「一夫一婦制が望ましい在り方」であるほど、(特に男の)性欲は社会的に害悪視される
かねてから私は、いわゆる「女をあてがえ論」・「皆婚社会待望論」・「弱者男性(非モテ男性)の恋愛・婚姻・生殖の権利」について否定的な立場を取ってきました。今回は改めて、なぜそのような立場なのかを説明したいと思います。
「皆婚は福祉ではない」という当然の事実
まず何よりもおさらいしておかなければならないのは、なぜ「皆婚社会」は(個人ではなく社会的に)待望されているのか、ということです。その最大の理由は、それが共同体の「次世代再生産」を最も高い効率で行える手法だからです。できるだけ多くの男性に恋愛・結婚・生殖の機会が確保されるからではありません。
つまり男性は稼得能力に、女性は出産・育児能力に全振りさせることで、両者のトレードをしやすくする(あるいは、徹底させると言ったほうがいいかもしれない)システムになっているのです。
いわば元から、「下の男」のことなんて考えられていないんですよ。「あてがえ論者」は結局、鉄砲玉として利用されてしまっています。このシステムは「福祉」でもなんでもないんです。
そして、その結果起きていることの一つとして、「熟年離婚」があります。つまり定年退職などによって「稼ぎ手」でなくなった夫を切り捨てるわけです。まさに使い捨てられる男の典型例です。
男の中の誰かが「ヒステリック我儘フェミ女」を引き取らなければならない、それが皆婚社会・一夫一婦制の本質
また一対一で女が配られるということは、底辺男には底辺レベルの、すなわち「ヒステリックで我儘な女」があてがわれることになります。そしてそのヒステリーは(少なくとも「皆婚」がうまく成り立っていた時期においては)夫の責任において宥めなければなりませんでした。
とはいえ実際に取りうる手段は「力で抑える」か「渋々従う」かのどちらかでしょう。前者は今で言うところの「DV夫」であり、後者は今で言うところの「フェミ騎士」です。
先に私は非モテが受ける差別・迫害について上記のように述べましたが、どっちみち一定数の男は「騎士」にならざるを得ないわけです。
そしてこの「皆婚社会、というよりかは一夫一婦制が望ましい在り方」という考え方を前提とするなら、男が「特定の性癖」(ここでは同性愛や無性愛などの“性的指向”もひっくるめてそう呼びます)を持つことは、トレードシステムを崩しかねないリスクになります。これが伝統保守側から「性の商品化」を害悪視する論拠になるわけです。統一教会の純潔運動がまさに典型例ですね。
ちなみに小山晃弘氏自身も、記事中でこのように述べています。
なぜセックスワーカーは「フェミニズムの敵」であり、「更生されなければならない」のか
では逆に、なぜ近年のフェミニズムでは「セックスワークを否定する」勢力が強まっているのか。これも実は「一夫一婦の皆婚が望ましい在り方」という考え方が大いに関わっています。
矯風会やこの記事で紹介した山田わか氏もそうであったように、かねてから日本で「売春婦の更生」に力を入れていたフェミニストにはキリスト教思想を背景に持っていることが多いですが、これも一夫一婦制の徹底を絶対善としています。
ただ、彼女らが「セックスワークを(たとえ当事者が望んだとしても)否定する」最大の理由は別にあります。それは、「セックスワークに従事していたこと」自体が、就職差別や結婚差別につながっていることです。逆に「被害者の心理的問題」などは論拠としては必要ないんです。
これはゲイポルノの話ですが、この野球選手のこと、彼の辿った経歴を知らない人はいないでしょう。これこそその「就職差別」が最も大きな形で現れた例の一つです。
「一夫一婦制が望ましい在り方」であるなら、この傾向はどんどん強まっていくでしょう。そうした「差別」をかわすために「自分の意志ではない」ことにしなければならないケースもかなりあるそうです。
このことを前提にして「性産業全廃論」を考えると、見えてくるものも多いと思います。もちろん「被害当事者」自身も「一夫一婦制が望ましい在り方」という考え方を後に持つようになった例も多いでしょう。『ゴールデンカムイ』のマイケル・オストログのように。
もはやキモいという主観的感情ではありません。このシステムは、正であろうが負であろうが、あらゆる性欲を害悪視していたのです。このように考えるなら、「一夫一婦制が望ましい在り方」という考え方そのものに、疑念を向けなければならないのではないでしょうか。
皆婚社会が「女のディープ・ステート」を生む
私が皆婚社会に否定的な理由は、まだあります。
これはいわゆる「AV新法」の改正が報道された時のProf.Nemuro氏の発言ですが、実は新法について彼が言及したのは後にも先にもこれだけです。「女のディープ・ステート」の存在を示唆していますが…彼は自分で何を言っているのか分かっているのでしょうか?
当たり前のことですが、日本における女性政治家の比率はわずか9.9%です。つまりその声の多くは良くも悪くも男性…もう少し端的に言えば「夫」に代弁されているのです。つまり前半部において言及した「フェミ騎士」に近い立場です。あるいは…
森元首相の女性蔑視発言を最初に彼本人に咎めたのは誰か?
彼の孫娘だったでしょう。
本多元議員を真っ先に吊し上げたメディアはどこか?
ジェンダー的にも保守色の強い、「産経新聞」だったでしょう。
森氏は少なくとも孫娘の代まで「伝統的家族」を持続させ、産経新聞もあそこまで「伝統的家族観」に固執していることを考えると、吊し上げた記者や編集者が「既婚男性」であることは疑いようがありません。
つまり、「女のディープ・ステート」を生んでいるのは、他ならぬ「伝統的家族観」「一夫一婦の皆婚社会」なのです。
Prof.Nemuro氏は元々から皆婚社会を奨励してきた論客です。ましてや、
これらの記事のように、「非エリート女性」を取り込むためか、社会進出が女性内の分断をもたらしていることも訴えてきました。そしてそのことがフェミニストからも言及されるようになるやいなや…
つまり彼には本来、あんなこと言う資格はないんですよ。その責任の一端は、明らかに彼が握っています。
結局「非モテの恋愛・婚姻・生殖権」は確保されるべきか?されるべきならどのようにして?
以上、私が言いたいのは、このようなデメリットを引き受けてでも、女が一対一で配られるような仕組みがいいのか、ということです。
私は大百科掲示板で「そのほうがいい」と言う人物とガチレスバトルになったことがあります。
「非モテの恋愛・婚姻・生殖権」を考えるにしても、この大前提を無視することはできません。ではそれらの「権利」は、現実的にどのような形で保障されるべきなのでしょうか。一つの解を、匿名用アカウント氏が提示しています。
そう、上記のような技術を確立させ、彼らの「選択肢を増やす」べきであると思います。伝統保守・フェミニズム双方からいかなる妨害を受けようと、我々はこれらの実現に全力を尽くさなければなりません。「フェミニズム」の狂気を、長期的に弱める方法は、おそらくこれしかないでしょうから。