力を育ませてもらえる環境じゃなかったんだから。
だけどさ。息子がここまで向き合おうとしているのに、なんでお前はそんなにやる気がないんだよ?なんでそんなに適当なんだよ、この期に及んで。
わからないなら、もっと確認しろよ。聞けよ、俺に。どういうことか。こういうことか?と。

なんで、俺の気持ちを ちゃんと理解しようと 努力しないんだよ

「てかさ、なんで俺を産もうと思ったの?」

「・・・・?」

「どうせ沙耶香で手一杯だったんだろ。知らんけど、あの宏行とうまく夫婦生活やってるイメージなんて湧かないし。絶対に子育てなんか手伝わないだろうし、あの男は。全部押し付けられて、どうせ母さんだって幸せじゃなかったんだろうし。それで、何で二人目?あの河合のジジイから、後継ぎを産め!次は息子だ!ってプレッシャーでも掛けられた?」

「そんな・・・」

頼子が黙り込まず、口を開いた。口を開いたが、言葉が後に続かない。

本当に、イライラしてきた。
この女。頭の回転が遅すぎる。というか本当に何も考えてないんだな。

しばらくの沈黙。無言の圧をかける。
俺は頼子の眼を見ているが、頼子は俺の顔を見ない。ずっとテーブルを見ている。
俺から見られているのは間接視野で明らかにわかっているだろうに、一向に、俺の顔は見ない。
でも、俺は助け舟は出さない。しっかり、考えろ。しっかり、お前から口を開け。

10秒ほどの沈黙の後、頼子が口を開く。

「プレッシャーとかじゃないけど,,,, ええ、なんだろ。まぁ、なんか、一人目が生まれたら次は二人目かなって、そういう感じだよね,,,世の中的にもそうだったし,,,」

「・・・・」

今度は俺が黙ってしまう。呆れて。
昔の、平成初期の時代。昭和が終わったばかりの時代。
なんなんだ。昔の人間って、みんなこうなんだろうか。
みんな、こんなに思考停止で生きているのか。いや、そんなわけはないよな。
俺の親どもがただ思考停止しているだけだよな。
だからこんなに こんなに薄っぺらい回答しか出せないのだ。この女は。
俺がどんな思いで、この問いを投げかけているのか。

とはいえ、嘘をつく必要はないんだけど。

まぁ、予想通りだよな。こういう人間なんだから。
特に何も考えずに、生きてきたんだから。
そりゃ、こういう人間なんだから、子供の心の機微に思いを馳せるなんて、到底できるわけがないんだよな。

分かってたのに。

あぁ、悲しい。
別に嘘はつかなくていいんだけどさ。
これだけ決死の思いを振り絞ってきた息子に対して、”あんたを産んだのに別に理由なんかない、なんとなくよ”って言ってしまう母親って、どうなんだ。
お前、頭おかしいんじゃねぇのか。いや、俺が頭おかしいのか。なんなんだ、もうよく分からん。

「俺がどういう思いで、ここまで来たか。どういう思いでこういうことを聞いているのか、本当にわかんないんだな。分からなくても、なんとなく雰囲気とか感じ取って言葉を選びそうなものだけど。なんで俺を産もうと思ったの?で、”理由なんかない、なんとなくよ”って よくもそんなことが言えたな。」

「そんなこと言ってないじゃない!」

「じゃあなんなんだよ」

「・・・・。」

もういいや。
俺はもう、地雷を踏み抜く。

頼子のセルフイメージは、

・一生懸命頑張っている私
・子供思いな母親である私
・3人の子供を出産して、立派に育ててきた私

である。

その頼子の誇りを、踏み砕く。
俺だってキレてるのだ。こんなふざけた対応しやがって。

「母さんってさ、子供のこと大事なの?」

その刹那。頼子が眼をひん剥く。その大きな目を。
やはり地雷だったのだろう。怒りと動揺で口をわなわなさせている。
表面上は、しおらしく謝っているが、本来は気の強い女なのだ。

