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憧れの巖谷國士先生に会って、感動で軽く尿を漏らした話@シュルレアリスム展

いきなり変な妄想をしてしまうのだが、そういえば赤鬼や青鬼は毎年どんな顔で節分迎えるんやろ。毎年のルーティンでほとほと飽きててもおかしくないのに、常に1回目のテンションで「ゴラーー!鬼だぞー!」って子ども襲いに来るよな。「豆撒いたらすぐ帰るから気にせずぶつけてどうぞー!」とは言わん。プロ根性にしびれる。大谷翔平ん家とかに配属されたら最悪やろ。160km投げるんやぞ、あの本格右腕。大豆、眉間にめり込むぞ。

……とか、要らんこと考えとるから更新が遅くなるのだ。とか独り言抜かしている間にも、チョコが香ってきてる。やばい。このままでは、またも行事をまたいでしまう。

さっさと本題に移るが、今回書きたいのは2019年12月15日に行ったポーラ美術館の「シュルレアリスム展」のこと。ほんとはね、ほんとは年末には書き終わる予定だったんです。だって巖谷國士先生のお話が本当に素晴らしかったから早く書き残したくて。書き出しはマジで五指全部腱鞘炎になるほど早かった。ミシン並みのペースでエンターキー叩いてたもん。

まぁしかし結果的に、投稿は1カ月以上伸びてしまったわけだ。すべては年末と正月が悪い。あたしゃもう、自分の怠惰を時期のせいにすることにする。ちょっと本題いく前に言い訳させて。

更新が遅くなった言い訳

2019年の12月は28年の人生で最も忙しく「忙殺也。我忙殺也」と繰り返し独り言を唱えていた。新事業のマーケ設計から年明けにリリースするメディアの打ち合わせ、サイトのワイヤ設計、広告運用、レギュラーの執筆業、あと珍しくブックライティングの仕事が入ったと思えば、別の知り合いからSEO設計を任され、組んでるバンドのMVやらアー写の撮影をしながら、ロゴデザインやらアライアンス系をこなす日々……。

てんやわんや過ぎて12月はnoteをほぼ更新できなかった。師走どころじゃねぇ。人脚で走るレベル超えて、もう乗り物使ってた。師セグウェイ。いや師フェラーリ。もはや師新幹線グリーン車移動。つまりは師リニアモーターカー。気づけば師プライベートジェットなどなどを乗り継いでいるうちに、さらに恐ろしいことに気付く。

年末の仕事の多くが2020年に本格始動するものばかりだったのだ。「あ、あかん。来年のわし死んでる?」なんて考えているうちに半鬱状態になり、とうとう日がな一日こたつから出られず、1日中YouTubeで「かっこうの托卵」を見るだけの廃人になったのである。

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落とされる卵、産まれる卵、飛び立つかっこう、育てるオナガ、落とされる卵、産まれる卵……とループで観ているうちに、なんかムカムカしてきて、最近結婚した友人に電話し「おいおまえ、子どもは責任持って自分で育てろよ!」と余計なお世話の極みかまして、這いずるようにこたつを出たのが1週間前のこと。低温火傷して赤黒く変色した両の内ももをさすりながらも、ようやくPCのキーボードに手を伸ばしたというわけだ。

そして「絶対に書き残しておかなければならないこと」を思い出した。それが日本シュルレアリスム界の現人神・巖谷國士先生の講演会レポートである。今回は巖谷先生のお話をまとめてお届けする。

巖谷 國士先生について

まずは僭越ながら巖谷先生の略歴を書く。巖谷先生は1943年1月生まれ、御歳76歳の文学者・評論家である。といってもエッセイストや写真家、小説家としても活動しており、肩書きは無数にある。

巖谷先生は20歳のころに瀧口修造氏や澁澤龍彦氏と出会う。瀧口氏は巖谷先生よりも40歳歳上で、当時は既にシュルレアリスム評論などの活動をはじめていた。澁澤氏は広く知られたエロ・幻想・フェチ的な小説家であり、現代でもファンが多く広く知られている作家だ。

