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「奇想のモード 装うことへの狂気、またはシュルレアリスム展」のレポ|ファッションは己の無意識の具現だ

学生時代に「量産型」という言葉について考えたことがあった。

「ふむふむ。量産型ということは、つまり家内制手工業ではなく工場制手工業でつくられたレディメイドである。あって、要するにプロダクトデザインとして機能を意識しているゆえ『使いやすさ』を重視しているのだな。ふむふむ。保温性や頑丈さと同じラインで『周りに馴染む』という機能があるゆえに黒やグレー、ベージュといった合わせやすい色が量産型のメインカラーになるのか」と、あの10代後半の文学男子特有のナルシズム全開で小難しく考えていたわけだ。当時の自分に「おい、無理すな」と毛布をかけてあげたいマジで。

サブカル好き大学生とTwitterのエセ批評家は2行で済むことを5分くらいしゃべるから。みんな次見つけたらデコピンで体力削ってモンスターボールに格納して海に沈めような。

で、なんで量産型について考えていたのか。私は軽音楽部に所属していたんですが、明らかに学部の友だちより軽音楽部の人間のほうが派手な服を着ているんですよ。私しかり。で、量産型について変に見下していたりするんです。「お前、今日量産型やないか〜」って。

「いや、お前もだぞ」と。その、クリエイティブ系サークル特有の「俺周りとは違ぇから感」が既に猫型ロボットレベルのレディメイドだぞ、と。常々、思っていたんですね。

こうした「周りとは違う人間でありたい」という自負がだんだんと派手な服を着せる。派手な服に合わせて派手な人格になり、あの『地元で有名なやたら派手な大人』を生み出していくのか……。なんて思っていたんです。ナルシストですから、なんかもう謎に上から批評家目線なんですね。

それから時間は流れ、今は中野区に住んでいる。中野区というのは「人とは違う系の人に優しい街」なんですよ。以下のポスターを見てください。

ちょっと読みづらいですが「人と違うことを恐れず、おもしろがっていこう」というメッセージが書かれています。そりゃもうサブカルの聖地ですからね。こんなポスターを区が作るくらいですから、そりゃ変な人が集まってくるわけだ。

で、サンモール商店街にはどの時間帯も1人は蛍光色に身を包んだおじさんとか、サンリオキャラのリュック背負ったツインテールちゃんがいる。でも見慣れすぎて誰も気にしない。優しい町である。あと新宿へのアクセスがいい。

すみません、脱線しました。で、あらためて最近、サンモールを歩いていて「ファッションは内面の鏡だな」とか思っていたわけだ。

そんなときに知り合いから「庭園美術館でシュルレアリスムの展示会やってますね」と話があった。そういえば、行こう行こうと思いつつも足が重かった。しかし最近ちょうどファッションについて考えてたし遊びに行ってきました。

そしたら、なんかもうその場がシュールすぎて、楽しすぎた。とにかく展示物それぞれが、倫理観大爆発で奇妙奇天烈すぎて楽しかったので現地レポをお届けしたい。

雨のなか、築90年の東京都庭園美術館へ

当日は目黒駅近辺のルノアールで友だちと待ち合わせをして、東京都庭園美術館へ。豪雨でもない、かといって小雨でもない、なんかもうこの世でいちばん気持ち悪い雨のなか、10分ほど歩いて東京都庭園美術館へ。

まずメインビジュアルなんですけど、シュルレアリスム関係のポスターや本ってやたらと派手なピンクが使われるんですよね。私ん家にあるパリのポンピドゥセンターの画集もピンク。


あと、この前開催されたポーラ美術館の「シュルレアリスムと絵画展」のメインビジュアルもピンク。

ちなみにポーラ美術館のレポはこっちの記事でどうぞ。シュルレアリスムの権威・巖谷國夫先生のお話を聞けて、嬉しすぎておしっこ漏らしたよ〜って話です。

で、今回もピンク。「なんでやろ。シュルレアリストは潜在的ギャルなんか」とか思いながら館内に。

東京都庭園美術館は本当に美しい。まず周りに広大な庭園が広がってる。「ここはホントに目黒なのか」っていう優雅さがたまらん。雨だったから散策はしなかったんですけど、晴れてたらのんびり散歩でもしたいなぁ。