「な,,,,なんてこと言うの!もう、いいかげんにしなさいよ!
そんなこと、、よく言えたわね!!
苦労して育ててきた母親に向かって...」

頼子の目に涙が溢れる。
ここまで怒らせたのは本当に久しぶりだ。
最後にここまで怒らせたのは、いつだったか。
中学2年のときだったか。先輩に無理やりタバコを吸わされたのに。それがバレて、担任が頼子にチクって。
廉は何が不満なのよ、と泣きながらキレていた。もううんざりして夜でかけようとしたらさらに頼子がキレて、腕を掴んで、俺の右頬をはたいた。気にせず出ていこうとしたら、今度は俺のお気に入りの服をひっぱりやがった。思わず蹴り飛ばした時のあの呆然とした頼子の顔はいまでも忘れない。

あれ以来、頼子が泣き出したら、もういいや、としてきた。
だって、話が通じないから。泣いて、もうこれ以上私を責めないで!ってなったら、もうどうしようもない。頼子の泣き顔には本当に辟易する。

でも、俺は心に決めてきた。
もう許さん、この女。
徹底的に追い詰めてやる。

「苦労して育ててもらったのはどうもありがとうなんだけどさ。子供が大事なら、なんで俺が8歳のときに一回捨てたのかな?」

「捨ててないじゃない!ちゃんと迎えにいったでしょ!?」

「だいぶ時間が空いて、な。何してたの、その間」

「.... もうなんなの....なんでそんな昔のこと今になって」

「昔のことでこっちはずっと苦しめられてるから聞いてんだよ、ぶち殺すぞ」

「な,,,,,」

なんなの、この子,,,,という顔。
怒りと、恐怖が入り混じり、一瞬で涙が引く。顔がひきつる。
生まれて初めて見る、この表情。しっかり追い込めている、ということか。
だが、頼子は引かない。徐々に頼子の中で怒りが競り勝ち、顔が真っ赤になる。

そして、見たことがある顔になっていく。
宏行に。道に。怒鳴っていた頃の、あの顔。

叫びに近くなる。

「,,,,,そんな昔のこと、覚えてないわよ!!!
なんでそんなこと言われなきゃいけないの!!!?
一生懸命育ててあげたのに,,,
そんなこと言われる筋合いないわよ!!!」

「”育ててあげた” ねぇ...
一生懸命、育ててくれたなら、なんであんなに俺は苦しかったんだろうねぇ。
息子が寝込んでいるのに、ガンガンに香水の匂いさせて心配してるフリして不倫相手のところに行ってたのに?」

「なにそれ、いつの話?」

「俺が8歳のときだよ。大体よ、一生懸命育てるってのはなんなんだ?
子供の気持ちを全く考えられない分際で、よくも一生懸命育てた、なんてぬかせるな」

「気持ち、、、どういうこと?考えないわけないじゃない」

「だったら、なんでいきなり不倫相手連れてきて、”今日からお父さんと呼びなさい”なんていってんだよ?事前に何の話もねーし、それで今日からお父さんと呼びなさい、なんて頭おかしいんじゃねぇのか?なんで俺が他人をいきなり父親扱いしなきゃいけねーんだよ。
それもさっきの、”育ててあげた”って言い方に出てるよな。
所詮子供なんて、親の所有物だからな。飯食わしてもらってるだけありがてーだろ、っていう気持ちが全部言動に出てんだよ。」

「な,,,,」

「しかも、なんかプールに連れられて行って 公衆の面前で道がお前の胸揉みだして、お前もまんざらでもねぇみたいな顔して 気持ちわりいぃんだよバカが。」

「そんなことしてないわよ!!!!」

「もうお前はずっとそうなんだよ。自分の言動がどう映ってるのかは何もわかんねーし、目の前で子供が顔をひきつらせてようが、辛くて苦しくて険しい表情をしてようが、お前は何も気づかない。気づかないし、わかろうともしない。
俺がサッカークラブで総スカン食らった時も、”何で廉はそんななの?もう母さん、クラブに顔出せないじゃない”って言いやがったよな。
子供が辛いときにそんなこと言えるやつが、よくも”一生懸命育てあげた”なんて言えるよな。頭おかしいんじゃねえのか。」

