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小説:男という呪い





1章:女を服従させろ

2022年7月12日 23時47分
新宿歌舞伎町-ホテル「WAVE D」
幾多 想(いくた そう) 28歳

 苦しい。物凄く苦しい。なんなんだこの感覚は。気持ちいい、興奮する、の間違いだろう。
「……!」
 彼女の凛(りん)の、艶かしい声と荒い息が部屋内に充満していく。照明を完全に落としているため、ラブホテル独特の内装は視界から跡形もなく消えている。当初はただ闇が在り、凛の男を興奮させるはずの肢体もぼんやりとしか見えなかった。だが今は目が闇に慣れてしまい、苦しくなるほどはっきり見える。雪のように白い顔。強く捻れば簡単に折れてしまいそうな細い手足。形の良い乳房、色気が十二分に漂っているはずの鎖骨。丸く愛らしい目と、メスを入れて整いきった鼻。指を入れ込んでも全く引っかからない、サラサラの黒く長い髪。凛の全てが愛おしい、はずなのに。
「想くん……」
 凛が俺の名を呼ぶ。細く、いつもよりもさらに高い声で。どこから出ているのだろう、と不思議になるほど妖艶な嬌声で。
 その嬌声で興奮がさらに高まり、俺の男根がさらに強張り凛の中を突く。という展開を期待したのだが。その声は耳から侵入し、俺の心臓を残酷なまでに優しく握る。一気に握りつぶすことはしない。ただ、じわじわと優しく圧迫していく。雪のように白く、小さな愛らしい凛の顔が「快感で歪む」という表情を演出してくれればくれるほど、どうしようもないプレッシャーに押しつぶされそうになる。凛の中を出たり入ったりしている陰茎から、だんだんと感覚が失われていく。一生懸命脳内に送り込んでいた快感が、凛の表情を見れば見るほど、声を聞けば聞くほど淡くなっていく。まるで去勢されるようなイメージが脳内に響き渡り、陰茎と俺の体を繋ぐ神経が切断されてしまうような感覚を覚える。今夜は付き合ってから初めて凛を抱きしめている。俺はいわゆるメンヘラ、HSP(Highly Sensitive Person)の類なのだろう、不要すぎることばかりが頭に浮かぶ。
 凛はどこをどういうふうに、どのぐらいの圧迫で愛するのが気持ちいいのだろうか
 今、往復で突いているがこれは正しい動きか。どの角度で、どのペースで、どのぐらいの強さがいいのだろうか
 表情や声の微妙な変化を俺は気付けているか。声色が良い方向に変わってきた時を逃さずに、そこからそこを一定の動きでぶらさずに相対することができているか
 いや、そもそもこの快感というのは、相手のリラックス具合や、男への好きという感情の大きさに強く依存している。であれば、付き合って間もない現段階で、本当に大事なその部分をきちんと大切にできているのだろうか
 この行為というのは、互いが互いに良い気持ちになれているか、その実感こそがより満足度を高めてくれる、はず。だから俺もまた、凛から見た時に興奮して満足度が高い、と凛に実感してもらわなければならない。であれば、今の俺の表情や陰茎の硬さ、反り具合は非常によろしくないのでは
 ただ動物のように、畜生の如く何も考えずに。凛を美しくエロい肉の塊とみなし、ただ自分の快感だけを考えて腰を振れたらどんなに楽だろうか。男が自分に侵入して善がっていること、その点に価値を見出す比重の高い女性からすれば、それはそれで良いセックスと言えるのだろうか。だがどうしても、俺はそうなることができない。動物として、ただチンコの生えた雄としての単純な肉体的強さ、から俺は対極にいる。そしてその対極にいる俺に、普段の何気ない会話から価値を見出してくれたから、凛は今裸で俺の下で、股を開いて俺を迎えてくれている。
「……!」
 凛は声にならない声を発し、そして右手を伸ばして俺の左頬に手のひらを添えてくれている。俺に応えてくれる凛が愛おしい。申し訳ない。悔しい。窒息しそうなほど、息苦しい。もうだいぶ時間が経過している。凛はそんな様子をおくびにも見せないが、もういいよ、大丈夫よ、という心の声が聞こえてくるようだ。もうお腹いっぱいよ、と。
 早く、早くいかなくては。より一層硬くして凛に応えなくてはいけない。別にそんな、そこまでのことを凛が求めているわけでもないのに、勝手に俺は俺に暗示をかけてしまう。そうしないと怖いのだ。正解を着実に積み上げていかないと、捨てられてしまうから。
 カラダは正直者だ、憎たらしいほどに。俺がかけたい暗示とは正反対に、陰茎が生気を失っていく。しゅるしゅると、縛り上げていた紐をゆっくり解くように、その緊張がほぐれていく。ほぐれて強さを失ったモノは膣の圧迫に追いやられていく。もうあなたに用はないわ、と。外に外に、締め出されていく。
 地獄だ。
 男として、これほど間抜けで滑稽な地獄はない。男としての存在価値を全否定される瞬間。死にたくなる。部屋に充満していた麗しい声と甘美な匂いが一気に引き上げて、エアコンの微風の音だけが僅かに聞こえる。暗闇のはずなのに、残酷なほど凛の顔が鮮明に見える。裸で、俺の下に仰向けに横たわっている彼女。女性もまた、この瞬間ほど居心地の悪いものはない。男のチンケで高邁なプライドを、いかようにすれば傷つけずに済むか。
 ごめん……
 謝っても地獄、謝らなくても地獄。ついごめんと言いたくなるが、言ったら言ったで余計に惨めで居心地の悪い想いをさせてしまうのではないか。だからここでの正解は、気さくに「あれ、なんか疲れてるのかな……」と言う事ではないか。だが、俺の今のメンタルでは到底演じきれそうもない。痛々しすぎて、余計に地獄の空気になるだけだ。
 ごめん……
 ついそう言いかけた時、ぐっと顔を引き寄せられた。凛に抱きかかえられ、顔が胸に埋まる。細く折れそうな腕が力強く、俺の頭を抱きしめる。そして優しく、後頭部を撫でてくれている。一度ではなく、何度も何度も、優しく撫でてくれている。言葉は一切発さずに。
 凛の優しさが痛い。余計に苦しくなる。7歳年下、21歳とは思えないほどの器をもつ凛。女性向けアクセサリーブランド運営会社の経営者。機能不全家庭、つまり子が欲する愛情を親がくれなかった家庭で育った凛とは、同じ境遇同士ということもあり距離が近づくのに時間はかからなかった。
「いいのよ……」
 しばらくの静寂の後、凛は柔らかい声で言ってくれた。その丸く愛らしい目が、言葉の重みを引き立てる。ただでさえ優しい眼が、これ以上ないまでに、包み込むように俺を捉えている。よく見れば、眼球に映る俺の顔が見えそうだ。だが絶対に見たくない、見てしまったら正気を保てる自信がない。
俺が洗脳されきっているからだろうか、この温かさを素直に受け取れず、脳内は「弱い男」という言葉で埋め尽くされる。俺が大嫌いな幾多家の男たちのような、男の屑、という烙印を押された気持ちになる。
 俺がなぜこのような状態なのか、どうして凛に言えないのだろう。17歳の時に発症した鬱病の症状が、最近また出始めていること。俺が勝手に重圧を感じている気持ちを打ち明けて、「そんなこと望んでない」と優しく否定してもらう勇気が、なぜ持てないのだろう。凛としても、そんなしょうもないプライドを必死で守る姿など望んでいないはずだ。なんだかよく分からない苦しみを抱え込まれるより、一緒に分かち合う。男から弱みを曝け出してくれないと、私だって気持ちを言いづらいじゃない。お互いの腹の底を見せず、カッコつけあって心が平行線を辿ったままなら、付き合っている意味なんてないじゃない。
「話したくなったら言ってね」
 そう言って凛は、再び俺の後頭部を撫でてくれた。凛への愛おしさが更に込み上げてくる。か弱い体を、息苦しさを感じるであろう強さで抱きしめた。



1996年8月29日 15時03分
群馬県太田市 幾多家
幾多 想 3歳

 茹だるような夏の暑さに晒され、3000平米はあろう広い敷地内の大木にとまった蝉がミンミンと騒がしく鳴いている。敷地内に二軒あるうちの一軒、オレンジの屋根の祖父母側の広い邸宅の、広い畳の居間。扇風機をつけているが、窓を開けているので全く涼しくならない。畳の居間には掘り炬燵(ごたつ)が真ん中に設置されているが、真夏なので炬燵用の布が取っ払われており、掘り炬燵はただの空洞と化している。その空洞に母親の涼子(りょうこ)が両足を入れている。涼子の太ももの上に俺は抱えられている。
 俺を太ももの上に乗せた涼子は、突然俺を強く抱き寄せた。そしてしばらく強く抱きしめたあと、俺の口にキスをした。何か異様な気配を感じたからだろうか、それとも何かが湧き上がってきたからだろうか、理由は分からない。だが、この異様なスキンシップは今に始まった事ではない。常日頃からそうなのだ。普通は、子供の額や頬にキスすることはあっても口にすることはあまりないだろう。「母親にとって息子は恋人」という枠から大きくはみ出ている涼子の行動の訳は、ついに最後まで問いただしたことはない。
 涼子、30歳。153cmで丸顔でもなく面長でもない、たまご形、とでも言うのだろうか。それに大きな瞳が二つ、鼻筋や口元は普通。いわゆる美人、という枠には入るのだろう。都会でトップを張るレベルには遠く及ばないが、田舎では十分に市場価値の高い女性、というところなのだろう。栃木県足利市出身で、短大卒業後は都内で就職。学歴がないにも関わらず大手不動産会社に就職し、そこでバブル期真っ最中の東京を謳歌。外に遊びに行けば行くほど、パパ活でもないのにそこそこに綺麗な女性であれば、交通費と称されるお金が手元に入ってきたらしい。主におじさんたち、時々お兄さんたちから。狂った時代である。その東京を早々に捨てて、23歳で足利市に帰ってくる。隣町の群馬県太田市の不動産会社にOLとして就職し、そこでトップ営業マンだった俺の父の隆之と結婚。結婚する前から妊娠しており、24歳で姉の小夏を出産。27歳で俺を出産。24歳で結婚・出産は別に早いことではない。当時の、しかも田舎であれば20歳を超えた段階で「あんた結婚は? 子供は?」という糞みたいなプレッシャーを思考停止した年寄りどもが嬉々として、シャワーのように浴びせてくる。そのプレッシャーと周囲の同年代女子の動向を加味して、涼子もまたその流れに乗った。遅くもなく、早くもなく。東京でイケメンの金持ちを捕まえることなく、田舎で資産を持っていて一見仕事ができそうに見えた隆之で手を打ったわけだ。
 涼子の俺への愛は異常だった。いや、執着というべきか。3歳となる息子がかた時も母親から離れない、ではない。3歳の息子を、30歳の母親がかた時も離さない、という状態だった。俺は涼子のぬいぐるみとして、もの言わぬ奴隷として、その役割を全うした。そうしないと、見せかけの愛情ですら取り上げられると思ったからだ。幼少期に愛情を注がれないことは、すなわち殺されることと同義だ。
 なぜ、息子をぬいぐるみのように扱ったのか。思うに、涼子は孤独だったのだ。共感性のかけらもない両親に育てられ、共感性のかけらもない男のもとに嫁ぎ。旦那は朝の9時から深夜1時過ぎまで働くという、昭和を引きずった仕事の仕方にしがみつき妻を相手にせず。まだ平成8年、男尊女卑が肩で風を切って歩くこの田舎町で、専業主婦として義両親の顔色を窺いながら毎日同じことの繰り返しの中で、精神的に追い詰められていたのだ。だから、純粋に息子への愛、ではない。涼子の息苦しさ・生きづらさの捌け口としての機能を俺は担っていたのだ。でもそれでも構わない。全く相手にされないよりは、その捌け口として存在を承認される方がはるかにマシだからだ。
「また想ちゃん抱っこしてもらってるの。かわいいわねえ」
 畳の居間の奥、お勝手(台所)から祖母のシマが姿を見せた。腰骨が処刑されたようにひん曲がっており、まるでカメのようにノロノロと、ひょこひょこと歩いている。シマはしわくちゃの笑顔をこちらに向けながら歩みを向け、涼子と同様に掘り炬燵に両足を入れた。ヨイショ、と、まるで大仕事かのように、壊れた機械のようにぎこちない動きで、掘り炬燵に足を入れて座った。
「お義父さん、大丈夫ですか」
 涼子が夫である隆之の母、義理の母であるシマに問う。もっとも、それは義理の父を気遣った言葉ではない。あなたは今日は、大変な目に遭わずに済みそうですか、という問いだ。
「ああ、大丈夫よ。寝てるから」
 シマが涼子に返す。頭髪が痩せ細り、深い皺がいくつも刻みこまれた顔をこちらに向けて。その皺は、健全に生きている人間のものではない。心と体を虐げられ、そしてそのことに自ら蓋をして我慢をし続けた人間の、醜いそれだ。醜いそれを痛々しく引き立てる笑顔をこちらに向けながら、シマと涼子は談笑している。恭司がいかに酷いことをしたか、隆之がいかに酷いか、近所の誰々爺さんがいかに酷いか。それはそれは重大な会議であるかのように、棘のある言葉が飛び交う。
 幾多家。どこまでも空が広がり、空気はこの上なく澄んでいる群馬県太田市の田舎町にある一家。夜になれば綺麗に星が見えるこの田舎町とは対照的な、人間の温かみのかけらもない家。田舎町で田んぼや畑を数多く所有し、周辺の世帯に貸し出す、そこそこに裕福な幾多家。その幾多家の長男として生まれた俺は、長男という呪札をつけられた人形として扱われた。祖父から、祖母から、父親から、母親から。挙句の果てには、味方になってくれるはずの姉からも。
 涼子が俺を抱えていない時は、シマが俺を抱えていた。そして、呪文のように繰り返すのだ。「おじいちゃんみたいになっちゃダメよ。優しくて、女の子を大切にできる男になりなさい」と。それはシマだけでなく、涼子も同様だった。シマは恭司を見立てて、涼子は隆之を見立てて、「ああいう男にはなるな」という呪文を唱え続けた。一見素晴らしい教えかのように思えるこの文言が、俺の首を締め付けることになるなど、この女達には想像もつかないのだろう。そしてシマは俺の祖父、自分にとっては旦那の恭司がいかにひどい男かを延々と俺に浴びせた後に、ぼそっと遠方を見ながら言うのだ。「早く死んでくれればいいのに」と。それがシマの日課だ。ひとしきり1日の感情を俺に吐き出した後、俺を解放する。
 ねえ、ばあちゃん。俺に刺さったこの棘は、どうすればいいのですか。
 ばあちゃんの怨念が、俺の小さな身体を侵食する。ぐるぐるとうねり、臓腑を揉みしだく。それを吐き出す言葉も作法も知らないのに、あなたはなんて酷いことを、俺にするのですか。自分の大好きな人が苦しんでいる様を見せつけられること。そして大好きな人が大好きな人を憎み、死ねばいいとほざく様を見せつけられることが、どれだけこころを破壊するか、あなたには分からないのでしょうね。あなたも幼いときには分かって、感じていたはずなのに。自分が変わる勇気を持てないその弱さのせいで、こころに蓋をして。いつからかそれを感じ取ることができなくなって、周りの大切な人間を破壊していく。全ては自分が、旦那から逃げ出せない弱さのせいなのだと、あなたはもうすぐ死ぬその日まで分からないのでしょうね。
 涼子に抱えられ、涼子とシマにこころを握りつぶされていると、畳の居間の奥から獣の気配がした。のそりのそりと、おどろおどろしい気配。涼子が俺にキスをする前から感じていたのではないか、という気配が、ついに畳の居間に姿を現した。俺は怖くて目を向けられないが、涼子とシマはハッとして、その気配の主に顔を向ける。
「おい」
 低い声が居間に佇む俺たちを刺す。人間のこころを失った、クマのような生物が虚な目を向けてきているのだろう。幾多家当主、幾多恭司(きょうじ)がこちらを睨みつけているのだろう。恐ろしいジジイの気。俺は背中でその痛みを感じとる。
「おまえ、酒はどうしたんだ」
 アルコール依存症の恭司は、シマを睨みつけているのだろう。そしてシマは、恐れ慄き身体を硬直させているのだろう。まだ起きてこないだろうという油断と、自らの失態を悔やんでいるのだろう。ばあちゃん、問題はそこじゃないのですが。
「あ……すみません、すぐ買ってきますね」
 掠れた声をかろうじて発し、シマが壊れかけたその身体を奮い立たせる。ギシギシと軋む音が聞こえそうな所作で立ちあがろうとしている様を、背中で感じ取る。俺はもうすぐ起こる惨劇に備えて、身体を強張らせる。
「すぐ買ってきますね、じゃないだろう」
 空気を震わす怒気。クマのような恭司が、人間としての情緒が陥落した声で怒鳴る。ひっ、という声とともに、俺を抱きしめる涼子の腕がさらに緊張して、俺の身体を締め付けている。息苦しさを覚えた瞬間、ごっ、と鈍い音が聞こえた。
 シマの老体が横たわった。背中を向けてみないようにしていたのに、俺の右方。間接視野に、シマの哀れな姿が入り込んできた。クマに頭蓋を殴られたのだろう。頭を抱えている。だが大して驚きもせず、頭を抱えたまま壊れた機械のように身体を軋ませながら、ゆっくりと立ち上がる。そしてのそのそと、何も言わず、シマは玄関口に消えていった。消えていくシマの後ろ姿に、クマは「二度と切らすな」と吐き捨てた。その吐き捨てた言葉に耐えきれず、涼子も立ち上がった。俺の身体を抱え、右手の手のひらで俺の後頭部を抱えながら、涼子はシマの後に続いた。
 玄関先に着いても、クマの忌々しい気配は身体にこびりついたままだ。恐ろしくて見たくもないはずなのに、なぜか涼子の右手の制止を無視して後方を振り返ってしまった。そこにはフラフラの状態で立ったままの、眉間に皺を集めた畜生の姿があった。



2022年7月15日 14時16分
東京都世田谷区 東京都立唐沢病院
幾多 想 28歳

 夏の昼下がり、久しぶりに仕事の現場に足を運んでいる。担当の社員の方が体調不良で欠勤しているため、急遽代役としてこの唐沢病院に足を運んでいる。東京ドーム4つ分の敷地面積を誇る、都内屈指の大病院。その精神病棟での仕事を終えて、今は森のような大自然の中の病院の庭を、敷地の出口に向かって歩いている。一人でゆっくりと歩ければ最高だが、生憎そうはいかない。他に連れている3名とこの暑さのせいで気分が悪い。
 一緒にいる3名、一人は大柄の肥満、二人はその肥満の子分。3名ともアルコール依存症者。俺が経営する依存症回復施設の利用者さんだ。毎月一回都内の精神病院を訪問して、依存症から回復するためのプログラムの紹介と、利用者さんの声を届けるための活動をしている。唐沢病院に入院中のアルコール依存症者の方に向けて、回復するイメージを持ってもらうためのプログラムだ。
 普段は社員の方が対応してくれるのだが、今日は臨時で俺が対応している。唐沢病院に来るのは久しぶりだった。そしてこの利用者さんたちと、長時間一緒にいるのも久しぶりだ。
「いや〜疲れましたね」
 大柄の肥満が俺に話しかけてくる。お前は大して何もやってないだろう。だが利用者さんである手前、そんなことは言わずに丁寧に対応してあげる。そうですね、お疲れ様でした、と俺は対応する。肥満の名は小林幸宏(こばやしゆきひろ)。180cmほどの巨漢、細く人相の悪い目、無神経。俺が嫌いな人間の典型。168cmの俺は、小林と話す際には少し見上げる形になる。見上げる面倒さと、元々嫌いなのも相まって小林から投げかけられる問いには目を合わせずに応えることが多い。
 俺の雑な対応に嫌気が差したのか、小林は他の子分共と雑談に興じ、下品な笑い声をあげている。俺はゆっくりと歩く彼らの前方を歩き、後方からちゃんと彼らが脱走せずについてきているか時折確認しながら出口に向かって歩く。
 緑が生い茂る、自然豊かな庭園。車椅子の人や松葉杖を使って歩く人がちらほら目に入る。この唐沢病院の入院患者なのだろう。レンガで舗装された洒落た通路を歩きながら、都内ではあまり感じることのない自然の気を吸い込む。本来なら心地よい時間であるはずなのだが、後方の利用者たちの下品な話題がそれを妨害する。
 話題は、唐沢病院の精神病棟、アルコール依存症の入院患者の話題になっていた。我々の話を聞いている入院患者たちの態度が悪かった、でも看護婦の中に一人可愛い人がいた、等。看護婦、という単語を未だに使っているような連中。小林が39歳、他の子分は43歳と46歳。中学生男子のような幼稚な会話に辟易する。
 小林は横浜出身。小林の祖父が起業した施工会社を、小林の父親が継いだ。その二代目社長である父親から、ゆくゆくはお前が会社を継げ、と言われて育った。厳格で、暴力でしか物事を主張できない父親。適切な愛情を注げない父親。そんな父親の言いなりで息子の感情を守れない無能な母親。典型的な機能不全家庭で育った小林は、典型的な無神経人間に育ち、そして己の生きづらさに蓋をして生きているうちにアルコール依存症を発症した。仕事が手につかず、父親から勘当される。発言の節々に女性蔑視が見られるのは、小林の祖父、父親がそういう人間で、それをそのまま受け継いでいるからだろう。女性を下に見ないと己の自尊心が保てない、精神障害者。
 しばらく歩いた後、出口についた。八幡山駅に向かうため、右折する必要がある。ちゃんと利用者さんたちがついて来ているか確かめるため、後ろを振り返った。小林はこちらを見ておらず、小林の前方から歩いてくる女性をすれ違いざま、全身を舐め回すように見ていた。俺でさえその様に、真夏にも関わらず鳥肌が立つのだから、すれ違った女性はどんな気分だろうか。それともこういう男の視線を浴びすぎて、もはや何も感じないほど逞しいのだろうか。
「うーん」
 小林は何やら唸っている。子分たちは小林の顔を見ている。
「70点かなあ」
 小林が発した。それに子分たちが、おお、結構高いっすねえと応答した。
「顔がなあ。でも体が良すぎた」
「たしかに。すげー乳デカかったっすよね」
「E……いや、Fぐらいかなあ」
 バカ共が騒いでいた。多分、すれ違った当該女性にも聞こえているはずだ。死ねばいいのに、と思っているだろう。俺もそう思う。俺がそんなことを言える立場ではないが。
 なぜ、俺は傍観者の面をしてこんな仕事をしているのか。わざわざ自分で起業してまで、大嫌いな祖父、父親たちのような人間を扱う仕事をしているのか。被害者面をして。そんな思いに囚われていると、いつの間にか目の前に近づいていた小林が俺に問いかけた。
「社長は何点でした?」
 ニヤニヤと、吹き出物だらけの汚い顔で笑っている。お前は0点だ、と世界中の女性が言うだろう。
「……見てなかったですね」
 そう言って、前方に再び身体を向け八幡山駅に向かった。またまたぁ、と、バカ三人の声が後ろから聞こえた。 



1998年8月23日 18時11分
群馬県太田市 幾多家
幾多 想 5歳

 夕方、夕食前に風呂に入れられている。ピンクの屋根の、二階建ての広い家の、広い浴室。立ち上る湯煙が、浴室内の涼子と俺を包む。浴室用の腰掛けに俺と涼子は座り、涼子が俺の身体を洗ってくれている。ボディソープを手に取り、俺の背中を撫でている。仲睦まじい親子の関わり、と傍目には見えるだろうか。子煩悩の、愛情に溢れた母親、に見えるだろうか。
 涼子は毎日、隆之がいかにひどい男であるかを俺に披露してくれた。特に、互いに裸になるこの時間はそれが顕著だ。パパがね、ママに仕事をするなっていうの。女は家に居て、家のことをやれ。子供をしっかり育てろ。食事は毎日栄養を考えて作れ。
「昨日の夜作ったトマトのお味噌汁あるでしょ。あれ、まずいって言ったの。ひどいでしょ」
 涼子は、背中越しに俺に問うた。うん、と俺は応えた。
「想ちゃんは、どうだった」
 もう三回ぐらい、この質問は聞かれた。うん、美味しかった、と俺は応える。そうよね、と満足げな表情を涼子がしているであろうことは、背中越しに声色で伝わった。
 嘘。本当はまずかった。そもそもトマトは嫌いだ。それも、形を残した大きめのトマトは、もっと嫌いだ。でもそんなこと言えるはずもない。言ったら、涼子に泣かれるから。金切り声で、じゃあもう作らないから。もう何も作ってあげないから、と怒鳴られるから。そんな怖い思いをさせられるぐらいなら、赤く忌々しい果実を喉奥に押し込む方が百倍マシだ。
 女は黙って男に従え。女は父に従い、旦那に従い、大きくなった息子に従え。三従の教えをあらゆる側面で押し付けてくる幾多家に、涼子はうんざりしていた。だがその呪いから守ってくれる存在は、この幾多家には存在しない。涼子は、実の母親に幾多家での扱いと苦しみを打ち明けたらしい。離婚したい、と打ち明けたらしい。だがその時の実の母親、母方の俺の祖母にあたる女からの回答は、「それぐらい我慢しろ。一度嫁いだ女が実家にまた帰ってくるなんて、みっともない」だった。その時の話を俺に延々としていた涼子の泣き顔は、深く脳裏に刻まれている。
 早く解放されないかな。延々と繰り返される涼子の話のせいで、次第に頭がぼーっとしてきた。だが所詮、人形の感情など汲み取られるはずもないのだ。涼子の話は続いていた。今度の想ちゃんのお遊戯会、またパパ来れないんだって。土曜日なのにね。他のお家のパパはみんな来るのに、パパは仕事が忙しいんだって。そんなに忙しいわけ、ないのにね。年中飲み歩いたり、ゴルフ行ったりで忙しいんだって。いいわよねぇ、仕事って言えば全部それで済むんだから。女は専業主婦で、ずっと家にいるだけで飯食えるんだからいいよなぁ、だって。本当に嫌な奴。毎日毎日家事全部ちゃんとやろうとしたら、本当に大変なんだから。ずっと家にいるのって、本当に憂鬱。何が女は楽でいいよなあ、よ。だったら自分もやってみなさいよ。
 涼子の話は手を変え品を変え、様々なネタに変換されて連日提供された。豊富なネタは結構だが、その要因と本質は全て同じだ。その演説によって、涼子はその瞬間楽になる。楽になった後の人生の満足度が、現状を変える苦労を上回る。だから、この女性蔑視の生き地獄に甘んじているのだ。そして俺は、涼子が一瞬楽になるための自慰行為の、大人の玩具としての役割を全うする。その対価として、見せかけの愛情を得て自分の精神を保つ。全てが鮮やかな損得勘定のもと成り立つ、くだらない血のつながり。
「はい、前向いてね」
 演説は一時中断し、涼子は俺を正対させた。シャワーから出るぬるま湯を、優しく俺にかけて泡を洗い流す。俺の目の前に、涼子の裸体が顕になる。膨らんだ乳房に、違和感を覚えるほど痛々しく膨れ上がった乳首。散々俺と小夏に齧られたからだろうか、細々とした微細な歯形の集合体が、無数の細かい皺を作っている。そして腹には縫合の跡がある。涼子はいつも、呪文のように唱えていた。
 想ちゃんはね、ママがお腹を切って産んだの。麻酔ができなかったの。お姉ちゃんを産んだ後にママが病気になっちゃったから。想ちゃんが出てきたあと、お腹を縫う時も麻酔が使えなかったの。麻酔はね、キシロカインっていうんだけど。すっごく、すっごく痛かったの。
 その呪文を唱える時の涼子の目は、黒黒としていた。その悍ましさは、俺という小動物を容易に硬直させた。大きな黒目は、しばらくの間俺を捉えて離さなかった。
 そうなのですね。こんな生暖かい地獄に産んでくださって、ありがとうございます。
 と、言えるはずもない。涼子の呪文を、ただただ人形として目を離さずに受け入れた。その様子を見て、涼子はしばらく俺を捕捉していた後、ニッコリと笑って俺を解放した。
 今日はその呪文を浴びせられなかった。意識が現実に戻り、視界が涼子の裸体を捉えている。まだ30歳の、若く美しいはずの涼子の裸体はとても痛々しく、醜い。
 あなたは、本当に子供が欲しかったのですか。心の底から子供が欲しいと思って、汚らしい隆之を侵入させて命を宿し、腹を切ってまで産み落としたのですか。だとしたら、何があなたをそこまで突き動かすのですか。いつも夜になると泣いているあなたにとって、子供とは何なのですか。大して得るものなどない、子どもという何の益体もないガラクタを、なぜ。
「はーい、綺麗になったね〜」
 涼子は笑顔を俺に向けている。俺の声など、微塵も届いてない。そもそも俺の声という概念そのものが、この女にはないのだろう。体から泡が消えている。このまま湯船に浸けられると思ったが、涼子は動かない。目の前には、呪文を唱える時の黒黒とした目に変わっている涼子がいた。苦しい。怖い。身体が緊張する。
「想ちゃんは、ママのこと好き?」
 うん。
「ママとパパがこのお家に一緒に住まなくなったら、想ちゃんは嫌?」
 ……。
「ママがお家からいなくなったら、想ちゃんは嫌?」
 うん。
「ママがお家から出て行く時、想ちゃんは一緒に来てくれるよね」
 うん。
「想ちゃんは絶対、ママから離れないよね」
 うん。
「そっか。ありがと。ママも想ちゃんのこと大好きだよ」
 涼子の顔に笑みが浮かんだ。柔らかく、表面的には慈愛に満ちた表情がそこにはある。黒黒とした目はいつの間にか消えており、程よい白目が混在する、優しい目がそこに在った。そして涼子は俺を抱き寄せ、しばらくの間俺を強く抱きしめた。
 嬉しい、と思いたい。こんなに愛されて、幸せだと思いたい。苦しい。苦しいよ。
 おかあさん。お願いだからもっと、ちゃんと、愛してくれませんか。
 これはそんなに、難しいことなんですか。
  



