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ミケランジェロ・ブオナローティとは|88年の生涯から作品・生き様を徹底解説

生前に伝記が書かれた初めての西洋芸術家、それが「ミケランジェロ・ブオナローティ」だ。超絶ストイックで筋肉オタクのおじさんである。たぶん今の時代に生まれてたら、イオンでササミとブロッコリー買い占めている。

生前に伝記が書かれるくらい、1500年代で活躍しており「神の如きミケランジェロ」といわれていた方だ。彼によって(美術的な意味での)ルネサンスが終わり、マニエリスム、バロック時代に突入していく。それくらいミケランジェロの作った作品はレベチだった。

誰しも名前は聞いたことあるけど、ミケランジェロが結局何をしたのか、どんな人だったのかってあんま知られてないよね〜ってことで、今回はそんなミケランジェロの人生をプレイバック。「彼の何がそんなにすごかったのか」ってのをか見ていこう。


ミケランジェロの生涯 〜幼いころから大理石マニア〜

ミケランジェロ・ブオナローティ

ミケランジェロは1475年生まれ。イタリアのトスカーナ州・カプレーゼで生まれた。で、生まれて数ヶ月でトスカーナ州の州都・フィレンツェに引っ越す。フィレンツェといえば、当時は貿易が盛んで、何つってもメディチ家が銀行業で儲けまくっていた場所だ。ルネサンスの中心地である。

ちなみにメディチ家が力をつけ出したのはミケランジェロが生まれる100年くらい前。彼が生まれたときには、もうメディチ家が激強の時代で、ルネサンスも花開いていた。ミケランジェロはルネサンスの真っ只なかで育っているわけですね。

今のフィレンツェ

ちなみに彼の父親も銀行やってたんですが、ミケランジェロが生まれる前に破綻。そこから政府の役職についている。で、誕生したときには地域を取り仕切る司法管理者となっていた。

一方で、母親はとっても病弱な人だった。身体が弱くて、ミケランジェロが6歳のときに亡くなっています。なので彼にとっての母親は乳母であり、彼自身「乳母の乳で育った」と回想している。

じゃあミケランジェロはどんな子どもだったのか。その背景には父親の影響がある。父はフィレンツェに移ってから、大理石の採石場と農場を経営していたんですね。それで、幼いミケランジェロもノミとハンマーで石を削りまくっていたらしい。もうなんか「レゴブロック積む」くらいのノリで彫刻つくっていたわけだ。

ここでミケランジェロは「パパ!大理石すげえおもろい」と目覚めるわけですね。彼はもちろん大人になってから、あらゆる彫刻を作ってますが、10歳くらいのときには、もう大理石で遊びはじめているんです。環境ってすごい。

ミケランジェロの生涯 〜新プラトン主義にハマりまくる中学時代〜

ミケランジェロ

そんなミケランジェロは14歳で学校に入り「人文主義」を学びはじめます。人文主義、つまりヒューマニズムはざっくりいうと「神よりやっぱ人間っしょ」っていう考えだ。

人文主義はルネサンスを象徴するような考え方。ルネサンスを日本語にすると「文芸復興」。つまりみんな「古代ローマの時代に復興しよう!」って思ったんですね。

古代ローマの時代は「キリスト教」がそこまで力を持ってなかったんですが、それからルネサンスまでの時代は教会が最強なんです。とにかく洗礼に次ぐ洗礼だよー。わっしょーい。って感じで「神を信じること」がいちばんだった。

でも1300年代に入って、貿易が盛んになったり銀行ができたりします。つまり人間の力で経済が活性化するわけです。メディチ家とかが出てくるんですね。

あと感染症のペストが流行って、どんだけ祈っても死ぬ時は死ぬっていうのがバレてくる。で「ただ祈ってるだけじゃあかんやん」ってなるんです。「祈りを捧げる」みたいな、なんの根拠もない表面的な儀式じゃなくて、もっと本質的なところ見よう。となるわけだ。「エビデンス大事にしようや」みたいな。そこで「神じゃなくて、やっぱ人が大事よ」って考え方になるわけですね。

今でいうと「コロナにかかりたくない=祈る」ってのがそれまでの神学的な教えだとしたら「細菌の侵入を防ぐためにマスクをつける」ってのが、ルネサンスの人文主義です。ちゃんと本質見ようとしたのだ。