「そんなこと....」

そんなこと言ったの,,, ってか
そんなこと言ってない,,,ってか

「俺は本当に苦しかった。

幼稚園の時も、公文式なんか行きたくなかった。お前に無理やり行かされて。本当はサッカーしていたかったのに。
小学校の初めてのテストで98点だった時も、”頑張ったね、すごいね”って言ってほしかった。間違っても低学歴のお前なんかに、”なんで2点落としたの?”なんて言われたくなかった。
道がトラックの運転手をしていた時も、勉強しないとああなるわよ、じゃなくて。大変な仕事頑張ってくれてて有り難いね、って言ってほしかった。

俺がサッカークラブで総スカンくらった時も、”どうしたの?何か辛いことあった?”って聞けよ。
サッカーやめて勉強だけの状態になったときも。なんでサッカーやめちゃうの?勉強嫌いだって言ってたのに、なんでそんなに辛そうなのに頑張ってるの、って聞けよ。心配しろよ。

パニック障害になった時も、”なんで廉はそうなっちゃったのかな,,,”じゃねーだろ。

全部、お前のせいだろ!

お前が父親たちみたいになるなって呪いをかけて 俺が死ぬほど嫌いな勉強漬けの日々にさせて 毎日毎日道とケンカして 俺が道を殺したくなるほど憎ませて。
でも殺せなくて ”母親を守れなかった弱い男”にお前が俺を仕立て上げたから。

お前は俺に毎日愚痴り続けて、俺はお前を助けてやってたのに。
お前は俺の気持ちになんにも気づかなかったよな。俺が頭おかしくなるほど苦しかったのに、それに気づこうとすらしなかったよな。

ずっと同じ家にいたのに。

俺はお前の味方をしてやってたのに、お前は俺の味方になろうとすらしなかった。

もうずっと 裏切られた、って思ってた...

本当に...

死んでほしいって思うぐらい

ずっと恨んでた...」



「・・・・」



涙が止まらない。情けない。
母親の前で、こんなにボロボロ泣いて。

こんな、自分がいかに苦しかったか、なんて。恥ずかしくてみっともない真似。
もうおっさんの年齢になっているのに、母親に暴言を吐いて、俺はこんなに苦しかったんだ、と甘えて。本当にみっともなくて、苦しい。

本当に、辛い
本当に苦しい

ここまで俺は向き合ったのに
なんでお前は泣いているだけなんだ

今度は20秒ほど、沈黙が続く。

「そんなひどいことしてたんだね,, 本当にごめんね,,
そんなに廉を苦しめてたなんて、全然知らなかった...

母さんも未熟だった..
親だって完璧じゃないし、昔は本当に余裕がなかった...

ごめんね..」

「・・・・。」

「ちゃんと愛情を注げばよかったよね.... だめな親でごめんね....」

「・・・・?」

頼子はそういいながら、今なお、泣いている。
ごめんね、ごめんね,,と。
子供のときに、何度も見た。酔っ払って深夜に帰ってきて、”ダメなママでごめんね,,”と、泣きながら、何度も謝っていた、あの顔。
あの頃と変わらない、同じ顔。

俺への謝罪、という気持ちが全く伝わってこない顔。
さぁ、ママを励まして。ママを許して。そう訴えるような顔。







はぁ?









ち ゃ ん と 愛 情 を 注 げ ば よ か っ た ね 










だと?







なんだそれ
ちゃんと、ってなんだよ
ちゃんと愛してなかったってことか?
なんだそれ 私は手抜きの子育てをしておりました、ってことか?

未熟だったから、余裕がなかったから
私はあなたに愛情を注いでおりませんでした
あなたの言う通り。あなたは親から”ちゃんと愛されずに”育った子なんです

って、言ってんのか?

