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皆婚社会とは、「みんな結婚“できた”社会」のことではない

皆婚社会とは、「みんな結婚“しなければならなかった”社会」のことである

こんなことを言うとフェミニズム的に聞こえるかもしれませんが、ええ。もちろん男性のことについて言っています

今でこそ下火になりましたが、まだKKOやインセルの勢力が強かったころは昭和戦後期の「皆婚社会」こそ理想の社会だという観念が多くの反フェミニズム論客(もちろん政治家も含めて)に共有されていました。

しかし私は、何度も述べています通り、皆婚社会がマスキュリズム的に目指すべき理想の社会であるとは思いません。彼らは皆婚社会を「みんな結婚“できた”社会」と認識していたのでしょうが、それは大きな間違いなのです。

「夫」を介して行われた男性排除

それが本能に基づく、あるいは先天的なものかはともかくとして、女には大多数の男を本質的に危険視する性質があることが、最近では元々ジェンダー保守派だった反フェミニズム勢力の一部にも知られるようになってきました。しかしそれは、女性の地位向上あるいはフェミニズムの進展によって初めて顕わになったものではありません。

フェミニストの言う「男社会」の下でも、女の「気に入らない男を排除したい」思念を現実化させることは難しいことではありませんでした。彼女らの夫にせびれば良いのです。そして夫(今では「理解のある彼」とも言ったりするらしい)たちは、「自分のように結婚しなかった・できなかった男たち」を排除するようになりました。すなわち今で言うゲイ、トランスジェンダー、ノンバイナリー、オタクなどです。その意味で、皆婚社会というのは「みんな結婚“できた”社会」のことであるとは決して言えません。「みんな結婚“しなければならなかった”社会」と言ったほうが正しいのです。結婚しないこと自体が、社会的な迫害につながっていたのです。

この事実は、特にゲイの間では「強制的異性愛」という言い方もされるようです。Wikipediaの「強制的異性愛」の項目には、わざわざゲイ雑誌『薔薇族』からの引用まであります。また我々マスキュリストの間では、「ジェンダー保守派も本当は女に甘い」というのは共通認識です。これらの事実とも大いに関係があると思われます。

一方で近年は、フェミニズム内部のパワーシフトによって、その「排除したい思念」が直接化するようになりました。TERF運動や性的消費の名の下によるオタク文化バッシングなどがその典型です。本来エリートのフェミニズムは(火消しのための記事を書いていることからも分かるように)、この思念を顕わにすることには「結局感情的な批判だと思われてしまう」または「女性の地位向上に賛同する男を減らすことにつながる」などの理由から消極的ですが、彼女ら草の根女性は地位向上を諦めているから関係ないというわけです。

「日本型上昇婚」がもたらした悲劇

荒川和久氏の記事では、(女性の地位向上がもたらしたとされる)皆婚社会の終焉によって、「恋愛の新自由主義」が到来したと主張されていますが、私はそうは思っていません。

すでに上の記事で述べているように、日本における女性の上昇婚志向は、地位向上以前の時代から海外と比べ物にならないほど高いものであり、また皆婚社会の終焉自体、女性の地位向上によってもたらされたものであるとは考えにくいのです。

この日本型上昇婚志向と、異性婚の社会的強制との両方に反しないように作られたのが、男性正社員を年功序列で地位を高められるようにする、いわゆる「男社会」だったわけです。ひいてはそれが戦後日本の経済発展を進め、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるまでになったことは皆さんもご存じのことだと思います。

そしてその傾向が最も高くなっていたのが、バブル景気でした。当時は年収600万の男性でさえ中の下の階層と言われており、その頃のカップルは今で言う「パワーカップル」だらけとみていいでしょう。当然、女の男を見る目も肥えきっていたわけです。

