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葛飾北斎とは|富嶽三十六景などの作品紹介! 引っ越し・改名などのエピソードなど

「Japanese Ukiyoe」として世界に日本の絵画を知らしめた立役者の1人が葛飾北斎だ。葛飾北斎の絵画は印象派以降の西洋美術にも大きな影響を与えた。

また彼は「First Manga Master」と、世界から「日本初のマンガ家」として認知されている。

そんな葛飾北斎の生涯やエピソードはおもしろい。「ザ・変態」だ。やばい奴ぞろいの日本浮世師のなかでも抜群に変な人だ遠目で見ている分にはおもしろいが、友達にはなりたくない。マジでやばい。絶対、集合時間に遅れるタイプの人だもん。

今回はそんな葛飾北斎について生涯をがっつり紹介しよう。そしてその変態エピソードを好き勝手に紹介したい。

葛飾北斎はなぜ絵を志したのか

北斎は1760年に生まれた。鏡を作る「鏡磨師」という仕事をしていた中島伊勢の養子になる。しかし後継を本家の息子にしたので、北斎は家を出なきゃいけなくなった。その後、小学生のころから貸本屋の雑用とか彫刻師の弟子とかをして働く。かなり苦労をしていた。

この「貸本屋」がキーワードだ。貸本屋でさまざまな絵を見て画家を志すことになった。また本を読んでいたので寺子屋にいかなくても字が読めたし、歴史などにも詳しかった。そして何より「貸本」が庶民の文化だったということで幕府や武士というより、農民や商人などのカルチャーに興味を抱いた。これが後年まで、北斎の作品の特徴を決定づけることになる。

当時は彫刻やってたが、やっぱり「絵やな。絵を描こう」と思い、当時すでに有名絵師だった勝川春章に弟子入り。勝川春朗の名前でデビューする。このとき北斎は15歳。すでにむっちゃうまい。

葛飾北斎のデビュー作「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」

北斎は14〜30歳まで勝川一門に所属して絵を描くが、破門になる。「単純に仲が悪かった」とか「狩野派に習いにいった」とか理由はさまざま考察されているところだ。ただ後者が濃厚で、当時30歳の北斎は中国絵も学びに行っていた。好奇心爆発三十路だったのである。

31歳から「宗理」という名前を使い始める。この名前は俵屋宗達や本阿弥光悦などによって立ち上がった琳派のボスが代々使う名前。相撲でいう「木村庄之助」的な感じだ。まだまったく売れてない絵師が急に「宗理」と名乗り始めるのヤバい。

しかも琳派っぽい絵ではなかった。さらに4年で「もう何かに所属するのやめます!」と宗理を弟子に渡して独立宣言。「北斎」を名乗る。でも北斎もすぐやめて「可候」「辰政」とコロコロ名前を変えた。

その後は読本挿絵などを描きながら、40代を過ごす。いわゆる浮世絵のテイストだけでなく、西洋のテイストを取り入れるなど、北斎の絵は実験的だった。そののち54歳にして「北斎漫画」を出版した。

令和でもまだ笑える「北斎漫画」について

北斎は漫画の概念について、以下のように述べている。

なんとなーく描いた絵のことです。

漫ろに描いた絵だから漫画。何かを表現しようという気概もなく、思いついたものをすらすらーっと描いたものだった。

実は北斎漫画には元ネタがある。それが同時期に活躍した浮世絵師・北尾政美の略画だ。略画はそのまんま略した絵のことだ。北尾の代表作は鳥獣戯画を略して描いた「鳥獣略画式」。この絵は令和の今でも人気がある。

北尾政美「鳥獣略画式」

葛飾北斎はこの作品からヒントを得て「北斎漫画」を描いた。北尾はそれ見てぶちギレで「あいつぁパクリしかせん。パクリ専門や!」と北斎を非難している。

日本初の漫画といわれるのは「鳥獣戯画」だが、北斎漫画は初めて「漫画」という言葉を使ったことで有名だ。なので海外では日本初の漫画家は葛飾北斎とされ「First Manga Master」と呼ばれる。「マスター」がいい感じにダサくてウケる。

北斎漫画は私も好きで全巻持っているが、特にこの変顔集がたまらん。今見てもちゃんと笑えるのが素晴らしい。

パッと見て笑える。でも30秒見続けてみて。なんか泣けてくるから。

セリフがないから笑えるんかもしれん。絶妙にシュールな空気がもうたまらん。特に好きなのが右上の顔に輪ゴム巻いている二枚目フェイス。これは松本人志Presents「ドキュメンタル」で宮川大輔がオマージュしていた(絶対に偶然)。

そして大傑作の富嶽三十六景時代に

そして葛飾北斎は71〜74歳の間に富嶽を描きまくることになる。この作品で日本画の風景画というジャンルを開拓した。まさに14歳から絵を描いてきた北斎の集大成である。

彼は絵としての緻密な表現だけでなく、波や風といった目には見えない自然の表現に長けていた。最も有名な作品でいうと「神奈川沖浪裏」だろう。

この絵は究極まで波のうねりを再現化したもので、「ハイスピードカメラで撮ると、マジでそっくりだ」という事実も話題を呼んだくらいだ。

もちろん当時は静止画を映す機械などない。北斎の観察眼の異常な高さがよくわかる。視力コレどうなってんだ。とても70超えの目とは思えん。

なぜ波が起きるのか。それは風が吹くからであり、北斎は風そのものを描くことにも力を注いでいる。

「駿州江尻」の一枚はその最たる作品だろう。旅人たちが風に煽られ書類を飛ばされる。紙の舞い方はもちろん、柳の煽られ方、笠を押さえる様子にも臨場感がある。いっぽうの富士は泰然自若そのもので、ダイナミック。この絵は影が薄いものの、北斎のハイライト的な作品だろう。すごい。もはや動画で見えるもの。