ちなみに、そんな人文主義の授業を受けてた14歳のミケランジェロくんは、実はかなり不真面目。授業なんてそっちのけで絵ばっかり描いていたらしい。

とにかく美術大好きなミケランジェロは、13歳のときにドメニコ・ギルランダイオという画家に弟子入りします。

ドメニコ・ギルランダイオ

彼は意外と日本では名が知られていませんが、すんごいスター選手です。当時のルネサンスの中心・フィレンツェで最大の工房を持っていたのがギルランダイオでした。

そこでミケランジェロは絵画を学んでいくわけですね。肖像画や宗教画が主流で、まだ風景画とか静物画はない時代です。

一方で15歳から彼はメディチ家の学校で、哲学を勉強しはじめます。絵ばっか描いてたミケランジェロくんも、ようやくまじめになってくるのである。このときに教えを受けていたのが「新プラトン主義」という人文主義でした。

新プラトン主義はマジでややこしいし、長ったらしいのでざっくり要点だけ書く。あの、飲み屋で若いねーちゃんに長々と哲学の話する自己啓発系おじさんとかたまにおるけど、あれちょっとうざいもんね。

まず前提としてイデア(客観)がある。で反対に自分(主観)がある。で、プラトンは「客観に近づいた方がええで」みたいなことを言うわけです。いやまぁ確かに、そりゃそうですよね。プラトン主義でいうイデアは、もう天界みたいなところにある超崇高な概念なんですね。

ただ「完全なる客観視」ってむずいんですよ。例えばわたしがイチローのことをイデア的なとこから「彼は天才バッターだ」と言ったところで、イチローが主観的に「俺、天才バッターだし」と思ってたら、それはもう主観なんです。つまり完全にイデアにいくためには、いったんわたしがイチローにならないといけない。で、イチローは別の誰か、例えば久石譲になる(私もイチローなんで一緒に久石譲に)。久石譲は、また別の誰かに……って繰り返していったら、結局最後は1人になるんです。

これが結局んとこ「神様」なんですよね。人文主義って「神様とかもうやめよ〜」って思って出発したのに、一周して「世界は神という一者から生まれ、流出したのだ」って答えに辿り着くわけだ。

つまり「我々はもともと神様であり、そこから枝分かれした。だから魂は身体という器から出て天に戻りたいよーって言ってる」という思想なのである。何言ってんだこいつ、って思うでしょ。私も同じ気持ちです。

ただミケランジェロには、この今や胡散臭くなっちゃった思想がガッツリ刺さるんですね。

のちにミケランジェロは「私は大理石の中に天使を見た。そして天使を自由にするために彫った」とか言ってます。

やたらと「大理石のなかから『自由になりたい』と魂の声が聞こえる……。よーし、私が今自由にしてやるぞ〜」的なことを言いながら作品を作るんですが、これは新プラトン主義の思想からきてるんです。

そんな多感な15歳のときに作ったレリーフ(浮き彫り)作品が「聖母の階段」だ。

ミケランジェロ「聖母の階段」

また16歳で「ケンタウロスの戦い」も作っている。

ミケランジェロ「ケンタウロスの戦い」

この2点はミケランジェロの作品でも最初に確認されているものだ。10代で作ったとは思えないくらい精巧である。

先ほど書いたように、ミケランジェロは「大理石に魂がある」とガチで信じていた。で、掘ることで天界に出してやらねば、という「ザ・天才」みたいなヤベェ考えを持っていた。

この気持ちが、彫像に躍動感を出しているのだと思う。特に「ケンタウロスの戦い」とか、なんかもう……動いてるみたいですよね(小並感)。

ミケランジェロの生涯 〜メディチ家のお抱えからローマに行くまで〜

ミケランジェロの人体解剖時のドローイング

そんな16歳のミケランジェロは、まだ芸術でメシを食う域には辿り着いておらず、メディチ家で宮廷の警備のバイトをしていた。ミケランジェロは「細身だが肩幅広めな人」で有名なので、確かにちょっとALSOKみを感じる。

そんななか、17歳で雇用主のロレンツォ・デ・メディチが死去。すると悲しいかな、失業しちゃいます。で、彼は実家にいったん帰ってきて「タウンワークでも読むんかな?」って思うじゃないですか。ところがどっこい、なんとミケランジェロはこの時期に人体解剖をしている

ちなみにミケランジェロより20個くらい年上のダヴィンチも人体解剖しまくっていた。「本質を見よう」っていうルネサンスにおいて「人体解剖」は、そこまで変なことではない。しかし完全にヤバい時代だ。

手記が残っていないから何とも言えないが、ミケランジェロのことだから「魂あるかな〜」とか、マッドサイエンティストみたいなことを思ってたかもしれん。17歳にして。

で、そんな解剖後に18歳で彫ったとされるのが「十字架の彫刻像」である。

ミケランジェロ?「十字架の彫刻」

ただ、ぶっちゃけミケランジェロかどうかの真偽がわかってない。「ミケランジェロかな? いやでも木製やしな〜。あいつ石大好きやしな〜」みたいな感じにふわっとしている作品だ。

