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我々から見た「非モテ」について

先を越された…。

前回の記事では「非モテ男性はマスキュリズム運動にお呼びでない」という言葉で締めましたが、やはり弱者男性の間で「非モテ男性の問題」が中心的な話題になっていることは、否定のしようのない事実です。

しかしこうした「非モテ男性」の口から、「女に惨々な目に遭わされた」というような話は、めったに聞くことがありません。すなわち彼らの多くは、女から愛された経験がない代わりに、女に暴力など酷いことをされた経験もないのです。その意味で言えば、「女からの暴力の被害者」という立場から見れば、彼らはある意味羨望すべき対象と言えます。

すべての男に女を「平等に与える」ことなど不可能

okoo20氏は非モテ男性に課せられている現状を「与えない平等」という言葉を用いて説明していますが、現実的な話、「与える平等」はどうやっても実現できません。9月1日現在の人口推計概算値では、20代前半の男性人口331万人に対して女性は309万人しかいません。同様に20代後半では男325万人に対して女304万人、30代前半では男338万人に対して女322万人、30代後半では男376万人に対して女365万人です。この年齢層の男女が可能な限りカップルになれたとしても、各年代で20万人前後、女が配られない男が発生してしまいます(まあ彼らに海外から探させれば配られないということもないのですが)。このため、「与えない平等」が提示されてしまうのはある程度は仕方のないことと言えます。

「女を得られた」ら解決する話ではない

そしてもう一つ指摘すべきなのは、じゃあ彼らに女が配られて、「非モテ」から脱却できたならば、万事解決するような話ではないということです。少なくともマスキュリズムの考え方としては。

「恐妻家」という言葉があります。訳あって妻の言うことを渋々聞くしかなくなっている夫のことです。ではなぜ彼らは、このような立場に置かされているのか。その答えは簡単です。妻がよく夫に暴力をふるうか、あるいは夫を社会的に貶めるための何らかの権力を握っているからです。

日本の場合、その多くは「母親単独親権」と言われます。すなわち妻から離婚を切り出されれば、その子供を(場合によっては財産も)妻に奪われてしまい、夫は面会さえ認められなくなるという現実があるのです。

そしてこの構造は、「リベラル側」の男性にも顕著にあります。久米泰介氏によれば、既存の、フェミニズムに親和的な男性解放論のリーダー格といわれる人々(いわゆる男性学者)は、その妻にフェミニストの妻を持っているか、フェミニズムがその地位を与えているに過ぎず、彼女らに逆らえば発言力を失わされる立場にあるのだそうです。おそらくこれは男性学者に限らず、リベラルの側の男性なら例外なく(まあLGBTのみ例外といえるでしょうが)そうであると考えられます。

ここではっきりしておきたいが、日本の男性学の重鎮といわれるメンバー伊藤公男、伊田ヒロユキ、中村正などのメンバーは関西で、上野千鶴子などのラディカルフェミニズムメンバーに男も女のために何かしろ!と言われて作らされて男性学を作ったということを覚えておかなくてはならない。
ちなみに、伊藤公男と中村正は事実婚であるが、妻は大学の教壇に立つフェミニストであり、女性学会のメンバーである。そして事実婚であるがゆえ、子供の親権が圧倒的に弱いので、妻に逆らえば子供に会えなくなる立場にある。こんな状態で、フェミニズムに逆らう言論ができるわけない。つまり、伊藤公男や中村正、(立命館などの教授)は男性のことを思っているのではなく、あくまでフェミニストの妻とその仲間の顔色を窺って発言している。だから、こいつらを説得しようとしても無駄である。支配してコントロールしている本体のフェミニストの妻を倒さなければならない。
ちなみに伊藤公男が日本ジェンダー学会の会長をやっているのは、こいつが力があるわけではなく、妻とその学生運動時代からの仲間のフェミニストに与えられた地位なのだ。戦略上男を上に立たせた方が威嚇になるというだけの。だから伊藤を仮に改心させることができたとしても、フェミニズムに逆らったとたん伊藤は地位を追われるだけなので意味がないのだ。
伊田もフェミニストに地位を与えられている傀儡であるという点では一緒。