東京都庭園美術館

美術館自体は朝香宮邸をそのまま使っています。1933年のアール・デコ全盛期にフランス人デザイナーによって作られた歴史ある建築物。築90年ですよ。

そのへんの賃貸だったらもう粉塵と化してるだろうが、なんせ皇室の建物なのでまだまだ頑丈。入り口には、フランス式シーサーみたいなやつがガチギレの表情でお出迎え。

ルパンだったらこいつの目が隠しスイッチだ
アーチが美しい玄関

さぁそこからいよいよ館内に入るわけですけど、残念ながら前半部分は撮影NGだったので、素材と文章だけでよろしくどうぞ。

「動物を殺して衣類にする」という当たり前が急におっかなくなる

中に入ると、早速第一章「有機物への偏愛」というテーマからスタートした。いきなり登場したのがサルバドール・ダリの「炎の女」と「引き出しのあるミロのヴィーナス」の2つの像です。

サルバドール・ダリ「引き出しのあるミロのヴィーナス」

「引き出しのあるミロのヴィーナス」ってなんか、真っ直ぐなタイトルがおもろい。「ねぇダリ、これなに?」って聞いて「引き出しのあるミロのヴィーナスだよ」って答えられたら「いや、だからそれはなんなんだよ。乳房を着脱式にすな」ってツッコむに決まっとる。めちゃくちゃされてるのにヴィーナスが真顔なのもツボです。

ダリは一時期「どうしても人体に引き出しつけたい」っつう、謎すぎるマイブームがあった。それは「自分の内なる匂いを嗅ぎたい」っていう究極のナルシズムだったらしい。なに言ってんだマジでこの人。この展示的な意味でいうと、ダリは石膏という無機物にすら有機的なものを求めて解剖をしたわけだ。

ダリについては以下の記事でめちゃクソ詳しく紹介していますのでぜひ。

で、隣にはファーブル昆虫記で有名なアンリ・ファーブルの孫、ヤン・ファーブルの「玉虫のブローチ」がある。ガチの玉虫を剥製にしてブローチにしたっていう、倫理的に限りなくアウトに近いアクセサリーだ。「ファーブル家の虫好きは世襲なんか?」と思いながら見ていくと、そこから有機物、つまり動物の身体をそのまま使ったファッショングッズが並ぶ。

ベルギーにはヤン・ファーブル作の「140万匹の玉虫で装飾された王宮」がある

あの、たまに超お金持ってそうなマダムが首にリアルファーを巻きつけて歩いてますが、我々はなんとも思わず「あったかそう〜。てか高そう〜」と思いながらすれ違うと思う。

しかし、こう展示されると、動物を殺して衣類にするという行為が、妙におっかないことのように思えてくる。紳士服店とかで「牛革なんですよ」と笑顔で話しかけてきた高身長メガネ店員が、なんか悪魔みたいに思えてきた。

「服が人に合わせるのではなく、人が服に合わせる」というモテの狂気

で、さらに進むと、飛び込んできたのがウエスト40cmくらいの激細コルセットだ。細いウエストと大きいお尻という「女性らしさ」を演出するため、時には肋骨を折りながら着用していた人もいたという。実際みると「これ、内臓は尻に集約されとるんか?」ってくらい細い。

実際に飾られていたコルセット

その後に出てきたのが中国の「纏足」。みなさんご存知、足の骨を1本ずつ折って小さく折り畳むっていう、なんとも怖すぎる文化だ。「足が小さい女のほうがきれいだから」っていう理由である。中国でははやくて11世紀ごろから、なんと1950年代くらいまで続いた習慣だった。

なんか前、テレビでアフリカ系の人に宮崎あおいと近藤春菜の写真見せたらみんな「近藤春菜のほうが付き合いたい。だって尻でかいじゃん」って陽気に答えてたのを思い出した。文化は常識を変える。逆にいうと私たちの常識ってそんくらいのちっぽけなもんだ。