ミケランジェロが18歳のころ、フィレンツェは大雪が降り、メディチ家から「ちょ、いま暇? 雪像作ってや〜」といわれるというアナ雪くらい平和な出来事でメディチ家に戻る。

しかし速攻でメディチ家がフィレンツェから追放される事件があり、ミケランジェロは巻き込まれないためにボローニャに行った。メディチ家はこの1495年ごろには完全にオワコンだったんですね。しかしまだ10代なのに大変な人生である。

そんなボローニャでも、20歳のミケランジェロには教会から依頼が来ている。パーマエグすぎて髪がもう脳みたいな彫像を作っている。たしかに言われてみれば人体表現が精巧になっている気がする

ミケランジェロ「燭台を持つ天使」

その後、メディチ家事件が落ち着いて、ミケランジェロはフィレンツェに戻る。しかしメディチに取って代わった、質素倹約がモットーのサヴォナローラさんからの依頼は一切なかった。「あいつ強欲なメディチの犬だろ? ないない。さーて家計簿つけますかー」みたいな感じだったんだろう。

そんなミケランジェロはこの時期、メディチ家からの依頼で「洗礼者ヨハネ」と「眠るキューピッド」の2作品を作った。残念ながら両方とも戦争の際に砕け散っちゃったようで、今では復元したものしかない。

で、このときに事件があるんです。依頼主のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコはこのうち「眠るキューピッド」をローマで売るつもりだったんですね。

で、ミケランジェロに「これ古代ローマの遺産っぽくアレンジしてくれない? ちょっと土とかつけて、風化した感じにしてほしいんだけど。いやそっちのほうが高く売れるからさー」と持ちかけるわけです。

「明日強盗する銀行のセキュリティチェック顔」に見えてくるロレンツォの肖像

この「落ち目の元豪族感」がたまんないっすよね。どんだけ強欲なんこいつ。で、ミケランジェロもまだ若いんで「いいっすよ〜」と請け合い、特殊な加工を施すわけです。で、仲買のバルダッサーレ(こいつもグル)がローマのリアリオ枢機卿に「すげえ。古代ローマのが発掘されました」つって200ドゥカートで売るんですね。

正確な価値はわかりませんが「年収20ドゥカートで一家が暮らしていけた」って手記がありますから、今でいうと5000万円くらい? 古代ローマの遺産ですから、そのくらいはいくでしょう。

で、バルダッサーレは「だんな、30ドゥカートで売れました」ってロレンツォに安く報告するんすよ。こいつマジ悪いっすよね。というかもう全員悪い。なにこれ、アウトレイジ?

しかもリアリオ枢機卿は、この詐欺に気づく。どっからバレたのかはわからんが、とにかく気づくんです。で「おいミケランジェロをローマに呼べ」と。このとき20歳のミケランジェロは「やっば……絶対怒られるわこれ」って震えながらローマに行くんですね。

で、リアリオはミケランジェロを見て言うわけです。「いやぁ、君の彫刻はすごい。ぜひローマに来てほしい」と。……なにこれ? いやアホなんかな。ワルとアホしかおらん世界なんかな、これ? 

「会議の内容わかってないけど、とりあえずうなずいてる新卒顔」に見えてくるリアリオの肖像

なんて冗談はおいといて、リアリオマジでいいやつ。というか余裕があって素敵ですよね。さすが枢機卿。ローマ教皇の最高顧問ですから。

で、ミケランジェロは21歳でローマに行くのである。ちなみに来てすぐリアリオは「バッカスの象作ってー」と依頼をし、ミケランジェロが作った作品を見て「おい才能枯れたんか?」とダメ出ししています。余裕があるというか、ものすごく芸術にシビアな枢機卿だったんでしょう。

ミケランジェロ「バッカス」

ミケランジェロの生涯 〜『ピエタ』と『ダビデ』の制作まで〜

ローマでも認められたミケランジェロのもとに、フランスの枢機卿からも依頼が来るようになるんです。枢機卿は、ミケランジェロがバッカス作っているときに偶然ローマに来ていて「え、やばない? うますぎん? うちにも作ってよ」と依頼したそうだ。ミケランジェロが22歳のときだった。

依頼内容は「イエスの遺体を抱いて悲しむマリア」というもので、この構図は「ピエタ」という。ミケランジェロは2年をかけて「ピエタ」を掘った。今や誰もが知ってるであろう大傑作だ。

ミケランジェロ「ピエタ」

これがもともと1枚の大理石だったなんて、とても思えない。完全無比な人間の骨格。布のひだ。そして感情表現のすごさ。キリストの無念さとマリアの悲しみが伝わってくる。ミケランジェロが唯一サインをしたことでも知られており、相当な自信があったとみえる。

