見出し画像

東京大学「多様性を目指す!!(ただしチー牛は除く)」

本邦の最高学府でチー牛が燃えているようだ。

チー牛とは、「チーズ牛丼」の略称が由来であり、主として「性的魅力に乏しい容貌の男性」を指すネットスラングである。

メガネをかけたひ弱そうな男性が、どや顔でチーズ牛丼を注文する(しかも三色で特盛で温玉までつける)そのイラストのインパクトは絶大で、いまや「陰キャ」「非モテ男性」のアイコンにさえなっている「チー牛」。

このチー牛を題材にした看板が、いま、Twitterで大きな話題を呼んでいるのだ。きっかけは、次のツイートである。

わざわざ団体を緊急設立して抗議文を提出したらしい

「不必要に分断を招き」「差別を助長する」という、「「チー牛」立て看」とはいかなるものであるのか。

#弱者男性 をエンパワメントする
「我々に婚姻の自由を」
「生殖の権利を奪うな」

なぜこれが「差別」「分断」になるのだろうか。抗議者であるUTDN側の主張を見てみよう。

…この立て看板は「弱者」から「結婚の自由」と「生殖の権利」を「奪うな」と主張します。すなわち、女性の権利向上をはじとする要因が、そうした「権利」を「奪っている」のだ、という主張として読み取ることが可能です。
 言い換えると、この看板の主張は以下のように捉えられる。:「自分たちはセックスできず、結婚できず、辛い思いをしている。その点女は恵まれているし、自分が恵まれないのは女による蔑視のせいだ。優遇されている女が「権利」などと叫ぶのは、したがって、頭にくるし、頭にきて当然だ」と。

UTDN声明文

のっけから無茶苦茶である。言うまでもないことだが、この看板には女性という文字は一切なく、直接的に憎悪を読み取ることなどできない。

そのうえで、次のように主張している。

性行為の自由は、「実際に性交渉する相手がいて、実際に性交渉を行えること」ではなく、「同意する相手が見つかったときに、同意する内容の性交渉を行えること」です。
婚姻の自由とは、「実際に結婚相手がいて、実際に結婚できること」ではなく、「同意する相手が見つかったときに婚姻制度へのアクセスがあること」です。

UTDN声明文

本来、これらの言葉は、国家権力による婚姻や生殖に対する介入を表す用語です。……権力のために生殖を強要される/または阻止される(反省病患者の強制不妊手術、性同一性障害特例法の子無し要件など)人たちが、自ら経験した人権侵害を表すための言葉です。

UTDN声明文

ここまで読み進めてきて、私はちょっと釣り臭いな、と感じた。というのも、よく出来すぎているからだ。UTDNなる団体と、立て看板を設置した団体がグルだといわれても、私はまったく驚かない。それぐらい、批評性の高いメッセージとなっている。

この「性行為の自由」と「婚姻の自由」に関するUTDNの見解は、バーリンが言う「2つの自由」のうち、片方だけにフォーカスしているのだ。

詳しく説明しよう。

一般に、自由論によって扱われる「自由」の概念は二つある。

一つは、「消極的自由」。UTDNが言うように、「国家権力によって介入/強制/阻止をされない権利」を指示するものである。すべての人が自由になにかを行うことができて、「機会の平等」が形式的に保障されている状態を指す。古典的自由主義における自由の概念そのものだ。

言うまでもないことだが、チー牛顔に生まれついたからと言って、国家が結婚や性交渉を禁じているわけではない。したがって、この消極的自由のみを自由という概念が差し示す範囲だと解釈するのであれば、すでに十全に保障されているはずなのだ。

にもかかわらず、自由を要求するというのは、「自分たちが本来所有しているモノを奪われたのだ」という含意がある。つまり、女性の意思を剥奪して、モノのように消費できるような社会とか、相手の意思を無視して性交渉がいつでもできるような権利を観念しているのだろう……というのがUTDNの抗議文の趣旨だ。

だが、この「自由」に対する解釈は、もう一つの自由概念を無視している。

「積極的自由」である。

ざっくり言うと、「形式的に自由が保障されたとて、実際にその自由が行使できなければ意味がないじゃないか」というのが「積極的自由」の概念だ。単に、介入から自由であるだけでは不十分で、その自由が実現できるための能力やリソースが保障されているところまでが「自由」の概念だというものだ。

「消極的自由」が「……からの自由(liberty from)(例:検閲からの自由、国家による強制からの自由)」を指すのに対して、「積極的自由」は「……への自由(liberty to)」だ、などとも説明される。詳しくはwiki記事をご参照されたい。

要するに、形式的に自由が保障されても意味がなくて、その選択ができるだけの能力やリソースがなければ意味がないよというのが積極的自由という概念だ。

その意味であれば、「生殖/結婚する自由がない」というチー牛立て看のメッセージは理にかなっている。なぜなら、容姿が劣っている人々が、生殖や結婚において自らの望む選択を実現するのが困難であることは、事実であろうからだ。

だから、このチー牛立て看を「差別」とか「女性憎悪」として退けるためには、積極的自由の概念を否認して、消極的自由だけが真の自由であり、積極的自由のごときものは、他者の消極的自由を略奪しようとする偽の概念だと断じる必要がある。UTDNの主張と同じだ。

ところが、である。

何を隠そう、この「積極的自由」は、第二波フェミニズムの中核的な要求なのである。

したがって、UTDNの主張に同調し、チー牛立て看を攻撃するやいなや、まったく同じ論法がフェミニストの後頭部にぶっ刺さるという、自動ブーメラン射出装置となっているのである!

