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太宰治の「人間失格」で笑えなくなった人は、いったん寝るべきだ

太宰治といえば、非常にネガティヴかつ陰鬱な作品ばっかりで、読んでいて暗くなると思われがちだろう。はい。その通りです。一見、死ぬほど暗い。ずーっと、うじうじしている。

しかし人によっては、笑いながら読める人も多い。渋谷のクラブでコロナビールの瓶にレモン沈めてる兄ちゃんが読んだら「いや、こいつ自分好きすぎるっしょ。ウケんだけどやばくね」と笑いながら読むに決まっている。

なかでも「人間失格」という名作はヤバい。とにかくずーっと自分語りで、自意識過剰が止まらない。「他人に気を遣いすぎて、本当の自分を知ってる人などおらん」と、周りとは違う自分の辛さを訴え続ける。

そんな「人間失格」。わたしはもう絶対に爆笑ながら読んだほうがいいと思っている。事実、本当に笑える。「ちょ、もうやめて。いろいろ考えすぎやろこのおっさん」と、わたしは盛大なコメディと思っている。大好きな作品だ。

さらにいうと「笑えない自分」に気付いたら、生活を見直すべきかもしれない。まして主人公の大庭葉蔵を崇拝し始めたら、もうあなたは廃人ルートへの第一歩を踏み出しているかもしれん。この作品は、自分の精神状態のバロメーターとしても使えるんですよね。

今回はそんな爆笑コメディ「人間失格」について、何がおもしろいのか、そしてどこが素晴らしいのかをみんなで一緒にみていこう。

人間失格とは

恥の多い生涯を送ってきました。

この書き出しの通り「人間失格」は大庭葉蔵という男の"恥の多い人生"を読む話だ。たいそうな書き出しだが、別にそこまで恥らうべき行為じゃない。けっこう誰にでもある体験だ。これが恥だったら、イジリー岡田とかもはや国家に存在を抹消されている。

でもこれを「恥」と思っているところに人間失格の、そして太宰治のおもしろさがあるわけですよ。黒歴史を思い出して枕に顔を埋めて「アァーーー」と叫ぶほどの元気はないんですよね。黒歴史を振り返って、ガチで死にたくなってネガティヴにエンジンかかりまくるんですね。

さて本編は、はじめに第三者の或る作家が「その男(大庭)の写真を3枚みたことある。どれも薄気味悪い写真でドン引きした」とティザーで大庭葉蔵を紹介するシーンから始まる。

その後は「恥の多い〜」と、大庭の回想による一人語りで話が進む。これがまぁ自己否定のオンパレードなんです。「こんなに醜い人間ですみません」ということを、つらつらと語る。もう止まんない。爆速かつ長文で「どうぞ見てください。私めはこんなに下卑た人間です」と校長先生の話くらいのロング尺で自己紹介するんですね。

例えばその黒歴史は「子どものころは、大人の顔ばかり伺って、ピエロやってました」とか「心の中では俗物扱いしつつ左翼思想にハマったふりをしていました」とか……。

こんな調子で次から次に自己否定発言を連発する。つまり自分で自分に呪いをかけ続けるわけですね。もうなんか読んでると「ちょ、誰か〜。あったかいスープと毛布渡してあげて〜」と思わざるを得ない。

そんな「人間失格」は、ずーっと太宰治の遺書だと思われてきた。それはあまりに大庭葉蔵というキャラがプライベートの太宰に似ているからだ。

しかし1998年に、遺族が原稿を公開してからは「フィクション」という認識に変わった。それはしこたま推敲してあり、きちんと練りに練って書いた跡が見えたからだ。ただ、やはりいまだにこの作品は太宰の遺書だろう、といわれるのも事実で、ちょっとした論争になっている。

自己否定の裏に見える「自分大好き感」がたまらない

先述したように「人間失格」という作品を読むと、大庭葉蔵にしこたま同情する。おっさんの私でも、母性が爆発するんです。まじで抱きしめたくなる。

しかし、それとともに「おいおい、かわいいなこいつ」となるのは私だけだろうか。それはとてつもない自己承認欲求が見えるからだ。

つまり大庭葉蔵は小声で「俺のこの独特の感性を見て。天才っしょ。凡人には分からんでしょ」と言ってるように見えるわけだ。このナルシズムが太宰治の真骨頂なんです。

とにかくまぁ自己愛が強い。ちびまる子の花輪くんとか目じゃないぜベイビー。「俺は孤独」「俺はかわいそう」と、常に「俺」の話しかしないんですよ。そんなナルシストなので、世間から認められないと秒速で病むんです。