ちなみに、この作品でミケランジェロは自らカッラーラまで大理石を採掘しにいっている。というのもピエタの前の作品では購入したのだが、クソみたいな石が来ちゃったらしく「なにこれ!カスタマーセンター何番?あぁもうイライラするー」と失敗したそうだ。

ちなみにローマからカッラーラまでは372kmある。歩いて3日と6時間かかる距離だ。

「負けないで」と「サライ」が流れるレベルの距離

やばすぎんか。いくら「業者やだ」と思っても、さすがに石への愛が深すぎるだろ。ミケランジェロはもう、超絶ストイックなのだ。

そんなミケランジェロはピエタを作り終えてから、フィレンツェに戻る。というか、ローマで権力争いが起こり、戻らざるを得なかった。

そのころのフィレンツェには「サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の建築」というデカい課題があったんです。この教会の建築が始まったのが1296年。でなんと大聖堂の建築に140年かかっている。遠近法を発明したブルネレスキとか、ダヴィンチとかが、みんなでゆっくり作っていた。

大聖堂はとりあえず完成したものの、追加で「12体の像を飾る」って計画を立てるんですね。で、これが全然できてない。2体くらいしかできてなかった。おいおい、ディレクター誰よ?

で、1464年に「とりまダビデ像を作ろう」って、教会まで巨大な大理石を持ってくるんですけど、声をかけた彫像家がみんなやってくれない。やっても途中でやめちゃうっていう事件が起こり、なんだかんだで25年も大理石が置きっぱなしの状態になっちゃうのだ。

そんな「ダビデ像」の制作に、弱冠26歳のミケランジェロが任命されるわけである。ダヴィンチなどにも声がかかっていたが、最終的にミケランジェロに依頼が来た。当時のイタリアで、すでにミケランジェロがものすごく高い評価を受けていたことがわかる。

ミケランジェロは3年をかけて、代表作の「ダビデ像」を完成させた。集中したいから、という理由で作業中はずっとパーテーションのなかにいて、誰にも制作風景を見せなかったらしい。

ミケランジェロ「ダビデ像」

高さはなんと517cm、幅が199cm。おそろしくデカい。「消防車が550cm」と書いたらデカさが伝わるだろうか。

この作品について、ダヴィンチやボッティチェリといったコンサルチームは「屋内に置くべき」と言ったが、ミケランジェロは「屋外にしようよ〜」と譲らず、結局のところ外の広場に設置することが決まった。ただ風雨にさらされたせいで、むちゃくちゃ傷んだので、今は屋内に移動。外の像はレプリカになっている。

ボッティチェリ「だから室内にしとけって言ったやん」

とにかく、この作品によってミケランジェロの地位は完全に不動のものになったわけだ。まだ30歳である。

ミケランジェロの生涯 〜ダヴィンチとのバトルと、のちのマニエリスム絵画的表現の始まり〜

1504年、ダビデを完成させたばかりのミケランジェロ(30歳)のもとにフィレンツェ共和国から「ヴェッキオ宮殿の大会議室に壁画を描いてくれ〜」と依頼があった。もうこのころになると彫像だけでなく、絵のお願いもガンガンくる。当時は「芸術家」という括りで見られていたとはいえ、やっぱこれはすごい。

で「カッシーナの戦い」を描くわけだが、なんと対面で同じ依頼を受けていたのがレオナルド・ダ・ヴィンチだった。このとき両者は初めて同じプロジェクトを同時に手掛けることになる。ただ「ダヴィンチは描いてなかった」というイタリアメディアのニュースが一昨年くらいに出ているので、ぶっちゃけ真偽は不明なんです。

ミケランジェロの下絵をアリストーティレ・ダ・サンガッロが模写したもの
ダヴィンチの壁画をピーテル・パウル・ルーベンスが模写したもの

とはいえ、ここでは「描いた」ということにしておこう。話が進まないので。

このルネサンスの巨匠二人には、作風に明確な違いがあります。まずダ・ヴィンチ。彼は人体解剖にハマっていた狂気のマッドサイエンティストでもあるので、人間を正確に描きたがる。

ダ・ヴィンチ作『受胎告知』
見たものしか信じないので、大天使ガブリエルの羽も鳥類

とにかくプロの右脳なので「自分で見たものしか信じねぇぞ」というリアリストです。ルフィが「海賊王に、俺はなる(ドン!)」とか言ったら、「え、海賊王ってなに? 定義は? 何をもって王なの?」と、歴戦のエンジニアレベルの早口で詰めてくるタイプです。だから人体構造の理解がめちゃめちゃ精密、正確なんですね。

一方でミケランジェロは人体のデッサンはもちろんすごき高度ですが「現実のまま」というより理想形を描く人。なので少しロマン主義というか、現実よりかっこよく描いています。

