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強者男性のミソジニーを斬る

森元首相の女性蔑視発言からかなり経ちますが、これに対するミソジニストとしての私のスタンスを表明しておきます。

はっきり言ってこの一言につきます。

レベルがとてつもなく低すぎる!!!

ええ。撤回や謝罪会見もどうやら家族の女性にせかされてやったとかいう話もあるくらいですし、そんなことで曲げていいのでしょうか?しかも、その会見内でも「女性蔑視」の火に油を注いだそうですし。

ある意味、「女をずっと下に見てきたからこそ」できる発言だというのは、私も正しいと思います。反撃されても大したことない、そういう位置にいるからできることです。その上で私は、「真のミソジニスト」たちに言いたい。

本物のミソジニーは、もっと深いはずだ

フェミニズムの間では、ミソジニーとフィロジニー(女好きな性格)は併存しうるものであることが定説となっています。そこには「どうせ男たちは自分の思うとおりに女が演じてくれないから女に憎悪を向けているのだ」というフェミニズムの傲りがあります。

しかし私はそのような、フィロジニーと併存するミソジニーなどレベルが低いと考えています。もし上記が正しいとするなら、彼らは自分の思うとおりに演じる女が現れたら、ミソジニーをやめるでしょう(森氏も議場にいる女性に関しては「わきまえておられる」と言ったように)。しかし仮にそうだったとしても、はっきり言ってその程度のものなのか?という疑問がわいてきます。

ミソジニーの対義語としてミサンドリーがありますが、ミサンドリーとフィランドリーは併存し得ないと考えられています。そもそもフィランドリーには「男らしさへの好感」という意味が内包されていますが、その「男らしさ」はその多寡はあれど、競争を勝ち上がって初めて得られるものであり、その競争の当事者の中で「ミサンドリー」が培われてしまうことに留意しなければなりません。

そして最も重要なことですが、ミサンドリーに陥る女性の殆どは「性暴力被害を受けた」ことがそのきっかけとなっています。そこに真っ向から対抗する術を、殆どのミソジニストたちはまだ持っていません。

悔しくないんですか?

本当に心の底から女を憎んでいる皆さん、女によって人生をズタズタにされた皆さん。今こそ立ち上がるべき時です。反フェミニズムの間では「こんな発言でさえミソジニーとされるなんて世も末だ」とよく言われますが、私はむしろ「こんな発言こそが世間一般にミソジニーとみなされている」ことが悔しいです。もっと違う視点からのミソジニー、フェミニズム批判が必要です。そうしなければ、たとえ男が地位を取り返したとしても、たとえ女が配られるような社会になったとしても、その関係を女にいいように弄ばれるだけですよ!

「わきまえない女」たちがはびこる世の中、「わきまえない男」が出てくることを切に願います。