2022年7月29日 19時21分
東京都港区芝公園 東京プリンスホテル
幾多 想 28歳

 目がチカチカする。普段全く縁のない場所にいるからだろう。赤とオレンジが混在した色にライトアップされた東京タワーが見下ろす、東京プリンスホテルのナイトプール。CanCamがプロデュースするナイトプールは、ピンク・白・赤を基調とした可愛さ全開の、アイスクリーム等の装飾が辺り一面に施されている。広いプールには薄いピンクと白の小さいボールが無数に浮かぶ。もちろん投げるため、ではなく映えのため。白の貝殻型の浮き輪、アルパカ型の浮き輪などが浮かび、その上に水着姿の女性たちが乗り体を寄せ合って、スマホのシャッターをきっている。プールで泳ぐ者の姿など一人も見当たらない。水着姿の女性たちが大量に集い、皆がスマホのカメラアプリUlike等を起動し、自身と背景の写真を撮りまくる。インスタグラムを彩る、己の煌びやかな日常を世界に主張するための写真を。そんな大勢の女性たちの中に、男の姿など数えるほどしかない。全く縁のない場所に、圧倒的少数派である自分。居心地が悪くて仕方がない。
 だが、そんな様子はおくびにも見せない。だって彼女の要望を喜んで叶えるのが男、なのだろう。
 ねえ、かあさん。
 優しくて、女の子を大切にできる男になりなさい、でしたっけ。私はあなたの呪いを律儀に守っておりますよ。
「ねね、次あそこで撮ろ」
 雪のように白い凛が、胸を押し当て上目遣いで、それはそれは楽しそうな笑顔を俺に向けてくれている。162cmの凛。底の厚いサンダルを履いており、俺とほぼ背丈が変わらない。遠くからでも純白カラーが目を惹くワンショル水着。胸元の二段階になったフリルで上半身が盛れる。白の水着はこのネオンのナイトプールに映えるのでは、ということで、この水着を選んだらしい。さすがですね。
 90点。
 下衆な小林の声が脳に響く。死んでしまえ、と心の内で毒づく。あんな奴の言葉が脳に響くというのは、奴と同じ思考を持っているから。だから本当に、自分に対して吐き気がする。いつから俺はこんな、無意識のうちに女性に対して点数をつけるような男になってしまったのだろう。おそらく、小学生の時に初めてできた彼女を母親に見せた時からだろう。母親の涼子に鼻で笑われて、「想ちゃんならもっと可愛い子にいけるわよ」と、馬鹿にされた時からだろう。あれからもう、母親に馬鹿にされたくない、あのバカ女を見返してやりたいという気持ちから逃れられなくなり、「客観的に評価の高い女性かどうか」ということばかりを無意識に気にしてしまう。そうして、自分の彼女までを点数換算してしまうのだ。50点の自分を棚に上げて。
 あそこ。空いたから一緒に乗ろ。
 俺の左手を掴み、先を歩く凛の笑顔に意識を戻された。広いプールに浮かぶ、洒落た白の貝殻型の浮き輪。ちょうど二人で座れる大きさの浮き輪に、凛と一緒に乗る。貝殻の浮き輪は不安定で、わー、と二人で子供のようにはしゃぐ。そして俺は凛のスマホを左手で持ち、Ulikeのカメラで何枚も何枚も、二人の写真を撮る。自動で肌加工がされるため、自分の肌が女性のように美肌で気持ち悪い。凛の柔らかい肩を抱きながら、凛の鮮やかな日常の一ページを彩る。なんで、凛の、という他人事なのだろう。なんで、俺たちの、じゃないのだろう。それが俺のこの息苦しさの根本なのに、それに目を向けることができずにいる。
 大袈裟ではなく200枚は写真を撮っただろう。専属カメラマンとして、いかに凛の足が長く映るか。いかに凛の自然な表情を逃さずに収めるか。凛のご指導もありだいぶカメラマンが板についてきた。目ぼしいスポットでだいたい写真は撮り終えたので、今はプールサイドに設置されている白いベンチで休憩している。夏の暑さで汗が止まらない、わけもなく。夜のプールは思ったより寒い。
 このプリンスホテルにチェックインした時から、ある観念が俺を支配している。さすがに今日は、セックスしなければならないだろう。2週間ほど前、歌舞伎町のホテルで醜態を晒した。そしてそれから数回凛と会ったが、ずっとそれを避けてしまっていた。だが今日は泊まりで、こんないかにもなデートをした後なのだ、しないわけにはいかないだろう。本当に、馬鹿みたい。凛がそんなことを望んでいる、と一度でも言ったか。彼氏が今日、この日のデートの一週間前から勝手にプレッシャーを感じて、勝手に憂鬱になっていることを望んだか。万が一にも勃たない、途中で折れてしまうことを恐れて男性専用クリニックにて勃起薬を入手することを望んだか。こんな楽しいデートの最中でも、この後のことを想像して楽しめないことを望んだか。
「あの子可愛いね〜」
 凛が俺の右腕をつつき、語気を少し強めにして言った。挑発するような悪戯な表情を向けてくる。また凛の方を見ずにぼーっとして、遠方をぼんやりと見てしまっていた。俺の視線の先には、確かに意識して目を向ければ、世間的に高評価を獲得するであろう女性が友人たちと歩いていた。小林なら80点、いや、90点かな、とでも言うのだろうか。
 
【問い:凛の心情を察し、最適な反応を返せ】
 A:え、ああ、う、うんそうだね、と慌てて返す
 B:そうか? お前の方が可愛いけど。と、雄感を出して返す
 C:特に言葉を発さず。首を小さく傾げるぐらい。
 D:え、どこどこ? とユーモア調で返す
 
 昔から、相手の顔色を窺って生きてきた。特に幼少期、母親の発言に対していかに反応すれば良い評価を得られるか、そればかりを気にしていた。正しく母親の心情を察し、気持ちを代弁して「そう! そうなの!」と言わせることができれば正解。「そうなの!」ではなくても、正しい反応を引き出せればそれも正解。その正解をいかに積み上げていくか、というゲームに囚われて生きてきた。その病気が今もこうして、彼女の前でも発症してしまう。
 ちなみに、この類の問いに正解はない。一見Aは論外に見えて、それが「かわいい〜」となる母性溢れる女性もいるのだ。だが、凛に対してはアウト。凛は21歳にしては類稀なる器の広さを有しているが、それでもやはり「男らしさ」を彼氏に対して求めていることは明らかなのである。だから、答えはB・C・Dのいずれか。だが、Bは違うのだ。いわゆる恋愛漫画のようなベタベタなやり取りが好きな夢見がち女子であれば刺さるのだろうが、凛はそうではない。そして、Dは俺のキャラではないし、キャラでもない振る舞いを見せつけられた日には、居心地が悪くて最悪な気分にさせてしまう。だから、無難なCであるべきなのだ。
 Cを踏む。特に凛の顔は見ない。別にこのシーンは、得点を上積みできるシーンでもなんでもないのだ。ただ、失点しなければいい。別に、あなた以外の女性なんか興味ないですよ、というのを重くならず、薄寒くならない程度に女性に伝えられれば、なんでもいいのだ。凛の表情は間接視野で、なんとなく察することができる。ほんの少しだけ不貞腐れたような、微妙な表情の変化を演出しているのであろうことが窺える。
 しばらくまた、無言で佇む。どこを見るでもなく、プールとそこにいる人間たちと、その背景に聳える東京タワー、それら全体をぼんやりと見る。既に疲れ切っている。したくもない、やりたくもないことは体をこの上なく疲弊させるのだ。俺は今この瞬間も、親族たちが植え付けた呪いに従って、「男なら」という呪いの奴隷として、「やらなければ」という思考で全て動かされている。
「うわー、また連絡きた」
 凛がスマホを見て、苦々しい表情をつくっている。ここは反応しなければならない。
 ん?
 反応すると、凛がこちらに寄って来た。体が当たり、柔らかい感触がする。
「前言ってた人。また今度ご飯でも行きましょう、だって」
 凛がスマホの画面を俺に向けてくる。凛は仕事柄、俺と違って様々な人と関わるシーンが多い。もちろん、その中には男性経営者も多数含まれる。20代前半の若く美しい女性で、しかも経営者であればその側面を取り入れたアプローチを様々な男性経営者がしてくるようだ。仕事の延長線上で、ご飯に行きましょう、という手段で。凛は純粋に仕事つながりで色々教えてもらいたい、助けてもらいたいにも関わらず、女として性の対象として見られて扱われることにうんざりしていた。少し打ち解けると、男という生き物は勘違いして告白してくる。それを断ってしまえば、せっかくできたご縁も切れてしまう。だから上手い具合に付かず離れず、距離をコントロールする必要があるのだ。その距離をコントロールするための振る舞い、つまりは「男心の添削」を、度々俺は凛から引き受けていた。凛が言う「前言ってた人」が多数いるので誰かわからなかったが、凛から見せられたスマホの画面、LINEのアイコンを見てわかった。
 相手の男は高山という。23歳の経営者。親御さんは代々続く大手運輸会社の社長。いわゆる同族企業の御曹司。現在は親御さんが経営する会社のグループ企業の代表を任されている、将来が約束されたサラブレッド。アイコンの画像は、ピタピタの紺ジャケットに黒スキニー、そしてブラウンの革靴という、少し世代が前のシルエット。髪型も七三分けのかきあげという、絶妙にダサい風貌。スタイルはいいのだが、時代から若干取り残されている雰囲気をこれでもかと醸し出している。その絶妙にダサい男は、自前のフェラーリに背中を預けて、親指を立ててカメラ目線で白すぎる歯を見せつけている。なんかもう、見るだけで笑ってしまう。この写真が女性にどう映るのか、という思考は働かないのだろうか。俺の偏見だが、風貌や雰囲気、表情でその人間がどのような思考でどのような振る舞いをするのか、大体想像できてしまうものだと思う。
「ああ、フェラーリ男ね」
「そう〜」
 凛は首を傾げている。どう対応したらいいものだろうか、と。絶妙にダサいフェラーリ男だが、持っている武器が強力すぎるため、それが好きな女性からはかなりモテるだろう。だが、凛にはあまり刺さってないようだ。
「凛はこの男どうしたいの」
「うーん」
「切らずに、仕事上の接点をキープし続けたい?」
「うーん、そうね……てかこの人、なんで私にいちいち連絡してくるんだろう」
「好きだからでしょ」
「えー、そうなのかなぁ。だってこの人、想くんと付き合う前に一回ご飯行ったことあるけど、全然話噛み合わなかったよ。なんか全然盛り上がらなかったし、向こうだってそんなに楽しそうに見えなかったけど。私に全然質問してこないし、なんか自分の話ばっかりしてて。私に興味無いのかなって思ってた」
 凛は唇を若干上に上げて、なんとも言えない顔をしている。なんか男の人ってよく分からないんだよねぇ、と以前言っていた時も同じ顔をしていた。俺から言わせれば、男ほど単純で機械的な生き物はいないのだが。俺たち男が考えることは三つしかない。腹が減った、ヤリてぇな、そして自分が意識してしまう男性に対して「俺は勝っているか」。この三つしかないのだ。
 全然会話が噛み合わないのは、男の病としてはあるあるの症状だ。男というのは競争社会に晒されて、常に「強くあらねば」という意識を幼少期から植え付けられる。故に、弱音を吐くことは許されない。弱音を吐くことが許されないと、自分の感情を心の奥底に追いやる。そして心の機微に鈍感になる。鈍感になると、目の前の相手の機微を把握することができない。すると、相手の表情や声色、言葉選びから「相手の意図や心理を察する」ということができなくなる。そうして「会話が噛み合わない」「喜怒哀楽の感情表現が苦手」「相手に関心を持って、相手に踏み込んだ会話をしていく」という、当たり前のコミュニケーションが取れないロボットが大量生産されていくのだ。
 このフェラーリ男も、さぞ「男らしくあれ」という圧力の中で生きづらさを抱えているのだろう。凛から見せられたLINEのやり取り画面を見れば、この男のコミュ障具合、そして生きづらさが痛いほど伝わってくる。気持ちわりー、と言って凛と一緒になって笑ってしまうのは簡単だが。根底には同じ病巣を抱えている同志として、心の底からバカにして笑うことができない。
「このフェラーリ男は、凛が忙しいのは知ってるんだよね」
「うん」
「じゃあ、『お誘いありがとうございます! すごく行きたいんですけど、今仕事が立て込んでて……』って、返信するといいよ」
「うーん、でもそれだと『いつ頃なら行ける?』って言われないかな」
 凛の懸念はもっともだ。まともな男ならこの返信が女性から来た時点で、「脈なしだな」と分かる。女性側としても本当に行きたいのであれば、『xx日以降なら行けると思うんですけど』と、代替案を出してくるからだ。それがないという時点で、『あなたに時間を使う予定はありません』ということなのだ。
 このフェラーリ男は、確実にそんな女性の心理を察することなどできない男だ。だから、凛の懸念はもっともなのだ。だが、フェラーリ男の文面を見ると、その文字からは男としてのひ弱さが露わになっている。金や地位などで武装した男であればそれを根拠に女性にガツガツいくスタイルの男が多いはずなのだが、このフェラーリ男はおぼっちゃまだからなのか、そういった無神経な野生的スタイルを持ち合わせていないのが、彼が打つ文字からふんだんに伝わってくる。だから凛から『お誘いありがとうございます! すごく行きたいんですけど、今仕事が立て込んでて……』と返信が来た際に彼が感じることは、「なんか断られた。じゃあいつなら空いてる? って聞きたいけど、それを聞いたらなんかしつこいとか思われるかなぁ」という、彼の風貌のような、これまた絶妙に的外れな受け取り方をするだろう。だからこそ、彼のプライドを刺激しない程度の、これぐらいの返しでいいのだ。俺は凛に回答する。
「大丈夫だよ。フェラーリ男からはたぶん、『了解! 忙しいんだね。また何か手伝えることあったらいつでも連絡して!』みたいな感じで返ってくるから」
「そうなんだ。なんか想くん、すごいよね。いつもこういうの当ててくれるから」
 ふふ、と凛が笑っている。大きな愛らしい目をふにゃっとさせて、楽しそうに。
 この瞬間に、俺は陶酔感を覚える。女性から認められた、という情けない承認欲求が満たされる。ずっと、母親や祖母、姉からもらえなかった愛着を、この瞬間だけはくれるような、そんな錯覚を覚えさせてくれる。女の子は怖い。心底恐ろしい。男とは違って、簡単に心を再起不能にしてくるからだ。女性から好かれたい、認められたい、愛されたい。それに取り憑かれている俺は、凛が見下げて蹴散らすフェラーリ男各位と同レベルの男なのだ。ただ表面的に繕うのが、不器用なその他大勢の男よりも上手いだけ。
 だが今この瞬間だけは、その他大勢の男たちに圧倒的勝利を収めている陶酔感に酔わせてほしい。人生の成功者たちが欲しがるこの美女を、俺は手に入れている。
 俺の右腕に身体を押し当てているこの女性は、俺がこんな情けない男だと知ったら引くだろうか。凛は鋭い女性だから、もう既にバレているだろうか。バレているのだとしたら、なぜ俺と付き合ってくれているんだろう。
 ぼんやりとプールの景色を眺めていると、凛が立ち上がった。そして俺の手を引いて言った。
「寒くなってきたし、そろそろ戻ろ」



2022年7月29日 23時04分
東京都港区芝公園 東京プリンスホテル
幾多 想 28歳

 ついにきてしまった、この時間が。プリンスホテル10階のアッパーフロア。広めの室内に、キングサイズのベッド。ベッドに横たわりながら、壮観、と言うと大袈裟になってしまう芝公園付近の夜景を見る。男であれば至福の時間だろう。バスローブを着て赤ワインを片手に、シャワーを浴びる彼女を、夜景を見下ろしながら待つ。そんな映像を、親たちが見る映画や、父親が書斎にて保有する書籍で何回も見た。そして、艶かしい肌を露わにした、男を狂わせる匂いを放つ美女が背後からゆっくりと男の元に近づき、キスをする。そして夜景を見下ろしながら、女性を後ろからガンガンと突き上げて男の支配欲を満たす。一度試しにやってみたことがあるが恥ずかしくて、全く興奮できなかった。その当時の彼女にも内心、なんか可愛いわねと笑われていたのだろう。
 今日はそんなことはしない。そもそも10階でそんなことをしたら通報されそうだし。そもそも俺は、心中穏やかではないからだ。シャワーを浴びている凛を待っているこの時間、なんともいえない重圧がじわりじわりと、俺の臓腑を揉みしだくからだ。
 だが、いつもよりは安心している。今俺を苦しめている側頭部の痛みと引き換えに、興奮していなくてもギンギンに勃つ薬を飲んだからだ。これで特に必死に頑張らなくても、普通に事が済む。だが己の自尊心はもう、すでにボロボロだ。何が悲しくて、20代の男がそんな薬を処方してもらいにクリニックに行かなくてはならないのか。クリニックに行った際、スタッフが全員男性だったのがせめてもの救いだ。一人でも女性の目に晒された日には、情けなさすぎて一日中寝込むところだった。だが男性医師に症状を聞かれて話した時には、やはり自分の男としての無能さに打ちのめされてその日は寝込んでしまった。
 そんな情けない回想をしていると、ふわっといい匂いが漂ってきた。凛がシャワーを浴び終わり、こちらに歩いてきている。がっつり髪を洗う、顔を洗うではなく、さっと体を流しただけなのだろう。完璧なメイクが施されたままだ。女性はいくら彼氏とはいえども、いや彼氏だからこそか、その鎧を寝るその時まで解除することはない。その努力と徹底さに頭が上らない。
 凛はベッドの上に横たわる俺を通り過ぎ、窓際の椅子に腰掛ける。そしてスマホの画面を見て、ふふ、と笑っている。
「すごい、ホントに想くんの言った通り」
「ん」
「高山さん、フェラーリの人。『そっか、大変だね……また何か手伝えることあったらいつでも言って!』って」
 ハハハ、と声を出して笑ってしまった。下品な笑い。男が考える3つのうちの「自分が意識してしまう男性に対して、俺は勝っているか」のうちの一つが満たされた時の笑い。男というのは単純でわかりやすく、弱くて、情けない。何が、手伝えることあったらまた言って、だ。明らかに好意を抱いている女から受け入れられないのに、そんな紳士ぶって、情けない。そんなのお前の本音ではないだろうに。自分という素晴らしい男に気づかない女など構う必要がないのだ。そう、俺は他人の分析と批評だけは一丁前なのだ。
 いつもは頃合いをみて俺から凛に近づいていく。だが俺は、なんだかもう少し横たわっていたい気持ちだった。
「今日、疲れちゃった?」
 凛が優しい声で俺に問う。窓からさす白い月光が、凛の雪のような肌をさらに引き立てている。
「いや、大丈夫だよ。そう見える?」
「なんか写真とか、今日もいっぱい付き合わせちゃったから」
「ああ、全然」
 大丈夫だよ。俺はもう、あなたに嫌われることが怖すぎてがんじがらめなので。
 意識して作った穏やかな表情を凛に向ける。意識している感、が凛に見透かされているのだろうか。心なしか、唇が少しキュッと閉じられ、眉尻が若干下がっているように見える。なんともいえない表情。凛はしばらく俺を見つめた後、ゆっくり立ち上がった。一向に彼女に向かって近づいてこない彼氏に、今、何を思うのだろうか。表情だけでは読み取れない。凛の香りが一歩ずつ、近づいてくる。甘い、花のような香り。官能的で、男の知能を猿並みに後退させる魔性の香り。少しずつ鼓動が早くなる。これは多分、薬の影響だけではない。
 仰向けの俺の上に、凛が覆い被さった。胸の柔らかい感触が突き刺さる。首筋から香る匂いに、頭がくらくらする。人生の成功者に勝った高揚感とあいまり、薬の効き目がもろに出ている。陰茎に過剰なほど血が回り、硬くなりすぎて少し痛い、という懐かしい感覚を覚える。その暴れ馬は凛の弾力溢れる尻に刺さってしまった。ふふ、と小さく、無邪気に凛が笑った。
 
 凪のように穏やかな心中。こんなにも、途中でチンコが萎えたらどうしようという不安から解放されると心が穏やかなのか。常にタダラフィルという薬の副作用の頭痛がするのが難点だが。だがその痛みは、心の痛みをなんだか誤魔化してくれるようでありがたかった。残る懸念点は、ちゃんといけるかどうか。だがその心配も今日はなさそうだ。凛の、いつも以上に官能的な声が部屋に充満し、脳髄を貫くからだ。
「あ……やば……」
 いつも以上に顔を歪める凛に、いいしれぬ快感を覚える。反り返った硬いモノが出し入れし、膣内の肉壁を押し広げていい場所に当たっているのか。それとも、「今日はそんなことに囚われないで」という、凛の優しさだろうか。猿同然の動物と化した今は、もうそんな判別はつかない。甲高い嬌声ではない、低く、少し唸るような凛の声がすごくいい。
 凛の優しさに包まれて、頭痛が和らぐ。胸の息苦しさも、心なしか和らいでいる気がする。俺の下で、裸で服従してくれている凛が手のひらで顔を覆った。その両手首を持ち、枕元に固定して顔を露わにする。幼少期から刷り込まれた「男は泣くな」「男は強くあれ」「女を服従させろ」を、これ以上なく満たしてくれる瞬間。凛は顔を横に向け、表情を見られたくない、恥ずかしい、という、これまた男を興奮させる仕草をしてくれる。そして俺は台本をなぞるように、凛の顎に手を添えて、俺の顔と相対させる。そしてじっと、瞳を見る。俺の要望を察し、凛も恥ずかしそうな表情を絶やさずに、俺の視線に応じる。台本をなぞり、二人で創り上げていく過程は最高だ。この上ない安心感と、全てを察して寄り添ってくれる凛への愛おしさが、俺を容易に快感の奴隷へと仕上げる。一番反応がいいと思われる角度と強度を一定に保ったまま果てた。
 
 意識が朦朧とする。体が痙攣したあと、凛の胸に倒れ込んだ。すごく良かった、というメッセージを、いつも以上に俺を強く抱きしめることで凛が発してくれる。その安心感がさらに麻薬のように、意識を茫々とさせる。
 しばらく凛に守られていたが、次第に頭痛が戻ってきた。心の痛みもしっかりと意識して感じるようになってきた。その上、首を締め付けるような息苦しさも。そんな俺の様子とは対照的に、凛は穏やかな表情のままでいる。俺は凛の胸から離れ、仰向けになった。すぐに凛は俺に近づき、俺の腕と胸にくるまれた。そして再び、俺を強く抱きしめた。
 重圧。自分がしてしまった過ちに、今更ながら気付かされた。今日頑張ってしまったこのセックスが新たな基準点になるのだ。今後は毎回ここを到達し、かつ時折最高点を更新し続けないと、凛の満足度は保てない。つまり俺はもう、老人たちと同様に薬漬けにならなければ女性から愛されないのだ。
俺はこの先ずっと、このまま副作用による頭痛の奴隷となるのか。副作用により血流が増長し、血管が破裂するイメージが脳内でつくられる。恐ろしい。苦しい。息がつまる。
 だれか、助けてくれませんか。なんだかすごく、死にたいんです。