さて、話を戻しましょう。結局なんやかんやあって2つの作品は未完のまま終わるんですけど、中途半端なまま1512年まで7年間くらい放置されるんですね。2人の作品ってだけで栄誉なことだったのか。やはりディレクターが想像を絶するルーズさだったのか。

で、そのあと1555年から1572年まで改装工事が入るんですけど、両作品はそのときに壁ごとぶっ壊されたっていう……。いやもう絶対この現場監督O型なんよ。なので、私らはサンガッロとルーベンスの模写を見ることしかできない。

また1504年からは「聖家族(ドニトンド)」の制作をした。マリアとヨセフの夫婦と子のキリストを描いた絵だ。「奥さんに結婚祝いでプレゼントしたいねん」という素敵なオーダーで描かれたもので、円形の額縁を使っているのがかっちょいい。

ミケランジェロ「聖家族(ドニトンド)」

ミケランジェロの絵画の特徴がものすごく出ている作品といっていい。キリストを受け取るためにマリアの腰は大きく捻られている。またキリストの膝を曲げているモチーフも独特だ。あと、もう全員がとにかくムッキムキなんですよね。シックスパック祭り。「4番キレてるキレてる!」「2番もう腹筋でわさび削れるわい!」みたいな声が聞こえる。

ミケランジェロは人の体を「ひねったり曲げたりするのが大好きな人」だ。当時のルネサンスでは思想を反映して「写実的な絵」が流行っていた。リアリティを持たせたんですね。しかしミケランジェロは現実よりちょっとオーバーな表現で、リアル以上の人体の美しさを描いている。

少し先の話になるが、この表現は「マニエリスム絵画」と呼ばれ、ルネサンス以降の画壇でブームになった。

ちなみに私はこの絵が大好きで、特に右下の「友だちの一発ギャグ思い出し笑い顔」の少年がたまらなくかわいい。

ひたすらかわいい

さて話を戻そう。ミケランジェロは、この30歳ごろに彼のキャリア史上最大のオファーも受けている。それが「教皇・ユリウス2世の墓」の建設だ。この後、40年もかけてこのプロジェクトを推進していく。

このお墓のプロジェクトでは、あの「何かと海割っちゃう」でおなじみの「モーセの像」が有名だ。

ミケランジェロ「ユリウス2世の墓」より

また、彼の代表作の1つでもある「システィーナ礼拝堂天井画」もこの時期。33歳〜37歳ごろの作品だ。

ミケランジェロ「システィーナ礼拝堂天井画」

ミケランジェロはこの作品で、500平方メートルの天井に300人以上の人物画を描く。天井に描くということで、側壁に板をくっつけて、その上に乗って描いた。なんとその足場から自分で設計している。マジでこの人は「なんでも自分でやりたい症候群」だ。あまりにストイックすぎる。

この天井画は以下の3つのテーマに分かれています。

  • 神による地球の創造

  • 神による人類の創造と神の恵みからの堕落

  • ノアとその家族に代表される人類の状態

最初は「12使徒描いてくれや〜」という発注だったが、ミケランジェロは「そんなんやりたくない」と、これを断って、より複雑なテーマに取り組んでいる。ストイックなうえにだいぶ芸術家気質なのも、ミケランジェロの人間性を語るうえで重要です。

個人的に好きな場面はこの「アダムの創造」です。すごい躍動感。カッコいい。

ミケランジェロ「アダムの創造」

いや見事な全裸ET。神々しいですね。本当に彫刻のような身体で美しく、人体把握がこれ以上ないくらいの完成度でできています。ちなみにミケランジェロは「彫刻のような絵こそ完成形だ」と言っていたそうだ。

やはり筋骨隆々な人体の裏には「大理石」がある。やたら捻りまくるマニエリスム的表現も「彫刻っぽさ」からきてるのだ。

ミケランジェロの生涯 〜「最後の審判」と「サン・ピエトロ大聖堂」

サン・ロレンツォ聖堂

30代はミケランジェロにとって黄金期だ。こんな大作を次々作りまくっていたあと、1513年(38歳)くらいからサン・ロレンツォ聖堂のファサード(外観部分)と装飾の現場監督を任されています。

依頼主はメディチ家の血を引くレオ10世。サン・ロレンツォ大聖堂はメディチ家の礼拝堂なんですね。ミケランジェロにとって、これが初めての大規模建築の仕事だった。いやいや、どんだけ幅広いねん。リリーフランキーか。

これマジで大規模で、ミケランジェロはまず設計とスケジューリングに3年くらいかけた。で、自分でカッラーラの採石場に行くというおなじみのムーブを見せる。ミケランジェロとしてもかなり情熱を注いでいたわけだ。

