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続・我々から見た「非モテ」について:弱者男性論は非モテに乗っ取られた

彼らは「皆婚社会」のおぞましさを知らない

私にとって「非モテ」は、憎くて憎くてしょうがない存在です。「女をあてがえ」!?「皆婚社会の復活」!?なんとおぞましいことを彼らは言うのでしょうか。

もし皆婚社会が復活すれば、中の下の階層の男性であれば女を得やすくなるかもしれませんが、それでも女を得られなかった男性は今以上に社会的排除が強まるでしょう。まして普通の女性に性欲を抱けない男性たちはどうなるのでしょうか。

非モテ男性の生きづらさというのは、女に愛されないことではなく、ちゃんとした彼女や妻がいない故に社会的迫害を受けることによると私は思います。だから女があてがわれるような社会にすることは女性の権利とか以前に、彼らの救済として考えるならば逆効果でしかないのです。

実はこの「あてがえ論」の理屈にはもう一つ大きなリスクがあります。それはこの主張が今後、草の根のフェミニスト達にそっくりそのまま流用され、「あたしたちに男をあてがえ」と化してしまうことです。

非モテ(非異性愛者含む)男性への社会的迫害も、そうした皆婚社会における既婚女性たちが、夫たる「それなりの地位を持った男性」(もちろん今でも、「理解のある彼」「妻や娘を守るためにフェミニストを名乗る男」として存在しています)を介して、自分たちに責任がかからないようにして行われていたものです。フェミニズムの主役が草の根女性になって、TERF運動、オタクバッシング、男性保育士非難などが表面化したのは、その証左と言えます。

実際かつての皆婚社会において、「愛妻家」はどれくらいいたのでしょうか。むしろ妻からのDVに怯える「恐妻家」のほうが多かったのではないでしょうか。そんな社会が到来することをあなたがたは望んでいるのですか!?

つまり今更皆婚社会にしても、(女があてがわれることを望まない人にとっては)その迫害の構図が草の根女性による直接的なものから、強者男性を介した間接的なものになるだけです。そして後者の構図では、(弱者側でない)反フェミニズム論客の同情は確実に得られないでしょう。その意味でもやるべきではないことです。

いやそもそも根本的な話として、「非モテ」から脱却すれば迫害を受けなくなるという考え方自体、「強者の理論」でしょう。それで迫害から逃れられるのはあくまでも「強者の側に回ったから」にすぎません。さらに注意しなければならないのはその「あてがわれた女」にまた他の男を排除・迫害するようけしかけられる恐れがあるということです。繰り返しますが彼女らは自分たちに責任がかからないよううまくやっているのです。

弱者男性への差別・迫害の存在を訴えていたのは、異性愛者ばかりではない

このあたりの記事で触れていますが、もともと男性差別論や弱者男性論というのは女をあてがえ論的な要素は含んでいませんでした。実際、『オワコン女』は今でいうMGTOW思想に近いことを述べていましたし、『Nikkohの徒然日記』はゲイ、『女に生まれたかった男が男女について考える』はトランスジェンダー、『男性差別とたたかう者のブログ』は異性装者が著者になっていました。特にNikkoh氏は男性差別論LGBT運動の情報リンクをそれぞれまとめたページを作っており、現在でも非モテ(異性愛者)に乗っ取られる前の動きについて大変参考になると思います。

そもそもなぜ非モテは弱者男性論を乗っ取ったのか

以上のように、「女をあてがえ論」、いや「非モテこそ真の弱者だ論」こそ弱者男性が主張するうえでとってはいけなかった戦略でした。しかし、なぜこのような主張が弱者男性論の中で支配的になったのでしょうか。実はここには、強者男性的反フェミニズムの大きな影響があったのです。

フェミ少子化対策の女に偏って税金が使われるという問題ではなく、予想していなかった根本的な欠陥が今浮き出てきている。そう、少子化をそもそも防げていないという問題点だ。正直、この問題点はマスキュリストの自分としては想定外だった。女にだけ、税金が使われる男性差別体制が出来たら、それを維持するのが大前提だと思っていたから。奴らは当然、持続させようとするはずだ。だが、出来ていない。正直、思っている以上にフェミはアホなのだと思う。こいつら、まじで統計とかをごまかしていたのは、計算じゃなくて、まじで自分たちに都合良くねじ曲げた統計と政策を信じているのかと思う。そうなると別の意味で、男性差別主義者としての悪だけでなく、数学的能力不足の愚かの点で政治に関わってほしくない。