耳や目を塞いでも入ってくる「国際女性デー」礼賛に本当に不愉快な思いをしている。
それはそうと、私と同世代の望月新一京大教授が数学の難題、ABC予想を証明したとされるニュースを聞いて、ふと思い出したこと。
それは、バブルから90年代にかけての理系男性叩きの酷さである。
若い人は知らないかも知れない。
だからこそ、この記事で知ってほしいのだが、かつてマスメディア等は理系男性を「これでもか」とばかりにいびり、貶めていたのである。
女性は持て囃され、男は貶められていた。
私のようなタイプの男は、「オタク」と呼ばれ、オタクであるとは即ち、連続幼女誘拐殺害犯の宮崎勤の同類なのだった。
(オタクという言葉は、宮崎勤が逮捕された時に彼を象徴する言葉として脚光を浴びた言葉である。)
パソコン通信のネットでオタクについて論じる掲示板があって、そこに
「男性が何かを集めるとオタク扱いされ、女性が何か(例えば小物など)を集めるとオシャレと褒め称えられるのは不公平」という書き込みがあり、「その通りだ」と感じたのを思い出す。
オタクタイプではない、現代的・外向的な男性も、女性の前では「アッシー」(女性様を車でお運びする「足」という意味)、「ミツグ君」(女性様の為、一生懸命プレゼントを「貢ぐ」男という意味)扱いだった。

日本型上昇婚志向は、女性の消費力を押し上げる効果も持っていました。当然消費社会やマスメディアは、このバブル期女性の男を見る目に迎合し、上のブログに書かれているようなことを引き起こしていたわけです。

以前この記事で「日本社会は女性のほうが優遇されている」と考える男性を世代別に見たとき、バブルの時期に成人した世代から割合が横ばいになっていることに言及しましたが、これとも無関係ではないでしょう。

しかしそのバブルは、皆さんもご存じの通り、その後弾けました。それ以降の世代は、就職氷河期(というよりかは企業の採用方法の変化)によってほんの一握りの男性しか女の求める要件を満たせず、またほんの一握りの女性しか要件を満たした男に愛されませんでした。そうしてKKOと中年婚活女子が増えていったわけです。日本型皆婚社会は、その時点で「機能不全」に陥ったといえます。

これが「皆婚社会の終焉」のあらましです。ある種、女の男に対する期待(と、期待できない男の排除)が大きくなりすぎて破裂してしまったからこそこうなったと言えます。

さらに言うと、いじめられている人氏によれば、日本人女性は夫のみならず息子にも高い地位を得ることを求めるところがあるようです。しかも彼の母親の場合、最後には彼自身に(それを得られなかった)責任を押し付けたそうです。

また小山晃弘氏によれば、そうした母親は低学歴、すなわち不相応な上昇婚によって発生することが多いようです。そうしていわゆる「教育ママ」あるいは「教育虐待」になってゆくのです。幸い私はそういう母親ではありませんでしたが、私の同年代の知人にも、両氏が指摘するようなつらい少年~青年時代を送ってきた男性がたくさんいます。

バブル崩壊以降、消費社会はそのターゲットを既婚~婚活世代女性から10代およびそれ以下の女子に切り替えるようになります(いわゆる「コギャル文化→JS・JC・JK文化」)。当初はそれの男子版といえる「チャラオ文化」というものがあったようですがすぐに廃れてしまいました。それはこの世代の母親に「不相応な上昇婚」が多く男児たちに早い時期からの出世レース(=受験戦争)を押し付けたこととも無関係ではないと思えます。

そしてもう一つ思うのは、結局(特に「草の根」の)女性たちもそうして「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業を「男は生産、女は消費」という形で再生産してきたのではないか、ということです。「私作る人、僕食べる人」というコピーが問題になったことがかつてありましたが、今や「僕作る人、私食べる人」なのです。

あくまでも「男女公平な社会」は、未来にしかなく過去にはない

「我々が望んでいるのは男女平等ではない、男女公平だ」というのは、フェミニズムにも反フェミニズムにも主張している人がいますが、こんなフェミニズム以前の性別役割分業を、私は「公平」とは呼びたくありません。百歩譲ってその時代のほうが男にとって結婚しやすかったとしても、それで失われた犠牲も今以上に大きかったのです。

そういう意味ではフェミニズムの政策よりは保守派の伝統的性役割の政策の方が、短期的には男性には良く思えるだろう。しかしそれは、男性が5:95で不利な社会を30:70に戻すというだけでしかない。あくまでも50:50の社会は未来にしかなく過去にはない。

「あくまでも50:50の社会は未来にしかなく過去にはない」。これはMRA for everyone氏の言ですが、ここまでフェミニズム以前を批評した言葉を、私は知りません。