それで「病んでる俺にしか見えない世界だぜ」と、悦に浸って周りを勝手に凡人に仕立て上げつつ「病んだ……つら、リスカしよ」とつぶやくんですね。こうなると人間はかなりめんどくさい。自己承認欲求のデフレスパイラルに突入するわけですよ。もう株価の下げがとまんないんです。

ちなみに太宰が芥川賞にノミネートされたとき、選考委員の佐藤春夫に「私は優れた人間だから芥川賞をくれ。くれなきゃ死にます」と手紙を出したという事件がある。

結局、取れなかったんだけど、太宰治がいかに世間的に認められたかったかがよく分かるエピソードだ。

とにかくカルマを背負いすぎて立てなくなった男

と、まぁ「人間失格」は、そんな太宰の自己愛がこれでもかと出ている作品なんです。なかでも大庭葉蔵というキャラの最大の特徴は「とにかく周りの目を気にしすぎること」だ。

小学生のころに大人を楽しませるために天然ボケを演じてから「本当の自分を誰も理解してくれない」と謎のカルマを背負って生きてるんですね。ただこの生きてるうちに「役」を演じるという現象って、誰もが経験すると思うんですよ。

新入社員のころは明るくヨイショする役柄だった。でも後輩ができたら威厳を見せなきゃいけない。旦那と2人ならぐーたらできるけど、子どもの前では厳しい母でないといけない。

そうして喜劇やってるうちに、本来の自分なんかもうとっくの昔に分かんなくなってる……なんて世にも奇妙な物語はかなりあると思うんですね。

「周囲の評判を過度に気にする」というのも、つまり自己愛ですよね。愛されたいから、目の前の人に好かれるキャラクターになりきるわけだ。「背負う」という行為はまさに「人間失格」のキーワードだろう。

しかし本来は人生において「役」は、1つもいらないんですよね。だからと言って「人はみんな自分自身という主人公なのだから」とか激臭セリフを吐く気はまったくないです。「自分自身」なんてものを意識するから、役を背負いたくなるし、好かれたくなっちゃうわけですね。

つまりそもそも「自分」など存在しないのだ、と考えてみるといいかもしれない。すると好かれるも嫌われるもない。もはや「何かの役」を背負う必要なんてないですよね。そんな余計なものは手放したほうが身軽で楽なんです。

大庭葉蔵という人間は、あれもこれも全部背負うんです。何か行動をする際にすべて「自分ありき」で考えるんですね。

すると、なんかもうこなきジジイみたいな物体がのしかかってるわけですよ。「役目」が多すぎて、立てなくなっちゃうわけです。これだけ役を背負って元気に生きてるのって、アンパンマンの山寺宏一くらいですよ。やっぱ山ちゃんはすごい。

「人間失格」は爆笑コメディとして読むことをおすすめする

さて、今回は「人間失格」について紹介した。この作品は太宰が自死する前「最後の完結作」として知られていることもあって、一見してみると、陰鬱な空気に包まれた小説だ。

しかし大庭葉蔵の恥の多い人生を語る姿は、冒頭にも書いた通りめっちゃウケるんですよ。読んでいて「アイタタタタ」って声が出る。もう自虐ネタやめて本当に、とツッコミ入れたくなる。

ただ、人間失格の大庭葉蔵に共感する人も多いとは思うんです。太宰治の熱狂的なファンってたくさんいます。否定する気はまったくなくて、そこにある種のロマンを感じるのも分かる。

ただ、もしかしたら人間失格が好きな方って、無理してる方が多いのかもしれない。なんて思ったりする。一度、自分をぞんざいに扱ってもいいのかもしれないですね。周りからめっちゃ嫌われてみると、すんごい楽なことに気づくはずです。

嫌われたくないから、役を演じる。すると「本当の自分なんて誰も知らない」と孤独になる、というのが大庭葉蔵のストーリーだ。

おもしろいことに、一回素顔の自分を出して、嫌われれば嫌われるほど、孤独じゃなくなっていくんですよ。皮肉なもんですよね。

太宰治は、この作品を出した後に玉川上水に飛び込んで自死した。もしかすると「玉川上水って『世間』だったのかもしれないな」と思う。孤独をアイデンティティにしていた太宰にとって、世の中に飛び込むことは死だったのかもしれん。

人間失格に共感してしまうあなたは、玉川上水じゃなくて渋谷スクランブル交差点に飛び込んでみてはいかがだろう。一度、孤独でナルシストな自分を捨てて、バカになって喧騒を楽しんでみると、これが意外と「俗物って悪くないじゃん」ってことに気づくはずだ。

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