主に2人との交流で、シュルレアリスムの魅力に取り憑かれた巖谷先生は、フランス文学者となり今日までシュルレアリスム研究を続けているというわけだ。ときにして1963年ごろ、第一回東京五輪に沸いていた時期である。

それから50年ほど経って私は大学に入学し、シュルレアリスムに興味を持ち書店で一冊の本を買った。それが巖谷先生が著した「シュルレアリスムとは何か」。

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「シュルレアリスムとは何か」巖谷國士著 ちくま学芸文庫

ダダ〜シュルレアリスムの概要から、メルヘンとの関係、人間の理性と動物の野性のコントラストなどに関することが書いてある。

私は奇天烈な作品にも人文・哲学的な背景があることを知り「なんじゃこれおもろ、シュルレアリスムめっちゃおもろ、おもろ、さいこ、さいこう!」ともう一気に虜になってしまったのだ。このころはホントにハマりすぎて、「耳と目 位置 入れ替え方」とマジで検索していた。

それから2年間で巖谷先生の著書は、ほとんど読んだ。「シュルレアリスムと芸術」、「シュルレアリスムと小説」、「シュルレアリストたち」、「ナジャ論」などなど、果てはユリイカへの寄稿も手に取ったし、「シュルレアリスム宣言」をはじめとした訳文も鼻息を荒くしながら買い漁った。小説以外で1人の作者の作品に傾倒したのは初めてのことだった。というか今でもない。

そんな巖谷先生に会える、ということで12月15日、新宿からバスで箱根のポーラ美術館まで行ってきたのである。

観る前から、もう失禁してたんです

今回のポーラ美術館で開催されている「シュルレアリスムと絵画展」。実は開催前から「こいつぁ、すんげぇことになっぞ」と仙豆食いながら確信していた。というのもまずWebサイトのお金の掛け方がえぐかった。ちょ、これ見てほしい。
https://www.polamuseum.or.jp/sp/surrealism/

この縦横無尽のスクロールシステムね。これコーディングまで超大変だったろう。人件費がえらいかかっとる。ということは展示に自信があるということだ。

それとタイトルに身震いを禁じえなかった。「シュルレアリスムと絵画」はシュルレアリスムの創始者、アンドレ・ブルトンの名著である。書名を丸々使うことで、自ら背水の陣に立ったようなものだ。

イベントがこけようものなら、ブルトンの威厳にも関わる。自らグンとハードルを上げてくる、ポーラ美術館のストロングスタイルに感動し、小さくガッツポーズ。バスの中で意気揚々と失禁しながら箱根の山道を目指した。

日本のシュルレアリストもおもしろい

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バスでは熟睡。ふと目を覚ますとビルはなく、山道を走っていた。窓の外は枯れ技が落ちており、なんとなく余生を過ごしている気分になる。ポーラ美術館前で降りると、ものすごく現代的な建物で驚いた。

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すごくない?これ?山のなかに、こんなかっこいい建物があるという不可思議感よ。世にも奇妙な物語よ。テレレレレンテレレレレンよ。うきうきしながらいざ入館し、チケットを買って早速展示室を目指す。たったったったったったったったったった…………。

さて到着。入り口から早速おもしろかった。

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唯一写真を撮っていいのがこの入り口の巨眼。なんじゃこの眼力。めっちゃ見とる。この作品は、マックス・エルンストの「光の輪」を巨大にしたものだ。

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しかもこれ顔出しパネル。黒目の中央部分に入って写真を撮れる。白髪の上品な貴婦人と旦那さまがピースして写真を撮っていた。すこぶる微笑ましかったが「ちょっと待てよ……」と。黒目に映るということは、つまり対面しているというわけだ。こんな感じで。

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そう思った瞬間、ちょっと怖くなった。光の輪の目は誰のものだろう。入ったら最後、誰に見つめられることになるのだろう。いや、巨眼の前に立っている時点で、もう見つめられているのか。ではなぜ、黒目には私ではなく老夫婦が映っているのだろう……。そう考えたら恐ろしくなり、できるだけ目を合わせないようにしながら素通りした。

