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芥川龍之介とは|人間のエゴを描き「答えのない難題」を書いた作家

芥川龍之介の作品は、たぶん日本国民の80%くらいが読んだはずだ。「羅生門」は高校の教科書の常連ですよね。福田雄一監督の作品における佐藤二朗くらい毎年出てくる。

男が死人の髪を売ろうとする婆さんを見つけ、服を剥ぎ取り逃げていくシーンに衝撃を受けた人も多かろう。「イカれた婆さんだ。服をパクられても仕方ないだろ」と感じた方もいると思う。しかし一方で「ちょ、婆さんかわいそうじゃね? お腹減ってんだから仕方ないよ」と思った人も多かろう。

芥川龍之介(特に初期)という人は、こうした「エゴイズム」をはじめ人間の汚い部分を書いてきた人だ。そして作品を通して、世の中に「議論」を巻き起こす天才だと思う。

私自身「羅生門」の授業ではクラスで班ごとに「ばあさんと男はどっちが正義か」という話をしたのを覚えている。

「先生、泥棒はしてはいけないと思います!だから ろうば が悪いです」と背筋を伸ばす女子もいれば、「でも がし しちゃうじゃん!かわいそうじゃん」とノートに落書きしながら反論する男子もいた。

いま考えると、大人でも難しいですよね。そういうの、めんどくさいから、みんな「行政の責任」にするのかもしれないですね(急に思想強い)

さて、そんな芥川龍之介という作家は何を考えて、どう表現しようとしてきたのか。そもそもなぜ作家を志したのか。今回は芥川龍之介の生涯を追いながら、作品の特徴をみんなで見ていきまっしょい。

芥川龍之介の生涯 〜大人たちの汚いところを見てきた神童時代〜

芥川龍之介は1892年3月1日東京都京橋(今の中央区)に生まれる。辰年、辰月、辰日、辰の刻生まれ(時間については諸説あり)という奇跡から「龍之介」と名付けられた。世が世なら7つの玉を集めて神龍でも呼び出しそうだ。

両親は牛乳屋さん。姉が2人いて3番目の子だったが、長女は龍之介が生まれる前に亡くなり、母は心労から精神病を患う。

そのせいで、0歳の龍之介は生家を出て伯母の家に引っ越した。彼女は教育熱心で文学好きであり、龍之介はここから10年間、むっちゃ勉強しつつ、西洋文学に触れる。

その後、龍之介が10歳のときに、実の母・フクが亡くなる。そこで父の新原敏三が「引き取りたい」と息子の親権を戻すようお願いをするが、彼はなんとフクの妹、フユとの間に子をもうけていた。

そこで芥川家は激怒。そんなアホ親の元に返せるか、と揉めに揉めて、結局のところ正式に芥川家の養子になるんですね。ここから龍之介の苗字は新原から芥川に変わった。

そんな大変な時期は、芥川龍之介の精神に非常に暗い影を落とした。母を亡くし、父は叔母と子を作る。親戚一同は父を非難し、なんだか酷く自分が「いらない子」のように感じたことだろう。

しかしそんななかでも、芥川は中学校を成績優秀者として卒業。教育熱心な伯母のおかげで、めちゃ秀才に育つわけです。しかも当時は成績優秀者として卒業すると、第一高校(今の東大教養学部)に無試験で入学できるという神がかったルートが存在した。

同期入学には久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛など、この後の日本文学を背負っていくスター作家が揃っている。この時のコミュニティは今後、芥川の人生で最期まで重要な存在になるので、アンダーライン引いといてほしい。

芥川龍之介の生涯 〜新思潮派の旗手に〜

3年後、東京帝大(今の東大)に入学。当時の東大は今より数倍の難関で、1年の合格者が10人以下という狭き門だったが、芥川は見事に受かる。伯母の元に引っ越してよかったほんとに。

そして同じく狭き門をくぐり抜けた久米正雄、松岡讓らと第三次「新思潮」を創刊。ちなみに「新思潮派」って文学史でよく語られるのだが、これは東大生のサークルみたいなものだ。第一次が小山内薫や田山花袋、第二次が谷川潤一郎、で第三次が彼らだった。

中央が芥川。超イケメンでびっくりするが、右の久米正雄の老け方が全部かっさらっててウケる。ちょっとアウトレイジ顔すぎる。

芥川はこの第三次「新思潮」にデビュー作の超短編「老年」を発表。「かつて名を馳せたおじいさんが過去の栄光を忘れられず、いるはずない女に向かって独り言をつぶやいている。それを周りの飲み友達が陰で『落ちぶれたな』と言っている」みたいな話だ。このころから人間の弱さ、汚い部分を書いていた。