はぁ....
俺は、なんでこんなバカ女に、ムキになって 涙を流しているんだろうか。

「・・・・。 “ちゃんと愛情を注げばよかった”、ってなんだよ」

「・・・・?」

「あのさぁ... いや、もういいんだけどさ。ここまで言った俺に対して、そんなつもりないんかもしれないけど “すみません、実はあなたをちゃんと愛してませんでした” って言うかね? 

“ちゃんと愛してたけど、それを伝えられてなくてごめんね” じゃないの?

俺が細かいのかなぁ。なんかもうよくわかんないんだけど、ホントに残念だよ。ああ、悲しい。」

「え、、、どういうこと?」

要は、目の前に 見た目は30歳だけど中身は8歳のままの子供がいて
ママとパパは僕をちゃんと愛してくれてるのかなぁ,,,?って不安になって泣きじゃくってるところに

“いいえ。ママとパパは あんまりあなたを愛してないのよ”

って言ってるのと同じことなんだよな。

そこはさぁ,,,
嘘でも”ちゃんと愛してたわよ”ってことにしとけよ。
なんでそんな簡単な気遣いもできないのかなぁ...

なんかあの構図に似てるんじゃないか
世の中の奥さん方が、旦那の不倫を問い詰めて 
問い詰めた結果、旦那が「不倫してました、ごめんなさい」って白状して
「うわ、コイツ認めやがった」みたいな
こんな構図?こんな心境?
そこはさー、、、嘘を貫き通せよ。

「今の言い方だとさ、”実はちゃんと愛してませんでした、ごめんなさい”って聞こえるけど、俺の勘違いなのかな? 母さんは、ちゃんと沙耶香とか俺とか若葉を、ちゃんと愛情持って育ててた、っていう認識で良いのかな?」

「何言ってるの、当たり前じゃない」

「ああ、そう。どうもありがとう」

「・・・・。」

頼子の涙が引いている。いつの間にか落ち着きを取り戻している。
なんで落ち着きを取り戻してんだよ、お前は。

そして、なんとも言えない顔をしている。
やっぱりこの子は何を考えているのか、わからないわぁ...という顔

「なんか、、、すげー疲れたわ。泊まろうと思ったけど、やっぱり帰る。
あと、本当に伝えたいこと、5%ぐらいしか言えてないんだよね。
でももう疲れたから、メモしたやつLINEに送るから。それも全部じゃないんだけど、あとはもう、それを読んでもらえたら嬉しいですね。」

「・・・・。」

LINEに、以下のメモを送った。
足利に帰ってくる前に用意していた、俺の奥底の本音

生まれてから18歳になるまでの毎日、ずっとイライラしていた
母親への恨み、怒り こうしてほしかった、を数えだしたら、きりが無い。

だが 別に謝って欲しいわけじゃない。
謝罪なんかじゃない。

【俺が苦しかったことを、誰よりも母親である頼子に理解してほしい】

これが、本当に欲していること
俺が理解してもらいたいのは

・本当は母親を大事に思っていたこと
・母親を大事に思っていた 幸せになってほしい 毎日健やかに生きてほしいと思っていたこと
・だからこそ。母親から父親の愚痴を聞かされるたびに、本当は憎みたくもない父親を憎まなければならなかった辛さ
・そんな父親から、母親を救えないと思わされる絶望 男としての惨めさ
・そんな惨めさから逃げるために。それを怒りに変えて 殺意に変えなければいけなかった辛さ。魂を日々削り取っていく感覚
・そんな男をゴミクズのように扱える。そんな強い男になるために。自分の大切な人がいつ・どんな辛い目にあってもそんなゴミから解放できて金銭的にも精神的にも、まるっと面倒見れるような そんな強い男になるために。小学校6年生のあの日から ずっと 死ぬほど嫌な勉強にも 何でも 取り組んできた
・友達との時間も削って。全ては結果を出すために。ずっと。弱音も吐かずに。ずっと 一人で頑張ってきた
・高校生になってパニック障害にまでなるまで自分を追い込んで、横浜国大に受かって。そこから遊びもせずずっとブラック企業で修行して、学生起業して、会社もなんとか軌道に乗せて。ずっと 心をすり減らして。うつ病になりながらも。それでも 父親みたいな男たちを虫けらのように扱える そんな強くて完璧な男になるために ずっと一人で頑張ってきた。会社がうまく行かなくて資金がつきかけて 借金5000万円だけ残って会社がつぶれそう。毎日死にたいと思っていた。そう思ってでも、でも 過去母親を苦しめた ゴミ虫男たちを カスのように扱えるような そんな強い男になるんだ...!!