1999年8月30日 17時52分
群馬県太田市 幾多家
幾多 想 6歳

 夕方を迎え、辺りは暗くなり始めている。太田の周りは田んぼと畑がどこまでも広がり、澄んだ空気を吸い込める。だが、全然心は晴れやかにならない。この太田の集落は、死ぬほど居心地が悪いからだ。この集落の人間は全員狂っている。とりわけ幾多の家の人間は、祖父の恭司を筆頭に皆の気が狂っているのだ。
 日中の茹だるような暑さからは解放され、少しだけ涼しくなっている。陽が落ち始めており、視界がだんだん暗くなる。3000平米はあろう広い敷地内の、ほぼ真ん中に聳える大木。その大木には、一時間前から縛り付けられている姉の小夏(こなつ)の姿がある。
 虐待。いかなる理由があろうとも、子供の尊厳を傷つけることは死罪に値する。こんな、一生の傷を残す愚行がこの太田では平気で行われている。暗くなり始めた視界の中に、3歳年上の、9歳の小夏が木に縛られている姿が浮かび続けている。母親の涼子に似た、整った顔立ちの小夏。母親よりも少し目が吊り上がり、意志の強さをうかがわせる強い目。だがその強い目も今は生気を失い、頭が少しだけ下がり項垂れている。
 なぜ、小夏は縛られているのか。この光景は何度か見ているが理由が良くわからない。その縛られる前後の光景も全て見ていたが、それでもわからないのだ。
 小夏は俺のことが嫌いだから、いつも通り俺を虐めて泣かせていた。今日のいじめは、「二人で使いなさい」と言われたゲームボーイ(携帯型ゲーム機)の、ポケモンのゲームをいつまで経っても小夏が俺に貸してくれない、といういじめだった。俺が文句を言ったら、小夏は俺を殴った。9歳の女の子にしては体が大きめだった小学生の小夏に、幼稚園児の俺が敵うはずもない。何度も何度も、小夏は俺を殴った。俺が泣いても殴り続けた。途中でそれに気づいた母親の涼子が俺を抱え上げて、小夏を責めた。小夏は、誰の目から見ても弟が「幾多家の長男だから」という理由で優遇されて、自分は蚊帳の外で愛情を注がれていない状況に悲痛の叫びをあげていたのだ。当の俺からしても、小夏が可哀想になるぐらい、幾多の家の人間は俺ばかりを可愛がった。まだ幼い、無上の愛が欲しくて欲しくてたまらない小夏からすれば、四肢が引き裂かれるような感覚だっただろう。自分を誰も愛してくれない、そしてそれを求めれば倍になって返り討ちにされる。叱られるという名目で。虐待という名目で。小夏は精神的におかしくなり、不登校になっていた。うつ病も発症していたのではないか。この頃は目つきが、死んだように堕ちたと思えば、人を殺すのではないかと思うほど攻撃的になる時がある。その落差にいつも戦慄させられる。
 そんな小夏の叫びを、人間としての機能が欠落しているこの幾多家の人間は誰も気づかなかった。一番愛情を注ぐべき母親の涼子も、「なんでお姉ちゃんなのに弟をそんなにいじめるの」という、愚の骨頂と言うべき見当違いな叱り方をしていた。それは小夏の、膿んだ心の傷口に指を突っ込んでぐりぐりとかき回す行為だ。だから、小夏は憤慨した。ちゃんと私を愛して、という主張が届かないなら、もっと過激な行為に出るしかない。小夏は家を飛び出して、幾多の敷地に駐車してある白の軽トラックに石を投げ始めた。窓ガラスは割るまい、と理性が働いたのだろうか。うまく窓に当たらないように、軽トラのボディだけに石を、ひたすらに当て続けた。がん、がん、と夕方の田舎町に、軽トラのボディが傷つけられる音が空しく響く。やめなさい、と涼子が叫んでも、小夏は一向にやめない。騒音を聞きつけた祖父の恭司が発狂し、どかどかと熊のように小夏に向けて走り、小夏を殴った。怒鳴りながら、何度も何度も小夏を殴った。そしてそれだけでは満足せずに、小夏を木に縛りつけた。
 それから、一時間ほどが経過して今に至る。俺はその光景を全て見ていたが、なぜ小夏がこんな目に遭わされるのか理解できなかった。そして心底、この家の人間たちは恐ろしいと思った。俺も奴らのいうことを聞かなければ、このような人間以下の扱いを受けるのだ。
 一年前、木に縛られていた小夏の縄を解こうとしたことがある。祖父の恭司がきつく縛った縄は、幼稚園児の俺が解くことはできなかった。縄を解こうと奮闘している俺を見かけた祖父は、俺に対して怒鳴った。「おい」と、ただそれだけを発した。俺が長男だからだろうか、殴ることはしなかった。祖父は、なぜ縄を解こうとするのかダメなのか、理由は当然言わなかった。
 俺は小夏に愛されたかった。姉に愛されたかったのだ。俺がまだ3歳ぐらいの時は、小夏は優しかった気がする。朧げな記憶しかないが、頭を撫でてくれたり、一緒に遊んでくれていたような気がする。優しく、愛情深かったはずの姉に、俺は愛されたかったんだ。
 もうジジイに殴られてもいいや。そう思い、恐る恐る大木に近づいていった。辺りを見まわし、祖父や他の人間の気配がないことを確認する。縄を解く練習はしていたから、今度こそは解けるはずだ。
 ゆっくり近づいていった。姉は俺の気配に気づいているはずだが、一向に顔を上げない。とうとう姉の目の前に来たが、それでも姉は項垂れたままだ。息づかいは聞こえるから、死んでないはずなのに。それでも微動だにしない。勝手に縄を解こうとすると姉に怒られるかもしれないから、ちゃんと了解をとりたかったのだが、姉はこちらを見向きもしない。
 じゃあしょうがないか。と思ったその時、体が後方に飛んだ。姉がキッとこちらを睨んだ瞬間に、体が後方に飛んでいた。頭から地面につき、クラクラした。下腹部を蹴られたのだと、飛ばされた後に気づいた。
 痛い、という感覚よりもショックの方が大きかった。何倍も。姉を助けようとしたのにそれを拒絶された。でもそれよりも、こちらを睨みながら大粒の涙を流しているその顔にうちのめされた。
 怒りに震えながら、小夏は言った。
「……あんたなんか、死ねばいいのに」 



1999年9月2日 19時28分
群馬県太田市 幾多家
幾多 想 6歳

 日中の暑さはすっかり消え失せ、穏やかな夜が訪れている。だが、この幾多家に、穏やかな時間などありはしない。広い屋敷の、広い畳の居間。窓を開けており涼しい風が吹き込んできているはずだが、鬱陶しい老人たちの騒ぎ声が邪魔をしてそれが感じられない。畳の居間の大きな掘り炬燵は、真夏なので炬燵用の布が取っ払われており掘り炬燵はただの空洞と化している。その空洞に、当主の幾多恭司とそのしもべの老人たち3名、そして仕事が休みの父の隆之(たかゆき)が座って下品な笑い声を飛び交わせている。今日は、不定期に開催される近所の老人たちの集い。そこにはなぜかいつも、俺も同席させられる。空洞のこたつに、人間としての情緒のない空洞のような生き物たちが陳列している。動物たちの騒がしさにうんざりして天井を見る。天井を見た後、壁に目を移すと、幾多家の家紋と歴代当主の白黒写真が壁に設置されているのが目に入る。ぼんやり過ごしていると、酒や料理を運び込んでくる祖母のシマの姿も目に入る。相変わらず、召使い同然の扱いだ。
 想は年中、小夏に泣かされている。
 祖父の恭司が、なんの流れかはわからないがその旨の発言をした。この幾多家の敷地内には二つの家がある。一つは今俺がいる屋敷。二つ目は、隆之が建てたピンクの屋根の現代風の家。小夏と想があまりにも仲が悪い、ということで小夏は隆之が建てた家に母親の涼子と、そして俺は基本的にはこの屋敷に住まわされている。隔離されたのだ。そして夫婦仲が最悪の隆之は、自分が建てた家に帰ることはなく、この実家の屋敷にて寝泊まりをしている。情けない男だ。
「想は頭はいいが、弱くていかん」
 祖父の恭司が吐き捨てた。汚い皺を寄せ集めながら、酒を飲みながら苦々しく吐き捨てた。
「まあまあ。大将もまだ小さいですからね」
 恭司の舎弟のジジイが、誰も望んでない下手なフォローをした。他の舎弟たちもうんうん、と頷いている。
「男が年中泣くもんじゃない。わかったか」
 恭司は俺を睨みつけて言った。
「はい」
 俺はただ、機械のように返答をする。それでまた別の、俺は昔すごかったんだ話に移ると思ったのだが、恭司は話を変えなかった。
「次また殴られたら、殴り返してこい」
「……はい」
 家族の会話は、ここにはない。あるのはただ支配する者と、支配される者の命令と受諾だけだ。
 恭司は、まだ苦々しい表情をしていた。俺を睨みつけていた目線は、息子へと。俺の父の隆之へと向けられていた。
「こんな弱々しいので、大丈夫か。幼稚園でいじめられたりしてないだろうな」
 恭司が隆之に問う。どこまでも馬鹿なじじいだ。隆之なんてほとんど俺と関わってないのに、俺のことがわかるはずがないだろう。案の定、隆之は戸惑いの表情を浮かべている。
「まあ大丈夫だよ。男からやられたら、ちゃんとやり返せるもんな」
 隆之は、俺の顔を見て笑った。眼鏡をかけた167cmほどの低身長、肥満ぎみの中年男。昔はシュッとしていたらしいが、今は見る影もない。子供のことを何も知らないのに、なぜそんな無責任な発言ができるのだろう。そういう無神経さと甲斐性の無さが、美しい妻を不倫に走らせているということが多分死ぬまで分からないのだろう。
「全く、女なんかに泣かされやがって。来週からなんかやらせるか」
 恭司が下僕たちの顔を見た。下僕の一人が応じる。なんか、というのは格闘技の類だろう。
「ああ、それなら今田のやつが、この前空手の道場開いたんですよ。そこなんかどうでしょう」
 今田、というのはこいつらの知り合いらしい。
「そうだな。ピアノなんか辞めさせて来週からそこに行かせよう」
 恭司が隆之に向けていう。隆之はわかった、と頷いた。ピアノは涼子が子供に習わせたいと言って俺に通わせていたのに。この家系では、女の意向などどうでもいいのだ。
「次姉ちゃんに会ったら、お前が姉ちゃんを泣かせてやれ。男はな、それぐらいじゃなきゃダメなんだ。いいな」
「……」
 返事はできなかった。ただなぜか、返事をしなくても恭司は怒鳴らなかった。ただ酔っ払って朦朧としているからなのか、アルコール依存症による幻聴で、俺が返事をしたように聞こえたからなのかはわからない。
 女を泣かせるのが男なのですか。
 そう問いたかった。だが問うたところでどうなるものでもない。だが怒りという名の刃は、さくさくと小気味よく俺のこころに刺さっていった。

 話は変わり、また俺に関係のない話が延々と続いた。早く解散にならないかな、と思った。度々居間に現れては消える祖母のシマに、助けて、と目で訴えかけたが無神経な祖母に汲み取ってもらえるはずもなかった。
 およそ何の意義も生産性もない話の中で、涼子の名前が出てきた。
 涼子と隆之は、仲睦まじい様子など見たことがない冷め切った夫婦だった。たまに顔を突き合わせれば言い争いが絶えない。だが最近は、その言い争いがさらに激しくなっていた。思わず顔を顰めるほど激しい怒号が飛び交い、見ているこちらが動悸がするほどの激しい喧嘩。
 涼子は夫の反対を押し切って、日中は働きに出るようになった。ちょうど隆之は自身が経営する会社が倒産して、恭司に負債を立て替えてもらったところで「俺がお前を養ってやっているんだ」というカードが切れない状況だった。涼子への支配力が激減したところを涼子が突き、涼子は本来の自分を取り戻していった。過剰な家事から解放され、33歳という若さの涼子は再び美しくなっていった。以前は田舎の子持ち妻を体現するような服装をしていた涼子だったが、体の線が出るペールベージュのニットワンピースに身を包むようになった。スニーカーではなくヒールを履くようになった。外から帰ってくる涼子からは、甘いフローラルの香水の香りがした。荒れていた手も綺麗になり、爪は3〜4週間に一度デザインが変わった。
 気持ち悪かった。母親と思っていた人は、実は女性だったのだ。子供の優先順位など低く、より優秀な雄を獲得せんとする雌だったのだ。以前はベタベタと俺に触れてきていた涼子は、全く俺に触れなくなっていた。
「ありゃあ、とんでもない悪妻だな」
 恭司がまた、憎たらしい顔で吐き捨てた。恭司は、涼子が不倫していることまでは知らないだろうが。嫁いだ女があんな色気づいてどうしようもない、ということなのだろうか。そして隆之も同調し、いやほんと、失敗だったなあと下品に笑って応じていた。そして不在の妻の悪口を、息子の前で散々言い放ち盛り上がっている。
 全員、死ねばいいのに。
 そう強く思った。
「想はな、ああいうママみたいな女はダメだぞ。ああいう派手な女はダメだ。もっとこう、お淑やかなで真面目な女じゃないとな。想が結婚するときには、パパがちゃんと見極めてやるからな」
 酒で顔を真っ赤にした隆之が、ドブのような匂いの息を吐きかけながら俺に言ってきた。何かがこころの中で切れた。
「なんでですか」
 下を向きながら、そう呟いた。手が震えている。喉が渇く。怖い。
「……」
 下品な笑いに興じていた男どもが静かになった。
「なんで……ママはダメなんですか……」
 情けない。涙が止まらない。涙と嗚咽で声が震える。隆之の顔は見えないが、呆気に取られているのか何も声を発さない。
「女は男のいうことを聞いて、家を守るもんだからだ」
 恭司が冷たく言い放った。
「また泣きやがって。お前はちんこがついてねえのか、どうしようもねえガキだ」
 祖父はそう言って、また酒をあおった。いつも愛想笑いをする下僕どもの愛想笑いが聞こえない。場が静まり返っている。下を向いていたが、視界の端に祖母の足が映った。また何かを置きに居間に来たらしい。
「女はなんで……男の言うことを聞かなくてはいけないのですか」
 震える声で呟いた。子供が泣いていると言うのに、誰も駆け寄らない。誰も背中をさすらない。誰も、心配の声をあげない。
 丸めたおしぼりが飛んできた。丸まったおしぼりは途中で開き、俺の頭に被さった。恭司が俺に向かって投げたのだ。全く痛くなかったが、こころはものすごく痛く、苦しくなった。
「うるせえな。そんなもんはな、殿様の時代から決まってることなんだよ」
 いつもシマや小夏に向かって放たれる怒号が、俺に向けられた。体全体が地震そのものになったように、びく、と体が震える。恐怖が全身を包み、震えは一向に収まらない。
 想ちゃんが可哀想、ではない。このままでは恭司が怒り狂ってどうしようもなくなる。そう思ったのであろうシマが俺を急いで抱え、居間から俺を連れ出した。
 大丈夫、想ちゃん。ごめんね。
 という類の言葉は、祖母から一切もらえなかった。



2022年8月02日 21時34分
東京都町田市 カリヨン広場
幾多 想 28歳

 凛とナイトプールに行ってから数日が経過した。服薬による頭痛は一日で治まったが、首を何かに絞められるような感覚はずっと続いている。今は町田市に存在する依存症回復施設に寄った後、町田駅前のカリヨン広場にて一服している。コンクリートの床で整えられた、ちょっとした広場。銅像やベンチがあり、お世辞にも綺麗とは言えない場所。タバコの吸い殻や酒の空き缶がところどころ捨てられている。目の前に交番があるにも関わらず、浮浪者のような風貌の老人が数名いるのをよく見かける。俺はかろうじて、携帯灰皿に灰を落としている。
 夏の夜、町田駅前は人で賑わっている。客引きをしている女の子たちに、仕事帰りと思われる人々。中には、顔を真っ赤にして騒いでいるサラリーマン集団もいる。ぼーっとその光景を見ていると、客引きの女の子にサラリーマンたちが声をかけられている。キャバクラ、いやガールズバーだろうか。サラリーマン集団は女の子たちと話した後、一緒に大通りから路地に消えていった。
「なんでああいう店に行くんだろうなあ」
 図太く低い声が耳に入ってきた。ギョッとして右方を見ると、いつの間にか大柄のヤクザのような中年男が隣に腰掛けていた。全身黒のスーツに身を包んでおり、ジャケットの胸、上腕筋あたりがぱつぱつになっている。相当の筋肉量。浅黒い顔に、多少しわが刻まれている。やけに肌艶がいいのが気味が悪い。年齢的には50代前半、といったところか。
 独り言にしては大きな声で呟いた中年男は、俺の視線に気づいているはずなのにこちらを向かない。ちょうどタバコを吸い終えた俺は、携帯灰皿に吸い殻を押し付けて立ち去ろうとした。
「たぶんあの冴えない感じだと、まず口説けないだろうに。なあ?」
 中年ヤクザは、今度ははっきりと俺の方を見て言った。表情には薄ら笑いが浮かんでいる。狙いが分からない。関わるべきではない。だがなぜだろう、図太い声の中には、あまり感じることのない人間臭いものがあった。情緒あふれる、温かみのある声。
「冴えないから、行くんでしょう」
 俺は立ち去ろうとする動作を一旦止めて、その場に留まった。中年の問いに応えた後に、男の顔を見た。男は相変わらず薄ら笑いを浮かべている。
「なるほどな」
 中年男は特に俺の回答に、何ら感じるものはないという顔をしている。
「男たちは口説こうと、必死になって努力する。金も時間もありったけを注ぎ込む。なんでだろうなあ」
 中年男は今度は俺から目を逸らして、再び前を見ながらいった。胸ポケットからセブンスターを取り出し、火をつけて美味そうに吸い始めた。多分、俺がまた回答するのを期待しているのだろう。だから俺は応えなかった。何もこの男が話さないのならもう帰ろう。そう思った時に男はまた口を開いた。
「頑張れば女の子が振り向いてくれる、とでも思っているんだろうか」
 今度はこちらの顔を見ながら問うてきた。
「でしょうね」
「でも頑張れば頑張るほど、女の子は振り向いてくれない。なんでだろうか」
「その頑張っている様が、女性を冷めさせるのでは」
 そう応えた時に、すごく嫌な気持ちになった。澄ました風を装い、誰よりも気を張って頑張ってしまっている男は誰だ。
 視線を感じたので、中年男の方を見た。案の定、中年男はこちらを見て薄ら笑いを浮かべている。癪に障る男だな。再びマルボロゴールドを取り出し、火をつけた。
 中年男から、憎たらしい笑みが消えた。穏やかな顔に変わった。
「くるしいだろう」
 強く、やさしい声で呟いた。見た目との差がありすぎるその所作に、居心地の悪さを覚える。
「いいえ。万事、上手くいっております」
 ひねくれたガキのように応じる。努めて、穏やかにこちらも応じる。その様子はさぞ、この中年男には痛々しく映っているだろう。
「人間が言葉で伝えるものなんて、ほんの一部でしかない」
 また男はぼんやりと前を見たまま、タバコを吸っている。
「言葉以外の全てで、人間はそのありようを雄弁に語っている」
 男は俺に説教するような口調とは正反対の、自分に言い聞かせるような口調で言葉を発した。だから、お前のことなど全てお見通しだ、ということか。
「おまえはもうすぐ、死ぬのか」
 中年男は、こともなげに言った。なんてことない質問をするかのように。
「俺はもうすぐ死ぬのですか」
 質問に質問で返した。悪意はない、純粋に気になったのだ。男はふふ、と笑い、穏やかに、子供に向けるような優しい顔を俺に向けた。
「剣山のように刃が刺さっているぞ。おまえのこころにな。親への恨み・怒りという刃が」
「なぜそんなことが分かるのですか」
「言っただろう。言葉以外で人間は雄弁に語っている。お前のカラダはもう、全身で悲鳴をあげている」
「……」
「誰かに頼ること。こころに刺さった刃を全部、抜き取ること。これをしないとお前は、首を括る」
 中年男はそう言うと、ちょっといいか、という仕草をして俺から携帯灰皿を取った。そして自分の吸い殻を入れて火をもみ消した。悪いな、と言って立ち上がる。
「俺は大神(おおがみ)。お前がここに来たくなった時に、いつでもいるからな」



10

2022年8月03日 12時53分
 東京都町田市 依存症回復施設
幾多 想 28歳
 
 何だったんだ、昨日の男は。大神というヤクザのような大男。怪し過ぎるが、人生の中であれほど他人に見透かされたことはない。他人に見透かされるというのはこの上なく不快なことであるが、なぜかあの男に対してはそういう感覚を覚えなかった。もっと、見透かせるものなら見透かしてみてほしい、俺自身が見えてないものを提示してほしい、と思ってしまっている自分が気持ち悪い。女々しい。女々しさとは、男にとっては死を意味する。「男らしく生きろ」と男たちから言われて生きてきた。「男らしい人が好き」と女たちから言われて生きてきた。だから、男らしくあらねばならぬのだ。だから女々しさとはもっとも忌むべき事態なのだ。
 今日は珍しく昼間に、自身の運営する施設に来ている。いつもは夕方、利用者たち(依存症者本人たち)が帰宅後に施設に来るのだが、日中に処理すべき事務があり施設に来ている。100平米ほどの広さの、こぢんまりとした一軒家の施設。一階には20名ほどが座れるプログラムルームを用意しており、利用者たちはスタッフと共に、その部屋で主に過ごす。ミーティングと称される、互いの今までの人生での苦悩を分かち合うプログラムをメインに、日々自身のこころの病と向き合う。
 急ぎの用事を終えて、一服しようと喫煙ルームに入った。そこには案の定、大柄肥満男の小林と、その下僕一匹がいた。もう一人の下僕の姿は見えない。
「あれ、珍しいっすね」
 小林が俺を見るなり声をかけてくる。無神経な男特有の、相手を刺すような語気の強さと息の吐き方。本人は無自覚であるのがタチが悪い。こういう声の出し方をする奴は大嫌いだ。男というのは声の出し方や言葉選びひとつをとっても、無意識に相手を威圧して自分を守ろうとする意志が働く。常に他者を威圧して自分を守っていないと自我を保てない、誰よりも弱い生き物なのだ。
 小林の発した声に、ええ、と適当に返し煙草に火をつける。特に取り合おうとしない俺に追随せず、小林は下僕との会話に戻る。
「あ、お疲れ様です」
 喫煙所の入り口を見ると、小林の下僕のもう一匹が入ってきた。下僕は俺に向けてぺこ、と挨拶をした後小林のもとに合流した。この下僕は午前中は定期通院のため欠席しており、今しがた施設に通所したようだ。
「おー、お前昨日どうだった?」
 小林はその午後出勤の下僕を見るなり声をかけた。
「いやー、結局ダメでした……」
 午後出勤下僕は頭をぽりぽりかきながら、たばこに火をつけて苦笑いをしている。んだよだらしねぇな、と小林は笑っている。え、なんですか、と元々いた下僕が小林に問うている。どうやら小林と午後出勤下僕の2名は夜に町田駅付近のカラオケ店にて女の子二人組をナンパしたらしい。4名で盛り上がった後、それぞれ分かれて家に連れ込んだ、とのことだ。この二人は、というかうちの利用者の9割方がそうなのだが、生活保護受給者なのだ。要は、「働けないから、働けるようになるまでの療養」という名目で国からお金をもらい、それで生活をしている身分なのである。だが実態はこうして遊び、家賃4万円程度のワンルームアパートに女性を連れ込む、ということをやっている人間たちもいる。国民の税金が彼らの食糧とラブホテル名目の空間に使われている。
「なんでダメだったんだよ。いい雰囲気だったじゃん」
 小林が午後出勤下僕を追求した。
「いやー、いけたはいけたんすけどね……」
 なんだか恥ずかしい、という顔を午後出勤下僕がしている。
「その、勃たなくて……」
 午後出勤下僕が、消え入るような声で言った。その様子を見て、小林ともう一人の下僕が爆笑している。小林はヤニで黄ばんだ汚らしい歯を剥き出しにして、猿のように笑っている。
「んだよ情けねーな! 俺なんか二発出してやったぞ」
 小林が得意げに笑っている。こんな男に裸で服従するような女というのは、一体どんな生物なんだろうか。
「いやー、昨日はちょっと」
 と言いかけた瞬間、あ、と午後出勤下僕が言った。俺はその瞬間、一瞬視線が俺の方を向いたのを感じた。そして午後出勤下僕は言いかけた言葉を引っ込めた。その引っ込めた様子と。小林たちも、あ、やべ、という感じで一瞬静かになるのも見逃さなかった。
「昨日は飲み過ぎちゃいましたか」
 俺が午後出勤下僕に問うた。午後出勤下僕は、え、あ、いや……と自白同然の動揺を見せる。小林の面を見ると、太々しくシラを着るように、あさっての方向を向いてタバコを吸っている。アルコール依存症者は一度飲酒したら、基本的には酒が止まらなくなる。渇望現象が起こり、頭の中は酒で一杯になる。もちろんプログラムは入らず、毎日度を超えた飲酒、という習慣が再開する。だから、我々の施設では基本的には一度飲酒したら入院して解毒してもらうことになっている。
「いいご身分ですね。大してプログラムにも取り組まずに飲んだくれて」
 俺は午後出勤下僕に詰め寄る。アルコールチェックをすれば飲酒したかどうかはわかるが、昨日の夜から時間が経過し過ぎているからおそらく反応は出ないだろう。税金でのうのうと暮らし、本来取り組むべきものには真面目に取り組まず酒を飲んだくれて、女のケツを追っかけまわす。殺意が湧くのは俺だけだろうか。自分が男という呪いに囚われて、セックスに対してコンプレックスを抱いているから、という超個人的な劣等感で苛立っているだけなのだろうか。
「いや本当に、飲んでないです……」
 午後出勤下僕は俯きながら、蚊の鳴くような声で言った。午後出勤下僕も、もう一人の下僕も、俺と目を合わせない。そして小林も同様に目を合わせず、微かにニヤけた表情でタバコの煙を吐いていた。