そして翌1915年には25歳にして「羅生門」を発表する。背景として、芥川はこの作品を出す前に吉田弥生という幼馴染で青学に通う子とフォーリンラブかました。彼女はもともと新原家も家族ぐるみの仲。しかも賢い。家柄もいい。芥川は彼女を「弥ぁちゃん」と呼び、ついにプロポーズを計画する。

しかし芥川家は「新原家と仲良いとか、無理だから」と龍之介の恋愛を一刀両断してしまうのだ。弥ぁちゃんは縁談によって陸軍中尉と結婚。芥川はそのとき唯一賛成してくれた伯母と泣き崩れたという。彼はまたしても家族の勝手によって、人生を変えられてしまうのだった。

そうして人間のエゴイズムを描いたのが「羅生門」なんですね。最後に老婆が死人の髪を盗むのは、まさに芥川龍之介から弥ぁちゃんを奪うようなエゴイズムなのだ。ちなみにこの作品は今でこそ名作だが、当時まったく話題にもならなかった。このとき、まだ芥川龍之介はほとんど知られていなかったんですね。

芥川龍之介の生涯 〜夏目漱石の目に留まり人気作家に〜

そんな芥川龍之介が注目されるきっかけにもなったのが、これまた25歳でだした「鼻」だ。ここで人のコンプレックス、そしてコンプレックスを笑う周りの目ということに切り込んだんです。

「鼻」は今読んでもぶっ飛んでておもしろい。内供という坊さんは鼻が顎の下まであるのがコンプだった。それで鼻を短くする方法を医者から聞く。茹でたり踏んだりすると鼻が普通のサイズに戻った。しかし短い鼻を見た周りの人は以前より内供を見て笑うようになる。「鼻が短くなったからか」と思う内供。翌日起きるとまた鼻が長くなっていたが「よし。これでもう笑われないぞ」と思うのだった。

芥川は内供のコンプ、また周りの意地悪な視線を描いた。特に後者はもう簡単にいうと「野次馬根性」とか「メシうま根性」ですね。この作品はなんと芥川が兼ねてから尊敬していた夏目漱石から賞賛され「おもろい小説書くやん? これからも頑張れや」と手紙をもらっている。

1916年、26歳の芥川は夏目の推薦もあって、海軍機関学校の英語の先生になった。彼は英文学科なので、英語しゃべれたんですね。かといってもちろん創作が衰えたわけではなく、1917年には2冊の短編集を発刊。なかでも「煙草と悪魔」は芥川の代名詞にもなる「キリシタンもの」の1作目だ。

このころから夏目の後押しもあって、芥川の文壇での評価はどんどん高まっていくんですね。執筆の依頼も舞い込む。この頃には佐藤春夫に「僕を流行り物扱いするのはやめてほしい」という手紙を書いているほど人気だった。

それで1918年には毎日新聞社に入社、ただ勤務条件は「出勤なし、年に何回かの新聞小説を寄稿する」というもの。つまり単純に発表する場が増えたわけで、当然、ファンも増え「地獄変」などのアート寄りの作品を寄稿するようになった。

また同年には鈴木三重吉が児童文学誌「赤い鳥」を発刊。芥川龍之介は、創刊号で「蜘蛛の糸」を発表する。蜘蛛の糸も、彼のキリシタン的な一面が出ているし、カンダタのエゴイズム感も強い。

「赤い鳥」もまた芥川にとっては作品を発表する大きな場所になっていて、この後1920年に「杜子春」「アグニの神」を発表するまでは書いていた。彼の人間の身勝手さ、赦しと罰といった価値観などは、子どもの教育にも影響を及ぼしている。

さて、収入も入ってきた芥川は1919年、27歳で塚本文と結婚。しかしかなり早い段階で喧嘩が増える。「出せといった手紙を出さなかった」とか超ささいな喧嘩をしては友人に「ちょっともう、うちの家内きついわ」と手紙を書いている。

そんな芥川はつい気の迷いで歌人の秀しげ子と関係を持ってしまい、しげ子から「龍之介♡あんたの子どもができたよ」とおそろしい知らせを受けることになる。それで彼女から逃げる様に1921年、29歳で上海に出張する。

しかし帰ってきた芥川は心身の疲労もあって神経衰弱、腸カタルなどを患い、1923年には治療のため湯河原に旅行をした。体の不調から創作のペースも落ちてくる。

また同年には関東大震災が発生。このころの芥川の精神状態がよくわかるエピソードがある。川端康成らと震災直後、瓦礫と亡くなった方の体にまみれた吉原を訪れた芥川は何かワクワクするものを見つけた子どもみたいに颯爽と歩いていたという。そして自警団に熱心に取材をしていた。