そう思いながら生きてきて、ずっと辛かったことなんだ。

生きていることがずっと苦しかった。
この気持ちなんだ。
これを理解してほしかった。

これを理解して

【そんなに大事に思ってくれてたんだね、ありがとう。
ずっと一人で戦わせて。廉の気持ちに寄り添えなくて。苦しい思いをさせて本当にごめんね】

こういってほしかったんだ。
俺の気持ちをすべて理解して それをすべて凝縮して。
この一言が、母親からほしかったんだ。

これをLINEに送った。
送った後、母親はスマホをじっと見ていた。
体感、2分ぐらいだろうか。
読みながら、また泣いている。泣いて、泣き止んで、また泣いて、泣き止んで。忙しいことで。よくもそんな器用に涙が流せるな。

もう大体読み終わっただろう。

そう思い、俺は帰りの支度を始めた。
帰りの支度と言っても、テーブルに出したペットボトルの水をカバンにしまって。脱いだジャージの上を着るだけなんだが。

「本当に帰るの?」

「それを読んで第一声が、”本当に帰るの?”って、どういう神経してんの?」

「・・・・。」

もう本当にうんざりする。会話をすればするほどうんざりする。
父親も母親も。
もう限界だ。もう、これ以上、俺をがっかりさせないでくれ。

息がつまるこの空間。この家。この敷地から一刻も早く、外に出させてくれ。
呼吸困難になりそうだ。
あの、大学受験の時に起きた パニック障害の発作とはまた違うが。

とにかく、息がつまる。

立ち上がり。なんとも言えない表情で座布団に座ったままの頼子の右横を通り過ぎ
リビングのドアに手をかけた。それを開けて出ようとする。






「・・・ちょっと待ちなさいよ!!」

「あ?」

「散々言いたいこと言って...そりゃあ、立派な母親じゃなかったかもしれないよ?
でも....
そんな、、
そんな責められなきゃいけないようなこと...?」

頼子の顔から、ボロボロと涙が溢れ出る。
止まる気配がない。


「・・・本当に廉には苦労かけたし、しなくてもいい嫌な思いばかりさせちゃったって思ってるよ..
もう本当に、謝っても謝っても足りないと思うよ..。

でも....

子供を産んで育ててもないくせに、そんなこと言われたくない!!!!!

子供を産んで育てるって、本当に大変なことなんだから!!!

うちはお金もないから 共働きで 朝早くから夜遅くまで働いて
お弁当だって沙耶香の時は毎日つくってあげて
廉の時はちょっとできなかったけど...
家事だって、廉は手伝ってくれたけど、それだってほとんど母さんが仕事から帰ってきてからやってたんだから

大体、、”捨てた”なんて,,,
そんなことよくいえたわね!!!!
ふざけないでよ!!!

捨ててないわよ!!
捨ててないし、愛情がなかったら迎えになんか行かないんだから!!」


目を真っ赤に充血させて 口をわなわなさせながら
かつて宏行や道に向けていた怒りの表情を 
今 俺に向けている。
真っ直ぐに 俺の眼を見つめて。今度は逸らす気配がない。

でも、なんでだろう。
こんなに熱烈に

“私は一生懸命、あなたを愛してたわ!!”と

アピールされればされるほど

スーッと 血の気が引いていくように
冷めていく自分がいるのは どうしてだろう。

こういう時 テレビドラマとか映画なら たぶん感動のシーンだよな。
“あああああぁぁ、俺は母さんに、愛されていた!嬉しい!”
となって、俺がボロボロ涙を流して
母親も号泣して 

ごめんね、母さん。母さんの気持ち、俺が全然分かってあげられてなかったね
いいのよ。母さんも本当にごめんなさい。廉のこと、全然分かってあげられてなくて、本当にごめんね。

とでもいいながら、お互い泣きながら抱き合って

はい、仲直り。12年ぶりに親子に戻れてよかったね〜

で、終わるんじゃないの?