11

2001年9月8日 12時27分
群馬県太田市 幾多家
幾多 想 8歳

 夏休みが終わって一週間が経った。小学生にとって夏休みは残酷だ。7月下旬の終業式を終えて一気に天国に召されたと思ったら、8月末日には一気に地獄に落とされるからだ。その落差にこころが追い付かず、追い打ちをかけるような暑さによって軽い鬱状態から抜け出せていない。しかも今日は土曜日であるにもかかわらず、土曜授業ということで朝早くから登校させられていた。うんざりする土曜授業が終わり、今は小学校から自宅までの一本道をただひたすら歩いている。どこからともなく耳を刺す蝉の声が余計に今の気持ちを苛立たせる。アスファルトが太陽光を反射させて体を痛めつける。夏休みのほとんどは所属するサッカークラブの活動に費やしていたから肌は真っ黒に焼けている。
 苛立っているのは、友達と喧嘩したからだ。家庭内ですら人間関係を構築できない人間が、外で他人と友好関係を築くのは至難の業だ。今日も、数少ない友達と喧嘩してしまった。祖父の洗脳を律儀に守り、俺は「男」だから、徹底的に相手を痛めつけた。殴りに殴り相手の口や瞼が切れて血が流れていたが、保健室には連れて行かなかった。週明け、担任からひどく怒られるだろう。いや、今日の昼過ぎにでもそいつの親からうちに苦情の電話が来るかもしれない。だが残念ながら、うちには親としてそれを受け止めて反映させる担当者は不在だ。この話が祖父の耳に入っても「相手から手を出してきた」と嘘をつけば絶対に叱られることはない。
 学校と自宅を繋ぐ、ただひたすら続く一本道を歩き終えた。幾多の屋敷が現れ、庭に至るための、車一台分の幅の細い道を歩く。
 今日は母親の涼子には「友達の家でご飯を食べて、遊んでから帰ってくる」と伝えていた。その時の涼子の反応は特に冷たくもなく、決して温かくもなく「そう」の一言だった。この二年間は特に、涼子は気持ちに浮き沈みが激しい。躁鬱状態だったのだろう、痛々しいほど生き生きとしている状態と、精神病院に入院している患者のような覇気のない眼で佇んでいる状態を行き来する生活が続いていた。ここ数日はかなり堕ちている。
 涼子は俺が夕方に帰ってくるものだと思っているだろう。最近もほとんどの時間を涼子が暮らすピンクの屋根の現代風の一軒家ではなく、祖父母方の屋敷で俺は過ごす。だから昼飯はいつも通り祖父母方の方で食べて、夕方になったら一度、涼子の前に顔を出そう。
 と思ったのだが、見慣れない車があった。ピンクの屋根の家の前に、グレーの軽自動車が停まっている。何度か見たことあるその車は、涼子の両親の車だった。母親方の祖父母が、涼子が暮らす家に来ている。
「おじいちゃんとおばあちゃんに会える」という喜びは微塵もない。ただ胸騒ぎしかない。涼子の精神状態は普通ではないし、家庭の状態も普通ではない。俺が物心ついた時からずっとそうだが、この二年間は「冷戦」と呼ぶに相応しい状態が続いていた。父親と母親は滅多に顔を合わさず、たまに顔を突き合わせれば戦争のような言い争いをする。姉の小夏は涼子側の陣営、弟で長男の俺は幾多本家側の、祖父母側の陣営に引き取られていた。涼子とは一日に何度か顔を合わせるが、姉の小夏は自室に引き籠ったままだから全く顔を合わせていない。そんな冷戦状態の中で、涼子側の陣営の珍客が来ているというのは、俺からすれば良くない展開でしかないと思われた。
 祖父母側の屋敷には向かわずに、ピンクの家に歩みを進める。家のドアをゆっくりと開け、中の人間たちに気づかれないように侵入した。幸いにも涼子は泣いて大きな声で何かを発していた。だから、ドアが開いたことにも気づかないだろう。
 俺が物心つき始めた頃の、最初に出会った頃の母親はどこかに消えてしまった。優しく、慈しみに溢れた眼。今にして思えば支配欲を全面に出した狂気の眼差しであったのだが。その狂気を押し付け、抱きしめられキスをされ、ぬいぐるみとして可愛がられていた頃が懐かしい。そんな慈しみと狂気に溢れた母親はすぐに消えてしまい、だんだんと距離ができていった。
 一緒に風呂に入って、「いかに私が辛い思いをしてあなたを産んであげたのか」を力説することもない。「あなたは絶対に私を裏切らないわよね。パパじゃなくて、私についてくるわよね」と圧をかけることもない。一緒のベッドに寝て抱きしめられることもない。たまに出かけて手を繋いでもらうこともない。
 テストで98点を取っても褒められず、「なんで間違えたの」と言われるようになった。
 友達と喧嘩してその報せが涼子の耳に入った時に、頭を叩かれた。「なんでそんなことするの。またママ、謝りに行かなきゃいけないじゃない」と、心底気怠そうに言い放っていた。
 俺は頑張ったんですよ。あなたたちが「男らしくあれ」というから、嫌いな格闘技を習って。泣かされて帰ってくると怒鳴られるから、相手を痛めつけて泣かせて帰ってくるのに。なんで褒めてくれないんですか。「男らしい人が好き」なんですよね、あなたたち女性は。涼子さん、あなたも俺にそう言っていたじゃないですか。だから旦那の隆之ではなくて、不倫相手に走っているのですよね。男らしくあらねばそうやってすぐに、男を捨てるのですよね。だから男らしくあろうとしているのに、俺はどうすればいいのですか。
 急にいいしれぬ何かが頭を支配した。が、次第に視界はまた浮かび上がり、意識がピンクの屋根の自宅に戻されていく。ブラウンの木目調の廊下は、普通に歩けば物音が立たない。ゆっくりと歩みを進めていくと、涼子とその両親の、3人の声が聞こえる。姉の小夏の気配はない、2階の自室に引き籠っているんだろう。
 リビングの中で行われている会話が聞こえる。いよいよ離婚が成立するようだ。涼子の母親にあたる老人女性は、辛抱が足りないのでは、とこの後に及んでも涼子を責めるような発言をしている。口調は穏やかであるが、その実態は怪我人をナイフで刺しているようなもの。涼子の涙は止まる様子がない。35歳にもなって離婚してどうするんだ、そんな娘が実家に帰ってくるなんてみっともないじゃないか。世間的にどう見られるかわからない。しかも、再婚できるかどうかもわからないじゃないか。言葉はそうではないが、老人女性の腑はこの概念で埋め尽くされていた。涼子の父親にあたる老人男性の声は聞こえない。優しく見守る、というキャラクターではない。ただ、何も考えていないだけなのだろう。小難しい顔を取り繕ってはいるが、脳内はただ「面倒である」しかないこと、老人女性に言われたから同席しているだけなのであろうことは容易に想像がつく。
 だが会話は離婚前提で進んでいった。そして話は子ども達の話に移っている。涼子はまさか俺が聞き耳を立てているとは思ってないのだろう。あけすけに、実に生々しい内情を語っていた。なんでも幾多の家としては、小夏はいらないのだそうだ。その理由は詳細に語られなかったが、要は何の役にも立たないからだろう。学校にもまともにいけず、しかも女。だから、いらないのだ。いくら奴らが言葉を取り繕っても、その醜い人間性は誤魔化せない。
 だから、想は置いていけ。それが幾多家の意向なのだそうだ。長男だから、ただそれだけの理由で。俺という人間ではなく、長男という札が付けられた人形がなぜか幾多の人間は異様に欲しいようだ。もはや怒りも哀しみも、何も感じることができない。
「あの子はもう、しょうがないじゃない。長男なんだから」
 老人女性はそう言った。何の感情もこもってない声で。そしてダラダラと、娘の涼子を思っているとは到底思えない発言を続けていた。別に一生会えないとかじゃないんだから。たまには会わせてもらえるでしょう。だからいいじゃない、と。
 老人女性の演説が終わった後、しばらくの空白の時間ができた。誰も、何も喋らない。空気の流れが止まったような、真空の時間が漂っていた。
 絶望した。9割の絶望と、1割の怒り。目を背けず、確かに感じることができていた微かな怒りが身体を動かした。廊下を玄関に向かって歩き、明確に「ガチャ」とドアが開く音を立ててピンクの家を出た。
 なぜ、あの老人女性を怒鳴りつけないのですか。あなたなら簡単でしょう、いつも隆之に対して顔を真っ赤にして化け物のような顔で怒鳴り散らしているのですから。なぜ、無神経な老人女性を罵倒しないのですか。「バカにしないでよ」と、老人女性を蹴散らしてくださいよ。
 
 9日後。
「想ちゃんは絶対、ママから離れないよね」
 3年前に浴室でこう言っていた女性は、何も言わずに家を出ていった。






2章:女を幸せにできない男はクズ

2022年8月18日 18時03分
東京都新宿区 新宿駅東口交番前
幾多 想 29歳

 夕方の新宿駅前。日本一、人が入り乱れているのではないかと思うほど大量の人間達が行き交っている。平日の木曜日であるにもかかわらず。いや平日だからこそ、か。人混みは気持ち悪くなってしまうのであまり新宿や渋谷には出入りしないようにしているが、今日は凛から指定されたので久しぶりに新宿駅で待ち合わせというものをしている。18時待ち合わせだが、3分経過している。凛はあまり時間通りの行動、というものが得意ではない。先ほど、「ごめんーーちょっと出口迷ってて」というLINEが来ていた。凛は極度の方向音痴であるため、よっぽど慣れた場所ではない限り迷ってしまうのだ。
 何で待ち合わせ時間にいつも遅れるんだ、と怒ったことはない。怒りの感情も全くない。これは強がりではなく、本当に。自分が待ち合わせ時間よりも10分ほど先に到着して、相手を待つ。そうしないと落ち着かないのだ。早めに到着して、呼吸と意識を整える。これから相手に会うまでに、「対象の相手と会う」というマインドセットを整えてからでないと、心が落ち着かないのだ。だから相手が予定時刻よりも早く到着して、自分がこころを整える前に「お待たせ〜」と声をかけられようものなら、なんてことをしてくれるんだ、となってしまう。だからそういう意味でも凛は有り難かった。待ち合わせ時間よりも遅れてしまう分、こころを整える時間が多く確保できるから。
 今日はいつもより、さらに落ち着かない。今日は誕生日だから。誕生日で、「お祝いしてあげる」と凛に言われたからだ。いつもは俺が全て予定を組むから、凛と会うのに今日の道程を把握していないというのは初めて。だからさらに落ち着かないのだ。
「ごめ〜ん」
 一際華やかな凛が、愛嬌あふれる笑顔で気持ちばかりの小走りで駆け寄ってくる。鬱蒼とする人混みの中でもよく目立つ凛。こころはほぼ整え終わっていたから、柔らかい笑顔で迎えられる。淡いブルーのワンピースに身を包んだ凛。肩が露わになり、ボディラインが美しい曲線美を描いている。焼け付くような日差しの日々の中で完璧な白い肌を保った女性は、申し訳なさのかけらもない笑顔で俺にかわいく体当たりしてくる。整形で整った綺麗な鼻と胸が刺さる。
「ごめんね、新宿駅すごく難しくて」
 凛はそう言って、体を密着させたまま笑顔を向けた。
「電車で来たんだ」
 意外だったので、無意識にそう聞いていた。
「うん、今日はね」
 凛はそう応えると、俺の腕を組んで歩き出した。さっそく行きましょ、と言うように凛がリードするような形で歩みを進める。

 俺の自意識過剰、ではない。だって明らかにそうなのだから。すれ違う人、ほぼ男、の視線が時折ぶつかる。前から歩いてくる男でそれなりに身なりに気を遣う男の一定数は、凛の顔を見る。顔を見て、胸を見て、下半身に至るボディラインを見る。そして隣の男、つまり俺の顔を見る。男というのは無意識に女の姿を目で追ってしまうのだ。そして隣に歩く男はどんな男なのか、というのが気になって気になってしょうがない。だから必然的に、俺にも視線が向かう。凛と歩いてない時はこんなに視線を向けられることはない。改めて、身なりに気を遣っている女性というのは大変だなと思う。凛は日常のことのようなので、全く意に介してない様子だ。
 うわ、ほっそ。
 俺の右耳に声が入った。珍しく女性の声だったので、視線を感じ後ろを振り返ると、二人組の女子大生らしき女の子達と目が合った。
 自意識過剰、だろうか。だが最近の凛は心配になるぐらい細い。元々細かったが、さらに磨きがかかっている。ちょっと病的では、と思うぐらい。凛がインスタでフォローしている女の子達を見せてもらったことがあるが、手足が木の枝のように細い。鎖骨は浮き出ており、アニメの世界のキャラではないかと思うようなスタイル。これほどの究極を誰が望んでいるのだろうかといつも思う。ほとんどの男は多分そんなこと、望んでないのに。ルッキズムという強迫観念に覆われた女性達のマウント合戦なのだろう。
 30歳になっても結婚してなかったら死にたい。
 凛は酔った時にこう呟いたことがある。なぜそう思うのか、怖くて聞けなかった。30歳になったらルッキズム帝国における存在価値曲線が下降に向かうからです。理由を聞く行為は、そう回答させる愚行に思われた。だから恐ろしくて聞けなかった。
「着いたよ」
 いつの間にか目的地に着いていたことを凛に報される。紀伊國屋書店を通り過ぎ、伊勢丹新宿を通り過ぎて新宿三丁目の交差点を渡り、ルイ・ヴィトン新宿店の前にいた。マジか、という声を思わず出しそうになった。危ない。
 
 いらっしゃいませ。
 洗練された身なりの男性スタッフが出迎えてくれた。どうもお久しぶりです、と凛はスタッフと軽快に会話している。今日は彼に合うものを買いたくて、と凛はいった。
 かしこまりました。
 男性スタッフはそう言って先導した。足元お気をつけください、と言って階段を登っていく。お目当ての場所は2階にあるようだ。凛は俺の手を引いて歩く。
 想くんは何が欲しい?
 以前、凛にそう聞かれていたので俺は香水が欲しいと応えていた。だから、それこそ伊勢丹のメンズ館あたりで、5000円ぐらいの香水を買ってもらうことを想定していた。だが思いがけず今、ヴィトンの中にいる。
 そこからはずっと凛の時間だった。凛がおすすめしてくれる香りを嗅ぎ、凛の反応を見ながら良さそうなものを絞り込み、凛と俺の好みが最も重なる銘柄を選んだ。会計時に凛が5万円ちょっとを支払っているのを遠くから見た。そして退店後タクシーを広い神楽坂へ。7席のみのカウンターの寿司屋には、いかにもという雰囲気のおじさんと美女がいた。せっかくだからお酒も、ということで酒も呑んだ。コースで決められた量のワインや日本酒が次々と出てきた。俺よりさらに酒が弱い凛の分も最終的に飲み、完全に酔っ払った状態でまたタクシーに乗った。そこから六本木のグランドハイアットに行き、半分介抱されるような形で部屋に入った。スイートじゃなくてごめんね、と凛に言われた。そして凛に水を飲ませてもらい、さらにプレゼントをもらった。FENDIのピアス。想くんにはいいものを付けていて欲しい、と言われた。
 過呼吸になりそうだ。息が苦しい。凛はソファにもたれかかる俺に密着し、俺の手を握っている。高い天井を見上げると、視界がぐにゃりと歪んで見えそうで怖い。目を瞑り、ただぼーっとする。深く息を吸い、ゆっくりと息を吐く。何とか、過呼吸になりそうな今のこころを鎮めたい。鎮めたいが凛の小さくか弱い手の温もりと、男の知能を劇的に下げる甘美な香りがこころを乱す。
 今日、この子は俺にいくら使ってくれたんだろう。総額30〜40万円ぐらいといったところか。では、凛の誕生日には最低でも80万円ぐらい使わなくてはいけないだろうな。海外旅行で、いいホテルで、ブランド物の服かアクセサリーで、か。頭が痛くなる、今は考えるのをやめよう。
 そんなことしないでくれ。そんなに、そんなにいいよ。そうじゃなくて、ずっと抱きしめてくれたらそれでいいよ。それが一番嬉しいよ。なぜ、そう言えなかったんだろう。誕生日というものは本当に煩わしい日だ。無用の長物だ。凛だってそうしたくてしているわけじゃないだろうに。いくら顕在意識の中で「あなたのためにそうするのが嬉しい。見返りとかじゃなくて」と思っていても、そんなのは嘘でしかない。本当の意味での安心感があれば、そんなことはする必要がないのだ。何があっても私を愛してくれる、ありのままの私を愛してくれる、絶対に捨てない・裏切らない存在だと、心の底から凛に思ってもらえれば、この子はこんなことをする必要がないのだ。だから結局はどこまでいっても、安心感を与えられていない俺に原因がある。だが、その安心感を親からもらえなかった俺が、一体どうやって凛に提供できるというのか。
 凛は抑圧され、支配的な環境で育てられた。裕福な凛の親は、「こうするのがあなたのため」という支配のもと凛を育ててきた。
 凛は父親との思い出があまりない。最後に見たのは、自宅で母親を殴る父親の狂気的な顔だという。資産のある凛の母親は経済的な困窮とは無縁だったが、精神的に困窮していたように思う。凛は幼稚園の頃から週6日、実に8種類の習い事をさせられていた。そして小学校受験を強いられ、大学までエスカレーター式の女子校に入学。学力競争に晒された凛は、唯一心の拠り所であったピアノを「あなたには才能がない。何の役にも立たないから辞めなさい」と言われた。いくら泣いてお願いしてもピアノの習い事は続けさせてもらえなかった。祖母から買ってもらったピアノは捨てられ、常に偏差値の重圧に耐えながら生きてきた。
 凛は高校3年生で摂食障害、鬱病を発症。親からは「あと一年だから頑張って卒業しようね」と言われ、無理やり籍を残された。ギリギリで卒業することができたが、母親が望む大学には進学できず。なじる母親に対して「一緒に死のうよ」と包丁を持って頼んだ日から、母親の直接的な支配からは解放された。それから凛は取り憑かれたように仕事に励み、大学も中退して現在の会社を設立。若干21歳で会社の経営を軌道に乗せている。
 似ている。この子ほど俺は辛い環境ではなかったが、こころに抱えてきた生き辛さがとても良く似ている。俺も凛も、「自分は何かがないと愛されない」という呪いを深く植え付けられている。
 そして、薄々感じていたが今日ハッキリと認識した。今日の怒涛のような凛の俺への関わりは、俺の母親そっくりだ。凛には申し訳ないが。表面的には随分違うが根底の本質は同じ。盲目的で、支配的。一緒にいると息がつまる。嬉しさと危機感を巧みに煽り首を締め上げてくる。
 凛は一緒にいる時、よく俺に触れている。今も離れず、体を密着させ手を握っている。
「大丈夫?」
 凛が俺の胸に顔を埋めながら聞く。うん、と応える。すごく脈が早いよ、と凛が言う。俺の左胸に顔を埋めているから、心臓の鼓動が聞こえるのだろう。アルコールが体中に回り、苦しい。
「これね……ちょっと恥ずかしいんだけど」
 凛はそう言って、いつの間にか手に持っていた小さな厚紙を俺の目の前に出した。二つ折りの上質な白い厚紙。ぼんやりとする意識の中でそれを受け取り、紙を開いた。
 メッセージカードだった。凛は再び俺の胸に顔を埋めてこちらを見ないでいる。中身は、出会った時の印象にはじまり、今までの関わり。そして俺への気持ちを書いてくれていた。
 嬉しかった。今日してもらった高価な何よりも、圧倒的に。手書きで一生懸命、丁寧に書いてくれた文字は温かかった。ここは涙を流したいところなんだが、涙は込み上げてきてくれなかった。だが、最大限報いたいし、感謝を伝えたい。俺は強く、細い枝のような凛の肢体を抱きしめる。そして応えるように、凛も俺を包み込んでくれた。ずっとこうしたかったし、こうしていたかった。凛の肌は本当に気持ちいい。本当は、3時間ぐらい色々回るのではなく、ずっと抱きしめていたかった。次からは自分が何かを祝ってもらうときはこのようにオーダーしよう。
 そこからはしばらく、ゆっくりと他愛もない話が続いた。至福の時間だった。だが、至福の時間というのはあっさりと消えて無くなっていく。いつの間にか、将来の話になっていた。
 凛のことを思えば、当然だろう。だが意外だった。年齢は関係ないが、まだ21歳の凛が強く結婚を望んでいるとは思わなかった。もちろん結婚という単語を凛は使わないが、家庭を築きたい意欲が強いのは酔っている俺でも明確に察することができた。
 30歳手前で結婚したい、という感じではない。言葉の節々から、そのような悠長なスケジュール感ではないことも感じられた。凛のことは大好きだ。愛している、と自身に言い聞かせたい。大切な人がそう思ってくれているのであれば、それに応えるのが男の務めではないか。それが、男らしさではないのか。俺の臓腑に深く横たわっている呪いは、俺を力強く動かした。凛も多分望んでいるであろう動きを俺はした。具体的に聞いていくと、4人家族を望んでいる。二人目は27歳頃産んでいたい。一人目は24歳頃産んでいたい。でも、二人だけの結婚生活も少し楽しみたい。そうなると、結論はそうなる。結婚という意思決定は悠長なものではないのだ。臆病な俺は、なぜそう思うのか、なぜそのスケジュール感なのかが聞けなかった。
 そして驚いた。この子が子供を欲していることに。なぜ子供なんか欲しいのだろう。俺たちが生きてきた家庭環境で、どうして子供が欲しいなんて思えるのだろう。子供なんて、親を苦しめるだけの荷物でしかないのに。相当の覚悟と人間的度量がなければ、子供なんてつくっても病ませるだけだよ。最悪、自殺させるだけだよ。なんで。なんであなたは、子供が二人いる幸せな4人家族なんていうお伽話を信じられるのですか。なぜ、それを自分が実現できると思っているのですか。だってあなたも俺も、幼少期から精神的成長が止まっている子供なのですよ。子供が子供を育てるなんて不可能じゃないですか。
 だが、そんなこと言えるはずもない。でも思わずびっくりしすぎて聞いてしまった。え、なんで、と。子供、なんで欲しいのと。だがその問いへの返答はなかった。
 うーん……
 という小さな戸惑いのまま、回答はなかった。
 30歳になっても結婚してなかったら死にたい。
 そう呟いてしまうような不安定な女性が、子供なんていう繊細ですぐ死にたがる愚か者を育てられるのですか。
 一瞬で関係性に亀裂を入れてしまうと思われる一言を、俺は飲み込んだ。どうしようもなく怖いのだ。女性の眼が柔らかい眼差しから一点、冷たく刺すような目つきに変わる瞬間が。あんなにも欲してくれていたのに一瞬で冷めて、簡単に捨てられる。8歳のあの日を思い出して、どうしようもなく死にたくなるのだ。



2007年7月12日 23時42分
栃木県足利市 某ゲームセンター駐車場
藤村(ふじむら) 想 13歳

 仲間たちは皆帰ってしまった。流石に親に怒られる、明日も学校があるから、など理由は様々だった。中学二年だからまぁしょうがないだろう。だが、いつも夜通し遊んで学校も平気で一緒にサボる仲間も今日は帰ってしまった。なんか風邪ひいたかも、ということで帰ってしまった。バカのくせに風邪なんかひきやがって。
 もうすぐ日付が変わろうとしている。夏の夜中の空にはどこからからか蝉の声が聞こえてくる。周りに木なんかないのに不思議だ。周りに見えるのはバッティングセンターが併設されている県道沿いのゲームセンタ―の大きな建物と、コンビニと、県道を走る軽自動車やトラックたちだけ。今はゲームセンター駐車場のブロック塀に座り、県道を眺めている。湿った空気にアスファルトの不純物が混ざった匂いが心地よい。この時間はいつも孤独感に押し潰され、気が狂いそうになる。
 本当の友達がいないから、だろう。相手はどう思っているかは知らないが、俺は怖くてしょうがない。奥底の本音を出して向き合ったら、思っていたのと違かった。そう思われてすれ違って、離れていくかもしれない。そう思うと、他人と深い関係を築くイメージが湧かない。常に一緒にいて、互いに「俺たち親友だよな」と牽制し合うのも疲れる。だが孤独でいるよりはマシだから、明日もまた牽制し合わなければ。
 お気に入りの銘柄の、マールボロゴールドに火をつける。タール6の、程よい重さのタバコ。夏だから冬と違って煙がいっぱい出る感じを楽しめないが、涼しい夜風を浴びながら血管が収縮する感覚が気持ちいい。何人かいる親友もどきのうちの一人、その母親が吸っていたのでこの銘柄を愛用している。その母親は俺のことを想、と呼びつけにして何かと良くしてくれている。うちの母親と違って、心の機微に聡い人なのだ。
 明日、仲間たちと会えるまでにはだいぶ時間がある。謹慎を喰らっているから俺は今週は学校に行けない。だからあいつらが学校終わってからだから、16時ごろにならなければ会えない。それまで地獄のように長い時間をどのように潰そうか。
 
