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評価と贈与の経済学

20240818

・これからは人柄が大事。
・人の世話をする人が得をするし、幸せになれる。
・お金をいくらもらったか、いくら使ったかではなく、人に何かできたのか、何をしてもらったのか、で測られる。
・ネットとは広く、いろんな人と知り合う「場」。縁のできた人と、拡張的な家族関係を
探すための「場」であり、大事なのはリアルな人間関係。

人というのは、技術や社会の変化で、まるで犬のように、どんどん品種改良されてしまう。自我とは、変化する社会に対して着替える機能性の外套のようなもの。寒い季節にはダウンコート、暑い季節にはTシャツのように、経済や戦争など環境の変化で自我構造はどんどん上書きされる。人は変化する。そして決して元には戻れない。変化した後は、変化前が理解できなくなっている。だから僕たち人間は「人のありかたや幸福はどの時代でも同じだ」と、つい誤解してしまう。

みんなが同じ情報にアクセスできて、その情報に関して、ばらつきはあるにせよ、同じ言語で語ることができて、その真偽正否を判定する議論が共通の土台上に成り立つ。そのことは、コンテンツの豊かさ、貧しさとかとは無関係に、社会システムの強い安定要因になりうる。
インターネットで好きなだけ個人的なメッセージを発信できるようになったから、印象としては非常に自由な社会になったという感じがするんだけど、自由とアナーキーの間は実は紙一重なのだ。マスメディアがなくなると、対話の共通基盤が失われてしまう。
ある事案の是非を世に問うという場合に、議論の土台がなくなってしまうと、「世論」そのものが成り立たなくなる。どれほど意見が対立しても、議論が成立するというのは、プレイヤーたちは、原理的に同じ言葉使いをしており、同じロジックを採用しているということが前提になっているからできる。
例えば、相手を論破するということができるためには、相手にはこちらが指摘した事実誤認や推論上の誤りを指摘されれば納得できるだけの判断力があることが前提になっている。プラットフォームの機能というのはそのことじゃないか。

今は、本質的な議論の判定がなくて、世論の流れというか、単なる流行りだけがある。つまり「いまこれが注目されている」「キーワードでこれが上位に来てる」というだけの情報。
かつては、有識者がいて、「この人なら信じられるんじゃないか」というのがあって、その人たちの話を聞いたうえで個人個人がそれらを見比べて、意思決定をするというのが近代自我の主体を立ち上げるということだった。今は「流行りだから間違いない」「ランキングが上位だから良いに違いない」という発想。

例えば魔法とかUFOとかを信じる気持ちがある。あれは論理的に考えて信じる信じないじゃなくて、信じたいと思うから信じるわけなのだ。ディズニーランドは夢の国であるとか、ミッキーは実際にいるとか、信じたいから信じてるのであって、自分の気持ちが一番。世の中の情報っていうのは気持ちを補助するためにあると考えてる。
だからもし自分が何かを否定するとしたら、自分が持つその否定的な気持ちを補強する情報ばかりを集めるっていうのが楽しく、やりがいのあることになってくる。自分が肯定しようと思ったら、肯定ばっかり。
自分の気持ちっていうのは滅多に起動しないので、起動したらすごく貴重だから。これこそが生きてる証しだとする。彼らは彼らで生命エネルギーを長続きして燃やそうとしてる。そうでもしないと生命エネルギーが日持ちしない。自分の気持ち至上主義である。

壁に当たると気持ちのほうが減る。壁に対して怒ったりするというより最終的には「もういいんです」って。その気持ちがなくなりました、と。

「心が折れる」って、メカニカルな装置の一部が壊れるという感じ。物理的な衝撃とか重さで、生きる意欲がポキンと折れる。イメージ的には、そうなったらもう修復不能だ。

自分の気持ちは、自分で見えやすい人と見えにくい人がいる。例えば私は自分の気持ちがすごく見えやすいタイプである。何かが好きだってはっきりわかったりする。自分の心が客席みたいなものだとして、客席がわーっていうと自分でわかるんだけれども、人によっては客席が真っ暗で自分の中の気持ちが湧き上がってても、暗いからよく見えなくて孤独を感じていたりする。