ねぇ、なんで?
なんで、俺に感動をくれないの?
なんで、俺を号泣させてくれないの?この女は。

あれ、違う

俺が悪いのかな。俺がなんか、壊れちゃってるのかな。
なんで、こんな冷めちゃってるのかな。

ああ、あれじゃない?

何も受け止めてくれてないから
何も俺の気持ちを理解してないから
理解しようとすらしないから
俺の気持ちと向き合おうとしないから
何も俺の心の寄り添ってくれてないから

何も 心が通い合っている感覚がないから

だから、じゃない。そうじゃないかな
うん、きっとそう





もう、俺が生まれたときから 
物心ついたときから、ずっとそうなんだ





“ママ,,,なんでそんな辛そうな顔してるの・・・?”
“うん、ごめんね”

“ママ,,,なんでパパの悪口いうの・・・・?”
“うん、ごめんね”

“ママ,,,なんで僕をぶつの・・・?”
“うん、ごめんね”

“ママ,,,なんで僕を迎えにきてくれないの・・・?”
“うん、ごめんね”

“ママ,,,なんかね、すごく苦しいの。なんかね、胸のところがキュってなって、すごく苦しいの...”
“うん、ごめんね”

“....。なんで、パパと結婚したの・・・?”
“うん、ごめんね”

“ママ,,,僕を産んでよかった・・・?”
“うん、よかったんじゃない?”


・・・・・・。

・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・



“なんであんなチンピラみたいなやつ、お父さん、なんて呼ばなきゃいけねーんだよ”
“うん、ごめんね”

“なんかあいつ、すげー、俺が養ってやってんだ感だしてくるんだけど。まじでうざい”
“うん、ごめんね”

“なんで俺がまた河合に会ってやんなきゃいけねーんだよ”
“うん、ごめんね”

“あいつ、俺にずーっと。廉は足利高校だ!国公立大学だ!群馬大学だ!それで群馬銀行に入って、40歳で支店長だ!しかいわないんだけど。本当にうざいんだけど。本当に、会いたくないんだけど”
“うん、ごめんね”

“サッカー部の顧問のハゲに、お前は育ちが悪いからなって言われた。ハゲ頭ひっぱたいてやったら、もう部活来るなって言われたんだけど。まじでムカつく”
“うん、ごめんね”

“毎日道のこと愚痴ってるけどさ、、、なんで別れないの?”
“うん、ごめんね”

“道、俺に会うたびに、廉は頭良くていいよなぁー、俺とは大違いだ、生まれつき出来が良いってのは本当いいよなぁ、って年中言ってきてうぜーんだけど。なんなんだよあの男?”
“うん、ごめんね”

“道、借金あるんだってな。なんで離婚しないんだよ?”
“うん、ごめんね”

“なんか、変な業者から電話きたけど。すげー態度悪いやつだった。もう、本当にあいつ家から追い出したほうが良いんじゃない?”
“うん、ごめんね”

“あいつ、家に1円も金もいれてねーんだろ?大体この前だって、あいつが競馬行って帰ってこね―から、俺が若葉の保育園、迎えに行ったんだけど。あいつ糞の役にもたたねーじゃねーか、もう追い出そうよ”
“うん、ごめんね”

“あいつ、母さんの指輪とかネックレスとか、バッグ、盗んで質屋に入れてるみたいだけど。犯罪じゃん。川越のババア共に言って弁償させたほうがいいだろ”
“うん、ごめんね”

“なんか、いい大学行かないとお前はゴミだ、って声が頭にずっと響いてくるんだけど”
“うん、ごめんね”

“なんか、肉体労働者はゴミだ、って。良い企業入って年収1000万円超えないとゴミだって声がずっと頭に響いてくるんだけど”
“うん、ごめんね”

“なんか、参考書開くと呼吸が苦しいんだけど”
“うん、ごめんね”

“道が、若葉を階段から引きずり降ろしてた...もういいかげんにしろよ!!”
“うん、ごめんね”

“本当に、道を殺したい.... でも怖い.... 俺はどうしたらいい.....?”
“うん、ごめんね”

“朝起きるのが辛い。息が苦しい。死ぬほど辛い...”