 特に行くあてもないので、ゲームセンターから歩いて2分ほどの自宅に帰宅した。家の表札には「藤村」と記載されている。俺は藤村家の養子となり、幾多想から藤村想に変わった。未だに違和感しかない。同級生から藤村くんと呼ばれるのも、教師たちから藤村と呼ばれるのも大嫌いだ。
 涼子が幾多の家から出ていって、一年ぐらい経ってからだろうか。涼子は不倫相手の藤村道(ふじむらとおる)という男と再婚し、栃木県足利市に居を構えていた。その涼子と、涼子の10歳年下でチンピラのような風貌の大柄の男、藤村道に拾われて現在に至る。
 屈辱だった。一度自分を捨てた女が迎えにきた時に、嬉しいと思ってしまった自分が。どうしようもなく弱く、情けない自分が惨めだった。その頃から手を食いちぎりたい感覚が体中にまとわりつき、いまだに手の甲を噛む癖が直らず歯形だらけになっている。
 昔はこの「藤村」と書かれた、ごく普通の二階建ての一軒家は涼子と道の愛の巣だった。目の前でイチャつかれ、道が涼子の胸を揉みしだいている場を目撃したときは吐き気がした。その頃からうっすらと涼子に対して「死んでほしい」と思うようになった。
 だが愛の巣は無惨にも崩壊してしまった。幾多の家にいた頃と全く同じ状態になっており、酷い冷戦状態が続いている。玄関を開けると、重く冷たい空気が漂っている。時折どちらからともなく砲弾が投げ込まれ紛争が始まる。リビングのドアを開けると、まるで強盗が入ったかのように荒れた空間が俺を出迎えた。今日も勃発していたのだろう、哀れな表情を取り繕って涙を浮かべる涼子と、哀しさと恐怖で顔を真っ赤にして泣いている赤ん坊の鳴き声が響いていた。ギャンブル狂いの道の姿はない、パチンコ屋にでも行ったのだろうか。いやこの時間は開いてないか。なら、別の女の家にでも行ったのだろう。
 赤ん坊の名前は琴葉(ことは)といい、今年3歳になる女の子だ。涼子と道の間に出来た子供で、名目上は俺の妹。不思議でしょうがなかった。なぜ子供なんか作るのだろう。うちは貧乏だから、うちはお金がないから、と誰も聞いてないのに唱えてくる涼子。幾多の家と違って何もかもがないこの環境で、なぜ子供なんか拵えたのだろう。そもそも、金がないならなぜ俺を拾いにきたのだろう。子供なんて迷惑をかけるだけで、何の存在価値もないのに。
 琴葉が産まれてから、明らかに涼子と道の間に溝ができた。話題を琴葉に据えて、互いの未熟さをぶつけ合う日々。琴葉が年中泣き狂う姿にうんざりしていた涼子は、どう見ても幸せそうに見えなかった。「なんで子供なんか作ったんですか」と聞いた時、涼子は怒りと哀しみを帯びた顔をしていた。少し目は見開かれていた。なんて酷いことを聞くんだろうこの子は、という顔を俺に向けていた。
 一瞬昔のことに気を囚われていたが、意識が現実に戻った。相変わらず近所迷惑になりそうな、耳を擘く不快な声で琴葉は泣いている。お前が抱えろよ、と心の中で涼子に毒づきながら琴葉をだき抱える。しばらくは鼓膜が破れるのではないかと思うほどの騒音に耐えながら、ゆっくりと体を揺らす。心を無にしてただその動作を繰り返すと、琴葉の騒音は静かになっていった。そしてこちらの苦労を嘲笑うかのように、健やかな顔を浮かべるようになった。そしてさらに不快なことに、えへへ、という笑顔まで俺に向け始めた。
 これを可愛い、という奴らの気が知れない。頭がおかしいんじゃないか。こんなただ騒がしいだけの、哀れな猿のような動物の何が可愛いのか。だがそう思って見ている俺の気持ちなんて知りもしない琴葉は、変わらず俺に笑顔を向けている。
 哀れだな、こんな家に産まれ堕ちて。お前が欲する愛情なんかもらえると思うな。小夏のように鬱で不登校になること、最悪自殺することも頭に入れておけ。それが嫌なら心を無にして生きろ。誰もお前なんか愛さないし、助けもしない。
 鎮まり返った琴葉を寝室に放った後、再びリビングに戻ってきた。すると今度は泣き止んでいくらか落ち着きを取り戻した40歳児の涼子ちゃんがこちらを見ている。
「どこに行ってたの」
 おかえり、も言わずに。琴葉を寝かしつけてくれてありがとう、も言わずに。ただ自分が気になった言葉を雑に投げつけてきた。そんな輩に対応するほど俺はお人好しではない。最低限の礼節をわきまえてから出直してこい。
 涼子を無視して、リビングを抜けキッチンに向かった。冷蔵庫の中には焼きそばがあるからそれを作ろう。と思ったが、涼子がリビングにいる間はゆっくり食べられそうもない。キッチンに置いてある菓子パンを手に取り、再びリビングを抜けて2階に上がろうとした。が、涼子が俺を止めた。
「どこに行ってたのか聞いてるのよ」
 リビングの入り口のドアに手をかけた俺に、涼子は後ろから怒鳴った。昔は涼子の怒鳴り声が恐ろしくてしょうがなかった。またぶたれるのでは、とビクビクしていた。だが、もう40代となった涼子には力がない。背丈も俺より小さくなり、唯一の武器であった外見の美しさが消えた涼子には憐れみさえ感じる。
「聞いてどうするのですか」
 心を無にして、いつも通りに返答した。感情は出さない。出したくない。
「聞いてどうするのですか、じゃないわよ。謹慎中でしょ、遊び歩いてたらダメじゃない」
 怒鳴るまではいかないが、語気を強めて、表情に怒りを露わにして俺を問い詰めてくる。
「尊敬に値しない人間に、説かれる筋合いはありません」
 淡々とそう伝えたつもりだ。だが所詮中学生だ、表情には大きな怒りが浮かんでいるだろう。だが目の前で顔を真っ赤にして怒っている涼子を見ていると、急激に気持ちが冷めた。嫌でも冷静になり、冷たい気持ちが込み上げてくる。
「人のことをとやかく言う前に、自分の行いを恥じなさい。赤ん坊の目の前で怒鳴りあって泣かせることが、親の行いですか。自分だけ被害者面して泣き喚いて息子に赤ん坊の世話を押し付けて、おまけにその礼も言わない。そんな人間が、俺に何を説けるのですか」
 言い終わった瞬間、乾いた音が部屋中に響いた。慣れた痛みが、じわじわと後から込み上げてくる。左頬の感覚が少しだけ麻痺している。だがそれもすぐに元に戻ることも知り尽くしている。
 女はズルい。人を殴っておいて、自分が滝のように泣き出すのだから。「女に手を出す男は最低」という流布に成功し、自分が手を上げても許されるとのぼせ上っている。そしてポロポロと涙を流しその泣き顔を晒せば、完全防御の完成だ。そこから手を出せば、畜生のレッテルを貼られるからこちらは何もできない。もちろん、言葉で追撃することも許されない。女はズルいから大嫌いだ。
 いつもの茶番ルーティンをこなす涼子。その場に座り込み、両手で顔を覆って泣き続ける。しばらく上から見ていたが、ふと気づく。こうやって涼子の支配的行動に付き合ってあげるから、つけあがるのではないか。俺の中にまだ弱い部分が残っているから、その弱みを握られて、こうして今この場に拘束されているのではないか。そのことに今更ながら気づき、ドアノブを捻って退出しようとした。だが。
「何が不満なのよ……」
 再び口を開く涼子に再び拘束された。振り返ると両手に覆われていたはずの顔を露わにしてこちらを睨みつける涼子がいる。涙目で、目を真っ赤にして。
「問題ばかり起こして、反抗的な態度ばっかり取って、道とも口を聞かないで」
「……」
「結局、一度も道のこと父親と呼ばなかったわよね。そのせいでネチネチ嫌味をすっごい言われたわ。私のことだって母親と呼ばないし、親とも思わない態度とって、馬鹿にして……」
「……」
「だいたい、もう幾多の人間じゃないのにいつまで私に敬語使ってるのよ。小学校のサッカークラブでも、やめてって言ってるのにずっとよそよそしい口の聞き方して。他のお母さんたちから変な目で見られるからやめてって言ってるのに」
 涼子は声を荒げて捲し立てた。論点もクソもない発言の数々に、あまり喰らわないようにして努めて聞き流す。だが、やはり無傷とはいかない。どうしても言葉の刃は重く、深く刺さってしまう。苦しい。
 要は、「もっと私のことを大事にしてよ」ということだ。もっと私を愛しなさいよ、ということ。お前が娘なら話は別だが、立場上は母親なのだから勘弁してほしい。
 だがあらかた吐き出した後は、また雰囲気が一転した。少し気が楽になったのか、今度はまた涙を流しながらこちらを慮る演技をして、より俺の言動をコントロールしてやろうと躍起になり始めた。
「そりゃ、想にとってはいい母親じゃなかったかもしれないよ……子供にとっては離婚するって、本当に良くないことだと思うし。いっぱい辛い気持ちにさせちゃったと思う。でも、母さんだって」
「でも、なんですか」
 耐えられない。いつまでもこの演説には耐えられない。お金をもらえるならまだしも、無料ではとてもじゃないが苦しすぎて耐えられない。だから途中で止めた。涼子は想定外、という表情をしている。
「でも、母さんだって。母さんだって辛いのよ、ですか」
「……」
「何度も聞きましたよ。もう、この数年は特にうんざりするほど」
「……」
「あなたは頑張ってると思いますよ。頑張る必要のないことを、馬鹿みたいに」
 俺はすごく癇に障ることを言ったつもりなのだが、なぜか涼子はアホみたいな顔をしている。俺が何を言ったのか、理解ができてないようだ。
「あなたはすごく、よく頑張ってくれてます。年下の若く、まさに男らしい男を捕まえて。ろくに稼ぎもしないでギャンブル三昧の男を、朝から晩まで働いて養って、家事も全部こなして、本当によく頑張ってくれてます。そんな辛い中で子供までつくって育てて、俺に対しても三食与えて屋根のある家に住まわせてくれてるんですから」
「……」
「同じ境遇だったら、子供なんてめんどくさいと言って捨てたり、施設にぶち込む親も多くいる中であなたはそれをしない。あなたは子供を愛してくれる親で、頑張り屋さんですからね」
「……」
「だから、別に俺は不満があるわけじゃないんです。ただ、本当に息をするのが苦しいだけ。でもこれは俺の問題ですから、気にしないでください」
 俺も一気に捲し立てた。努めて冷静に、涼子が立ち入る隙を与えなかった。本当は顔の形が変わるまで殴り続けたい。でもそうできないのはなんでだろう。もう14歳になる年なのだから、家を出て東京にでもどこにでも行って働いて生きていけるのに、それをせず甘ったれてしまうのは俺の弱さだろうか。それとも、俺はこの女にまだ何かを期待しているのだろうか。
 よくわからない、この子は本当に、何を考えているのかよくわからない。涼子はそんな何とも言えない顔を浮かべている。今はもうこれ以上、この顔を見ていたら発狂してしまいそうだから退出することにした。
「明日も仕事なんですから、早く寝てくださいね。おやすみなさい」



2022年8月20日 12時57分
神奈川県座間市 住宅街
幾多 想 29歳
 
 町田駅から二駅隣の、小田急相模原駅。その駅から徒歩13分ほど歩いた住宅街に来ている。真夏に10分以上歩くのは地獄だ。寒がりな俺もさすがに額に汗を浮かべてしまう。じっとりと体の内側から熱が込み上げてくる。こんなクソ暑い中歩かされる羽目になった輩の顔を思い浮かべると腑が煮えくり返る。
 その輩とは、大柄肥満男の小林だ。基本的にうちの利用者は月曜から土曜日の朝から夕方までみっちりプログラムが組まれており、毎日通所しなければならない。それは行政の生活保護課からも、当事者たちは圧力をかけられている。だが小林は、本日午前中のプログラムを無断で欠席した。連絡もつかず、本日はスタッフの体制に余裕がないため俺が馳せ参じる羽目になった。俺の会社の物件ではないから特に監督義務はないが、一応死んでないかどうかチェックしなければならない。
 なんの変哲もないぼろアパート。その一階の102号室の前に着いた。二度インターホンを鳴らしたが応答がない。ドアの取手を引くと、鍵がかかっておらず扉が開いた。室内は冷蔵庫内かと思うほどキンキンに冷えている。思わず身震いして室内を見渡すと、今度は別の意味で身震いがした。足の踏み場のない、ゴミだらけの部屋。紙類ではなく、カップラーメンの残りや酒の空き缶なども散乱している。そこにタバコの吸い殻やアルコールの匂いが充満しており気持ち悪くなる。これで室内が冷えてなかったら死臭のような匂いがしただろう。ヤニで黄色く変色している壁には、二枚ほど誰だかわからない、おそらくグラビアアイドルと思われる水着の女性のポスターが貼ってある。そのポスターの周りにはぐしゃぐしゃになったティッシュが散乱しており、絵に描いたような汚部屋となっている。そして敷きっぱなしの布団の上に、腹を丸出しにした豚が転がっている。
「おい」
 そう大きめに声を発すると、うお、と唸って小林が目を開いた。あ、ああ社長、どうも、とバカみたいな台詞と共に、ゆっくりと小林が体を起こす。そしてしばらくぼーっとした後、ああ、すみ、すみません、と呟いた。まだ酒が残っているらしく、呂律が回っていない。目つきはとろんとしており、意識は朦朧としているようだ。
 すみません、とは何を謝っているのだろうか。酒を飲んだこと? 施設のプログラムを休んだこと? こいつらには何百回も言って聞かせていることだが、酒を飲むのが悪いことじゃない。アルコール依存症というのは酒を飲んでしまう病気であり、酒を飲んでしまうのはただの症状だ。風邪をひいている奴が咳をするのと同じことだ。だから俺は「咳をするな」なんて言ったことは一度もない。依存症というものに死ぬ気で向き合えよ、と言っているのだ。だが、こいつらには全く刺さらないのだが。
 小林は依然として朦朧としており、ぼんやりとどこを見るでもなく、ただ顔を上げてぼーっとしている。
「いつから飲んでるんですか」
「……えと、三日前ぐらいからです」
 この後に及んでまだそんなことを言うか。この空き缶の量でそんなわけがないだろう。
「二週間ぐらい前、仲間とカラオケに行った日からはもう飲んでますよね」
 そう言うと、小林は相変わらず目を合わせず、ぼーっとしている。ただでさえ力のない眼から、余計に生気が抜けている。しばらく見つめていると、ゆっくりと頭の角度が下がってくる。項垂れる、の一歩手前の角度で、ゴミだらけの床を見つめている。
「入院ですね」
 そう言ったが、相変わらず小林からは応答がない。スタッフに入院手続きを進めてもらうから、それまでに荷物をまとめておいてください。そう伝えると小林からは小さく、はい、と図体に似合わない細い声が漏れた。
 これ以上この空間にいると俺が病気になりそうだ。小林に背を向け、玄関に向かおうとした時、小林の大声が部屋中に響いた。甲高い奇声ではなく、あああああああああああああ、という地鳴りがするような太い声で。ぼろアパートだから、二つ隣の部屋まで響いたのではないかと思うぐらいの声量。いくら利用者といえども癇に障る。苛立ちを覚えながら振り返ると、小林が小さい丸テーブルの上にあったストロングゼロの残りを浴びるように一気飲みしている。ごく、ごく、と喉を鳴らしながら飲み干した。そしてそれでは満足しないのか、座っている布団の隣に設置されたミニ冷蔵庫を開けて中から冷えたストロングゼロを開け、それも一気に飲み干した。ああああああああああああ、と畜生のような唸り声と共に、荒々しく机に空き缶を置いた。あまりの強さに空き缶は吹っ飛び、俺の足元まで飛んできた。
「なんだおまえ」
 そう言って小林を見たが、小林はこちらに顔を向けない。顔がみるみるうちに赤くなってくる。怒りなのか、アルコール反応なのかはわからない。
「いい、じゃないですか……もう、のめないんだから……」
 小林はそう言って、大きなゲップをした。どこまでも不快で、神経を逆撫でしてくる男。
「社長には、わからないですよ。俺たちの気持ちなんて」
 小林は壁に目を向けたまま喋り続ける。
「社長はなんで、依存症でもないのに、この仕事してるんですかあ」
 小林は変わらず、こちらを見ずに妄言を吐き続ける。だから俺は応えない。
「バカにしてるんでしょう、俺たちを。自分はいいですよねえ。顔はシュッとしてて、体は細くて、エリートで。俺ネットで見ましたよ、社長横浜国大なんですよね。俺横浜生まれだからわかりますよ、すげーエリートじゃないですか。なんでこんな仕事してるんですか。いくらでも大企業に就職できたでしょう。俺わかりますよ、ネットになんか、すごい良いこと書いてありましたけど。なんか、爺さんがアル中だったらしいですね。で、なんかよくわかんねーけど、二人目の義理の父親がギャンブル依存で? それで、会社の金パクって逮捕されたんですよねえ。だから、そういう家族と同じ苦しみを抱えた人たちを救いたいからっつって、それで就職せずにこの会社立ち上げたんですよねえ。すげーな、すげー人ですよ、あんたは。そんな立派な、聖人君主様が世の中にはいるもんですねえ」
 酔っ払いの妄言は留まることを知らない。酔っ払いの顔はさらに紅潮してきている。
「でもさ、本当にそうなんですかねえ。普通、俺たちみたいな気狂いと関わりたいなんて、普通の人間はそんなこと思わないっすよ。なんか色々家庭で苦労したんだがどうか知らねーけど、そんな恵まれたエリートさんが、なんだって俺たちみたいなのと関わろうとか、そんなふうになるんですかねえ。どうせ、大して稼げないでしょう、こんな仕事。他の事業やった方がよっぽど儲かりますよ。なんで社長がこんな仕事してるかって、褒められたいからですよねえ。社会様に褒められて、俺はすごい人間なんだって、認められたいからですよねえ。そりゃあ話題的にはすごいだろうな、依存症の家族が、それも息子がそれを始めるなんて。だから色々ネットの記事になって、投資も集まったんでしょう。だってただの大学生が施設立ち上げるなんて、そんな金なんかあるわけないですからねえ。そうやって、世の中で話題になって、すごいお金集めて事業始めて、本当に立派な若者だって、あんたはすごいね、って、そう言われたかったんでしょう。別に俺たちと関わりたいとか、俺たちを救いたいとか、そんなんじゃないですよねえ、どうなんですかあ」
 小林は一気に捲し立ててきた。その間、小林は一度もこちらを見なかった。今もだ。そうして2秒ほど空白の時間ができたが、その2秒にも小林は耐えられなかった。
「いや! いや、すんません。今の無しで、すいません。いや、ほんと、社長が完璧すぎるんで、つい言っちゃいました! すんません。いや、ほんとに社長には感謝してるんですよ、俺も。俺みたいなのを拾ってくれて、ほんとに。俺も社長みたいになりたかったですよ。俺バカだけど、親父が会社やってるから。古い社員のジジイどもは俺のことをバカ息子とか、七光だとか言いやがるから、俺めっちゃ頑張ったんすよ。すげー仕事して、めちゃくちゃ案件とかとってきて、俺が今の会社の規模にしたようなもんなんすよ。俺、だって20代で年収1500万とってましたからね! すごいでしょ、多分社長よりも俺とってたと思うんですよ。俺のことバカにしてた古い社員たちとか、親戚の奴らとかもう手のひら返しですよ。本当、あのクソども、本当に今からでも殺してやろうかと思ってんですけどね。でも俺はいい大学行っていい会社行ってる奴らよりも全然仕事できたし、めっちゃ稼いでましたからね。結婚してガキも作って、全部上手く行ってたんですよ。やっぱ男は金稼いでナンボじゃないですか。金稼いで、嫁とガキ養って幸せにしてやるのが男じゃないですか。全部うまく行ってたのに、あの親父、俺のことクビにしたんすよ。仕事中に酒飲むなとか、他の社員から文句が出てるからとか、クソくだらないこと抜かしやがって。誰がいまの会社作ってやったと思ってんだ、って感じですよね。誰のおかげでてめーら飯食ってんだって、あいつらどうしようもねえバカだからそういうのわかんないんですよね。俺に文句とか、そういうくだらねえこと言う奴らって、結婚してないんですよ、いい歳になっても。そんで子供もいなくて独身で。やっぱ女を幸せにしてやれない男ってクズじゃないですか。大して稼げないやつとか、女をまともに口説けない男とか、本当クソどうしようもないですよね。社長ならわかってくれますよね。ほんとね、そういう弱い男って、どうしようもないんですよ。だから片っ端からぶん殴ってやったんですよ、当たり前ですけど。そしたら親父から勘当されて追い出されたんですよ、本当にわけわかんないっすよ。あのクソ親父、マジぶち殺してやりますよ」
 終始、小林はこちらを見なかった。そして今なお、酒を煽っている。このバカは親という呪い、男という呪いに犯された傀儡。
剣山のように刃が刺さっているぞ。おまえのこころにな。親への恨み・怒りという刃が。
 ヤクザ男、大神の言葉が脳で再生された。小林に対する苛立ちが収まらない。だからお前はダメなんだ。親からいつまでも逃げ続けて、自分と向き合うプログラムに取り組まないから、お前はこんなゴミみたいな部屋でゴミみたいな人生を送っているんだ。
 そしてまた大神の声が聞こえる。
 なら、お前はどうなんだ。



2001年9月16日 24時07分
群馬県太田市 幾多家
幾多 想 8歳

 辺りは静寂に包まれていた。まるでこの世から人間が消えてしまったように、その息遣いはあっさりと、この世界から消えてしまっていた。鈴虫の音だけが、その呼吸だけがうんざりとするほど、耳に入ってくる。
 眠れない。どれだけ眼を閉じても、眠れないんです。産まれた時から、この世に生を受けた時から愛をくれていた、そう思い込んでいた存在が姿を消してしまったから。どれだけ待っても、その人は俺のもとへは帰ってきてくれない。
「想ちゃんは絶対、ママから離れないよね」
 そう、必死に確認してくれていたその人は、もう8日間帰ってきてくれない。自分が生きている、その実感を与えてくれる人がいないというのは、こんなにも安心感を奪う。安心を取り上げられた人間というのは、眠りにつくこともできないのです。
 いつも刑務所のような生活を強いられていた。夜は21時半には寝かされていたから、こんなにも夜更かしをすることはない。だけどあの人が姿を消した8日間は、いつも日付が変わるまで眠れない。しょうがないから、二階の寝室から一階のリビングに体を移そうとした。真っ暗な階段を一段一段、ゆっくりと降りる。煉獄から地獄へと続くかのようなその真っ暗な階段を降りる。地獄に似合わない薄明かりが灯るリビングへと身体を動かす。
 なぜ薄明かりがついているのだろう。それは階段を降りるごとに、その答えは身体に沁みてくる。父がいるからだ。いつも対面の、無駄に広い屋敷にしか姿を現さない父親の隆之が、なぜだか今日はピンクの屋根の、涼子と小夏しかいないはずの家にいる。
 酒飲みの父は、いつも以上に酒臭い体臭を放っていた。階段を降り切る前からその異臭は俺の鼻を突いた。体内からこだまする酒臭さとタバコ臭さに、思わず顔を顰める。哀愁漂う、そんなフリをして酒と絶望に覆われている父親の、テーブルに突っ伏す姿が目に入る。
 隆之の背後から視線を送る、俺という小さい幾多家当主の気配に気づいたのだろうか。ゆっくりと、顔を真っ赤にした隆之が後ろを振り返り、朧げな瞳で俺をみた。
「おお、想。起きちゃったか」
 8歳の俺に、柔らかで穏やかぶった、父親ぶった顔を取り繕った隆之。そんな隆之に嫌気がさして、目線を隆之から逸らした。酒臭さに気持ち悪さを感じながら、隆之の視線を無視してキッチンに向かう。いつも母親の涼子がストックしていた、子供の身体に良いとかなんとか言っていた軟水のペットボトルを目当てに冷蔵庫に近づく。やけに眼が冴える意識のまま軟水のペットボトルの蓋を開けて、ゆっくりと身体に注ぎ込む。その間、何やら隆之が俺に話しかけていたが全く耳に入ってこない。無視する、というよりも異世界に住む無神経な畜生の声は、俺の耳には届かない。
 まるで涼子の体温を感じるようなその軟水を身体に流し込んだ後、半分以上残ったペットボトルをキッチンの上に置いた。そしてトイレにまた行ってから床に着こうと考えながら階段に向かった。酒臭い空気を吸い込まないように息を止めて、隆之の横を通り過ぎようとした。だが、忌まわしい畜生に行く手を阻まれた。阻まれた、と気づいたその時には、ひょいと俺の体は宙に浮いていた。
 気持ち悪い皮膚の感覚。鼻をつく酒とタバコの匂い。人間とは思えない、その匂い。匂いの主は俺の顔の真ん前で、ゲロのような息を吐きかけながら俺に言葉を向けた。
「ごめんなぁ。父ちゃん、だらしなくて。想に寂しい思いをさせてほんと、ごめんなぁ」
 父から感じたことのない哀しみの匂いがした。声色、というよりは匂いがしたのだ。その感じたことのない体温と匂いに驚いた。
「父ちゃんがしっかりしてないから、想にも小夏にも、ほんとに迷惑ばっかりかけてなあ。ごめんなあ」
 何も心が通っていない。俺とこの人は産まれてこの方、一度も心が通ったことがないのだ。俺の気持ちを理解してもらったことは一度もないし、俺もこの男の大事にしているものを理解したことがないのだ。ただ血が繋がっているだけの他人。産まれ堕ちてしまったから、ただそれだけのつながりが生む不幸。
「迷惑、とはなんですか」
 これは俺の言葉ではない。いや確かに俺の口から発せられたのだが、俺ではない誰かが勝手に口を動かして発しているような感覚を覚える。俺の口の動きは止まらない。
「あなたが一番寂しい思いをさせたのはあなたの女に対して、なのでは」
 自分の声じゃないみたい。8歳のガキとは思えないほど、自分でも驚くほど低い声が出た。心臓の鼓動はバカみたいに早く鼓を打っているのに、声色だけは真反対に落ち着き払った声。
 隆之は何も言わない。何も言えない、のか。隆之に抱き抱えられておりその顔を見ることはできないが、その空気感と肌の感触で、俺の言葉はこの男には理解されていないとわかる。だから、俺はこの名義だけ父親、という男の胸に手のひらを押し付ける。その挙動だけは意味するところは理解され、隆之は俺をそっと木目上の床に下ろした。
 何か言ったらどうなんです。
 なぜかその言葉は、口をついて出なかった。重要な言葉だと思うが、俺の身体はその言葉を発してくれない。だが次の言葉は憑いて出た。
「あなたは朝の9時から深夜1時過ぎまで、毎日バカみたいによく働いてくれていました。もう平成だというのにね。そうやって馬車馬のように働いて、金を稼いで、女と子供たちを養って。月に一回沖縄だかハワイだか、家族を旅行に連れて行って。たまには妻が欲しがる鞄やら服やら、何やらを買ってあげて。そうやって家族を養ってやっている、それが男なのだと、そう思って頑張ってくれていたのでしょう。でも、それがあなたの人生に何をもたらしたというのですか。娘は精神を病み不登校になり。妻は本当に欲するものを旦那から受け取れずに、同様に心を病んで帰ってこない。このまま帰ってこないかもしれません。まああの女はあの女で、自分の感情と向き合い、そして自分と旦那を大事にするその努力を怠ったバカ女ですから、自業自得といえばそれまでですが。あなたがそうやって命を削ってまで守ろうとする男らしさとは、一体何なのですか」
「……」
 隆之は何も言葉を返さない。驚きの顔も見せない。なぜ驚かないのだろうか。子供から突きつけられる言葉ではないはずだが、隆之は俺に対してただその存在を、そうであると認識しているだけの表情で見つめている。怒りも、激情もない。ただ哀しみだけが宿る瞳をこちらに向けている。
「俺が欲しかったのは。あなたとその妻の、仲睦まじい会話、ただそれだけですよ」
 俺の真意が、あなたに理解できますか。
 そう問いかけたが、隆之の顔には変化がなかった。俺の渾身のそれは、遂に最後まで届くことはなかった。