さて展示内容は撮影不可だったので、概要だけを述べることにする。

シュルレアリスムの勃興から変遷、誕生した表現技法などを追ったもので、ブルトンからエルンスト、ダリ、マグリットなどの定番がずらーっと展示されている。またシュルレアリスムから生まれた表現技法(フロッタージュ、デカルコマニーなど)についても都度紹介されていて分かりやすい。

イチバンの特徴は日本のシュルレアリスムを細かく伝えていること。どう伝来し、広がり、現代で「シュール」という言葉が残ったのか。その変遷とともにシュルレアリストがたくさん紹介されていた。古賀春江や三岸好太郎、福沢一郎、瑛九、吉原治良などなど国内作品もおもしろおかしく、フランスとの対比を見られたのも嬉しかった。

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吉原治良(https://m.sohu.com/a/243070923_455444/?pvid=000115_3w_a)

当展示の売りはここにある。福沢一郎や、岡上淑子など2019年にも個人のシュルレアリストの展示会はあったが、「日本のシュルレアリスト」と枠組みしたものは珍しい。私個人的には狂ったようにいろんな円を描き続けた吉原治良はオシャレさもあって好きだ。モダンなデザイナーっぽい。

そしていよいよ講演に

一通り観ていると「巖谷先生の講演会がはじまりまっせー、みな集合〜」的なアナウンスが流れたので、いそいそと会場に入って座る。

学芸員の東海林さんから巖谷先生の到着が少々遅れるとの知らせ。つなぐために今回の展示の特徴などを直々に解説してくれた。我々からすると学芸員さんから直接展示内容を聞けるなんて、ナイスアドリブである。

説明の途中で「いや〜道が混んでて……」と杖をつきながら先生が入ってこられた。東海林さんに「ごめんね」的なことを言いながらニコニコして着席し参加者をぐるりと見ている。

おわ、と思った。巖谷先生だ。巖谷國士先生が目の前にいる。微笑んでいて、えらく余裕に満ちている。ほとんどのことでは動じなさそうな、そんなオーラに溢れている。巖谷國士先生だ。

そこから90分の講義が始まった。結論からいうと140分くらいあった。巖谷先生がサービスでたくさんお話ししてくださったのだ。これがもうあっという間。本当はもっと聞きたかった。

特に印象に残った部分をかいつまんでお伝えしよう。

シュルレアリスムは技法ではない

まず初めに展示のタイトル「シュルレアリスムと絵画」に触れた。ブルトンの名著であることを指摘しながら「副詞が『と』であることに注意してほしい」とおっしゃった。

「シュルレアリスム」「絵画」、この2つは独立した別個の存在ということだ。親子関係ではない。なのでシュルレアリスムは決して画法ではない。もしシュルレアリスムが画法だとしたら「シュルレアリスムでの絵画」とかになる。

ちなみにそもそもシュルレアリスムは自動筆記から始まったが、文章法でもない。

シュルレアリスムは手段ではなく目的なのである。大きな概念的なやーつなのだ。シュルレアリスムの概要と喩えについては、こちらの記事を見てほしい。

前提として超現実(シュルレエル)という哲学的な考え方があって、そのうえで作品に落とし込むためにオートマティスムをはじめとする文法や、フロッタージュなどの画法が誕生したのである。

なのでシュルレアリスムは本来アートに特化したものではなく、もっと広い人文的なものだといえる。深掘ると禅宗やマインドフルネスなどの考えに近い(これはまた別の記事で)。

シュルレアリストにおけるダリの存在

また巖谷先生はアンドレ・ブルトン率いる、シュルレアリスト・グループにおける、ダリの存在にも触れた。サルバドール・ダリ。美術好きならずとも知っているスター中のスターである。

トリッキーな髭や奇行癖から、世間一般では「変人」「天才」と見なされており、そのキャッチーさからファンが多い。(かくいう私も中野ブロードウェイの雑貨屋でダリTシャツを買ってしまった)。名作「ミッドナイト・イン・パリ」では「サイが見える!」みたいな変人サファリ野郎として登場するが、これはシンプルに生前のダリがよくサイのモチーフを使っていたからだ。