その異常な光景に、川端康成は「ちょっと嫌いになりかけましたわ」と振り返る。まさにその姿は「内供の鼻を笑った者」であり、芥川自身がだんどんとエゴイストになりかけていたんですね。

さて、そんないろいろと壊れかけていた芥川に1927年、またも悲劇が起こる。姉・ヒサの夫、豊が保険金殺人の冤罪を着せられた挙句、自殺してしまうんです。芥川は豊の借金を精算し、姉一家を背負わなければならなくなった。これでさらに病んでいく。

芥川龍之介の生涯 〜生と死を書いた晩年〜

そんな人生のどん底を経験する芥川龍之介は、1927年に複数の作品を出版。1925、1926年は年に1本しか書けなかったが、この年は異常なくらい執筆しているのがわかる。なかでは谷崎潤一郎と論争繰り広げるなど、エネルギッシュな一面も感じるが、しかし一方で彼の精神はすでに限界であり、自殺未遂を繰り返していた。

そんな状態で書いていたのが1927年の作品群だ。
「河童」で社会の恐ろしさを描き、「玄鶴山房」では人生の辛さ、人の恐ろしさを書いた。そんななか死の3カ月ほど前に出した「歯車」は小説体ではあるものの、芥川自身の心の闇をリアルに書いたかなり陰鬱な作品となっている。

また彼の遺書ともいえる短編集が「或阿呆の一生」だ。冒頭で高校時代からずっと仲良しだった久米正雄に「この原稿を発表するかは君に任せる」と書いている。その後は「母」「東京」「先生(夏目漱石)」など、人生にまつわるタイトルで51個のエッセイを綴るが最後の章は「敗北」。彼の人生がプレイバックされている名著です。

またほぼ同じ時期に「或る旧友に送る手記」のなかで、これも久米正雄に対して「この2年は死ぬことばかりを考えていた」「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」という言葉を書いた。

そして1927年に斎藤茂吉から治療用にもらった睡眠薬をたくさん飲み、36歳で亡くなる。最期を迎えた芥川は、実は死の直前に菊池寛や室生犀星などの友人に会いにいっていたが、留守で会えなかった。室生犀星は「あのとき会えていれば」と心底悔やんだそうだ。

人間の「エゴイズム」には答えがない

この死の8年後に、文藝春秋の社主であり旧友・菊池寛によって芥川龍之介賞が設立されたことで、彼の名前は今でも語り継がれることになるわけだ。

さて彼の作品は大きく分けて前・中・晩に分かれるとされている。初期は「エゴイズム」を書いたもの。中期は地獄変などの、人間の内面をより深ぼったアート至上主義的な作品。そして晩期(1927年)は生きる意味を深く書いたもの。

これらは決して切り離されたものじゃない。つまり幼少期から新原家・芥川家のやりとりを見ていたことが、エゴを描くモチベーションに繋がり、そこから人間の内面世界を濃く表現するようになって、最終的に「生きるとは何だろう」と思い詰め、死ぬことに恐れがなくなったのだ。

芥川龍之介という作家が書いてきたものは「人間の内面」。特に「正義とは何か」だ。そもそもエゴイズムとは正義のぶつかり合いです。

例えば「ゴキブリはバイ菌を持ってるから殺してもいい」というAくんと、「ゴキブリだって生命があるから保護すべき」というBさんがいたとする。これって両方正しい。でもAくんからしたら、Bさんは悪なんです。BさんはAさんがバルサン炊くのをみて「人間のエゴだ」と糾弾するでしょう。

この話はきっと「羅生門」と一緒なんですよね。明確な答えがない。だから芥川龍之介の作品はいつも議論を呼ぶのでしょう。

彼はエゴに問いかけることで、読者に「生き方」を考えさせることに成功した。人間の内面を描いた作家はたくさんいますけど、芥川がいちばんかもしれない。これの作品は子どもの教育にとっても効果的で、だから彼は「赤い鳥」でも作品を出したし、今でも教科書の常連なんだと思います。

さて、いまやSNSが普及して、人間のエゴを毎日見るようになった。「SNS疲れ」という言葉は一周してもはや誰も語らないレベルだ。

そんな世の中を見て、芥川は何を考えているのでしょう。タバコを吸いながら、飄々と「何にも考えなくていいのになぁ」なんて、仏みたいなことを思ってるのかもしれないですね。

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