2022年8月20日 21時48分
東京都町田市 カリヨン広場
幾多 想 29歳

 今日は本当に嫌な一日だった。小林の醜い膿を一身に浴びてしまったからだ。久しぶりに発狂したい気分。自分でも明確に、苦しいと自覚している。足取りが重くなるほどには、明確に苦しくなっているのがわかる。だからだろうか、自分を見透かされ、余計に苦しくなるであろう場所に誘われた。コンクリートの塀に腰掛けて、タバコを蒸している。
 真夏の夜は、気持ち程度に涼しい風が漂っている。頑張って意識しなければ、その涼しさを感じることはできない。それぐらい暑く、人生というものがただ気怠いものだと諭してくるような暑さ。町田駅のカリヨン広場はいつ来ても、この世の汚い部分をこれ以上なく映し出している。現世という生ぬるい蟻地獄を体現しているかのような場所だ。相変わらず交番の前だというのに浮浪者が寝転がっている。絶対に警官の目に入っているのに、大して点数にならない仕事はしてやらねえぞという魂胆が、警官の顔中に広がっている。町田駅前は相変わらず人で賑わっており、警官の目の前で堂々と客引きをしている女の子たちがちらほらいる。税金泥棒の警官はやはり、その女の子たちなど存在しないかのように無視し、動く気配がない。蜘蛛の巣にかかるように、顔を真っ赤にした泥酔のサラリーマン集団が女の子たちに吸い寄せられている。どうしてこういう飢えたサラリーマンというのは、皆同じ顔をしているのだろう。同じ顔をした4人のサラリーマン集団は、いつか見た光景を辿るように女の子たちと一緒に路地に消えていった。
「いい感じだな」
 図太く低い声の男が現れた。音もなく、右隣にいつの間にか腰掛けている。何がいい感じなんですか。そう問う前に、図太い声の主、大神が言葉を繋げる。
「もういい感じに、首を括りたくなってきたんじゃないか」
 ふざけた言葉を抜かしやがる。
「言ったでしょう。万事、上手くいっていると」
 努めて穏やかに、痛々しく言った。
「あっははははははは」
 その心境も全て分かっているかのように、殺意を覚えるほど下品で清々しい笑い声で、大神は一蹴した。
「そうだったな。すまんすまん」
「……」
「仕事はまあまあ上手くいっている。あんな美人な彼女がいて、しかも誕生日にあんなに貢いでくれるんだからなあ。客引きに吸い込まれていく男たちとは大違いだ。万事、上手くいっているな」
 本当に殺意を覚える薄ら笑いを浮かべて、大神はこちらを見ている。この男には、いつか地獄を見せてやりたい。だがそんな日はあと100年ぐらいは訪れないだろうな、という気もしている。
 なぜこんな場所に来てしまったんだろう。何十箇所も通った精神科、カウンセラー。何十個も試した精神療法。金でいえば200万円以上は費やしてきたがどれもクソの役にも立たなかった。そして今、鬱が身体中に染み渡り命を終わらせたくなってきている。どれだけ探し求めても手に入らなかったその答えをこの男なら持っている気がしたから、だろうか。
「チンポってのは、男のバロメーターだよな」
 唐突に下ネタを放り込んできた。やけに肌艶の良い、年齢不詳の男。強いて言えば50代前半、と思われる大神。
「男を縛り付ける呪い、権力の象徴。その呪いを感じることのできない鈍感にとっては、ただの気持ちいい竿だ。だが呪いを感じ取れる繊細には、己に屈辱しか与えない、まさに呪いの象徴」
 大神はセブンスターを取り出して吸い始めた。そんな話を聞きにきたのではないのだが。
「呪いから解放されれば勃つ。自分が存在しているだけで素晴らしい生き物であると、その真理に気づけた者は呪いから解放される」
「何の宗教ですか」
 そう茶々を入れると、タバコを咥えた大神が口を歪めて笑った。たしかにな、と笑っている。
「鬱やら依存症やら、あらゆる精神疾患ってのはな。根本に家庭の問題がある。本来もらえるはずの安心感を親から貰えなかった、それが根本の原因なんだ」
「じゃあ、親に失敗した者は死ぬしかないのですか」
 ややこしい話は嫌いじゃない。だが、いざ自分事となると早く結論が知りたくなる。
「ああ、何もしなければ死ぬしかない。だがこころに溜まった膿を出し切って、そこに新しい愛情を入れ込めば生き延びることができる。呪いから解放される」
 ゆっくりと煙を燻らせながら、大神は灯りの燈る交番をぼんやりと見ている。こちらを見る気配はない。
「膿を出し切ることとか、こころに刺さった刃を抜くとか何とか言ってましたね。どうすれば抜けるのですか」
「怒りを吐き出して、その相手に受け取らせるんだよ」
 大神は即答してこちらを見た。捉えどころのない大神の表情が、いつになく真剣なものになっている。言葉を続ける。
「怒りとか、哀しみとか、紙に書き出しましょうとか言われてきたんだろう、いろんな精神科医やらカウンセラーやらに」
 相変わらず俺の人生を見てきたかのようにこの男は言う。なぜ見透かされるのか。そんなにも俺の身体は全身で何かを発しているのだろうか。
「ええ、うんざりするほど。紙に書いても、目の前に親がいると仮定して声に出して吐き出しても、余計にひどくなるだけでしたけど」
「もちろんそれで済む奴もいるけどな。お前はそんなんじゃダメだ。もっと、地獄を見るほど苦しまなきゃな」
 ははは、と他人事のように乾いた笑いを浮かべた。まあ他人事だから、この反応は正しい。
「傷が深い奴、人よりも繊細で喰らいやすい奴はそんな生温いもんじゃダメだ。刺された刃はその相手に刺し返して初めて抜ける」
 恐ろしいことを平然と抜かしやがる。生物にとって親というのは、心に巣食う魔物だ。生まれた時から強い相手、敵わない相手であると脳に刻み込まれている。そんな相手に感情を出してもぐちゃぐちゃに踏み躙られてきたから今の状態があるのに。その追体験を、いやさらに苦しいことをやれというのか。
「恐ろしいことを言いますね」
 そういうとまた、はははと大神は笑い出した。今度は他人事感ゼロの、寄り添うような温かい笑い声。
「そうだよなあ。本当に、俺も恐ろしかった。つい殺しそうになったよ」
 ガッハッハと大きく大神は笑った。笑い事ではないが笑わなきゃ正気を保てない局面だった、というのを教えてくれる。
 俺も多分、そうなると思う。いや、もう今の時点で既に殺意が湧いている。だけどそれと向き合う恐ろしさから、無数に言い訳が浮かんでくる。
「難しいですね。殺意はあるのに、怒りはあるのにそこには正当性がないんですよ。だって何やかんやで飯を食わせてくれて、寝床をくれたわけですからね」
「一回捨てられたけどな」
「でも」
「でも、なんだ。『それでも迎えにきてくれたんだから、そんな親に怒りをぶつけるなんて、なんか酷くないですか』ってか?」
「……」
「正当性なんて糞食らえだよ。子供が欲しかった愛情をくれずに、子供は常に飢餓状態だった。その傷は癒えないまま広がり続けて、結局子供を自殺させるんだ。正当性なんてくだらないこと言っている場合じゃねえんだよ」
 大神の目つきが鋭くなった。鷲のような鋭い眼光で捕捉された。この男はなぜ俺にここまでしてくれるのか。
「まあ生温いお前に関しては、あれだな。怒りをぶつけるというよりは、確認作業、って言った方がいいかもしれないな」
「……」
「なぜ俺を捨てたんだ。なぜ俺にあんなことをしたんだって、一つ一つ確認していくんだ。それで、その時の自分の気持ちを親に受け取らせて、その親の反応を見る。それを一つ一つ積み上げていくことで、刃は少しずつ抜けていく」
「受け取れるような、そんな器のある人間じゃないですよ、奴らは」
「それは言い訳だな。やる前から決めつけてただ逃げたいだけ。お前の弱さだ」
「……」
 こんなにも打ち砕かれたことはない。こんなにも鮮やかに、自分の情けなさを痛感させられたことはない。顔が熱くなる。顔面を思い切り拳で殴られるような、十数年ぶりに感じる衝撃。真正面から粉々に踏み砕かれて、もはや爽快感さえある。
「だから俺は誰とも関係を築けない。誰とも向き合えない、ということなんですか」
 不貞腐れた餓鬼のように、半ばヤケになったような口調で呟く。なぜだろうか、ずっと父親に求めていたものが今この瞬間、目の前に溢れている感覚がある。
 大神の顔は見なかった。見れなかった。間を持たせるためにタバコを取り出して火をつける。大神は何も発さなかったが、何となく空気感でどんな表情をしてるのか分かる気がする。
「親と向き合えれば、誰とでも向き合えるさ。親は最も憎たらしくて恐ろしい、最強の敵だからな」
 大神はそう言って、俺から携帯灰皿を取り上げた。いつも悪いな、と言いながら自分のタバコをもみ消している。そして俺の肩を優しく叩き、立ち上がりながら言った。
「まあ、まだ恐ろしすぎて出来ないだろうからゆっくり考えな。ここからはびっくりするぐらい早く、人生が崩れ落ちていく。万事上手くいっております、なんて冗談も言えなくなるほどにな。もうすぐ本当に死にたくなるだろうから、そんときはまたここに来い」



2008年9月22日 24時41分
栃木県足利市 藤村家
藤村 想 15歳

 自宅の駐車場。いや、養ってくださっている養父と母親の家の、砂利敷きの駐車場。田舎町は街灯が少なく、また住宅地しかないため深夜は本当に暗い。ほとんど灯りがない街の夜空は、群馬県太田市ほどではないが星が良く見える。うじゃうじゃとした発光体が夜空に散りばめられている。そんな星空を見上げながらタバコの煙を吐いていると、顔に仄かな熱さを感じた。もう根元まで吸ってしまっており、ほとんど紙と葉っぱがなくなっている。もうそろそろ時間だ、とマルボロゴールドが教えてくれている。
 殺そう。
 そう、静かに決心がついた。昨日、妹の琴葉が養父である道に階段から引き摺り下ろされていたから。琴葉は階段を数段だが転げ落ち、その痛みと哀しみで号泣していた。道は「寝かしつけようとしてもグズって言うことを聞かなかった。二階に登って遊ぼうとして言うことを聞かなかったから、一階に戻そうとしただけだ」と涼子に必死に弁明していた。明らかな虐待が決心を後押しした。
 俺は今日、恩を仇で返すのだ。飯を食わせてもらった、ただそれだけのしょうもない、偉大な親の顔に泥を塗るのだ。何が原因かと言われると困ってしまう。まだ整理がついていない。なぜ、こんなにも殺したいのだろうか。
おじいちゃんみたいになっちゃダメよ、と言われて育ったからか。
 優しくて、女の子を大切にできる男になりなさい、と呪文のように言われたからか。
 男は女を養うもの。女は男を支えるもの。そう、刷り込まれて育ったからだろうか。
 祖母が祖父に対して、「早く死んでくれればいいのに」と呟いていたからだろうか。
 涼子に抱きしめられキスをされ、愛されていると勘違いしてしまったからだろうか。
 それが勘違いだったと言わんばかりに、涼子は俺に関心を持たなくなったから、だろうか。愛されているという錯覚を取り上げられたから、だろうか。
 祖父が祖母を殴っている光景を見るたびに、祖父に殺意が湧いていたからだろうか。
 小夏から死ねと言われたからだろうか。
 涼子はとんでもない悪妻だと、父親と祖父から愚弄されたから、だろうか。
 涼子が俺のことなんかどうでもいいという態度を取り、道にだけメス顔を向けていたから、だろうか。
 だが道から愛されなくなった途端、再び俺のところに擦り寄るようになったから、だろうか。
 どれもしっくりこないが、その全てが関連しているような気もする。だがもう結論は出ているのだからどうでもいいじゃないか。昔からどうでもいいことばかり気にして考えすぎるから「想は頭がおかしい」と大人たちから言われるんじゃないか。
 道が使っている玄関前の灰皿にタバコを投げ込んで家に入る。この後の行動のためになるべく音を立てないように静かに玄関を開けたが、それでもガチャ、というたしかな音が鳴ってしまった。だが、藤村の狭い小さな家は静寂に包まれている。一階の奥の浴室から音が聞こえる。涼子がシャワーを浴びているらしい。
 玄関のすぐ側にある寝室には琴葉と道が眠っているはずだ。一階の浴室以外からは全く音が聞こえないから、多分問題ないだろう。
 道を殺す。
 そう、改めて強く自分に言い聞かせた。玄関には今日野球部の仲間にもらったRawlingsの金属バットがある。バットの柄を右手で握りしめ、ゆっくりと廊下を歩く。
 なぜ、涼子を殺さないのか。その問いが脳内にふと浮かんだ。全ての元凶はあの女ではないか、なぜ今から浴室に向かってバットを振り下ろさないのか。だがその問いと俺が向き合うことはなかった。恐ろしすぎて、一心不乱に脳内のそれを外に追いやった。
 この一年間は、より一層家庭が崩壊していった。幾多の家でも見たことのないほどの酷い光景に襲われた。保育園に通うようになった琴葉はずいぶんとたくさんの言葉を操れるようになり、猿から人間へと昇華していた。その小さな女の子は、俺が知らない間に涼子から苦しめられていたことを最近知った。琴葉の4歳児らしからぬ翳った表情は何なのか、という違和感を感じたからだ。かつての自分を見ているような嫌悪感に襲われたため、涼子と琴葉二人きりの会話を盗み聞きしたら判明した。琴葉は涼子から、道の愚痴を延々と聞かされていたのだ。やはり愚か者は死ぬまで同じ過ちを繰り返すのだ、という怒りが収まらずに涼子を詰めた。涼子は詰められた内容ではなく「子供に責められた」ことに涙を流し逆上していた。以降、琴葉には直接言わなくなったがどうやら電話で友人にいつまでもいつまでも愚痴を吐いているようだ。どうせそれも琴葉の耳には嫌でも入ってしまっているのだろう。俺も耳にしたことがあるが、そのとき涼子は「ムカつくからあいつのお茶に雑巾の搾り汁を入れてやった」と言って笑っていた。
 俺は一層、家に寄り付かなくなった。なるべく親たちと顔を合わさないように気をつけて生活をしていたが、それでもどうしても顔はたまには合わせてしまう。涼子と道の喧嘩に居合わせてしまうことも何度もあった。また借金が膨らんでいる。その返済のために涼子のバッグやアクセサリーなど、金目のものを道が売っぱらった。パチンコ屋に行っているのに「仕事だ」と嘘をついて琴葉の保育園の迎えにも行かない。その他延々と涼子は責めるが、道の耳には何も入らない。そして終いには涼子はいつも泣き出して、「お願いだから死んで。もう、死んでください。お願いします」と道に言っていた。
 まだ自殺したことはないが、まるで走馬灯のように最近の映像が脳内を駆け巡った。俺の決心を応援し、必ずやり遂げろと煽動するように。歯軋りするほどの臨場感を持った映像は、あっという間に俺の身体を道と琴葉が眠る寝室へと導いた。
 いつの間に寝室のドアを開けたのだろう。いつの間に暗闇に目が慣れたのだろう。自分でも瞬間移動したのではないかと錯覚するほど、目の前にはその光景が広がっていた。ベッドに琴葉と道が並んで寝ている。琴葉の顔はどんどん、道に似てきているから大嫌いだ。同じ顔が二つ並んで、腹が立つほど穏やかな顔で寝息を立てている。琴葉は奥側に寝ているから、それは幸運だった。手前に横たわる忌々しい道の顔に、ただバットを振り下ろせばいいだけ。琴葉には血が飛び散ってしまうだろうが、ご愛嬌だ。むしろ生きていてもいいことなんてないだろうから、一緒に琴葉も殺してあげるべきなんだろうか。
 昔はなんて大柄な男だろうと思っていたが、道はただ175cmほどしかない普通の男だと言うことに最近気がついた。俺よりただ、8cmほど身長が高いだけの、ただそれだけの男。最近は依存症が進んできたからなのか、頬がこけている。ガタイが良く「男らしい男」だったはずの男はいつの間にかヒョロヒョロの情けない男に成り下がっていた。
 なぜ、離婚しないのですか。
 先週涼子に問うた。泣きながら死んで下さいとお願いするぐらいなら、さっさと離婚すればいいじゃないですか。何をそんな滑稽な姿を晒しているのですか。みっともない。
 そう、淡々と涼子に突きつけた。涼子は泣いていた。もう俺を睨むこともなく、ただただ座り込み、顔を両手で覆い静かに泣いていた。もう怒りの顔を向け、俺の頬を叩くことも無くなっていた。
 離婚できない理由でもあるのですか。別にあの男なんか、むしろいない方が経済的にも良くなるでしょう。だから経済的な理由ではないですよね。じゃあ、何なんですか。法的な手続きが面倒なんですか。道が離婚を拒否しているから離婚が成立しない、そういうことなんですか。そう問い詰めたが、涼子は俺に顔を向けることはなかった。
 拳に力が入る。みきみきと、腕中の血管という血管に血が一気に流れるような感覚。かつてないほどの握力を感じ、金属バットを両手で握る。ゆっくりと振り上げて、頭蓋を叩き割る助走をつける。静かに息を吸い、そして吐く。最悪起きても構わない、そう思い音も気にせずにしっかりと呼吸した。頭蓋が割れ、眼球が飛び出る。頭皮からささやかな血が、琴葉の顔に降りかかる。そんな映像が浮かぶ。
 寝室の外から聞こえる音がいつの間にか変わっていた。涼子がドライヤーで髪を乾かす音が聞こえてくる。もう風呂上がり後の水分補給とスキンケアは終わっている、ということか。ショートヘアの涼子は、すぐに髪を乾かしてしまうだろう。そしてその後の習慣で、この部屋に入ってくるだろう。
ふと、思い至った。先ほど外で一服しながら浮かんでいた問いの答え。
 なぜ、こんなにも殺したいのだろうか。
 俺は涼子からの愛情に飢えているから。ただそれだけなんだ。
 女性を大切にする男であれ。その呪文を徹底していれば、いつか涼子はちゃんと俺を愛してくれるのではないか、とそんな幻想を抱いているからだ。そして道は、そんな俺の呪いに反する最低な男だから、それを殺すことこそが俺の仕事なのだ、とそう囚われているのだ。
 そしてこれは復讐なんだ。俺を大切にしなかった涼子への復讐。娘を鬱病に追い込み、息子を殺人犯に追い込んだ最低の、生きる価値のない人間。そう涼子に絶望させ、己の過ちを悔いて俺に謝罪させること。だから、こんなにも殺したいのだ。
 ドライヤーの音が消えた。浴室のドアが開き、女が歩いてくる音が聞こえる。音はだんだんと近づいてきている。
 早く、早く。早く振り下ろさなければ。だがそう思えばそう思うほど身体は硬直し、言うことを聞いてくれない。全身が震え出し、全身がそれを拒絶している。意識は身体の奴隷だということを、まさに身体に突きつけられている。
 もう、無理だ。怖くてできない。人の命を握りつぶすなんて、所詮現実から逃げ続ける俺には無理なんだ。恐ろしい。怖い。情けない。女の足音がすぐそこまできた時に俺は観念した。だからその後はもう、ただの滑稽なパフォーマンスだ。バットを振り上げたままの状態で身体を固定する。振り下ろすつもりもないのに。
 ドアが開けられた。涼子は電気をつける前にその光景に小さく悲鳴をあげた。ドラマのような、大声で悲鳴をあげて、そして「何やってるのよ!」と泣き叫びながら俺に突進してバットを取り上げるような、そんな強い女優を期待したのだが。ある種期待を裏切らない、弱く情けない女がそこにはいた。
 あっけに取られ、呆然と立ち尽くしている涼子。電気をつけることもなく、ただ廊下の電気だけが寝室を照らしている。ただ呆然とする母親と、バットを養父に向かって振り上げている思春期の息子。間抜けな絵面だけが切り抜かれ、その場に置き去りにされている。
 人間は驚きが過ぎると機能が停止するようだ。大声をあげるなんてもっての外。身体は硬直して動くことができない。顔はただ筋肉が緊張して引き攣り強張った、いわゆる「驚いている」表情だけを作る。口が微かに開いたままの、滑稽な顔をしたままの涼子。だが数秒経過した今、徐々に顔の筋肉の緊張が解かれ言葉が絞り出される。
「な……何してるの……」
 一滴の涙も流すことなく、得体の知れないものを見るような目つきを向けてくる。涼子は俺に近づくことはなく、むしろ後退りを始めた。旦那を、そして娘を守ろうとするのではなく、自分の身体を優先させた。
 結局、親といえどもそうなのだ。子供なんて二の次三の次なのだ。命に換えても子供は守る、なんていうのは結局人間が作り出した幻想。物語の世界だけの話。いざ自分の身体が危険に晒されれば、自分の身体を一番優先して守る。シンプルな原則なんだ。だったらなんで子供なんて産んだのですか、あなたは。その疑問だけが膨れ上がり、俺の身体から力が急速に抜けていった。だらん、と腕に力が入らなくなり、バットは空中から地上に堕ちた。
 腕をゆっくりおろして、バットは優しく置いたつもりだったが。想像以上に大きな音で床に落ちてしまった。ごっ、と低い音が寝室に響く。その衝撃音で、琴葉と道が目覚めてしまった。そして同じ顔の二人は同じ顔をして飛び起き、俺と涼子を交互に見ている。もう4歳になる琴葉は赤ん坊のように泣き出すことはない。ただ異様な雰囲気だけを感じとり、顔が強張っている。道も俺と目があったがすぐに逸らして、妻の顔を見ている。なんだ、なんなんだこれは、と。
 本当にくだらない人間だということがよくわかった。道も涼子も、俺もどうしようもなく醜い弱い人間だということが。醜い人間が寄せ集まって家庭なんて作るから、そこには悲劇が産まれるのだとよくわかった。俺は寝室の出口に向かって歩き出す。出口の前で立ち往生していた涼子はハッとして、まるで他人のように仰々しく身体を動かし、道を空けた。



2022年9月7日 16時46分
東京都町田市 依存症回復施設
幾多 想 29歳

 暦は秋に突入しているが、その暑さは一向にとどまるところを知らず。熱中症が人々を容赦無く殺し回っている。駅から降りて徒歩で十数分歩くと、身体中に汗が吹き出す。空はうんざりするほど真っ青で雲はところどころ点在しているだけ。だが流石に夕方前ということもあり、うっすらとオレンジ色が空を侵食し始めている。風も涼しさを帯びようかどうしようか、と窺いを立てるような控えめな印象。この日中の明るさが影を落とし始める時間は好きだ。何ともいえない哀愁が心に立ち込める感覚が好き。煙が体内に侵食して汚し始める時の感覚に似ているからだ。
 施設内の涼しい喫煙所でタバコを吸いたくなる。そう思い、少しだけ歩みが早くなった。あっという間に目的の施設に辿り着き、玄関を開けて職員部屋に顔を覗かせる。お疲れ様ですとスタッフの方々に挨拶をし、まっすぐ喫煙所に向かう。利用者たちは一名を除き、もう施設からいなくなっていた。俺は喫煙所を独占し、煙を満喫する。
 17時から、とある問題児との面談が入っていた。だから今日はこの施設に顔を出している。その面談の依頼主である施設長が喫煙所に入ってきた。非喫煙者のこの女性は、俺が煙を満喫している中でもお構いなしに話を切り出してきた。
「今日、きてもらってすみません。よろしくお願いします」
 そう、施設長は言った。丁寧で真面目なこの人は、精神保健福祉士、社会福祉士という国家資格を保有したソーシャルワーカー様だ。
 いえ、また面談終わったらお話しましょう。
 俺はそう言って、喫煙所の時計を見た。時刻は16時58分。面談対象者の問題児はすでに地下の面談ルームにいることを、施設長の方が俺に伝えた。
 あんな奴は待たせておけばいいですよ。
 流石に真面目で丁寧な福祉職の方の前でそんなことは言わなかったが、もう一本タバコに火をつけた。顔を見た途端イライラして殴りたくなってしまうから、事前にヤニを体に充満させておかなければいけない。その様子を見て、施設長の方は何ともいえない表情を浮かべている。
 すみません、私たちでは説得できなくて……
 施設長の方は、表情とは真逆の発言をした。本当は時間通りに俺に面談に臨んでもらいたいのだろうが、それを言うのは憚られるのだろうか。別に言ってもらって全然構わないのだが。それに従うことはないが。
 我々は、彼らに対して説得する必要はないのですよ。
 俺は努めて穏やかに、施設長に伝えた。自分の命を守るために、回復するために努力すること。それは本人が決めることなのですから。逆にいえば、それは本人が望まなければいくら他人が言ったところで意味がないのですから。我々支援者がすべきは、その回復の道を常に示し続けること。常に手を差し伸べ続けること。その手を握るのは本人たちが決めることなのですから。逆に度を超えた行為、「説得しよう」という行為は本人の依存を高める行為であり、甘えを生む行為ですから。躍起になって説得しようとするのはむしろ好ましくありませんよね。
 折を見て、職員のみなさんにはこのような話をする。依存症者に関わることは、精神を削り散らすことだ。支援者が依存症者に弱みを握られて引き摺り込まれて、依存症本人になってしまうケースは珍しくない。人と関わることにおいては原理原則が存在する。その原理から外れた行動は己の身を滅ぼし、関わる対象の身も滅ぼす。だがどうしても、この施設長はそんな俺に対して、「冷たい」という感覚を持っているようだ。
 我々は、彼らに対して説得する必要はないのですよ。
 そう伝えた後の彼女の顔はやはり、何ともいえない表情をしていた。
 
 17時を少し過ぎた。地下に降りるとそこには涼しい顔をした憎たらしい小林の顔があった。8月22日から精神病院に解毒入院していたはずの小林がなぜかここにいる。本来は3ヶ月ほど入院が必要なのだが、この馬鹿野郎は2週間ほどで出てきてしまった。医療保護入院ではなく、あくまで本人の人権を重視した自発的な入院であるため、本人が「退院する」と言ってしまえば病院としてもなす術がない。
 まだ脳内に酒が残っているはずの小林は、スッキリした表情で太々しく椅子に座っている。幻聴だろうか、巨漢の小林が座っている椅子からは悲鳴の声が聞こえる。俺が面談ルームに入ってきたことを確認すると、不貞腐れた顔をして、気持ち程度にぺこ、と頭を下げた。
「ども」
 俺が椅子に座る前に、小林が意味のない発言をした。小林を見ると、以前のように挙動不審で目を逸らすこともなく、真っ直ぐに俺を見ている。何かを決心したような、そんな表情を浮かべている。
「なぜ退院したのですか」
 そう、小林に問うた。意味のない回答が返ってくることは明白だが。
「もう、大丈夫だからです。お酒も抜けましたし」
「それはあなたが判断することではないです」
 それは医者が判断することです。そう返すと、小林は目を逸らした。が、すぐにまた俺の目を見据える。
「もう大丈夫なんで。お酒飲みたい気持ちも今はないんですよ」
「今だけですよ。またすぐに飲みたくなります」
 依存症という病に対して、何も取り組めていないのだから。その根底の原因が、何も解消できてないのだから。
「いや、なんかもう、大丈夫な気がします」
 小林は怯まずにそう応えた。俺は絶対にもう譲らないんだ、そう決心してきたんだ、という強い意志が窺える。先ほどの施設長や他のスタッフ、入院中のお医者様やソーシャルワーカーさんたちから死ぬほど説得されたのだろう。だがそれを掻い潜って、ここまで辿り着いている。こうなった依存症者には、何を言っても響かない。施設長の彼女は俺に、この小林を改心させるための魔法の言葉を期待しているようだが、そんなものはこの世に存在しない。というか、存在してはいけないのだ。
「そうですか。頑張ってください」
 自分でも冷たいな、と思うほど何の情緒もない声が出た。愛情のかけらもない声が出た。そして小林は、まるで親から突き放されたような顔をしている。今までダメと何度も言われてきた親から、急に冷たく「もうあんたなんかいいわよ、好きにしなさい」と言われた時のような、そんな顔をしている39歳児。
「うちの施設はどうしますか。通い続けたいですか」
「……」
「強制ではないですから。別にあなたが効果がないと思うのであればそれが全てですよ。役所の生活保護担当にも、説明してあげますから」
 機械のように、淡々と言葉を続ける。俺と戦おうと決心していたはずの小林の強い瞳はあっさりと消えており、少し俯き机を見ている。小林は潜在意識下で、引き止められたかったのだろう。そしてそれを拒絶することで、自分の不安な心を紛らわせたかったのだろう。そうすることで、「自分の課題と向き合う」その怖さから逃げたかったのだろう。
 まるで、お前を見ているようだな。
 大神の声が聞こえた。今すぐにタバコに火をつけたくなる。小林の汚らしい顔面を見ている自分の眉間に皺が寄っていることに気づいた。
 小林は目を逸らしたまま。言葉を発そうとしない。その弱い様が余計にイライラさせた。
「正直……プログラムを続けても変わる気がしないんです」
「何度も言っているでしょう。それはあなたが奥底の本音をミーティングで出さないからですよ」
「……」
「自分の感情と向き合わないから。内省から逃げ続けているから。甘ったれるのも大概にしなさい」
 あっははははははは、と笑い声が脳内に響く。図太く低い、ヤクザ男の笑い声が。
 小林は俯いたまま。30秒ほど言葉を待ったが、小林からは何も出てこない。出てくる気配がない。俺は立ち上がり、面談部屋を後にしようとした。すると小林も立ち上がり、俺の顔を見た。
「就職します」
 小林は力のない瞳で俺を見た。顔はほのかに赤くなっている。図星を突かれ、言い返したいが何も言い返せない時の、感情が顔中に溜まっている時の表情。
 引き止めて欲しいんですか。
 そう薄ら笑いを浮かべながら突きつけたかったが、流石にそれは意地悪すぎるか。俺個人の憂さ晴らしをしたいがための、それこそ幼稚な振る舞いだ。
「そうですか。頑張ってくださいね。あなたならすぐに、年収1500万の時代に戻れますから」