ただ、結果的にこの計画は「石どうやって運ぶ?」という課題を解決できず、依頼主の教皇・レオ10世とミケランジェロが大げんかし、頓挫する。ちなみにそれから今日まで500年以上、サン・ロレンツォ大聖堂にはファサードができていない。

この後からミケランジェロはフィレンツェとローマを行ったり来たりするようになります。

というのもミケランジェロが住んでいたフィレンツェは、この1520年代は大忙しなんです。メディチ家が追放されたり戻ってきたりするんです。なかでも「宗教改革」が大きなトピックだろう。

事の発端は教皇・レオ10世が贖宥状を出しまくったこと。フィレンツェ市民に「みんな〜、お守り配りまくるで〜。これ買ったらゆるされるんやで〜」とお札を売りまくる。これ、もちろんお金儲け(というか隣国への借金返済のため)なんですね。メディチ家はマジで金の亡者ですから。で、大学の先生だったルターが「おかしいやろ。話し合おうや」と宗教改革を起こすわけだ。

で、フィレンツェでは共和派(先述した倹約家のサヴォナローラさんが作った団体)がメディチ家を追放するわけですよ。

「じゃあメディチと仲良しのミケランジェロもやばいやん。」ってなるでしょ。大丈夫です。しっかり裏切って共和派側についてました。しかもフィレンツェを外敵から守るための城塞づくりをがんばっています。

ただ、このあと結局メディチ家が帰ってきて勝利。共和派の指導者は皆殺しにされるんですね。「じゃあ裏切り者のミケランジェロやばいやん。」ってなるでしょ。大丈夫です。「裏切られたけどこいつ天才やしなぁ……」って感じで許されます。天才でよかったわほんと。

こんなゴタゴタがあったんで、1530年前後のミケランジェロの作品は少ないです。てか、メディチ家のもとでずーっと礼拝堂つくっています。

で、1533年、58歳のミケランジェロに教皇・クレメンス6世は「システィーナ礼拝堂の祭壇の壁に最後の審判を描いてくれ」と依頼するんです。

ただ、フィレンツェのゴタゴタを避けるために、このときミケランジェロはローマにいたんですね。で、先述した教皇・ユリウス2世お墓作ってたんですよ。みなさん忘れてたでしょ。あれ40年やってますからね。

だからミケランジェロは「いやもうフィレンツェええわ。だりいわ」って感じだった。ただ最後の審判の依頼主のクレメンス6世が翌年に死去。その後の教皇であるパウルス3世が熱望したので、しぶしぶフィレンツェに行く。

それで1534年(58歳)のときから1547年(64歳)までかけてこの超大作を仕上げるんですね。私たちからしたらパウルス3世がナイスすぎる。

ミケランジェロ「最後の審判」

縦1370cm、横1200cm。超巨大な作品です。あの、「HOLLY WOOD」の看板の「H」と一緒のサイズっていったら伝わるかしら。

これのHと同じ縦の長さ(伝わんねぇわ)

何がすごいかってこれフレスコ画なんです。フレスコ画ってのはいったん漆喰を塗って、漆喰が乾かないうちに顔料を塗るものです。顔料が漆喰でカバーされるので長く保存できます。逆にいうと描いている途中で漆喰が乾いたら終了のお知らせなんですよね。だからもう血眼の超ハイスピードで描かないといけないわけだ。

真ん中で変なポーズ取ってるこいつは実はキリストだ。キリストが死者の審判をして、天国(左)と地獄(右)を決めている名シーンですね。一般的にキリストってガリガリのおじいちゃんですが、ミケランジェロは「そんな伝統はもうええから。結局んところ筋肉やから筋肉。筋肉描かせろー!」って若者にしました。

で、キリストの右下でダラーンと皮が垂れてる奴はミケランジェロの自画像といわれています。疲れてたんかな? もうみんなミケランジェロを酷使しすぎよ。かわいそうに。こんなんなっちゃって……。

もちろん顔だけが自画像

で、みなさんが知ってる上の絵は実は修復後なんです。というのも、ほぼみんなアソコが隠れてますよね。しかしミケランジェロが描いていたときは、もうほぼ全員全裸でキリストもマリアもアソコ見えてました。

もともとの「最後の審判」(マルチェッロ・ヴェヌスティ)

ただそれに枢機卿や儀典長が「さすがにこれ不謹慎すぎません?やばいっしょこれ」と教皇・パウルス3世に進言するんです。パウルス3世はこれに「地獄のことはわからんなぁ」とジョークで返している。つまりミケランジェロの肩を持ったわけですね。

で、いったんはそのまま裸体verでGOサイン出るんですけど、1564年のミケランジェロの死の直前に「いや、やっぱこれパンツ履かそ!」となり、弟子のヴォルテラが修正しました。

