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横光利一とは|新感覚派の旗手の生涯を蠅などの代表作とともに紹介

「小説の神様」といわれた人間は2人いる。1人は「暗夜行路」などで白樺派の代表的な作家にまで成長した志賀直哉。そしてもう1人は新感覚派の旗手・横光利一だ。

はじめて読んだ横光利一の作品は「春は馬車に乗って」だった。そのあまりの美しさ、鮮烈な比喩表現に衝撃を受けたことをマジで今でも覚えている。

すごい作品だ。鳥の内臓を「瑪瑙のような」とか書いてて、表現がエグすぎて、もう逆にマジでよくわからなかった。

昔に活躍した作家や画家は、今見ると色褪せてしまうこともある。しかし横光利一をはじめ新感覚派の小説はいま読んでも斬新だ。「新感覚」は当時センセーショナルな運動だった。今になって時代が追いついてきたのかもしれない。

さて、今回はそんな横光利一について、彼の人生を振り返りながら、当時は世の中がついていけなかった作品群をみんなでみていこう。

横光利一の生涯 〜勉強も運動もできるエリート小学生〜

横光利一は1898年、福島県会津若松市で生まれた。父は地元で有名な鉄道の設計技師、めちゃめちゃ腕の良い技師で、業者から引っ張りだこだったという。それゆえに転勤族。千葉、東京、山梨、三重、広島と、幼少期から転々と住まいを変える。

彼が小学校に入学したのは1904年、この時期は国語の国定教科書が「尋常小学読本」に改められた第1期だった。

その後、父が朝鮮に単身赴任し、母方の実家である滋賀県に移住。大津市の小学校に入り、中学生になると下宿しつつ三重の中学に入学した。

当時の横光はめちゃめちゃ輝いていた。あらゆるスポーツの成績がよく、しかもディベート部でも活躍するという攻守最強の中学生だったんです。ただ、それとともにルールが大嫌いで、既存の枠組みに縛られたくないと思っていた。

この後に人生にも通ずるが、当時から何事も「フォロワーになんかなりたくない」という人で、周りの真似を嫌い、制服とか絶対着ない子だったため、先生から「あいつチェックしとけ」みたいな目で見られていた。

そんな彼は当時、11歳の子に初恋をする。当時は15歳と11歳なので、そこまで歳の差はないが、中3と小5と書いたら、ちょっと異常な気もする。「ロリコン」もまた横光利一の人生を語るうえで大きなキーワードだ。

また中学生の横光利一は夏目漱石、志賀直哉などの日本文学者、ドストエフスキーといったロシア文学はなどに傾倒した。

なかでもドストエフスキーの自身の獄中での経験をもとに書かれたフィクション「死の家の記録」に大きな影響を受け、文学にはまっていく。

18歳になると国語の先生から「文才あるよ」と褒められ、小説家を決意。このころから校友会会報に作品を出し始める。当時書いた「夜の翅」という作品は、もはや小説なのか詩なのかわからないほど象徴的で攻めっ攻めの作品だった。

横光利一の生涯 〜人と同じが嫌だった早稲田大学時代〜

高校を卒業した横光利一は早稲田大学の文学部に入学。当然、小説家を目指して入学したわけだ。しかし当時はまだ小説家なんて「どうやって食っていくねん」という時代。横光は親族からの反対を押し切って進学した。

彼は大学時代にかなり辛い出来事に襲われる。貧乏学生のため、男3人でシェアハウスをしていた。横光はこのとき懇意にしている女中も連れてきていた。そんなあるとき夏休みで帰省して、家に戻ると女中と親友が同じ布団で寝ていたのだ。完全に事後だったんです。地獄のテラスハウスだ。

横光はこの事件について、後年「ビールの泡がなくなるのを見ているような顔だった」と"らしい比喩"で振り返る。また「この事件で誰も信じられなくなった」と語った。

さらに、そんな横光は同時期に初恋の子が14歳で急逝したことを知る。

これらの事件で大学生の横光は精神的にやられてしまう。神経衰弱を患い、19歳で大学を休学。そのころ実家があった京都に帰って、小説を書いて雑誌に投稿しはじめた。

すると、田山花袋が初代編集長を務め、室生犀星、内田百閒らを輩出する雑誌「文章世界」に「神馬」が掲載される。また萬朝報に「犯罪」が掲載。大学を休んで時間ができた横光は、小説家として世間的にデビューする。

翌年、雑誌に掲載された喜びもあり、落ち着いた横光は早稲田大学の英文科に転入。しかし気持ちは小説にあり、まったく講義に出ず、たまに出席したかと思えば上の空でいるような学生だった。

当時の手記として「横光は長髪を振りながら和服に黒マントで颯爽とやってきて、教室の中央にどかっと座って、髪をかき上げながら周りを舐めるように見て、瞑想を始める」とある。