そしてこの作品を描いた後、北斎は90まで生きる。江戸時代でこの長寿はすごい。バケモンだ。その理由に「北斎が毎日クワイを食べていたから」という説があるが、そんなことある? クワイは仙豆か? 菊川怜が納豆食べてたから東大受かった」くらいあり得ない話だ。北斎の画家としてのエネルギーが長寿につながったに違いない。

葛飾北斎のど変態エピソード

さてここまでを観たうえで「葛飾北斎がいかに変態だったのか」という馬鹿エピソード地獄を勝手に紹介しよう。良くいうと超天才肌だが、悪くいうとダメ人間である。

すーぐ改名しちゃう初心大好きおじさん

葛飾北斎と私たちは彼のことを呼ぶが「北斎」だった時期なんて凄く短い。それどころか「北斎やるわ」つって早々に門下生に渡している。彼は30回以上も改名し続けたのだ。

「勝川春朗」からはじまり、先述したとおり「可侯」「宗理」「辰政」などを経て「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「月痴老人」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」などなど、いやもうボケてるやん。というレベルの変な名前を次々に名乗った。

なかでも有名なのが、春画を描くときに使った名前「鉄棒ぬらぬら」である。確かにちょっとエロティシズムがある名前だ。妖怪・鉄棒ぬらぬらと言われてもなんの違和感もない。鉄棒でぬらぬらしてるはんぺんっぽい生き物だ。

また彼が晩年に名乗っていた名前が「画狂老人卍」である。90のじいさんの発想じゃない。ステッカーにしてヤン車に貼ってても違和感ないです。

彼がコロコロ名前を変えるのは「いつまでも新人の気持ちを忘れないため」といわれる。天狗になったときに変えていたのだろうか。「ちょっと最近調子乗ってんな自分。よし改名しよ!」じゃないよ。発想が細木和子なのよ。

部屋汚れたら引っ越す「がさつ」さ

解明より多いのが引っ越しだった。というのも北斎は究極の「片付けられない男」で、部屋が散らかったら引っ越していたのだ。娘の葛飾応為も一緒に住んでいたが、残念なことに彼女も片付けられなかった。これが遺伝子の怖さ。

ではなぜ片付けられないのか、というと絵を描くからである。これマジの話だ。絵に集中したくて片付ける時間がなかったらしい。娘もそう。親子そろって集中力のおばけである。その引っ越しの階数はなんと93回。1日に3回引っ越すこともあったそうだ。

でもよく考えてみよう。「1日3回引っ越す時間あったら絵ぇ描けよ」と。全然集中できてないやん、とあえて書きたい。結局、最後は転居先が前に住んでた家で、しかも出たときと同じ散らかり方だったのを見て引っ越しをやめたらしい。なんじゃそら!

「コミュ障かつツンデレ」という萌えキャラ

葛飾北斎はマジで2ちゃんねらーも引くほどのコミュ障だった。とにかく人と会話をせず「あ、ども」くらいしか関わらない。外を歩くときは話しかけられないように呪文を唱えている。出前を取った時の代金は紙に包んで投げる。基本的に絵のことしか考えていないので、人とはまったく関わらなかったわけである。

またそれはどんなに地位や権力のある人でも同じだった。例えば人気の歌舞伎役者・尾上梅幸が訪ねてきて絵を依頼した際「部屋きったねえ」と言ったのにキレた。

また津軽藩主が「屏風絵の描いてくれ」と招待したが無視。5両渡して招待するが「忙しいから」と知らんぷり。使いの藩士がガチギレしても動かない。と思いきや呼ばれてもないのに急に津軽藩にいって屏風絵を仕上げて帰ったらしい。なんなんだこのコミュ障ツンデレは。

「あと5年あれば本物の絵描きになれる」

そんな変態・葛飾北斎だが、やはりこの背景にあったのは「絵への情熱」それだけだった。小学生の貸本屋での体験から、彼の人生は絵とともにあり、絵以外のものには興味がなかったわけである。

さんざいじった挙句に書くのもなんだが、やはりむちゃくちゃかっこいい画家だ。

そんな彼の今際の言葉を以下に書く。

あと10年……いやあと5年生きていれば、私は本物の絵描きになれるだろう。

この言葉にすごみを感じるのは、葛飾北斎が誰からも認められるほどの絵描きだったからだ。北斎自身だけがまだ自分に満足していなかった。

改名のエピソードにも通ずる。彼は最後までハングリーなままだったのである。最期まで絵を追求し続けたすごい人生だ。これはスポ根ではない。ただひたすら北斎は絵を描くのが大好きだったのである。夢中なまま最後まで駆け抜けたわけだ。

だから北斎の絵からは気迫を感じる。こんなふうに好きで好きで仕方ないものを、死ぬまで極めたいものである。

「もう変なやつでもいいじゃないか! 私たちには好きなものがあるのだから!」と思わせる……と書こうとしたが、やっぱそこまで勇気は出ないですね。危ない危ない。まともな人であろう。私たちは、人間として大事なものを守りつつ、好きなものを極めていこうじゃないか。晩年に「画狂老人卍」だったら仲良い人たちがベッドの周りで「卍ぃ〜!まだ逝くなよ卍ぃ〜!」だぞ。こりゃちょっと恥ずかしい気もする。

しかし私たちが葛飾北斎から学ぶべきは間違いなく「好きなものを好きなだけ極めること」だ。ぜひ明日からも好きなものに向かっていきましょう。

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