そして、この大作を完成させたあと、ミケランジェロは建築の仕事が多くなる。1546年、71歳のときにはサン・ピエトロ大聖堂改築工事の設計、ドーム部分のデザインを任されている。

サン・ピエトロ大聖堂

この工事もずーっと40年くらい続いてたものですが、ミケランジェロはそこに終止符を打つわけですね。

ミケランジェロの生涯 〜孤独と戦いながら「ピエタ」を掘り続けていた晩年期〜

ミケランジェロの自刻像

さぁ、いよいよ終盤。そんなミケランジェロは最期の最期まで仕事をし続けるわけです。ただ「誰からの発注も受けていない個人的な作品」として、80代になってからひっそりと「ピエタ」を掘り続けています。

ピエタは先述した通り、処刑され十字架から下ろされたキリストを母のマリアが抱くシーンだ。慈悲とか悲哀みたいな意味が込められている。

ミケランジェロ「ロンダニーニのピエタ」

これは晩年、死ぬ前までノミをぶつけていた「ロンダニーニのピエタ」だ。あらためて88歳である。もう筋力も衰えていき、ノミも重かっただろう。それでもキリストの死を掘り続けた。

私は堅い皮に包まれた果実の袋のように、陰気な闇のなか、ここにくるまれている。瓶に閉じ込められた精霊。

飛び立とうにも飛べるところがない。狂った大蜘蛛の気味悪い連中がもぞもぞ行ったり来たりしている。 暗い闇の墓のなか。

私の楽しみは陰気にふさぎ込むこと。老いさらばえ、鉛色の顔をして、苦痛こそが我が休息。誰が好んでこれを選んだのか。神は彼を来る日も来る日もごみ捨て場に置き給うのだ。

頭蓋骨はブンブン羽音を立てて、木桶のなかの雀蜂のようだ。ずた袋の布切れが骨と繊維を包んでいるだけ。水脹れた身体は砂利を詰めたようにたるみ、表皮は泥岩のようだ。

我が目は、すりこぎで潰された色の顔料。歯は、息をするとラッパの栓のようにピーといいつつ いやいやながらの音を出す。

私が愛した芸術よ、我が良き日の太陽よ、名声よ、賞讃よ、──私が流行らせた歌よ、いまでは私を苦役と貧困と老いと孤独に放り出すばかり。

おゝ死よ、私を早く救い出してくれ、さもなくば、私はみずから死へ至らしめん。

ミケランジェロの詩、訳者:ジョン・フレデリック・ニムス

ミケランジェロは詩を何作も書いているが、彼は晩期に「老いていく自らのみすぼらしさ」をこれでもかと自嘲っぽく書いている。

こんなことを思いながら、キリストの受難を掘り続けたわけだ。いろいろあったけど、ミケランジェロはしっかり闇落ちしてメンヘラちゃんとして晩期をむかえた。

上の詩のなかでも「私が愛した芸術よ、我が良き日の太陽よ、名声よ、賞讃よ、──私が流行らせた歌よ、いまでは私を苦役と貧困と老いと孤独に放り出すばかり。」という一文はあまりに悲しすぎる。

ルネサンスで最も輝いた画家は、その輝きの思い出に取り憑かれ、孤独に耐えきれなくなっていた。ここまで取り組んできた芸術も、それで得た名声も、最後にはすべて「無」になった。

「神の如き」と言われ続けてきた彼は、最後に自分をキリストに見立てて「受難(苦痛)」の象徴であるピエタを描き続けたわけだ。苦しみを受けて死んでいくキリストと自分を重ねていたんですね。

そんなミケランジェロは1564年、88歳で亡くなります。最後に「やっと何でも上手く表現できそうになってきたと感じる。そのときに死ぬのが残念だ」と言い遺している。

ミケランジェロは、とにかく精神的に「ムッキムキ」な人

ミケランジェロの肖像

ミケランジェロって人は、とにかくまじめで自分に厳しい人間だ。で、ほとんど他人を信用していない。よくいうとストイックだが、悪くいうとハードワーカーというか「毎日徹夜で仕事しまくる上司」みたいな人である。

「半年くらいで済ませてええで〜」っていう発注も「いや、俺1人で3年描くからやらせてくれ」と、勝手に難易度をガンガン上げていく。石も自分で切りにいく。弟子が「あの……手伝いましょうか?」とか言いにくるが「いや、俺1人でやるから」と譲らない。

そんな彼が残した名言の一つに「最大の危機は、目標が高すぎて失敗することではなく、低すぎる目標を達成することだ」というものがある。これが"最大"ですよ。ストイックすぎんか……。

また「天才とは永遠の忍耐」という、とんでもない言葉を残している。とにかく努力努力の人で超絶ドM。しかも天才すぎて次から次に仕事の依頼がくるもんだから、他の追随を許さないレベルで成長していくわけです。

