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Yellow Magic Orchestra(YMO)について|日本にテクノポップを輸入した天才たち

細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏。20代の私たちからすれば、この3人はそれぞれに有名人であり「Yellow Magic Orchestra」という、同じグループにいたことが衝撃だ。悟空とドラえもんとコナンが同じ作品に出てる、くらい胸が熱い。

以前、クラフトワークの音楽についてたっぷり解説した。クラフトワークが1970年代に世界にテクノポップムーブメントを巻き起こしたのはこの記事で書いた通りだ。

Yellow Magic Orchestraはこのテクノポップというジャンルを日本に持ち込み、国内でニューウェーブのブームを作った立役者である。さらにいうと「東洋風のテクノポップ」を海外に布教した。

今回は大好きなYMOについて、出自から代表曲まで、たっぷりと書きたい。

私物のレコードです。

たった5年で世界的グループになったYMO

さて、まずはYellow Magic Orchestra(以下、YMO)について何がすごいのかを知るために、その歴史を書いていこう。

YMOは1978年に結成する。発起人は当時すでにはっぴいえんどなどのグループで活躍していた細野晴臣だ。

そもそも細野が在籍していたティン・パン・アレーというグループの曲に「イエロー・マジック・カーニヴァル」があり、もともとは別のメンバーを誘って、そのセルフカバーをするためのバンドを組もうと考えていた。しかし頓挫。その後、アメリカの作曲家、マーティン・デニーの「fire clacker」をシンセサイザーを使ってディスコ調にするためのバンドを考えるも、また頓挫。

そんなときに細野自身のアルバム「はらいそ」のレコーディングで兼ねてから親交があった坂本龍一と高橋幸宏と会う。その日の晩に細野宅でfire clackerのアイデアを伝えると、2人とも「やろう」となり、YMOが結成された。

またこの背景には当時日本でコンピューターミュージックの第一人者だった冨田勲の影響もある。冨田勲といえばモーグ・シンセサイザーを駆使して日本だけでなく全米ビルボードまで獲っちゃった日本コンピュータ音楽の第一人者である。

冨田勲の「月の光」というアルバムを聴いた細野晴臣は衝撃を受けて「Cochin Moon」というアルバムを作る。

この際に画家の横尾忠則がよくスタジオに来てはあれこれアドバイスをしていたそうだ。なので、実はYMOの4人目のメンバーとして横尾忠則の名前があった。

横尾は細野からの依頼を受けて髪型をテクノカットにして準備していたものの、締め切りに追われて記者会見に間に合わず、結局参加しなかったという裏話がある。

YMOは最初から世界を見ていた

YMOのすごいのは最初から世界制覇を考えていたことだ。細野晴臣氏は「YMOは少数派にウケる音楽だが、世界にマイノリティの音楽を好む人はいるはずと考えた」と語る。契約を結んだアルファレコードはアメリカのレーベルと業務提携しており、世界に進出する足掛かりはあった。

デビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」が1978年11月にリリースされ、その半年後には全米盤がリリース。そして1979年8月にはロサンゼルスのグリークシアターでTHE Tubesの前座を務めている。アメリカでの初披露だったが、ウケまくり前座なのにアンコールを求められたほどだった。以下の動画がまさにそのライブの光景だ。

最初に海外でYMO人気は高まり、1979年9月に2枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」をリリース。日本国内で100万枚を記録している間も大規模な海外ツアーを回り、12月に帰国するころには日本でYMOフィーバーが起きていた。

逆輸入でマイノリティどころか超マジョリティになったわけだ。特に「RYDEEN」と「TECHNOPOLIS」の2曲は大流行することになる。

日本でも世界でも新しいYMOサウンド

YMOのテクノサウンドは日本ではもちろん新しものだった。当時の流行と言えばアイドルと歌謡曲だ。そこにコンピューターを使ったポップス。これは斬新だった。だからこそ、細野晴臣はマイノリティのための音楽と自称していたわけである。我々の世代でいうとVOCALOID・初音ミクがはじめて楽器店や家電店に出てきた時の驚きだろうか。非常に面白い時代だったのは間違いない。

世界的にはクラフトワークやディーヴォなどのテクノポップが出てきていたが、それでもYMOの音楽はまだこの世にないものだった。YMOはそれまでの西洋のサウンドに、中国やインドなどのアジアのテイストを詰めたのだ。またジャズやフュージョン、ニューウェイブのほか、アフリカのソウルフルな音楽も聴き取れる。

これはひとえに3人の異常な音楽の知識があってのことだろう。細野晴臣はロカビリーからフォーク、サイケとたどり、既にはっぴいえんどでは「日本語ロック」という史上初めての音楽を作り上げていた。

高橋幸宏はもともとヨーロッパの音楽に精通しており、サディスティックミカバンドでは前衛ロックをやっていた。坂本龍一は最もアカデミックで幼い頃から作曲をして東京芸大の大学院を出て、あらゆるアーティストのスタジオミュージシャンをしていた。

これらの多種多様な音楽的背景があったから、これまでにないテクノポップを生み出せのだと思う。

そんなYMOは結局、結成からたった5年で細野と坂本の仲が悪くなったこともあって散開(解散)をしてしまうわけだ。解散が決まったうえで出した最後のアルバムに収録されている曲はまさかの歌謡曲であった(とはいえ、YMOチックではある)。作ろうと思えば売れる曲をつくれる、というのがYMOの半端じゃないところである。これは多様なバックグラウンドがないとできない。

音楽家はみんなYMOに影響を受けている

そんなYMOは日本の音楽家たちに影響を与え続けている。今でもそうだ。例えば以下の人たちはYMOフリークとして有名だ。

浅倉大介
槇原敬之
宮沢和史 (THE BOOM)
高野寛
小山田圭吾
ゴンドウトモヒコ
テイ・トウワ
石野卓球
砂原良徳(元メンバー)
大槻ケンヂ
今井寿 (BUCK-TICK)
宇多丸 (RHYMESTER)
SUGIZO (LUNA SEA, X JAPAN)
吉田拓郎
星野源

Wikipediaより一部抜粋

2015年にMETAFIVEが結成されたとき、ものすごく胸が震えたのは私だけではないだろう。こんなのドリームメンバーやん!と興奮した。しかしよく考えたらただの高橋幸宏とYMOファンで結成されたバンドなのである。YMOフリークを集めたら自然とドリームメンバーになってしまうなんてやばすぎる。

そしてこの影響が新たな萌芽となり、YMOテイストは現在まで受け継がれている。特にこの後に出てくるフリッパーズギターをはじめとした「渋谷系」は多くがYMOの影響を受けているアーティストたちだ。渋谷系からまた新たにアーティストが生まれ、YMOの系譜は続いていく。

日本の、特にテクノシーンはYMOから始まった。そしてこれからも音楽シーンに影響を及ぼしていくのだろう。最近、坂本教授が癌の手術をしたことが報じられた。

すごくショックだったが、私はまだ彼ら3人で演奏をするところを見てみたい。そして新しい作品を待っている。YMOという時代を切り拓いたバンドだからこそ、まだ終わりの時期じゃなく、いつまでも何か新しい音楽を始める力を感じているわけだ。

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