これはある種、日本のリベラリズムに、いや保守主義でもそうなるのですが、根深くある病理といえます。いくら日本社会は男性社会であるといわれようと、女が彼ら強者男性の妻としてそれをせびっているのであれば、女性優遇(および男性冷遇や男性蔑視)は済し崩し的に進めさせるしかありません。まずフェミニズムがリベラルを牛耳っている状態を正さなければ、弱者男性が救われることは断じて無いと言えます。これは別に非モテという意味ではなく、okoo20氏がLGBTや貧困、黒人などとして挙げている、何らかの「社会的弱者」としての属性を持った男性も含めての話です。

モテを降りた男性が「真の解放」を得るために

ただ、先のokoo20氏の記事の中では、「モテを降りた男性が、性役割を押し付けられるなど更なる追い打ちをかけられている状態にある」ということも述べられており、この点については私も理解できます。

これらは過去の社会では通用していた性役割かもしれないが、現在の社会ではなくなっていくべきものだ。男性の「草食化」というのは実際の話、イニシアチブをとらなくなった男性の増加に対する社会による非難ととまどいなのだが、その変化はむしろ正しいと言える。しかし、まだ社会はこれらの男性を社会的な逸脱者、または恋愛関係における逸脱者とみなしている。
そして、再社会化は男性だけが対象ではだめである。受け身である男性が、受け身である女性と同じような男女関係を持つ機会を均等に得られなければ、結局は男性がアプローチをかけ、女性がイエスかノーかを決めるという関係を崩すことはできない。
デートなどの恋愛の慣習は、プライベートな領域ではなく極めて政治的な部分である。

これは5年ほど前の、久米氏が日経ビジネスに寄稿した内容なのですが、もちろんその後、フェミニズム(というより「女側」)は受け身から脱却することを拒否しました。だからこそ「モテから降りた男性」への風当たりは、年々強まっているわけです。

その意味で、男性解放論を、フェミニズムあるいはそれに親和的な立場からの意見を取り入れて進めることはできません。あくまで当事者から生まれる意見によって、男性解放を進めていかなければならないのです。

しかし、「モテから降りた男性」の当事者は、真の男性解放のための建設的な提案を何ら持っていません。私はそここそ真の問題であると思います。

どういうことかと言いますと、note界隈でもそうなのですが、アンチフェミニズム側の論客には未だに、「性役割が温存されている社会のほうがよかった」「フェミニズムが性役割を破壊したからダメなのだ」「我々の真の敵は草の根のツイフェミなどではなく女の地位を向上させたエリートフェミである」などという言説を垂れ流している人が多く、モテから降りた男性の中にも、それらの言説を消極的に受け入れている人が増えているのです。

しかし今の時代、性役割の復古を望んでいるのはむしろフェミニズムのほうであり、しかもそれはどちらかというと#MeTooで力をつけた草の根から上がってきている意見で、エリートフェミニズムのほうがそれに逆らえなくなってきているという実情が見受けられます。これは時たま草の根のツイフェミがエリートのフェミニストを「名誉男性」と称して貶すことなどからも窺えます。すなわち、彼らは現在のフェミニズムの潮流を、的確に批判できてはいないのです。

さらに言えば、すでに述べているように、性役割が温存された夫婦観であっても、離婚を突きつけられれば子供や財産を奪われるというリスクは残ったままです。言ってしまえばこれも「性役割」です。こんな爆弾を女に抱えさせた状態で、性役割が温存されている社会のほうがよかったとは全く思いません。

まあ、だからと言って、私もそこまで「建設的な提案」を持っているわけではないです。しかし、これからいくらでも考えられることはあるとは思います。