スウェーデンは(北欧三ヶ国全て)もともと非常に保守的で伝統的なカトリックの家庭が多かったため(引用者注:北欧はすべてルター派が国教でかつ多数派のはずですが…。)、子供も安定して多く、教育も安定し、福祉の財源も余裕があり、豊かな国になっていた。この豊かさの供給源であったカトリックの安定した一夫一妻制の家庭をフェミニズムはバカみたいに何も考えずぶっ潰してしまった。パトリアキーが、どうのこうの言って。福祉の財源や多産がカトリックの保守的な家庭で確保されているから、フェミ的な政策もできる余裕があることを忘れて。この保守的な家庭が多いがゆえに豊かであったスウェーデンを。信じられないかもしれないが、1930年くらいまでスウェーデンは女性が子供を6,7人産み、離婚も少ない、治安も良い国だった。

スウェーデンの崩壊は、少なくともフェミニズムの理想郷お手本という役割の崩壊は、早ければ10年、おそくとも20年間の内に起こる。
それと同時にかなりの先進国が、次の20年でフェミlgbt政策を方向転換していくと予想できる。正直、イギリスとかは付き合ってらんねーと思って保守派が舵を切り始める。今まではフェミニズムに逆らえば社会的に死刑になるので、動けなかったが、肝心のフェミニストどもが、イスラムに首を絞められ、力を落としていくから、その隙に男性が頑張ることになる。治安悪くなると女側は出歩けなくなるし、自分たちがいかに愚かかわかるだろう。

まあ、この変化を予想して、男性差別反対派はどう戦うかを考えていく必要がある。保守派の台頭は、フェミニストによる言論弾圧を終わらせ、女支配を終わらすメリットがあるが、男性差別解消は遠くなる可能性もある(引用者注:この部分については私も同感です)。

保守派であろうと、女の社会進出賛成派だろうと、フェミニスト(女の人権の方が男の人権より尊い)である本質は変わらない。こいつらとも戦うことになるだろう。ただ、次の20年間はどちらにせよ相対的に男性にプラスに働くはず(引用者注:男性全般ではなくジェンダー保守派だと思うのですが、まあいいや…)。ただ、かなり大きな歴史的変動になるので、要注意。

いや、まさかMRA for everyone氏がこの期に及んで手のひらを返してくるとは思いませんでした。実はこのような、少子化問題を盾にしたフェミニズム批判こそ、ジェンダー保守派・強者男性的反フェミニズムのとっていた路線だったのです。

それをネットで強く煽っていたのが彼、Prof.Nemuro氏でした。彼は元々はてなブログでこうした反フェミニズムに関わる情報を発信しており(現在は閉鎖)、フェミニズム以前の家族観のほうが優れていたというイデオロギーを強く持っていた論客の一人でした。

そのイデオロギーは高齢の右派政治家にも持っている人は多く、彼らの公設秘書を名乗るアカウントもProf.Nemuro氏と同様にSNSで煽っていました。そこに食いついていったのがインセルやKKOなどの非モテ勢力だったわけです。

少子化問題を盾にするのはもういい加減にしてくれ!

そして最近も、もう何度目になるかわかりませんが、このような議論が反フェミニズムのオピニオンリーダーたちによって蒸し返されつつあります。

ちなみに、小山氏の記事はまだ楽観的で、疑似的一夫多妻制さえ長期的に少子化対策に寄与しないことはProf.Nemuro氏やMRA for everyone氏も言及しています。

すなわち、少子化改善という大義名分を掲げるなら女を「産む機械」にするという選択肢しか(少なくとも彼らは提示でき)ないわけですが、それは同時に男を「女が産むように尽くす機械」にするという選択肢でもあるという視点が彼らには抜けています。この点はマスキュリストとして、深く憂慮しなければなりません。

皆婚社会も疑似一夫多妻も、根っこは同じ

この男を「女が産むように尽くす機械」にする手段であるという点において、私は皆婚社会も疑似一夫多妻もそんなに変わらないと思います。すなわち皆婚社会にしても女が配られない男というのはどうしても出てきてしまう関係上、その多寡しか違いが出てこないのではないかと思うわけです。