小学時代から続く「俺さ。特別な人間だから」感満載の、ちょっと嫌なやつだった。またかなり臆病な人だったのではないか、と思う。ただ、そんな彼の姿はカリスマ感もあり、中山義秀をはじめ門下も出てきている。

そんな彼は、21歳で菊池寛に出会い、彼を師事することになる。菊池は1923年に今でも発刊され続ける「文芸春秋」を出しているが、横光は創刊メンバーに名を連ねている。文芸春秋なくして横光利一なし。まさに横光の人生を変える出会いだった。

しかし22~23歳は売れない小説家として生活も困窮していた。そんななか友人の小島勗の妹、キミに惚れ、思いを募らせる。このころキミはまだ13歳だった。しかし兄の勗は横光の経済力の無さから付き合うことに反対。横光は恋心にもだえ苦しむなか、24歳で父を亡くし、さらに経済的に苦しむんです。

このころの横光は「もはや悲しみなんぞ怖くない」と書いている。また「悲しめば悲しむほど力が湧いてくる」とも語っている。以前、ムンクの記事でも書いたが、ときにアーティストは自分を追い詰めることで創作力を高めるものだ。もしかしたら、ヒロイックな自分に酔っていただけかもしれないけど。

そして1923年、25歳で文芸春秋の創刊に参加。5月には短編「蠅」を発表。これが彼の出世作となる。蠅については以下の記事でたっぷりと解説しています。

菊池寛は彼の作品について「映画劇」と称する。『蝿』は、まさにその最たるものといっていいだろう。映画を観ているかのようにカットが流動的に変わる様は、菊池寛をして「類型がない」といわしめた。横光利一の「第一人者じゃないとヤダ」という癖が、ものすごく好転した瞬間だ。

同年の6月、小説が認められ始めたこともあって、25歳の横光は当時17歳のキミと同棲を始め、結婚。横光の母・こぎくも含めた、嫁姑との3人生活というそこそこな地獄が始まった。当時の生活を「鋸の歯の間で寝てるみたいだ」と、これまた的確な比喩表現で説明している。

そんな生活のなか、9月に関東大震災が起こる。横光は住む場所を失い、キミの家に移るなど慌ただしく動くなか、11月に「震災」を文芸春秋でリリースした。

1923年は文藝春秋デビュー、結婚、震災と横光にとって激動の年になったわけです。

横光利一の生涯 〜傑作「機械」の執筆で最盛期へ〜

さて、関東大震災復興の最中である1924年、横光利一をはじめ、川端康成、今泉光らは「文藝時代」という重要な雑誌を発刊する。

当時の彼らはすでにヨーロッパのダダイズムなど、前衛運動の存在を知っており、既存の価値観を破壊することに興味があった。

日本において既存の価値観といえば産業革命によるビジネス嗜好を反映した「リアリズム」だ。そんななか、横光や川端は表現主義を貫くわけである。詳しく以下の記事でどうぞ。

創刊号で横光は「頭ならびに腹」を発表する。その書き出しの名文にはホントに今でも唸る。

真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された

特急が目の前を通り過ぎるとき、小さな駅は確かに「石」と変わらないくらいの存在になる。めっちゃわかる。なんか無視されたみたいな悲しさを感じる。今も同じ気持ちだ。

この文章の比喩表現だけではないが、この書き出しが話題になって、文藝時代で書いた小説家は「新感覚派」と呼ばれるようになるんです。

何が新感覚だったのかは、先述した記事にて詳しく解説している。めちゃめちゃ簡単に言うと、擬人法や直喩、暗喩といった表現をそこかしこに散りばめたのが、新感覚派の特徴だ。

この作風はリアリズム全盛の当時、斬新だったために、直木賞で有名な直木三十五(当時はまだ三十三)から、批判を受ける。

この批判が菊池寛の文藝春秋に掲載されたため、横光は激怒。今泉光と一緒に菊池寛に反論を書くが、川端康成が横光にだけ「菊池を敵に回すのは良くないやろ。恩師やし」と止めたため、結果的に今だけが干されることになった。

横光らしいのはこの後に謝らず、なんとなく今を避けるようになったことである。プライドが高い彼のことだ。自分が川端に諌められたことも、恥ずかしかっただろうし、今に対する罪悪感とも向き合えなかった。

しかし川端のおかげで分断に残った横光はその後も精力的に作品を出していく。28歳で妻のキミが結核を患い看病生活が始まったことで「春は馬車に乗って」という私小説を発表。しかしキミは結核で亡くなる。