うん、ごめんね








・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・




“本当に、母さんのことを恨んでる。俺は捨てられたし、ちゃんと愛されてないし、死にたくなるほど、何かを植え付けられたし”





愛情があるから迎えに行ったんでしょ!?
子供産んで育ててないくせに、ふざけたこと言わないで!!






・・・・・。

・・・・・・・・・・・

・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・






間が空いた。どれぐらいだろう。
視界に頼子が再び浮かび上がる。
口のわなわな、は治まっているが、相変わらず表情は険しい。
真剣に、いまだに俺をまっすぐ、見ている。

俺はどうしたらいいんだろう。
誰か、教えてくれ。


「そっか。すごく大変だったんだね。すごく愛してたから迎えに来たんだね。分からなくてごめんね。」


口が動いた。
口だけが、動いた。
それ以外の器官を動員せずに。口周りの筋肉だけが、動いた。
そんな気がする。

なぜだか、かつてないほど、妙に冷静な自分がいる。
その俺につられて、頼子の顔の強張りが、解けていく。
徐々に、ニュートラルに戻る。

バカな女。
何が。

“やっと私の気持ちを受け止めてくれた〜〜〜”

ってか?

バカな女。

どうしたらいいのかわからないけど、ずっと、30年近く溜まっていた腹の底の泥が、いつのまにかほとんどなくなっている。
テキーラを煽りまくって、死ぬほど吐いて道路に転がっている時のような、感覚に近いかもしれない。
朝4時。死ぬほど吐いて、なぜかタクシーも捕まらなくてこれからどうしよう、みたいな。そんな感じ?

色々吐き出して、予想通りのボールと、予想外のボールを受け取って。
それらと、今までの記憶というゴミの折り合いが、すっきりと付きそうだ。

腹の泥がなくなり、無になる手前。
これからどうしたらいいか、分からない。


でも今、唐突に理解した。


別に分からなくて良い。
どうもしなくていい


もう、どうでもいい。

こんなやつ。
こんなやつら。


頼子が、何かを言いたそうにしている。
ニュートラルな表情から一転。顔の筋肉が和らいでいる。
何か、安心したような顔。



だから、俺はそれに応える。
力いっぱい。一生懸命、満面の笑みをつくり、伝えてあげる。











「さようなら。」




















最後までご覧頂き、ありがとうございました。

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第一弾:親殺しは13歳までに

あらすじ:
2006年。1日に1件以上、どこかの家庭で親族間殺人が起きている国、日本。そんな国で駿は物心ついた頃から群馬県の田舎で、両親の怒号が響き渡る、機能不全家庭で生まれ育つ。両親が離婚し、母親が義理の父親と再婚するも、駿は抑圧されて育ち、やがて精神が崩壊。幼馴染のミアから洗脳され、駿は自分を追い込んだ両親への、確かな殺意を醸成していく。
国内の機能不全家庭の割合は80%とも言われる。ありふれた家庭内に潜む狂気と殺意を描く。


第二弾:男という呪い

あらすじ:
年間2万体の自殺者の山が積み上がる国、日本。
想は、男尊女卑が肩で風を切って歩く群馬県の田舎町で生まれ育つ。
共感性のかけらもない親たちから「男らしくあれ」という呪いをかけられ、鬱病とパニック障害を発症。首を括る映像ばかりが脳裡に浮かぶ。
世界中を蝕む「男らしさ」という呪い。男という生物の醜さと生き辛さを描く。

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