纏足の娘

実際に纏足のくつが展示してあったが、これもマジでびっくりで、マジで全部スタジオアリスサイズ。10cmもないんじゃないか、ってくらい。これを成人女性が履いてたっていうんだから、普通にひきますよね。

コルセットしかり、纏足しかり、人体を壊してまで、ファッションを優先するというテーマです。「体の健康よりも、心のモテ欲を満たす」というのは怖い気もするが、今の日本でも比較的普遍的なことだろう。桑田の息子を見てみろ。アレだ。

さらに進むと、18世紀フランスの女性の髪飾りが次々に出てくる。髪飾りといってもヘアピンとか、カチューシャじゃない。もう、船とか鳥籠とかを載せちゃう。

頭以前に親が真顔すぎて草

この当時は「どんだけ頭を高くできるか競争」が開催されていた。頭が高いほど美人なんですね。もう、どういう価値観? 上の絵とか「ママー。座礁してるよママー」ですよねこれ。ただこれがスタンダードだった。ちなみに当時の女性貴族は舞台には入場禁止だった。なぜなら「頭が邪魔で後ろの人がステージを見られないから」だ。

この当時はロココ美術の時代ですね。日本人にとってわかりやすい例でいうと「ベルばら」の時代です。つまり貴族全盛の浮かれまくってだ時期で「どんだけ派手に振る舞えるか」ったのが、当時のトレンドだった。ロココの記事は以下で書いています。

そういえば日本で2009年に「昇天ペガサスMIX盛り」が、雑誌『盛り髪セットサロンバイブル/SAKURA・MOOK38』で紹介されて、世間がざわつくという事態があった。


「鳥籠のせちゃいました盛り」はロココの時代にはガチであったのである。「のせちゃいました」じゃないのよ。beforeの写真が泣いとるぞ。

ショッキング・ピンクの生みの親、エルザ・スキャパレッリの作品


そんな奇々怪々な作品がもうおかしくて……。でも格式高い庭園美術館は「館内の歓談はご遠慮ください」なのだ。もはや「笑ってはいけない庭園美術館」と化しているなかで登場してくるのがエルザ・スキャパレッリさん。

みると「ショッキングピンクの生みの親」とある。これで笑いが止まった。あの、入場するときに「なんで、シュルレアリスムってピンクなんやろ」と思ってた疑問が解けたのだ。

香水「ショッキング」

エルザはシュルレアリスム全盛のころに活躍されたファッションデザイナーで、シュルレアリスムの「意識を完全に取っ払ったからこそできる奇妙な作品」とプロダクトデザインを融合させて「遊び心あふれるファッションアイテム」を作った方だ。

そんな彼女の代表作がピンク色の香水「ショッキング」。そのパッケージのカラーリングが強烈に明るい紫色だったことから「ショッキングピンク」と呼ばれるようになった。

シュルレアリストのわっけわかんない作品がわんさか

そんなエルザはマン・レイや、サルバドール・ダリ、ジャン・コクトーといったシュルレアリストたちと親交があった。シュルレアリストのテーマは「意識の解放」。それが拡大して「夢と現実の融合」を肯定することに至る。

ダリがフォークをキャンバスの前で寝て、うとうとしてフォークを落として目覚め、さっきまでのまどろみで見た世界を描いたことは有名なエピソードですね。

以下の記事ではシュルレアリスムのことについて、しっかりめに書いています。

そこから「デペイズマン」という発想法が生まれるわけです。デペイズマンとは同居しないはずの2つの物体を並べることで、思考の枠を取っ払うことです。例えばダリは「ロブスターと電話」をくっつけたりしている。

サルバドール・ダリ「ロブスター・テレフォン」

エルザの服には、そんなデペイズマン的な表現も見られます。これが作品にユーモアをもたらす。いや、モノとしては完全に無駄だ。ロブスターのハサミが絶対こめかみに食い込むもんこれ。でもそんな無駄にこそ、ユーモアがあるわけだ。