横光は彼女との闘病生活を「妻」「慄える薔薇」「花園の思想」「蛾はどこにでもいる」などで書きまくった。書くことで悲しい思い出を無理やり精算していたようにも見える。

また同年に菊池寛と同じくらい師匠的存在だった芥川龍之介が亡くなる。彼は横光に「上海にいけ」と言葉を残していたため、横光は30歳で上海を訪問した。

当時の上海は荒廃しており、それはヨーロッパ、アメリカなどの列強に支配される東洋諸国の構図を表していた。日本もその1つであり、横光はだんだんと日本人としてのコンプレックスを抱いていく。そして初めての長編「上海」を書いた。

また同年に「機械」を発表。この作品は横光利一の新しいことをしたい病が発揮されたものだ。まだ読んだことのない方はぜひ読んでいただきたい。「なんで斬新な小説なんだ」と必ず驚く。

当時は労働環境の悪化が社会問題だった。小林多喜二が「蟹工船」を出したりしていた時期だ。横光は働く人を機械に例えて、退廃的に書くわけである。

この小説のおもしろいのは一人称だけど、一人称じゃないところ。「私」が主人公で進むのだが、私は私を俯瞰して見ているわけだ。書き出しを見てみよう。

初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。

一人称だったら「初めの間は私は主人が狂人ではないのかと思った」でいいんですよね。この小説では妙に自分を客観的に見ている。めっちゃ斬新だけど、正直死ぬほど読みにくい。

まじで「いまどっちの『私』なん?」となる。これは四人称小説といわれる。

「機械」は日本一の文芸評論家・小林秀雄から称賛され、彼は「小説の神様」と呼ばれることになるわけだ。このあたりが横光利一の最盛期といえる。

このあと、彼は40歳を迎えてヨーロッパに旅行をし「旅愁」という作品を出した。彼はヨーロッパに旅立つとき「もう文壇から『あんたいらん子や』って言われてる気がするんですけど……」と書いている。出る前からホームシックな可愛いやつだった。

横光はヨーロッパで神経衰弱に陥る。「ヨーロッパは知性ばっかり詰まった国だ」と、非難さえしている。さっきの上海もそうだが、横光は東洋人である自分にコンプを持っていた。

それは鎖国が解き放たれて、明治から大正へと、どんどん西洋の文化が日本に入ってくるのを体感していた彼のリアルな危機感だろう。彼は西洋のカルチャーに影響を受けて生まれる「モダンガール」についての評論も書いているが、やはりあまり快くは思っていない感じだ。

そして1945年には日本文学界最大の右翼・三島由紀夫を絶賛している。さらにヨーロッパ滞在中に書いた「旅愁」では、「いかに日本がヨーロッパに虐げられてきたか」を前面に出した。

結局、同作は1946年に刊行されGHQの検閲に引っかかりまくる。そのことからも分かる通り、戦後、ある意味でアメリカナイズされた日本文学において横光の作品は非難の対象だったわけだ。

文壇から非難されるなかでも、横光は「みんな俺のこと責めるからもうかなわん。横綱を倒して名をあげようとしとる」と、自分の立ち位置を横綱と評価していた。彼は文士としてのプライドを保っていたわけである。

そんななか、彼のもとにはずっと執筆の依頼が来ていた。仕事に追われるなか、1948年12月に入って体調を壊す。そして12月30日、50歳でこの世を去った。腹膜炎による腹痛に耐えながらの最期だった。

常に斬新を追い求めた「ワナビ」のパワー

若いころの横光利一はめっちゃかわいい。たまに大学に来て、マントをブワッと翻して講堂の中央に座り、周りをジロリと見て上の空状態になる……。このあたりは、完全に「俺はお前らとは違う特別な生き物だ」感が出てて最高なんです。

ちょっと前にネットスラングで「ワナビ」という言葉が流行った。「特別な存在になりたいから、みんながAだったら俺はB」みたいな思考をする人を指す言葉だ。10代の横光は、まさにワナビだったのかもしれない。

「誰の真似もしないぞ」という固い意志が、彼の「新感覚」に結びついたのだろう。事実、当時彼の「石」という比喩はめっちゃ斬新だった。

そのほかに個人的に好きな比喩でいうと、「エレベーターが吐瀉する」。エレベーターから人が降りる様を書いたフレーズだ。主語が無機物なのがおもしろい。

リアリズム全盛の時代に、比喩表現を考えついたのは、横光が「人の真似はしたくない」と考えていたからかもしれない。ワナビだから彼は新感覚にたどり着いたともいえるだろう。

さて、その結果、彼の小説は「映画的」という面にもつながった。横光が長くライバル視していたのは、ライバルの文豪ではなく「映画」だ。「蠅」では、蠅の視点から人間を客観視し、「機械」ではもう1人の俯瞰的な「私」のフィルタを通すことで、自分までも客体に見せた。

そんな横光利一の「映画的小説」は、今読んでも新感覚だ。まだ読んでいない方は是非ご一読いただきたい。

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