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【作家対決】大江健三郎と開高健。今なお色褪せないのはどっちだろう?

大江健三郎と、開高健。
こんなに比較記事を書くのが
ワクワクするコンビもありません。

二人は良きライバルでした。
開高健が1957年に「裸の王様」で
第38回芥川賞をとると、
翌58年には、
大江健三郎が「飼育」で
第39回芥川賞を受賞。

以後、大江と開高は
大型新人として
時にライバルとして
時に同年代デビュー作家として
注目を集めることになります。

大江さんは、
大学時代に東大新聞に
小説が掲載され、
文壇に迎えられました。
その存在は常に知識人的で
核問題や天皇制や学生運動を
熱く書いてきました。
『性的人間』『叫び声』
『芽むしり仔撃ち』などなど。

でも余りにインテリの典型的な
頭でっかちな印象が強く、
親しみやすくはなかったかも。
見上げるスターでしたね。

そんな彼を変えたのが
障がいを生まれもって
この世に誕生した息子さんが
出来てから。
『空の怪物アグイー』
『個人な体験』などは
大江さんの親としての煩悶から
生まれた作品でした。
以後、作品のほとんどは
息子さんから大きく離れることは
ありませんでした。

そんな一連の平和と命を巡る
作品『燃えあがる緑の木』
『人生の親戚』などが
高く評価され、
1994年、ノーベル文学賞を
受賞しました。

一度、大江さんの講演を
聴いたことがありますが、
ご友人いわく、
大江さんはもう少し
分かりやすい文体で
作品を書いてきたら、
村上春樹くらいの豪華な家が
建ったでしょうと指摘されてます、
と、大江さんは自嘲気味に話して
会場を笑わせてました(笑)。

確かに、中期以後の大江作品は
ノーベル文学賞作家としては
あまりに部数が冷遇されてきた、
かもしれません。汗。

開高健はどうか?
寿屋(サントリー)の宣伝部で
広告コピーの仕事をしながら、
27才でデビューをはたした苦労人、
というイメージはあります。

開高健は、
スタイルを見つけるにも
苦労した作家でした。

今では、
釣り好きで世界を回った
行動タイプという印象が
浸透していますが、
それはスランプからの
打開策でした。

開高は
「パニック」「日本三文オペラ」
など、デビュー以来、
徹底的に過酷なシチュエーションを
テーマに探し選んで書きました。
ですが、リアリズムな文体で
地味な印象がします。
『日本沈没』などの
小松左京的なスケールは
ありませんでした。

そんな開高を大きく変えたのが
ベトナム戦争でした。
1964年、34才の時、
世界の注目の的になっていた
ベトナム戦争に臨時特派員として
ベトナムに赴き、様々な戦地を
自分の目で耳で鼻で
体験していきます。

この時の命がけの従軍を
三島由紀夫や吉本隆明は
芸術家はイマジネーションで
戦争を捉えなくては!と
開高に批判的でした。

わざわざ他国の戦争に
死ぬかもしれない危険をおかして
行く必要があるかどうか?
ある評論家はこれを「視姦」と
いう言葉で表現しました。

しかし、この従軍をキッカケに
『輝ける闇』『夏の闇』ら
代表作が生まれていきます。

でも、それよりも、開高健には
どうしてもケリをつけたい
テーマがあったからに違いない、
と私は勝手に思ってることが
あります。

25才で南大阪で敗戦を迎えます。
父を早くに亡くし、
母や弟妹たちを連れ、
空襲から逃げながら、
つねに戦火と飢えと死の恐怖に
翻弄され続けた思春期。

戦争にすべてを奪われた
怒りと問いかけは
開高の心を一時たりとも
去らないままだったのでは
ないでしょうか?

他国であれ、戦争という
猛獣がどんなバケモノか
この目で改めて見てやらねば!
そう開高健は思っていたのに
ちがいなかったのでは…?!

それはまた、20才で
愛媛の山奥で敗戦を迎えた
大江健三郎も、
戦争を問い続けた作家であり、
核は同じかもしれませんね。

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