もう一言で書くと「精神的にムッキムキ」なのである。

描く人物までムッキムキ

またそんなムキムキなメンタルを表すように、絵画・彫刻作品も、謎にシックスパックばかり登場する。中期以降は全員マッチョ。もう完全にゴールドジム。

なぜミケランジェロはマッチョばかり描いたのか。その背景には、やはり「根が彫刻家」ということがある。彼は「画家とも詩人ともいわれたくねぇ。私は彫刻家だ」と自称している。それくらい「彫刻家であることに誇りを持っていた人」だ。

幼いころから、ひたすら石を削り続けてきた。粘土も使わない。ただ一枚の大理石をひたすら削ってきたわけだ。まず、大理石を削るタイプの彫刻で太った人などは作れない。ゆえにこの手法で人物を作ると、自然とスタイルがよくなるのは間違いない。

「いやガリガリは作れるやん」と思うかもしれない。いや、ミケランジェロ的にそれはダメなんです。

そもそもルネサンスの共通認識は「古代ギリシャをもう一度取り戻そうぜ!」っていう考えだ。古代ギリシャの時代、みんなマジで「美しい男の身体は神が喜ぶ」と全員思っていた。つまり信仰の意味で全員鍛えまくっていたわけである。「美=善」なんですね。シワですら「悪」とされていたレベルだ。

ミケランジェロはキリスト教大好き。さらにルネサンス思想も入ってるため、筋肉質な彫刻が大好きになったんじゃなかろうか。

そして絵画に関しては、先述した通り「絵は彫刻に近づくほど優れたものになる」と考えている。絵に関しては彫刻由来なのだ。そりゃみんなムキムキになるわけだ。

「神」を目指し続けて「神」になった男

ミケランジェロ「最後の審判」

いやぁすごい。作品への凄まじい執念というか、ここまでストイックな人は西洋美術史をたどってもなかなかいないと思う。彼は「私がこの芸術の域に達するまでに、どれほどの努力を重ねているかを知ったら、芸術家になりたいとは誰も思わないだろう。」と言っている。

ミケランジェロって、基本的にあんま自分の作品に満足してないんです。完成したら「くそ、うまくできなかった……」って言い続けている。「できた自分を褒めるタイプ」じゃなく「できなかった自分を叱るタイプ」だ。

私はミケランジェロは「神」に近づきたかったんじゃなかろうかと思うんです。さっきの新プラトン主義でいうと人を超越した「第一者」を目指したいた気がする。そのためにひたすら石を削っていたのではなかろうか。

もしそうだとしたら、ミケランジェロの念願は「神の如きミケランジェロ」といわれたことで叶っているんですよね。さっきまで一枚の岩だったのに、ミケランジェロがノミを入れると、まるで命を吹き込まれたかのような作品になる。これを見て、みんな「いやもう神やん」と言ったわけだ。

しかしミケランジェロは晩年になり、孤独を知る。いくら「神」といわれても、最後にはすべて手放さなければいけないことを知るわけだ。おもしろいのは、その時期に「今ならなんでも上手く表現できるのに」と思ったということである。

この言葉を聞いて「あっ、これ葛飾北斎や」と思った。日本の天才絵師・葛飾北斎の遺言は「あと5年、いや10年あったら本物の絵描きになれた」だった。そういえば日本にもおったわ。ストイック変態アーティストが。そう、葛飾北斎もとにかく私生活をすべて無駄にして絵だけに向き合ってきたストイックなアーティストだ。

もしかしたら、2人ともストイック過ぎて視野が狭まり、気づけなかった「真理」に晩期になって気づいたのかもしれない。それは老いによって、半ば強制的に肩の力が抜けることで見えたのかもしれない。なんて思うんですよね。

さて、そんなミケランジェロの表現は、このあと「マニエリスム」といわれ、後世に引き継がれていく。マニエリスムは「マニエラ(手法)」という意味。これは「ミケランジェロのマニエラ」のことだ。ミケランジェロは作品だけでなく、美術の価値観までを大きく変えたんですね。

こういった背景が分かると、彼の遺した作品を少し注意深く見てみよう、という気になるのではないか。非常におすすめだ。

何がおすすめかって、作品を眺めるにつれて、マジで「ちょっと鍛えよっかな」って気になるからほんとに。事実、わたくしこれ書きながら、昨日まで気づかなかった脇腹の肉が気になっております。そして目の前には晩飯のササミとブロッコリーが置いてあります(とんでもない危機感)。

ということで「あれ?ちょっと太った?」って人はミケランジェロ式ダイエット法を試してみてはいかがだろうか。それで「たまにはストイックになってみるのも楽しいなぁ」なんつって、いい汗をかいていただければ私も書いた甲斐があります。

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