2010年8月29日 14時33分
栃木県足利市 藤村家
藤村 想 17歳

 高校二年の夏。地元の進学校である足利高校に入学し、大学進学だけを目指す生活を続けていた。だが親への溢れんばかりの怒りと勉強のストレスが身体を破壊し、鬱病とパニック障害を発症していた。精神科医から大量の薬を出されて薬漬けとなり、高校にまともに通えなくなっていた。今は夏休みだから問題ないが、9月になれば学校が再開する。今はまともに眠ることができず、明け方の4時に気絶するように眠り昼の13時ごろに起きる廃人生活を送っているから、高校に通うことはできないだろう。高校は辞めなくてはいけないかもしれない。勉強は高校に行かずとも自分で進める方がむしろ効率がいいから全く問題はないのだが。問題は、参考書を開くと手のひらが汗ばんでどうしようもなくなること。呼吸が浅くなり気を失いそうになること。こればかりはどうにかしなくてはいけない。だがどうすればいいのかもわからない。せっかく幾多隆之を抱き込んで「大学の金は出してやる」と言わせたのだから、どうにかして大学に受からなくてはいけない。このクソみたいな生活を抜け出して、エリートの道を歩み、こけにしてきた大人たちを踏み潰し縁を切ってやらなくてはいけないのだ。
 そんな考えに囚われて、もう一時間以上が経過している。藤村の家の2階の自室のベッドに横たわり、ただ天井を見ているだけ。ベッドに固定された入院患者のように、何の表情も浮かべずに横たわっているだけの廃人。
 鬱病になったとき、隆之から電話が来た。
「想、大丈夫かー? なんかお母さんから聞いたぞ、想が頭おかしくなっちゃったって」
 携帯のスピーカーから、バカみたいな無神経男の声が聞こえた。だから何も応えずに電話を切った。母親と父親が、俺のことをどう捉えてどう話していたのかが手に取るように分かる。猛烈な殺意を覚えた。
 当時の記憶が蘇り、軽く発狂した。発した動物のような声は小さな自室に響いたがすぐに消えた。ベッドと勉強机が置いてあるだけの小さな自室。白い壁と天井はヤニですっかり黄ばんでいる。
 先日、道が逮捕された。勤務先の金を横領したからだ。何度も涼子や愛人や実の母親から金を無心して凌いでいたが、ついに首が回らなくなったようだ。藤村の家から道はいなくなったというのに、家の中には変わらず冷たい空気が流れていた。冷たいだけならまだしも、道がいなくなるよりも更に澱んだ空気が流れていた。人間としての温かみも、会話もない家。涼子と琴葉と俺の、鬱々とした気が換気されることなくただ充満している家。この家では誰もが病気になり、人間としての正気を保てなくなる。
 もう24時間、何も食べていない。さすがにまだ死にたくないから、鉛のような体を起こして自室を出た。階段をよろよろと降り、リビングに向かう。一階のリビングには誰か来ている気配がある。涼子の友達だろうか。バット振りかぶり事件後、涼子と俺の間には深い溝ができた。生まれた時から存在していた溝は、もはや修復不能なほど深いものに思われた。必要最低限の事務連絡しかない。それも携帯のメールで済ませることが多く、最後に口から発する言葉でやりとりしたのはいつだろうか。一週間ほど記憶を遡ってみたが思い当たらない。
 リビングのドアを開けると、妙な来客がいた。一度だけ顔を合わせたことがある、道の母親と父親がいた。そして対面の入り口側の下座には涼子が座っている。6歳になる琴葉の姿は見当たらない、友達の家にでも避難しているのだろう。
 道の両親の面は憔悴し切っていた。妙な来客だと思ったが、妙ではないことに気づく。息子が逮捕されたのだから、その嫁に顔を出すのは当然か。しかも金を無心させてしまい迷惑をかけていたのだから、余計に当然か。別に謝る必要ないのですよ。このバカ女が好きでやっていたことなのですから。
「あ、想くん……こんにちは」
 道の母親が俺をみて言った。まだ60代であるはずの道の母親はすっかり老け込んで70代後半に見えた。
 どうも。俺は目も合わせずに頭を下げた。
「ちゃんと挨拶しなさい」
 涼子が俺を睨み、母親面をする。
「どの面さげてそんなことを言うのですか」
 そう涼子に丁寧に伝えると、涼子は顔を赤くした。久しぶりに見る、涼子の感情の乗った顔。義両親の前で恥をかかされ、この女が何よりも大事にする「世間体」を傷つけられることは耐えられないようだ。涼子はおそらく怒鳴ろうとしたのだろうが、義母が止める方が早かった。
「いいのよ、涼子さん」
 義母はそう言って涼子を宥めた。そして、想くんごめんなさいね、と何に謝っているのかもわからない言葉を発した。俺は意味のない発言に応じるべく義母と今度は目を合わせて、いえ、こちらこそすみませんと意味のない言葉で応じた。
 そして俺は狭いリビングを抜けて、狭いキッチンに向かう。この家には、幾多家時代に愛用していた軟水のペットボトルはない。キッチンの流しの蛇口を捻り、水道水をコップに入れる。喉を潤しながら、飯をどうしようかと考えた。まさかこの場で食うわけにもいかない。ただでさえ不味い飯がいよいよ食えたもんじゃない。
 なぜだろう、この間、一度も声が発せられなかった。別に俺をみているわけでもないが、明らかに俺の存在を意識している空気が流れている。道の母も父も、涼子も、誰もが口を開かない。俺がリビングに入ってくるまでは確かに何かを話していたはずなのに。空気は藤村家独特の、首を締め上げるような冷たい空気が流れている。
 邪魔なんですね。
 そう気づき、俺はキッチンを出てリビングを立ち去ろうとする。もういいや、コンビニに行こう。あとで涼子にメールして経費精算すればいいや。そう考えながらリビングを出ようとした時に、道の母が想くん、と呼んだ。
「はい」
「あの……本当に、ごめんなさいね。あの子、想くんにも嫌な思いをたくさんさせたでしょう」
「……」
 道の母親の声は優しかった。幾多家にもその親族にも、誰一人としてこの声を持った人間はいなかった。身体に嫌悪感が走った。電気のように走り、怒りで固まり切った身体を溶かすような映像が浮かんだ。気持ち悪かった。目頭が熱くなってきた。金属に爪を立てるような不快感。
「本当に、ごめんなさい。まさか、こんなことになるなんて……本当にダメな母親で、ごめんなさいね」
 道の母親は残酷だった。気持ち悪い妖怪だ。こんな言葉を捻り出せるのなら、その想像力を道に注ぐべきだったのだ。それができないから、この現状があるわけで。そう言っておけば良い、という打算の色を感じてしまう。本当にズレのない、最低限の愛情と強さのある人間であれば、子供はああはならないのだ。
「いえ、よかったじゃないですか」
 道の母親の優しい言葉に、優しい声色で返した。少し空気が固まった。道の母親と父親の表情も同様に、僅かに固まった。そして涼子の顔色は今にもまた真っ赤になりそうだ。
「逮捕されてよかったんですよ。これで彼も変わるかもしれません」
 一瞬にして凍りついた。漂う空気の流れが完全に止まった。穏やかに取り繕っていた道の母親の、化けの皮が剥がれた。礼節をわきまえ、他人様に丁寧に接し愛情がある母親アピールするための顔の皮が剥がれている。冷酷で、他人にも自分の子供にも本来は関心も想像力もない畜生の顔が浮かんでいる。
 なんて事言うの
 ついに涼子は怒鳴った。久しぶりに怒鳴った。義両親が目の前にいるから怒鳴る力をもらえたのだろう。
「本当に、なんて子なの……」
 謝りなさいよ。謝りなさい。そう、世間体を上乗せしたとてつもない怒りを涼子は俺にぶつけた。俺は涼子の目を見た。それは、何の怒りですか。義両親の心を傷つけてしまったこと、それへの申し訳なさでしょうか。いいえ、あなたはそんな人間ではないでしょう。ただ、自分の子供がそんな発言をして、それへの非難の矛先が自分に向くこと。それがただただ、恐ろしいのでしょう。
 いいですか、涼子さん。本当にこの場にいる人間たちが、愛と想像力のある人間であればそんな愚行はしません。子供がそんな発言をしたのなら、まずはあなたは深く、義両親への謝罪をする。そして子供に、なぜそんな発言をしたのか確認をするのです。だって、建前的には義両親もあなたも、私を育てる大人たち、なのでしょう。であればあなた方三人は、自分の醜い建前や感情を守ることに躍起になるのではなく、こどものこころを第一に考えて寄り添うべきではないのですか。
 こんな言葉は、言ってもしょうがないだろうな。所詮は俺の甘え、頭のおかしいメンヘラの戯言。相変わらずややこしい、訳のわからないことを言う子だわね、と侮辱されて終わるのだから。そんな恐ろしい真似をするなら黙って本音を隠すのが正しい行動でしょう。
 ほら、見てくださいよ。道の母親、今本当に恐ろしい顔をしていますから。



2022年9月20日 20時08分
東京都港区赤坂 リッツカールトン東京45階
幾多 想 29歳

 大神と最後に会ってからちょうど一ヶ月が経過していた。いよいよ秋も本格的に始まろうとしている。日中は相変わらず暑くてうんざりするが、夜は若干の涼しさを感じる。羽織るものを持ち歩こうか毎日悩み、結局は面倒くさがり持ち歩かずいつも後悔する。今日も後悔しながら六本木に降り立ったが、リッツカールトン内はいつも空調が完璧である。19時50分には到着し、こころを整えている。待ち合わせ相手も想定通り遅刻しているから助かる。だいぶ息は整ってきた。10数分の時間と、このラウンジの薄暗さと優雅な内装とピアノ演奏、十分過ぎるほど高い天井が生み出す空間の余裕。眼下に広がる六本木、麻布、青山の夜景。全て絶妙に絡み合い、鬱々とした気分を和らげてくれる。
 ここからはびっくりするぐらい早く、人生が崩れ落ちていく
 大神の予言はその通りだった。大神の暗示にかかっているが如く、一日を積み上げていくごとに、鬱の感覚が強くなっていく。明日がくるのがどうしようもなくうんざりする。憎き祖父のように、夜に度を超えた酒を飲むことが増えた。そして気絶するように意識が落ちる時に願う。このまま人生が終わっていないかな、と。
 だが人生は簡単には終わらない。終わらせてくれない。昼過ぎに目が覚めて、そこから気持ちばかりの仕事をこなし、またベッドに横たわる生活が続いていた。人に会うのが辛い、だからなるべく人とは会わない。最低限のタスクとして、凛と仕事上必須な人との絡みだけ。この一ヶ月、衝撃的な事件が起こった、なんてことはない。ただ一秒一秒、この世界から受け取る信号がどうしようもなく気怠いものであると、そう思わされるようになった。スタッフとのなんてことない関わりにもイライラする。何より、問題児の小林の振る舞いがストレスでしょうがない。本来は慈愛を持って接した方が良いのであろうが、どうしようもなく殺意が湧いてくる。
 せっかく整えたこころがガラガラと崩れてしまった。自分の首や肩、背中が強張り痛くなっていることに気づく。顔もおそらく険しいものになっていると気づいた時に、「ごめ〜ん」という声とその主が現れた。
 雪のように白く、相変わらず儚げな雰囲気の凛がこちらに歩いてくる。162cmの凛は高いヒールを履き、背丈が170cmを超えている。隣で歩くと俺よりも少し大きい凛が、柔らかい笑顔でゆっくりと歩いてきた。今日は全身黒の、タイトなニットワンピース。長く、ゆるく巻かれた髪。近づけば近づくほど香る甘ったるい匂い。男ウケをそのまま体現したような彼女はこちらに目線を向けていたが、テーブルの前につくと視線を椅子に遣り、カバンを置きながらゆっくりと腰掛けた。
 凛は付き合ってから一度も、同じ服を着てきたことがない。以前、慎重に言葉を選びながら「なぜ毎回服が違うのか」という旨の問いをした。いくら服が好きな女性とはいえ、毎回違う服だからクローゼットがえげつないことになっているはず。まさか、会う前に毎回買っているのか。その旨の問いをした時に、凛はふふ、と笑って答えなかった。だが少し間を置いた後にいった。「かわいく見られたいでしょ」と。
 凛を見ているのが辛い。凛と会うのが辛い。この一ヶ月は、薄々以前から感じていたその感情を明確に認識するようになった。凛の顔を見ていると、俺の顔を見ているような気持ちになる。必死に武装し、決して他人に弱みを見せない。猫のように床にごろんと転がり腹を曝け出すことなど、恐ろしすぎて絶対にできない。奥底の本音を認識することなく。そこに手を突っ込んで醜い自分と向き合う勇気もなく。本音を提示してこころを相手と交わすことをしない。彼女彼氏の関係ではいるが、毎回のデートは互いに牽制し合い「こうあるべき」を演じるだけの舞踏会なのだ。終わりのない、そして延々に死ぬまでテンポアップしていく踊りを、俺はいつまで続ければよいのか。
 逃げ出したい。終わりにしたい。凛の痩せこけた頬と首周りを見ながら、今そう強く認識している自分に気づく。162cmであれば、本来は50kgぐらいが適性体重だろう。凛は以前、45kgになっちゃったー、と言っていた。今はその頃よりもさらに痩せているから、もう40kgぐらいなのではないか。友人からも「すごく痩せたね……」と言われているらしい。普段から付き合いのある女性の美容クリニックの医師からは、元々の摂食障害が戻っているから今すぐ入院した方がいい、と言われたらしい。最近の凛を抱いていると、屍を弄んでいるような感覚に陥りゾッとする。
 俺がぼんやりと別のことを考えている今も、凛は目の前で楽しそうに話している。仕事の話や、今度はここに行きたいね、という話。俺は取り繕って会話を膨らませてそれっぽい雰囲気にするのは得意だから、難なくその場を回せている。が、全く意識はここに在らず。身体だけがその場に固定され、意識は優雅なピアノの音色の上でふわふわと漂っている。
 凛の頭上に常に浮遊している数値。俺の醜い呪いが生み出す点数。高得点を弾き出していたはずの凛の点数が、ここ最近でみるみる下がっている。インスタグラム上では多数のフォロワーを抱え支持されているはずの彼女。世間の評価、世間の人間の感覚は狂っているのでは。頭がおかしいのでは。違うか、狂っているのは俺か。
 もう二度と、太っているなんて言われたくない
 付き合ったばかりの頃、凛が言っていた言葉を思い出した。凛は母親から、「あんた太もも太いわねえ」と言われた。通っている幼稚園の男の子から、お前足太いなと言われた。母親を殴っていた父親の影響もあるのだろう、男という存在になんとなく嫌気が差した凛は「男の子がいない学校がいい」と母親に言って、エスカレーター式の女子校に入学した。
 一ヶ月前、誕生日を祝ってもらってから凛との間に亀裂を感じるようになった。それから何度も会ってきたが、会うたびに凛とのこころの距離を感じてしまう自分がいる。今まで目につかなかった凛の姿にもいちいち反応してしまい、喰らってしまう自分がいる。よくわからないスポーツカーを目にした時の、「かっこいい。いいなあ」という発言とその時の表情。普段凛が関わる成功者たちとの関わりの様子。凛に言い寄ってくる男たちの外見と経済力と、男としての弱さ。その弱さを木っ端微塵に打ち砕いて処理しても、もう陶酔感を得ることができなくなっていた。
 凛はすごく可愛いよ。すごく綺麗だよ。会う度に、自分が言いたい分量を超えて凛にそれを伝えてきた。凛がそれを求めていると思ったから。だが結局それは、凛の病を加速させてしまっただけなのかもしれない。自分の病巣、その根源から目を逸らさせて、人生の課題と向き合う恐怖を和らげていただけなのかもしれない。凛が病的に細くなり始めた時、「正直、辛い」と凛に伝えた。俺がそうさせちゃったのなら申し訳ない。でも、どんどん痩せていく凛を見るのは辛い。痩せ細った凛よりも、健康的で健やかに笑う凛でいてほしい。そう明確に伝えたが、凛には届かなかった。そう伝えた時、凛はなんとも言えない表情をしていた。そして続けて、凛のことが心配なんだ、と伝えた。だが。
 大丈夫よ。
 そう冷たく言い放った凛の表情が忘れられない。細く柔らかい声の主の姿はどこにもなかった。
 何が大丈夫なんだ。
 俺はそう言ったが、それも凛には届かなかった。
 大丈夫なの。ちゃんと食べてるから。
 食べてるって? 今も一日一食だろう。しかも、その食事だって量が少ない。
 ……。
 食事の量を増やさなきゃ、体重は元に戻らない。
 だって……想くんに綺麗って思われたいから……。
 俺は健康的な凛でいてほしいって、いつも言っているよね。
 ……。
 そうして凛は、口を開かなくなる。かつての俺の母親のように、だんまりと口を閉ざすのだ。
 恋愛ごっこ。なんの茶番なのだろう。「だってあなたに綺麗って思われたいから」というのは、本音だが本音ではない。そのことに、凛は気づいているのだろうか。
「想くん」
 目の前の凛に呼ばれた。やってしまった。凛は怒るでもなく、哀しむでもなく、心配するでもなく。特に表情のない顔で俺を見つめている。どうしても怒りを思い出してしまい、凛の話に対応できていなかったようだ。
「最近、そうなること多いね」
 凛は大きな目をこちらに向け、柔らかい声で言った。責める声色ではないが、凛の気持ちはなんとなく分かっているつもりだ。ああ、ごめん、と返した。もう、結論ありきの対話をどこかでしなくてはならない。それは、もう今なのかもしれない。
「今日ご飯食べた?」
 今日初めて、意識が乗った言葉を吐いた。
「……」
 またその話か。凛はそう思っているのだろう。そんな思いは微塵も表情に出さないところが、凛の素晴らしいところ。
「まだなんだね。じゃあこの後、ご飯食べに行こう」
「……うん」
 凛はまた、笑顔をつくってくれた。柔らかく愛嬌に満ちたその笑顔が大好きだったのに。
 何食べたい。和食がいい。そんな他愛もない普通の恋人同士の会話を続ける。だが、まだこの席を立つ気にはなれない。
「俺、会社を畳もうと思う」
 唐突に切り出した。誰にも言ったことがない本音。もちろん凛にも言ったことがない本音。というか、凛に本当の気持ちを伝えたのなんて、今が初めてじゃないか。案の定、凛は反応に困った表情をしている。
「今すぐにじゃないけど。売却できるなら売却して、今の仕事を辞めたい。もう、今の仕事を続けていたら本当に鬱になる気がする」
「……」
「作家になりたいんだ。小説で、食べていきたい」
 あ、そうなんだ……と凛は小さくいった。凛のいつもの「俺がどういう反応をしたら喜ぶか」という思考が停止している。素の凛がどう思っているかにショックを受けつつ、今やっと人間と人間の会話が始まろうとしていることに微かな嬉しさを覚える。
 凛には、いくつか小説を読んでもらったことがある。面白いね。なんかすごく考えさせられるね。そう言ってくれた凛の顔の奥に浮かんでいるものは、発言とは対照的なもの。凛は残酷だった。
「作家として生きて、田舎の海辺の小さな家で穏やかに暮らす。そういう暮らしが理想なんだけど、どうかな」
 え、なんかプロポーズみたい。そう言って凛は微笑み、俺もまた微笑む。空気を和ませる凛に感謝するが、二人ともそれが真意でないことは分かっている。
「いいと思うよ、すごく」
 凛の本来の表情が覗かせる。好きな男の顔色を窺う、ではなく、本来の強さを持った魅力的な彼女の素顔。いいね、私もそういう暮らし好き、ではない回答。そういう意見もあるわよね、という至極他人事な回答。
 俺は本当にずるい。どんな自分でも愛してもらえる、という実感を得たいがために独りよがりな振る舞いをしている。彼女を試すような発言。俺の呪札が俺を責め立てる。みっともない男だな。そういうことは売れて実績作ってから言えよ。もう成功して、確実に作家としてあなたを養える男なのですよ、とアピールできる状態を作ってから言えよ。
 だがふと思う。もう成功して、なんなら俺よりもはるかに稼いでいる彼女は、そんなことを望んでいるだろうか。いわゆるそういった男らしい男を望んでいるのであれば、いくらでも資産何十億という男は周りにいる。元彼も凄まじい経済力の男であることは、付き合う前の段階から知っている。そうではなく俺を交際相手として据えている彼女は、いったい何を求めているのだろうか。「俺が養ってやるよ」という男を、彼女が求めているとは思えないが。
 もう出版社の人と話しているの。そういう発言が飛んでくるかと思ったが、凛からは想定外の言葉が飛んできた。
「また、会社はやらないの?」
 凛はこともなげに聞いてきた。え、と思わず言ってしまった。ああ、と間を繋ぐだけの言葉を発しながら、凛の意図を読もうとするが全くわからない。
「会社、やったほうがいい?」
「いや、別に小説なら会社やりながらでもできるし。というか会社を上手く回しちゃえば、あとは社員の方がいてくれればそれで収入は入ってくるんだから、そうなったら好きなだけ小説書けるでしょ」
「……」
 ああ、そういうことですか。
「たしかに、凛の言うとおりだね」
 再び、いつもの魂の乗ってない言葉を吐いた。俺の中で急速に何かが冷めていく。また本来の弱い、人と向き合えない自分に戻っていく。だがそれでは今までの自分と同じ、大神に小馬鹿にされる自分と同じ。足掻きたい。
「凛はさ、会社をやってない俺はあんまり好きじゃない?」
 足掻いた結果、どうしようもなく女々しい言葉を吐いてしまう。そして思ったとおり、凛の顔が困惑を浮かべる。一気に冷めた顔をするものと思ったが、そこまではいかなかったことに少し驚く。
 え、いや、そういうことじゃなくて……と凛は言葉を紡ぎ始めた。
「想くんはすごいんだから、普通にそうしたほうが良くない?」
 本来の凛か、男がこう言ったら喜ぶのではモードの凛なのか、どちらかわからない。だがいずれにしろ、幾多想という生臭い人間はこの女性の脳内にいないことはよく分かる。
「俺は……いや、情けないんだけど。本当に、やりたいことがないんだよね。こういう事業をやりたい、とかなくて。文章を書くことが好きで、それ以外をやろうとすると、気が重くなって鬱っぽくなるんだよね」
「たぶんそれは、想くんがまだ知らないだけだよ」
 珍しく、というか初めてか。凛が俺の言葉に被せるように即答してきた。
「想くん、ずっと家の中にいてあんまり外に出ないでしょ。もっと外に出て、いろんな人と出会って話していく中で、これ面白いかもっていうものに絶対出会えるから」
 見たことのない凛がそこにいた。本来の強く、弱者の感覚を持ち合わせない気高き女性が目の前に聳えている。がっちりと、檻に閉じ込められる感覚を覚える。
 ああ、そうだね。たしかに、その通りかも。壊れた機械のように、力無く呟く自分がいる。その間も凛が何やら力説しているが、耳が聞こえなくなったように、頭に入ってこない。
 懐かしい。10年以上前の光景が目の前で駆け抜けていく。俺がいつ、会社をまた興して稼いで、その空き時間で小説を書きたいと言ったのだろうか。涼子や隆之、幾多の家の人間も皆そうだった。絶対にこうしたほうがいいのだから。どう考えたってそっちの方が正しいのだから。だからそうすべきでしょう、そうしなさいよ。え、なんでそうしないの。
 頭が痛くなってきた。KOされてしまった。本当に凛と向き合い、分かり合える余地はまだ死ぬほど残っているのだろう。大神が横にいてくれたのなら、俺の弱さを全て打ち砕いてくれるだろう。だが今の俺には、何をどう向き合い、確認作業を進めればいいのかわからない。
 凛はさ、俺のどこを好きでいてくれてるの?
 唐突にその言葉が浮かんできた。気持ち悪すぎて鳥肌がたった。なんて女々しい問いなのだろう、自分が相手に対してその答えを持ち合わせていないのに? 
 じゃあお前は凛のどこが好きなんだ。表面的な部分以外で、彼女がいたく感動するような、嘘偽りのないものをお前は持ち合わせているのか。
 ……。
 そう、それが全て。女性は男の鏡だ。お前がそうだから女性もそうなんだ。
 自分で自分に打ちのめされていると、いつの間にか凛の力説は終わっていた。凛は口を閉じ、どこか力の抜けたやるせない微笑を浮かべている。それが何よりも恐ろしく、再び鳥肌がたった。
「なんか、私だけ頑張ってるね」
「……」
「ごめんね、独りよがりだったね」
 そこにはもう、男に媚びる気配を微塵も漂わせない強い女性がいた。凛と最初に出会った頃の、人を寄せ付けない波動を放つ経営者の彼女がいる。急激に冷静になり、盲目から放たれた彼女。盲目から解放されれば、人は人間と関わるときの原理原則を、それを知っている者であれば思い出す。盲目からなぜ解放されたのかは言うまでもない。だからこんなにも俺は絶望し、恐怖に怯えているのだ。
「想くんは、そんなこと望んでないのにね。押し付けちゃってごめんなさい」
 凛は穏やかにそう言うと、また柔らかい表情を浮かべた。



10

2022年10月4日 24時47分
神奈川県相模原市 相模原南警察署
幾多 想 29歳

 暦に沿った気候にいつの間にか変わっていた。この二週間ほどは抜け殻として過ごしていたから、例年以上に肌寒さを感じる。Tシャツにジャケットを羽織り、久しぶりにこの相模原南警察署に訪れている。約一時間前、自宅で床に横たわっていたらスマホが振動した。画面には「相模原南警察署」と表示されている。顔見知りの警察官さんからの着信。よくうちの利用者さんがお世話になっているから、そのやりとりはいつも通りのものだった。
 いつもすいませんね。ちょっと、柄受けにきてもらえませんか。
 警察官さんは電話越しにそう言った。いえ、こちらこそいつもすみません。そう応え電話を切り、ゾンビのように這い上がり支度をして自宅を出た。
 小田急線相模大野駅を降りて、駅前でタクシーを拾う。10分ほど車は走り、大通り沿いの相模原南警察署に着いた。数台の停車しているパトカーを横切り、入り口に入る。電話をよこした警察官さんは、ちょうど入り口の側を歩いていた。彼は俺に気付き、ああ、どうもと言った。そして彼の案内のまま歩き、対象が待つ面談ブースなのか取調べブースなのかわからないがその場所に向かう。
 凛に捨てられた。こころに空洞ができた屍の自分。ただの仕事、それをこなさなければ。ただそれだけの意識が身体を動かす。本当は一切動きたくない、と身体は言っている。意識は身体の奴隷であるはずなのに、それに抗っている。だから、今にも首がもげそうなほど、強烈な痛みが俺を襲っている。
 捨てられるのは慣れている。だから大丈夫。この鬱蒼とする気持ちも、時間が経てばいつも通り消える。そう言い聞かす。
 被害者ヅラするな。
 裡(うち)に住まう大神が嘲笑う。
 お前がそう仕向けたんだろう。
 大神は容赦無く俺を刺す。お前は事実をすり替える天才。だが、自己憐憫に浸る痛気持ち良さを、もうお前には与えてやらん。薄笑いを浮かべて、大神は俺を刺し続ける。
 大神を振り払う気力すらない。朦朧とする意識のまま歩き、ブースに着いた。だが対象がそこにはいない。
「あ、すいません。トイレ行ってるみたいですね」
 警察官さんはそう言った。ちょっとお掛けになってお待ちください。そう案内されたため、テーブルを挟んで奥側のパイプ椅子に座った。
 良いご身分だな。トイレに行く余裕があるのか。
 理不尽にこころの中で毒づいた。一切気を使う相手ではないから、こころを整える時間は必要ない。手持ち無沙汰にイラつく。こころを紛らわす何かを思い浮かべれば良いのに、余計にこころを波立たせる事項が浮かんでくる。親への怒り。とりわけ、涼子への怒り。大神と最後に会ってからの一ヶ月半、こころに強固な蓋をしていたはずのそれは溢れ出し、膨張を続けている。
「あー、すみませんほんとに」
 これまた別の、顔見知りの警察官さんがトイレから現れた。おい、ちゃんと歩け、と大柄の肥満男に言い背中を押している。酩酊状態の小林は顔を真っ赤にしたままフラフラとよろつきながら歩いている。小林はこちらに近づき、俺とは一切目を合わせずに俺の隣のパイプ椅子に座った。どかっと座り、パイプ椅子が軋む。壊れるかと思ったがなんとか持ち堪えている。
 トイレに付き合っていた警察官さんがブースを離れていく。そして俺に電話をかけてきた警察官さんが淡々と事の背景を話し始めた。1時間半ほど前、相模大野駅付近で倒れている小林を通行人が発見。警察に連絡が入り身柄の保護。相模原南警察署に移送するなかで、柄受け人の名前として小林が俺の名前を告げたらしい。迷惑な話だ。だが小林は10月11日まで籍が施設に残っているため、無視するわけにはいかない。警察も、こんな輩に対応しなくてはいけないから大変だな。こんなもの、路上に放っておけばいいのに。ここにもまた無駄な税金が投じられている。こんな輩に手厚く社会保障費を投じるなんて、本当に素晴らしい国だな。
 定型分の説明を受け、定型分の書類を受け取る。監督責任、と書かれた名ばかりの書類にサインし、人差し指で捺印をする。夜分ありがとうございました、と警察官さんから言われて相模原南警察署を出る。タクシーを拾い、小林の座間の自宅まで向かった。
 