巖谷先生はまず本展のサブキャッチに触れた。「ダリ、エルンスト、っていう順番で書いてありますけどね、エルンストのほうが全然年上なので普通は先にエルンストを書くんじゃないかなぁと、それでちょっと指摘したら『ダリは人気があるから』って、そんな理由らしいんですね笑」

先生、それはむごい。キュレーターがいる前で、悪気もなく爽快にぶっちゃけた。これには学芸員の東海林さんも苦笑いだった。

確かに本展はダリの作品がかなり多い。中盤はダリコーナーができている。確かにそれほどまでにダリの人気は高く、シュルレアリスムの知名度を高めてくれた立役者の一人であることは事実だ。つまり彼もシュルレアリストを語るうえで欠かせない人物だが、実は途中でシュルレアリスム・グループから追放されている。なぜか。

まずはダリの作品を改めて見てみよう。ダリといえば「偏執狂的批判的方法」だ。なんじゃそら。戒名か。

偏執狂的批判的方法とは1つのモチーフをじーっと見続けることで他のモチーフを連想させ、創作に生かす方法である。たとえばあの時計グニャ〜のやつも偏執狂的批判的方法で描かれた。

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サルバドール・ダリ『記憶の固執』

ダリはカマンベールチーズが溶けていくさまを見て、この作品を描いた。「溶けてゆくチーズ」と「絶えず進む時間」が無意識的に同じものに見えたそうだ。なんやそれ、まじでイミフすぎる。

偏執狂的批判的方法は「パラノイア」という精神病がヒントになっており、まさにこの無意識を生かした発想法だ。チーズと時間のような、まったく違うモチーフを無意識的に融合させる。すると意識上では辿りつかなかったモチーフを見出せる。発想の幅が広がるのである。

ちなみにダリはEDだったので、カマンベールチーズという柔らかいものと、時計という固いものがリンクしたのではないか?と言われている。無意識下にある性行為への恐怖と劣等感が、時計グニャ〜を生み出した。そこから「ダブルイメージ」という手法が作られた。

これがシュルレアリスム団体から言わせれば「やば! 偏執狂的批判的方法やば! くそおもろいやんけ卍卍」という感じだった。

でも、ダリは入団してから10年後にグループを追放される。理由はあっさりしたもので「ブルトン団長との政治的価値観の違い」。要はファシズムを肯定するか否定するか、というもの。ブルトンは「ファシズムダメ絶対」としっかり否定していたが、ダリは「どっちでもええわ。知らん。わし、絵描くわ」的なポジで、ブルトンは「なんやきさん。ヒトラー擁護派ね! それでも九州男児ね!」と言いながらダリを追放した。

ここまでは他の考察サイトにも書かれている情報だ。しかしここからがちょっと貴重なおもしろ情報。そもそもダリとその他のシュルレアリストにはバックグラウンドからして乖離があり、追放されるのは無意識的に決まっていたのではないか?

違いの象徴が「学歴」である。これは巖谷先生のお話ではじめて知ったのだが、シュルレアリストは「美大を出た画家」が超少なく、基本的に絵を習っていない。前職は漁師とか翻訳家とかそんな感じ。

そりゃそうだ。シュルレアリスムは先述したようにそもそも絵に関係ない運動だもの。絵画のスキルは要らない。自意識を取り払って無意識的に創作をすれば究極誰しもが立派な作家になれる。究極、目つぶって実印押しまくっても作品として成立する。だから専門機関で絵を学ぶ意味があんまりないんだと思う。

その点、ダリはきちんと美大を出ている。ちゃんと絵を描くよう教育された。そこから発想の限界を知ったのか、シュルレアリストとなったのだ。一時期はフォークを持ったままキャンバス前で眠り、落としたときのカチャンという音で起き、まどろみの光景を描いていたというのだから、枠を外す作業に必死だったのだろう。いったん学んだ描き方を忘れることは骨が折れるに違いない。