そんなに勢いよく射出しなくても……

どういうことか。

まず、政治や就職に関して、フェミニストが主張してきた内容を思い出そう。

女性政治家が少なかったり、経営者や管理職、高所得の女性が少ないことは、差別であるというのが第二波以降のフェミニストの主たる異議申し立ての一つだった。

ところが、「消極的自由」の観点から言えば、別に参政権も投票権も完全に平等だし、経済的自由という点でも、ハイリスクハイリターンの進路を選んだり、起業したりするのも完全に自由である。

ならば、自由や権利は完全に保障されているので、問題は解決しているはずだ。めでたしめでたし、何の文句が?

さて、そう言うと、フェミニストのみなさんは次のように主張してきたのではありませんか。

「ジェンダーギャップ121位の日本! 女性の自由や権利は奪われている!」

これ、チー牛立て看の主張となにか違いがあるだろうか?

結果的に、男女の所得や政治参加は相対的に違いがある。これは事実だ。どのぐらい事実かといえば、チー牛が相対的にモテないであろう程度には事実なのである。

女性が単に形式的・法的な自由が与えられているだけではなくて、男性と同じぐらいの数の女性が政治家なり起業家なりを選択し、成果が出るまで努力を続けられるような社会にならなければ女性は幸福ではないし、自由でもない、と「積極的自由」をも射程に含めて権利を要求してきたわけだから、チー牛立て看の「生殖の自由」を馬鹿にする資格はないだろう。

ましてや、みなさん、自由どころか「結果の平等」まで求めてきましたよね?

ギャップが存在することがイコール差別であり、所得や政治参加の差異は男性によって女性のなんらかの権利や自由が奪われた証拠であるという主張は、とりもなおさず、女性は男性と同じだけの収入や政治的成果を収めて「当然」だという前提に基づいている。

そんな「当然」は、もちろん存在しない。チー牛顔の男性が常に理想通りの異性の結婚や生殖が実現するのが「当然」でないのと同じである。

もちろん、男女の政治的・経済的差異を生み出しているのは、漠然とした差別が不利に作用している可能性はある。つまりは、「女性の政治的リーダーはなんとなく嫌だ」とか、「ビジネスパートナーとしては男性のほうが頼りがいがある」とか、その種のあいまいな差別感情である。

だが、それを言うならば、「チー牛的外見のパートナーはなんとなく嫌だ」というような漠然とした性嫌悪や生理的嫌悪は、差別ではないのだろうか。

なにより、容姿に基づく選好をルッキズムを批判していたのではなかったのだろうか?

どうして、女性の性選択に関することだけは、ルッキズム上等になるのだろうか?


私もこの非常口さんの見立てに一票を投じたい。UTDNの抗議文とチー牛立て看はセットで完結する、一つの問いかけになっているように思われる。

ちなみに、私個人の考えを言えば、婚姻や生殖にしても、就職や政治にしても、結果平等を求めるのは馬鹿げているというものだが、フェミニストのみなさんがどう応答するのか、興味深い試みだと思う。


以上

青識亜論

(修正・追記)2022.7.31

さて、様々に議論を呼んでいるようなので、少し追記する。

言うまでもないことだが、本記事の趣旨は、「積極的自由」を増進して、非モテ男性を救おう! などという趣旨ではない

本記事の趣旨はむしろ逆で、女性の自由や権利という概念の持つ意味を勝手気ままに拡大し、(バーリンが批判した)積極的自由の領域にまで手を伸ばしているフェミニズムに対する、一つの皮肉・風刺として「チー牛立て看」を解釈するものだ。

インターネット論壇で提起されている、弱者男性救済論について少し考えてみよう。

例えば、すもも氏流の方法論を考えてみよう。要するに、チー牛的男性を毛嫌いするような女性のルッキズムや、草食系への忌避傾向(ある種の暴力性への選好)が緩和されれば、女性は優しくて誠実な男性とマッチングされる可能性が高まり、チー牛系男性のマッチング可能性も高まる。WIN-WINではないか、というものだ。

すもも氏は、要するに延々と「暴力性とイケメンを求める内なる欲望から自由になれ、女性たちよ」ということを言い続け、そしてそのたびに炎上しているわけだ。

「余計なお世話だこのヴォケが」

というのがすもも氏批判の女性たちの偽らざる思いだろう。

だが、少なくとも、「女をあてがえ論」という言葉から想起されるような、女性の権利を制限したりとか、ましてや、女性憎悪や差別に基づくものなどではまったくない。

むしろ、積極的自由という観点から言えば、女性たちを感性的な傾向性から「自由」にしようとしているという点で、積極的自由を追求する姿勢であるといえる。

このような女性の性選択に関する「(すもも氏流の)積極的自由」には惜しみない憎悪と嫌悪の言葉をぶつけるみなさんも、ほかの領域では(自分が考える)積極的自由の社会的拡大に向けて余念がないのである。

消極的自由こそが自由であるという考えに立つのであれば、AV女優よりも政治家を選ぶほうがより自由であるとか、専業主夫よりも経営者であるほうがよいといったような発想は「余計なお世話」でしかない。選びたい方を選べばよいだけの話である。

にもかかわらず、単なる男女の「選択」の集合体にすぎないジェンダーギャップ指数に御執心で、しかも、女性の権利や自由の問題であると考えるみなさんは、結局、チー牛立て看と同じ目線でモノを言ってませんか、という話にしかならない。



なお、そもそも「積極的自由」と結果平等をニアリーイコールで結び合わせる理解は、バーリンの積極的自由の説明として正しくないという指摘をいただきましたので、積極的自由に関して言及した個所を一部修正しました。

御指摘感謝します。

以上