 なんの変哲もないぼろアパート。軋むドアを力を込めて開ける。もう10月だと言うのに冷房がつけっぱなしの室内にさらに苛つく。相変わらず足の踏み場もないゴミ屋敷。異臭に顔を顰めながら部屋奥に侵入していく。電気をつけ、ゴミの中に埋もれていた空調のリモコンを取り電源を切った。これから社会に出ていく者の部屋とは思えない。
 小林は来週から就職先に出勤予定。それまで籍が残っている間はプログラムに出るよう、優しすぎる職員たちから強く勧められていたようだが小林はそれを拒絶した。たびたび職員たちが部屋を訪れて様子を確認したが、ただ家の中で寝転がっているだけのようだった。ただ就職活動は続けており、寮完備型の工場に就職するらしい。多分それではこいつが望んでいる年収1500万円には間違いなく届かないが、それで良いのだろうか。
 うう……と呻きながら小林は室内の定位置に座った。灰皿から灰が溢れまくっている汚いテーブルの側に置かれた座椅子にどかっと座る。そして老人のようなおぼつかない動作でテーブル上のたばこに手を伸ばし、火をつけようとしている。ライターをもつ手が震えている。
「おい、礼の一つも言えねえのか」
 そう言うと、小林は何も言わずに頭を下げた。アルコールで真っ赤な顔にはなんの感情も浮かんでない。朦朧とする意識が生み出すその顔は、まさに生きた屍だ。
 そうして震える手を伸ばし、小型冷蔵庫の中のキンキンに冷えたストロングゼロを手に取った。なんとか力を振り絞り蓋を開け、口に入れる。酒を味わうのではなく、ただアルコールを体内に流し込むように貪り、ぐびぐびと喉が鳴り続ける。そうして大量に流し込んだ後、缶をテーブルの上に置いた。手の震えがだんだんと収まってきている。震えがおさまるにつれ、幾分か顔に表情が浮かんできた。電源が入ったかのように、小林は口を開き始めた。
「いやあ……ホントに、すんません。いや、ちょっと飲みすぎちゃいましたあ、就職の前祝いっつってね、ちょっと飲んじゃったんですよお」
 そう言って、小林は憎たらしい笑みを浮かべた。頭に手を当てながら、気持ちばかりの苦笑いをつくって、どうもすみませんという。心底癪に触る。
 いや、なんかもう、大丈夫な気がします
 そうのぼせ上がって退院し、就職活動を始めたというのにこのザマだ。
「もう大丈夫だったんじゃないですか」
 そう吐き捨てた。職員の方にもびっくりされる、いつもの冷たい声が出てしまう。小林は相変わらず俺に目を合わせずに項垂れている。10秒ほど間が開いた。
「やっぱり、社長には分からないんですよ、俺たちの気持ちなんて」
 ゆっくりと、小林はボソボソと呟いた。何を言い出すかと思えば、ガキのようなことを。そんなに俺によしよしして欲しいのかこの豚は。
「頑張らないと、ってのはわかってるんですよお。俺だって。もっと頑張って、こう、なんですか。意志を強く持ってね、酒をやめて、ちゃんとしなきゃってことは」
 的外れなことを呟く。誰がいつ、頑張れ、なんて言ったのか。ただやるべき課題に取り組めよと言っているだけ。頑張って意志を強く持つだけでやめられるのなら誰も苦労しないのだ。ただ、本当の感情を吐き出して同じ依存症の仲間と分かち合えよ、と言っているだけ。ただそれだけのことだ。
「社長はさあ、ちゃんとホントのことを言ったことがあるんですかー」
 小林は薄ら笑いを浮かべながら、こちらに顔を向けた。先ほどとうって変わって、はっきりと俺の眼を見据えている。
「ええ」
 そう、事務的に返答した。へええ、と語気を強めた無神経男独特の発声で、小林は反応した。眼を逸らす気配がない。
「じゃあ、ぼくもほんとのことをいいますね〜。すっごく、すっごくねえ、死にたいんですよー。もう、全部どうでもいいっていうか。頑張っても、ぶっちゃけいいことないじゃないですかあ。なんか嫁もバカだから離婚してほしいとか言ってくるし、ホントどうしようもねえバカですよ。てめー誰のおかげで今まで飯食って、ガキ育ててこれたんだって感じですよねえ。ていうかさ、自分が今まで辛かったこととか、怒りとか、あーーー、あと、なんでしたっけ。かなしみ? そうかなしみ! ねえ、自分が今までされて苦しかったこと、そのときの気持ち、ってねえ。そんなの覚えてないし、大体今更思い出してどうなるっていうんですかあ。ねえ」
 バカが挑発的な眼を向けてくる。
「覚えてないんじゃなくて、思い出したくないだけ」
 機械的に返した。能面のような顔をしているのが自分でもわかる。そして小林の眼と頬から、挑発的な要素がうっすらと消えていく。
「思い出そうとすると、気が狂いそうになりますよね。だから逃げ続けている。そういう弱さが残ったままだから、酒に負けるんですよ」
 淡々と言った。たぶんこの男では、俺が言いたいことは理解できないだろう。かつ、正しく受け取れず自分を苦しめる方向で受け取ってしまうだろう。そのことに気付きながらも、俺は言葉を止めることができなかった。醜い自分と藤村道、涼子、隆之、そしてアル中の祖父。殺意が湧く対象の集合体のようなこの男に湧く黒い感情に、もはや蓋をすることができない。
「だから、嫁からも捨てられるんですよ。奥様が何を望んでいるか、わかりますか」
 もうこの先は言うな。大神の声が聞こえる。耳鳴りのように、千の鐘をいっぺんに鳴らすかのように脳内に響き渡る。
「やっぱ女を幸せにしてやれない男ってクズじゃないですか」
 そう言うと、明らかに小林の表情が変わった。血の気が引き、目が微かに見開かれた。そして眼を逸らし、喉仏が大きく動く。何かが小林の脳を駆け巡り、支配しているような。そして感情の一切を奪われてしまったような、そんな表情をしている。呼吸を忘れたかのように、小林の顔と身体は動かない。
 未必の故意。俺の頭にはたしかにそれが浮かんでいた。そして最悪の可能性についても。小林がどう受け取るのか、その可能性について「分からなかった」といえば嘘になる。
「頑張りましょうね。俺はいつでも待ってますから」
 もう、俺の言葉はこの男には届いてないようだ。生気を吸い取られたような、一切の血が通ってないような顔のまま小林は項垂れていた。






3章:溶解

2012年3月28日 15時19分
栃木県足利市 東武線足利市駅
幾多 想 18歳

 もう4月になると言うのに、まだ吐く息が白い。厚手のダウンを着込み、涼子が運転する黒のワゴン車セレナを降り立った。助手席の窓越しに運転席の涼子を見る。涼子はこちらを見つめているが、何かを発する気配はない。
 半年ほど前、姓は藤村から幾多に戻った。高校3年生の夏休み明け、父親の隆之から「藤村から幾多に戻せ」と言われた。俺は高校の途中で苗字が変わるのが嫌だった。当時、まだ田舎においては離婚というのは珍しかった。だから在学中の途中で苗字がいきなり変わるのは、クラスの皆からは色眼鏡で見られる気がしたから、苗字が変わるのは嫌だった。せめて大学入学時ではダメなのか。俺はそう隆之に問うたら、「藤村なんてのは俺の子供じゃねえんだよ。苗字を戻さないなら大学の金なんか出してやらねえぞ」と脅された。俺は上京したら金だけ巻き上げて、二度とこの男に顔を合わせないと強く決心した。
 道が逮捕され家からいなくなったのが一年半前。しばらく離婚は成立せず、家の表札も藤村のままだった。道がいてもいなくても、家の中の空気は最悪だった。もう7歳となった琴葉は表面的には健やかに育ち、たまに家に顔を覗かせる涼子の新しい男とも馴染んでいた。当時の俺では考えられないほど、琴葉は大人だった。なぜ、そんな何事もなかったかのように穏やかに振る舞えるのか。俺は8歳の時に涼子が姿を消してから、ずっと成長が止まっているのに。琴葉はいつの間にか俺を追い越し、俺よりも大人になっていた。まだ小学生の名義上の妹とは自然とこころの距離が開き、会話はなくなっていた。今日、自宅からこの足利市駅に向かう車の中にも琴葉の姿はなかった。
 遂にこの足利からいなくなる。隣接する群馬県太田市とも、もう関わることはない。誰もいない、誰も知らない地での一人暮らしが始まる。晴天の如く晴れやかな気持ちでこの日を迎えられると思ったのだが、変わらず重たい、鬱々とした気分のままだ。こころの傷には時効がない。その罪は向き合わない限り、死ぬまでこころに巣食い身体を蝕む。
 今から30分前。何も言わずに家を出ようとした時に、久しぶりに涼子から声をかけられた。
 もういくの。
 情緒のない、冷たくも温かくもない声。45歳になった涼子の顔を、正面から久しぶりに見た気がする。太田のピンクの家で俺に怒鳴っていた美しい女の面影は、もうどこにもなかった。
 ああ。いつものようにぶっきらぼうに応えた。何も声をかけずに出ようと思っていたから、この涼子と相対するこころの準備が整っていなかった。もう会うことはない。会う理由がないからだ。金は隆之を上手く抱き込んで大学卒業まで引っ張り上げれば良い。だから、この涼子に従う必要もないのだ。だからこの女にかける言葉など必要がないのだ。この女にかけられる言葉、この女の挙動、その一つ一つにこころを抉られるのはもうたくさんだ。
 送っていくから。車、乗って。
 涼子はそう言って、玄関を出た。どういう風の吹き回しだ、涼子が俺を送っていくなど。足利市駅までは徒歩と電車を経由して一人で行こうと思っていたから驚いた。そして心底、恐ろしかった。また何を企んで俺を傷つけようというのか、この女は。
 なぜ、拒否できないのだろう。
 意識は全力で拒否しているのに、身体は未だに母親からの愛情に飢えている。身体が求めるまま、涼子の後ろについていってしまう。そして久しぶりに乗る涼子の黒のワゴン車セレナの助手席に乗った。
 そうして今に至るまでの時間、一切の会話はなかった。気まずくなったのか、涼子は車内のラジオをつけた。無機質なアナウンサーの声が、この冷たく止まった空気を掻き回してくれるから助かる。
 結局、道中一つの会話もないまま足利市駅に着き、今に至る。目の前の、運転席に座りこちらを見る涼子。俺から目を逸らさないでいるこの女は、遂に最後まで何を考えているのか分からなかった。
 耐えられない俺は目を逸らし、車に背を向けた。すると運転席のドアが開く音がした。なんで。なんで運転席を降りた。そうして歩き出すと、涼子は小さく、老いたその身体を動かして俺に着いてくる。まさか、駅の改札まで見送るつもりじゃないだろうな。そんな、やめてくれよ。そんな親のような振る舞いをしないでくれよ、頼むから。
 駅の改札の手前。切符売り場で特急券を買う。田舎駅の特急電車など、出発の10分前でもガラガラだ。易々と空いた車両の窓際の席を確保し、振り返ると涼子がそこにいた。
「もういいから」
 ついてくるな。さすがの涼子でも、わかってくれるよな。というかわかれよ。そう思い涼子を見ていると、さすがにわかったようだ。うん、と頷いた。じゃあな、とも言いたくなかった。もうお前とは言葉を交わすのも辛いのだ。出発までは少し時間があるがもう改札を抜けよう。そう思った時に、涼子が口を開いた。
 ごめんね……
 涼子の目が赤くなっている。涙が頬を伝っている。なんのごめんね、ですか。何に謝っているのですか。顔中が沸騰するように熱くなる。涼子のそれが伝染しそうになった。
 もう、いいかげんにしてくれよ
 涼子から目を逸らし、何も応えずに改札に向かった。



2022年10月5日 22時13分
東京都町田市 カリヨン広場
幾多 想 29歳

 首を括りたい。
 強い決意ではないが、ぼんやりとその映像が脳に浮かんでは消え、そしてまた現れる。いよいよ、来るところまできた。堕ちるところまで堕ちた。その想いに駆られている。大神の予言通り、想定よりもはるかに早く。別に何かあったわけでもないのに。もう、いつ人生が終わってもいいような、そんな虚無感に囚われている。全身から生気という生気が抜き取られてしまった。凛がいなくなっただけなのに。その凛も、何がなんでも失いたくなかったわけでもないだろうに。もう誰も必要としない、必要としたくないという観念。必要としてもがくほど、倍に傷つけられるのだ、どうせそうなのだという囚われ。
 町田のカリヨン広場周辺はいつ来ても賑わっている。だがその賑わう光景も、目の中に入ってこない。映っているはずなのに、それを眼球が取り込んでくれない。秋の夜風は本来、そんな気分を和らげてくれるはずのものなのに。今は生温かいはずの夜風がとても寒く感じられる。何度か風に邪魔されながらもタバコに火をつけて血管を収縮させる。だが一向に、気分が朦朧としてくれない。
「どうだ、人殺しになった気分は」
 一ヶ月半ぶりに、その声が耳の外から聞こえてきた。突然右隣に現れる図太い図体にも声にも、もう驚くことはない。そうして全てを見透かすこの男は、セブンスターを取り出して煙を大きく吸い、ゆっくりと吐く。
「最高ですね」
 最高に、死にたい気分です。それを見透かすように、ははは、と大きく大神は笑った。
 今日の昼過ぎに着信が来た。施設の固定電話で、施設長からだった。小林の就職先の採用担当からの電話が施設宛に来たとのこと。採用担当が言うには、今日は入社前の手続きで小林が会社に12時に来る予定だった。だが一向に現れず、携帯にかけても電話に出ないのだそうだ。それで何か知らないか、と施設長から俺に電話があった。その後俺から小林に電話をしても出なかったので、座間市の小林の家まで様子を見に行った。
 ぼろアパートの玄関は、やはり鍵がかかっていなかった。ドアを開けるなり、相変わらずキンキンに冷えた冷気に襲われた。異臭もいつも通り。だが玄関に入るなり、何が起こっているのかがわかった。この仕事をしていれば別に珍しいことでもないそれが起こっている。その独特の静けさというのは慣れてしまえばすぐにわかる。部屋の奥に進み、右手を見た時にその光景があった。
 死んでいた。大柄の肥満男は、ロフトへと昇る階段に電気の延長コードを巻き付け、それを首に括り胡座をかいて死んでいた。ロフトへと続く階段と首には、何重にもコードが巻かれていた。胡座をかいた状態で、思いっきり身体を前傾にして首を圧迫して死んだようだ。眼球は見開かれ、ベロが捩れて口内から飛び出していた。確固たる意志とその遂行力が見てとれた。普通は苦しすぎてこんな死に方はできない。すぐにいつも通り110番と119番を押して手続きを進めた。救急隊員から電話越しで「心臓は止まっていますか?」と聞かれた。それは予想外で、聞いたことがない問いかけだった。え、触っていいんですか。思わず聞き返したが、はい、お願いしますと言われた。右手で小林の左胸に手を当てたが、やはり何も感じられなかった。その旨を救急隊員に伝えると、到着するまでの間、心臓マッサージをお願いします、と言われた。
 はあ?
 いや、死んでますけど。
 そう応えたが、でもお願いしますと謎のゴリ押しをされた。だから小林の体を横たわらせ、両の掌を交差させて一定の間隔で圧迫した。だが当たり前だが、なんの変化もない。後から現場に来た警察に「え、死体に触れたんですか」と言われた。救急隊員に言われたのでと応えると、ああ、という意味の分からない反応をされた。
 小林が死んだのはおそらく12時前後。俺が到着した時には1時間ほど経過していたようだ。本人が生活保護を受けてアルコール依存症であったことを警察に伝えると、特段ふかぼった質問はされずすぐに解放された。
 死ぬ前に誰かと会話をしたのか。それとも俺と話したのが最後か。分からないが、俺は人殺しと言われても、まあそうですねとしか言えないだろう。刑事から解放された後、遅めの昼食を食べた。豚肉の生姜焼き弁当はいつも通り美味だった。
「普通は喉も通らないけどな〜」
 大神は薄ら笑いを浮かべながら言った。はい、仰る通りですね。人間は痛みが蓄積されすぎると鈍感になる。自分の痛みもわからず、当然他人の痛みなど感じ取れるはずもない。
「いい感じに壊れてるな」
 そう言って、大神は駅前の交番を見ながらタバコの煙を燻らせている。壊れると、もうそこには苦しみしかない。何もない苦しみ。死んでるのか生きてるのかわからなくなる。だから、ちょっとそれを試したくなる。わかるなあ、と大神は独り言のように、無神経に他人事のように呟いた。
 小林もそうだったんだろうか。最後に会話をしてからの約十時間、おそらく何かがあったわけではないだろう。気絶するように寝て、起きて。起きた時に、ぼんやりとその映像が浮かんだのか。ふと冷静になり、圧倒的な心の孤独に気づき、それをちょっと試したくなったのだろうか。だがあの死に方は「ちょっと思いついたからやってみよう」で遂行できるようなものではない。首にコードを括り付け前傾になった時、全身を震わせる悪寒と恐怖があっただろう。だがそんなものすら、生きている地獄に比べれば生ぬるい。全身の血流が首で絞られて頭に駆け巡る苦しみなど、天国にいけるのであれば安い代金なのだろうか。
 人生の課題に向き合うこと。自分を苦しめる親という呪いに首を突っ込むことは、人によっては死ぬよりも苦しいことなのだ。その事実に打ちのめされた。
「本当に恐ろしい」
 俺もまた、独り言のように呟いた。大神は隣で、そうだなあ、と呑気に言っている。親の課題に向き合うというのは、命懸けの所業。俺はこの男に殺されそうになっている。
「それは違うな」
 大神はこちらを向いて、にやりと歯を剥き出しにして笑った。浅黒い肌だからいくらか白く見えるが、その歯はヤニでしっかりと黄ばんでいる。俺が思うことは全てこの男にはお見通し。
「お前はどのみち死んでたんだから。生き残る選択肢を用意してやっただけだ」
 そう言って大神は、あっははははははと笑った。お前のような残酷な人殺しと一緒にしないでくれよ。大神はそう言わなかったが、今度はその気配を俺が大神の身体から感じ取った。なぜ今この瞬間、身体から相手の思いが感じ取れるようになったのだろうか。それに驚き、大神の侮辱に全く気を取られなかった。
「人生の課題に向き合えない奴は、周りの人間も、自分も殺していくんだ」
 大神から笑みが消えた。黒黒とした、一切の白目部分が消えたような眼。暗闇と同化したような眼がこちらに向いている。そして、大神の口は閉じられたままだが、大神の言葉は続く。耳の外から聞こえてくるのか、内側からこだまするそれなのかが分からなくなり吐き気を覚えた。
「もういいだろう。お前はもう、やるしかないんだよ」



2018年9月25日 19時11分
東京都町田市 依存症回復施設
幾多 想 25歳

 依存症施設内の喫煙ルーム。もう終業の17時をとっくに過ぎており、利用者も職員も誰もいない。誰もいない、喫煙ルーム以外の電気が全て消えているこの状態が好きだ。誰の何を気にすることもなくぼーっと、煙を吸っては吐く。喫煙習慣がある人間は、身体に溜まった悲しみを消そうと躍起になっているのだ。文字通り、それをどうにかして煙に巻きたい。だがそんなことでは悲しみなど消えるわけもなく。ただ血管が傷み肺が黒ずみ、肺癌で死んでいく。そんなことは言われなくても分かっているが、これがなければ生きていけないのだからしょうがない。
 スマホがズボンのポッケの中で振動し始めた。スマホを取り出し画面を見てギョッとした。涼子からの着信。最後に涼子と電話で話したのは大学卒業した時、3年前。高校生の時から俺は携帯の番号が変わっていないから、当然に涼子には知られている。上京する際に、なぜ着信拒否にしなかったのだろう。そして今も、なぜ着信をきれないのだろう。
「はい」
 冷静を取り繕い、仕事関係者からの着信に出るように応じた。もしもし、久しぶり、元気だった? まるで親子のように、そして子供を気遣う親であるかのように涼子が言葉を発する。
 こちらは薬を飲みながら、何とかやっているのですけど。あなたに育ててもらったおかげでね。元気なわけ、ないでしょう?
 そう言いたくなる衝動に駆られる。が、やはり言えないでいる。ええ、とだけ応じる。なんの要件でしょうか、とすら言葉を発さない。涼子は何か、俺が言葉を発するのを期待し、待っているような沈黙を作る。だからこそ俺は何も発さない。ほんの数秒の間ができ、涼子はそれに耐えられずに機械越しに言葉を発した。
「お祖父さんがね、亡くなったの」
 涼子の声は、特段悲しみに暮れたものではなかった。機械越しに聞こえる声だけで、手に取るように涼子がどんな表情をしているのかがわかる。相変わらず情緒の薄い、何とも言えない顔をしているのだろう。自分の父親が亡くなったというのに、特段悲しみにくれたものではないというのはどういう了見だろう。と思ったが、じゃあ俺はどうなんだ。俺は父親の隆之が死んだら、どういう声を発するんだろうか。そう考えるとまだ涼子の発する声はマシなものだと気づく。それに違和感。涼子は自分の父親を、お祖父さんとは呼ばない。俺の前では、じいくん、と呼んでいた。
「そうですか」
 いつも足利の藤村の家で涼子と交わしていた業務連絡のように応じた。
「それで、お葬式には出て欲しいってお父さんが言ってるの」
 は?
「お祖父さんというのは、太田のジイさんですか」
「うん」
 それを先に言え。というか、なんでお前が太田の祖父さんの連絡をしてくるんだ。もう幾多の人間でもないのになぜお前がそんなことを。隆之から連絡してくるのが普通ではないか。と思ったが、隆之を着信拒否にしていることをすっかり忘れていた。隆之が涼子に頼んだのか。
「仕事、忙しいと思うけど……お葬式、出てあげて」
 その言葉選びに、ものすごく腹がたった。
「出てあげてってなんですか。幾多から出ていった人間が、どの立場でものを言ってるのですか」
「……」
「行くわけないでしょう」
 あのジジイは俺から尊厳を奪ったのだ。俺が今薬を飲んで生活をしている、その全ての元凶たるジジイになぜ俺が時間を割かなくてはならないのか。大体、俺があのジジイをどう思っているのか、やはりこの女は何もわからないのだな。お前もお前で「どうしようもない悪妻だ」と愚弄されていたではないか。なぜ、そんなことを平気で言えるのか。
 行くわけないでしょう。俺の言葉に、涼子は反応しなかった。また数秒の空白が生まれる。次に来る言葉も、やはり無神経な言葉だろう。
「……想はほんと、なんていうか。薄情よね……」
 予想を遥かに上回る刃。しばらく顔を見ないうちに涼子はますます怪物に成り下がっていた。
「ええ。あなたが死んでも、俺は一切時間を割きませんので」
 10年前であれば怒鳴られ、殴られていただろう。俺の言葉は、この女をどれだけ傷つけたのだろうか。女は何も応えず、ただ沈黙が続いた。 



2022年10月9日 15時16分
栃木県足利市 某ゲームセンター駐車場
幾多 想 29歳

 崖の一歩手前に足をかけた。すぐ一歩踏み出せば落ちて、コンクリートのように硬くなった水面に叩きつけられて死亡する。そんな感覚に怯えている。29年間逃げ続けてきた試練に、今身体が向き合わされている。人生の課題、親の課題に向き合うというのは、精神の墓場だ。自分を何とか支えていたものを根底から葬られる恐怖。
 なぜ、俺を捨てたのですか
 なぜ、俺のこころに寄り添ってくれなかったのですか
 あなたは本当に、子供を愛していたのですか
 これを確認するなんて、本当に恐ろしいことだ。「え、何言ってるのこの子」という顔をされたら。本当にメンヘラというか、本当に病んでいる子ねえ。めんどくさい、気持ち悪い。そう思われたら間違いなく精神が崩壊する。本当に涼子を殺したい。
 かつての仲間たちと過ごしたこのゲームセンターの駐車場。ブロック塀の上に座りタバコを吸い正気を保とうと努力している。まるで身体全身がそれを恐れているように、小刻みに全身が震えているような、そんな錯覚に陥る。駐車場の背後にはバッティングセンターも併設されている。今日は日曜日の午後。地元の中学生たちが楽しそうに笑う声と、金属バットがボールを打つ音が響いている。
 こころの傷に時効はないことを、今痛いほど感じさせられている。もう20年以上前の出来事でも、昨日起こったように鮮明に覚えている。涼子に殺意が湧くほど、未だに俺はあの女から何かを求めている。それが何なのか、そしてそれを受け取り、俺に返してくれるのか。それを確認しなくてはならない。
 首を括るよりはマシだろう。
 身体の裡から、大神の声が響く。ああ、マシだが、蚊ほどの差だけどな。それぐらい本当に苦しいけどな。
 親への本音、怒り、恨み。それを吐き出せばこころの膿がなくなると大神は言っていた。そして、その膿で汚れ切っていた器が空になり綺麗になり、その器に新たな愛情を入れ込めば呪いから解放される、と。
 本音を吐き出したところで、相手がそれを理解しなかったら意味がないのでは。むしろ余計に傷つき、苦しくなって死にたくなるんじゃないか。その思いに駆られると、裡に住まう大神が切り返してくる。
 その通り。苦しくなるなんてもんじゃない。健全な、深い絶望を味わうだろう。
 あっはははは、と憎たらしい笑い声が身体中に響き渡る。きーん、と耳鳴りがするような感覚。どこまでも人を馬鹿にしてやがる。
 その深い絶望を味わわないと、人生が始まらないんだよ。いつまでも、いい歳こいたマザコンのままだ。あれだけ苦しめられて、首をくくりたいと思わされるほどの呪いを受けてきたのに、まだこころのどこかで「親だから、血が繋がっているから。本当は愛してくれるんじゃないか」と淡い期待を抱いている。そういう弱さが残っているから、いつまでも本当の愛情を獲得しにいく覚悟と行動が取れないんだよ。
 大神は、本来の図太く低い声で淡々と言った。低い声が内臓を静かに振動させる。大神は言葉を続ける。
 確認した結果、愛情があれば最高だ。だがそんなケース、1%ぐらいだけどなあ。本当に子供が求める愛情を持った親なら、そもそも子供をそんなに苦しめない。
 大神は能天気に言った。ふざけている。死ぬとわかっていて崖から飛び込むようなものだ。
 ああ、死んでこい。
 そう、大神の声が響くと身体が乗っ取られたように動き出した。タバコを灰皿に入れ立ち上がり、徒歩二分の藤村の家に向かう。

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