「紙に縦線を2本引け」と言われればデザインを学んだ者(ダリ側)としては余白のバランスを取りたくなるものだ。一方、シュルレアリスムの本質は心の純粋なオートマティズムであり「自由」である。つまり彼らは、同じ質問に対して設問すら無視して「鍋でガラパゴス諸島を煮る図」を描くようなマインド。いや、もはや紙をシュレッダーにかけて出題者をビンタし、たいまつ加えながらリンボダンス踊りだす構え。そんな剛の者の集い。単純に気性が合わなかったのではないか、とも思われる。シュルレアリスム・グループのなかでも、ダリは抜きんでて絵がうめぇし。

ダリは結局、シュルレアリスム・グループを抜けてアメリカに渡り、巨万の富を築く。ブルトンは「シュルレアリスト=仕事をしない人」と宣言しているので、やはりここにも乖離がある。

ブルトンはアメリカで大成功するダリを「Avida Dollars(ドル亡者)」と揶揄した。これはSalvador Daliのアナグラムになっている。おしゃれな悪口。シンプソンズみたい。

シュールとシュルレアリスムの違い

なかでも最も長い時間をかけて説明してくださったのが「シュールとシュルレアリスムとの違い」。国内と国外で「シュル」の捉え方が大きく違うのは、以前紹介した通りだ。

軽くおさらう。シュルレアリスムとは超現実主義。これはどこまでも現実だということだ。過度に現実。めっちゃ現実。パイオニアであるブルトン的には「いい? ぱっと見、変なことが起きてもそれは現実よ。うふ」ということである。たとえ初老がしゃもじとして働いていてもリアル。だから配給業者は初老の脚を抱えて炊飯器に顔を突っ込むし、初老は何食わぬ顔でホカホカご飯に潜り、目を閉じながら給料日を楽しみにする

しかしこれが日本には曲解して伝わった。超現実の超が「超えた」と見なされたわけである。現実越え。浮世離れ。なので単純に現実離れしているのがシュールだとされた。初老がしゃもじとして働いていることを現実と見なそうが、夢うつつにしようが、現実を超えていればすべてシュールなのだ。この概念は現在まで引き継がれている。

私は年月を経て、今の若者がシュルレアリスムの真意を履き違えたのだと思っていた。しかし実は渡来した時点でもう乖離があったのだ。

とはいえ、日本のシュルレアリストの作品も、やはりすんごいおもろい。古賀春江や福沢一郎など日本のシュルレアリストはたくさんいるし、それぞれにカラーがあって、見ごたえがある。

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古賀春江『サーカスの景』

センチメンタルとメルヘンの同居。とても好き。阪神タイガースの風刺画みたい。

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福沢一郎『四月馬鹿』

タイトルを含めて、すべてたのしい。たぶんこの人ら5月以降も馬鹿。

漫画界ではつげ義春、文壇では安部公房なんかもシュルレアリスム的作風として知られるが、それはそもそも日本での「シュール」なわけで、ブルトンが提唱した哲学とはやはり少し乖離があるのだ。

国内×国外の違いがよく分かる展示

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いや〜、おもしろかった。先生のお話はもちろん、展示自体にも工夫がある。特に日本のシュルレアリスムをじっくりと説明してあったことが刺激的だった。ここでは書いていないがピカソのシュルレアリスム的作品も展示してある。一般的なシュルレアリスム展示ではピカソはなかなか出ない。シュルレアリストではないから。でもキュビスムとシュルレアリスムには大きな関わりがある。そもそも命名者が同じ(ギョーム・アポリネール)だしね。

そしてお財布に余裕があるなら、ぜひ展示会のポートフォリオを買ってほしい。巖谷國士先生の前書きが載っているし、学芸員の東海林さんの文からはシュルレアリスムのおもしろみが伝わる。

会期は2020年4月5日まで。まだまだ余裕である。ぜひ一度、足を運んでみてはいかがだろうか。個人的にはヘンテコなモチーフの作品を、真面目な顔で観察するお客さんを観察するというメタ行為。みなじっくりと見つめているさまが、すでにシュルレアリスムチックでおもろいぞよ!

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