そんなシュルレアリストたちの作品がたくさん展示されていた。なかでも最も有名なのが、これまたデペイズマンの代表作、マン・レイの「贈り物」だろう。

マンレイ「贈り物」

アイロンと鋲を掛け合わせたオブジェである。あくまでファッションにフォーカスしてるので、今展では語られていなかったがマン・レイは仕立て屋の息子だ。

で、しかも超親嫌いなので、無意識的にアイロンとか、ミシンとかを「使えなくする」っていうオブジェを作っている。詳しくは以下の記事でどうぞ。

で、ファッション×シュルレアリスムといえばもう「VOGUE」だ。今も元気に出版している有名雑誌だが、第二次世界大戦前後のころは、シュルレアリストが表紙を担当していたのは有名な話である。

ダリが担当したVOGUEの表紙

ダリやキリコが表紙絵を担当したり、マン・レイがモデルを撮ったりしている。顔面花束とかもうおしゃれすぎて、逆にファッション雑誌に見えない。新進気鋭すぎて売れないデザイナーのZINEだろこれ。

本展では当時のVOGUEが山ほど展示してあって、もう大興奮だった。メディアを長年している身として「マジでヤベェな」と思ったのは「トンマナ」がしこたま合ってないことだ。担当者によってフォントも全然違うし、見たときの雰囲気も別物。つまり担当者に全任せスタイル。知らない人が見たら、全然違う雑誌に見えるレベルなんですよ。攻めっ攻め期のVOGUE、ほんとやばい。集めたい。

日本の奇想ファッションデザイナーのイってる作品に厨二心が爆発した

さて(途中、実はいろいろ飛ばしてますが)本展も終盤。ここからは写真撮影OKでした。それがなんか嬉しくて興奮しすぎてまず空気清浄機を撮った。

トランスフォームしそうな空気清浄機

このあたりになると、もはや空気清浄機までおしゃれに見えてくるくらい脳がバグってた。

では早速、最終章を写真とともに紹介していきますよ。

最後は奇想の表現のまとめとして、現代のヤバすぎるファッションアイテムが紹介されている。これがほんと漏れなくかっこいいんですよほんと。いまだ捨てきれない厨二心にグサグサ刺さりまくって、もう写真バシバシ撮りながら心の中では「羽生結弦推しのおばちゃんテンション」です。「ヒャァー、かっこいいぃ〜」ってなってた。想像のなかでは熊のプーをぶん投げてた。

まず、館鼻則孝の作品。マジですんげえかっこいい。オブジェや靴が並ぶ。ファッションに疎い私は恐縮ながら存じ上げなかったのだが、ブランド「NORITAKA TATEHANA」のクリエイティブディレクターとして活躍されている方だそうだ。

特に3枚目、4枚目の超厚底靴がヤバい。3枚目を見ればわかると思うが、花魁の高下駄からヒントを得ているそう。あの、友近がよくモノマネする五社英雄監督「吉原炎上」のアレのリブランディングをしたわけだ。


これをヒントにして作られたのが4枚目のヒールレス・シューズ。「なんだこれ。こんなん誰が歩行できんだよ」と思っていたら、まさかのレディー・ガガが履いていた。これがスターの体幹よ。並みの人間だったら動けなくなって石化する。

その後に展示されていたのが永澤陽一の作品だ。

馬ズボンである。もう一度言おう。馬ズボンである。本物の馬革、しっぽ、ひづめを使っている。これぞリアル馬娘。ぜひ履いてみたいが、関節の向きが違うので着用は不可能らしい。

その次にズラッと作品を並べていたのが串野真也である。個人的にはいちばんグッときた。めっちゃほしい。これ履いて冠婚葬祭行きたい。

実在する動物や昆虫をモチーフにして、靴を作っているわけだ。串野はこの動物のデザインについて「そうならざるを得なかったデザイン」という。わかる。めっちゃわかる。

以前、六本木の21_21 design sightで開催された「虫展」でも同じテーマの解説があったが、動物のデザインは「外敵から身を守るため」また「食料を摂りやすくするため」あるいは「子孫を残すため」にそうなるべくして進化したんですよね。

つまり、あえてちょっと冷たい言い方をすると「使いやすさ」として完璧なデザインだといえるわけだ。こうした思考に辿り着くデザイナーは多かろうが、ここまで絶妙にファッションアイテムと動物を融合できているのがすごい。特に以下の「進化(退化か?)の過程」みたいな展示が良かった。