一般的に大量生産品のプリンが3個入りで売られているのは、父親が食べることを想定していないからです。母親と、子供二人の分というわけです。「男は仕事、女は家庭」(我々にとっては「男は生産、女は消費」だと思っていますが…)を軸とした昭和の伝統的家族観ではそういうシャットアウトが公然と行われていたといえます。

小山氏が言うには、疑似一夫多妻の推進とはシングルマザー支援のことだそうですが、私は昭和の伝統的家族観による皆婚社会こそ疑似シングルマザーそのものだったのではないかと思います。その家族観において父親は、その疑似シングルマザーのパトロン、あるいはATMに近い存在だったのです。

マスキュリズムは、過去のすべての社会がパトリアキー(父親が家庭、社会において権力を持っていた)であったということに疑問を提示するところから始まっている。というのは、どんな社会においても、戦争に行って死ぬのは男性であり、一方、子育てにおいて子どもへの影響力は母親の方が強いからだ。男性は被害者として認識されにくく、その声も聞かれづらく、男性は女性を保護するために使い捨てられる。

そして、極めて奇妙なのは「日本は西洋社会よりも母系的、母系社会である」という言論が学者から常に出てきているのにも関わらず、フェミニズム側からは、日本は昔から「西洋と同じように」パトリアキーであり、男社会で女性は差別されてきた、という話になっていることである。
少なくとも、西洋社会より母系の度合いが強いのならば、日本はマトリアキー的な権力が欧米よりは強いのであり、その社会において差別をされるのは男性側である。
実際、家庭の中で資産や消費の管理権を女性が持つパターンは、西洋社会より明らかに多い。夫の「お小遣い制」などはその象徴である。日本の夫婦のうちかなりの割合が「お小遣い制」をとっているならば、収入の男女差のみで男女の平等度を計るのは正確とは言えない。収入が権力に結びつくのは、収入を得る側が消費決定権を持つからだが、収入がそのまま妻に渡るのであれば、権力もそれに伴って移行することになる。女性が稼いだ場合は女性が管理し、男性が稼いだときはかなりの割合で女性にそのまま管理権が移るなら、トータルで見て消費権力は女性の方が強くなる。

離婚時の親権争いでは、「子どもは母親が育てた方がいい」というジェンダーバイアスが存在するため、女性が有利である。男性側がどんなに自分の子どもを愛していても、離婚後に子育てや子の成長に関われる可能性は低い。
たとえ離婚前に育児に積極的に関与していたとしても、この状態が発生する。親権を0か100かで分けて与えるからだ。
仮に父親はサラリーマン、母親が専業主婦で、日常的な子育ては母親が中心となっていた場合でも、働く父親が子どもを愛していないということにはならない。大半の働く父親は家族(子供)のためにお金を稼いでいて、労働が家庭内で分業されているだけだろう。にもかかわらず、離婚後に子どもの成長を見たり関わったりすることができなくなるというのはおかしい。

日本でも、つい5年前(引用者注:これが書かれたのは2015年のことで、ここでは2010年を指す)までは父子家庭への支援がなかった。日本では今でも離婚時に面会交流権すらまともに確保されていないことに注目してほしい。
離婚時の親権取得において母親が有利であるのは、男女平等以前の社会の名残であり、女性側の「特権領域」なのだ。社会の特権の多くが男性側にあるとすれば、家庭・子供における特権は女性側にあった。

これは久米氏が日経ビジネスに寄稿した内容(サイトの復活でまた見れるようになった)からも裏付けられます。

俺より弱い奴に会いに行く

とにかく、本物の弱者男性にとっては、皆婚社会の復活など解決策になり得ません。せいぜいそれは中の下の階層の、社会構造の変化によって本来得られるべき地位から振り落とされた男性が望んでいるものです。では、元々そんな地位についていなかった階層・属性はどうだったのか。より強い社会的排除・迫害を受けていたにもかかわらず、まったく声を上げられなかったのではないでしょうか。

それならば、私はその声なき声の側につきます。今や男女対立は強者男性と強者になりたがる女性との間の闘いにも、強者から振り落とされた男性とそれを迫害する女性との間の闘いにもなるべきではありません。「最も声を通しやすい弱者になりたがる、またはそうであり続けたがる女性」と、「本物の社会的弱者たる属性を持つ本物の弱者男性」との闘いであるべきです。