まさに「これまでの歴史を受け継いで奇想のファッションは続いていますよ」ということで未来を見せてもらった感覚になった。素晴らしすぎる最終章だ。

最後になんかもう絶望感MAXのラスボスがおった

いや〜よかった。おもしろかった。衣食住とはよく言ったものだが、ただ着るだけではない。服には欲望も好奇心も詰まっている。そんな着用者の感受性を信じてモノを作り続けるファッションデザイナーの意地やユーモアも伝わってきた。いい展示だったなぁ……なんて思いながら帰ろうとしたら「こちら最後は専用のメガネを着用してどうぞ」と言われた。

え、なに、と思って見たら昔懐かしい3Dグラスみたいなものだった(使い捨ての紙製)。で、暗室に入るわけだが、もう一歩目で「ぅお」って変な声出た。

いやもう完全にラスボス。このふわぁっと広がったスカートの形とか、人体がない恐ろしさも含めて、絶望感がハンパない。「HUNTER×HUNTER」でネフェルピトーにカイトが瞬殺された場面思い出した。ちょっとポーズがダチョウ倶楽部みを感じされるが、それでもカッコ良すぎる。ダチョウ倶楽部の4人目でこいつ入った世界見てみたい。

作者はさっきの串野真也さんと尾崎ヒロミ(スプツニ子!)のユニット「ANOTHER FARM」だ。なんと蚕にくらげとかサンゴの遺伝子を組み合わせることで「光るシルクの糸」を生み出したそうです。テーマは「テクノロジーの進化と生命、人間の関わり」。そう。奇想のファッションはついにバイオテクノロジーとも融合するんですね。

そして専用のメガネをつけると……

鮮やかな緑に発光して、柄までが鮮明に見えるようになる。ヤバい。第二形態だこれ。ドラゴンボールのセルだもんコレ。より絶望感高まっちゃうよこれ。なんかもう「すごいモノを見てしまった」という、圧倒された感じで締め括ってくださいました。

作る側も着ている側も、「服は無意識が具現したもの」である

お土産で買ってきた着せ替えシート。
装飾を取った貴族が完全にオフのIKKOで笑った

ということで大満腹の展示だったほんとに。特にファッションの作り手の頭のなかを見られたのが嬉しかった。

「シュルレアリスム」って人の無意識下にフォーカスしているのがおもしろい。無意識って嘘つけないのだ。この前、fumufumu newsさまで自動筆記を載せたが、大勢の前で全裸になる感覚で、なんかもう恥ずかしいというより、気持ちよかった(生粋の変態)。

で、今回の展示では作り手だけでなく、着る側にもフォーカスしていたのも楽しい。肋骨折れるくらい腰を締めるのも、足を折って小さくしたのも、頭に船乗せるのも「モテたい」っていう無意識が反映された結果だ。

そこで最初の話に戻るが、やはり今も変わらず服の趣味には無意識が反映される。例えば量産型は「流行りに乗ってカッコよく見られたい」とか「変な奴と思われたくない」という無意識の現れだ。

サンリオのバック背負ったツインテちゃんは「幼く見られたい」「甘やかされたい」みたいな無意識があるのだろう。

派手な服着ているおじさんは「魂まで年とりたくない」「俺はまだまだいけるぞと自分に言い聞かせたい」という無意識がある。

つまり内面の呪いが表に出るのが「ファッション」なのだなぁ、と。

東京都庭園美術館を出てから、やたらとすれ違う人の服が気になった。それは「おしゃれか否かが気になるから」ではない。「この人はどんな人生を送った結果、今この服を着てるんだろう」と想像をしたくなったわけだ。センスではなく「センスが生まれた背景」が気になったのである。

服に興味がない人も楽しめる展示なので、ぜひおすすめしたい。というか、服に興味がない人にこそおすすめ。興味がないとはいえども、その服は「ただ安いから」買ったわけじゃなかろう。なんでその色と形を選んだのか。己を知るためにも、展示を見て、ぜひ自分の無意識にアクセスしてみてはいかがだろうか。

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