私の場合、自分の気持ちはまっすぐ身体とリンクしてる。何かが嫌だって感じるのは、頭で考えて判断しているんじゃなくて、身体が反応している。身体が嫌がる。理由は簡単で、そういう嫌な状況を我慢して続けていると、生物としての生命力が下がってくるから。

ものごとの判断を身体中心でやる。

身体は惰性が強いから「曲がれ」って言われても、急には曲がれない。だから、身体中心だと「心が折れるかも」っていう予感があったら、折れないような方向にのろのろと進路を変更する。そういう進路変更はけっこう手前から、無意識的に行っている。

男は、子どものころから痛くても痛くないふりをすると褒められる。悲しくても涙をこらえないと怒られる。身体性を無視するように男の子はしつけられている。

武道は、自分自身の生きる力を高めることが目標だ。生きる力は、人と比べるものじゃない。

武道は、与えられた自分の身体資源をどう活用して、どう生き延びるかである。

ロスジェネ論者が「団塊世代はバカばかりだ」って言うのには、百歩譲って同意してもいいが、ロスジェネ世代に「オレたちはおまえたちより賢い」と言われると、それは違う。

最も抑圧され、最も収奪されている社会集団に社会矛盾が集中しているから、その集団の解放が社会改革の「レバレッジ」になるというのはマルクス主義の考え方で、それは正しい。

明治以来だいたいいつも若者たちの前に拡がる未来はどうなるかわからなくて、いつも不安定なのだ。大学に入るためにこれだけ努力したらその努力に対する報酬が確実にありますよっていうのは本当に作り話なのである。
今している努力に対して未来の報酬が約束されないと働く気がしないという人が増えてきたが、今している努力に対して未来の報酬が約束された時代なんて、これまでだってなかった。
報酬の約束なんかなくても、とりあえず生き延びないといけないからってみんな必死で生きてた。努力と報酬が相関するというのは、理想で、はっきり言うと嘘である。努力と報酬は原理的に全く、相関しない。能力と報酬も一致しない。報酬は運である。運だからこそ、成功したら他人に回さないといけない。成功が運っていう言葉の意味は、成功というのは基本的に他人が手を差し伸べてくれて、「あ、すいません」って引き上げてもらってようやく岸に辿り着いた、っていうようなことだ。自分で這い上がったわけじゃない。

我慢はしたかもしれないけど、努力はしてない。 「しなきゃいけない」と言われたことはしたかもしれないけれど、「これがしたい」と思ったことを必死でしたわけじゃない。

労働の結果がお金としての報酬だけっていうのも変である。労働に対しては「成果」が与えられるってことを知ってもいい。労働をやった結果こんな成長がありました、こんな成果が得られましたっていうのも立派なものだ。

働くのがイヤだ、ずっと遊んでいたいっていう人は、実は「働き者」なのだ。つまり遊ぶことで得られる楽しさとか満足感とかも一種の成果なのだ。仕事が嫌だと言いつつ遊んでばかりの人は、楽しさという成果を追い求めることに努力を惜しまない人。はたから見たらものすごく働いてる。

自分で「こんないいことしてるオレって、ほんとにいいやつだな」って思えれば、それだけで生命力って向上する。いいことって、した時点にすでに報酬を得ている。

お金ってなんだろう?使いようによってはどうにでもなる。仕事とお金について考えたとき、なんだかどうでもよくなって、「ぼくの生きる意味というのはコンテンツ生産だろうから、そっちを利用してください。お金は好きにしてください。注文してください。ぼくができる仕事であれば、全部やりますから」というスタンスなのだ。

これまでの考え方は、一緒に働きたいって言った人にお金を出す。そうすると、労働者は最も多いお金をもらって、もっとも少ない労働をしようと考えるし、雇用側はもっとも少ないお金でもっとも多い労働をさせようって考えるに決まってる。時間が経つにつれて、だんだん関係が歪んでくる。
それだったらお金を払って、労働の権利を買ってもらう。雇用者から見たらどんだけでも仕事してくださいと。働いて一緒に本を出しましょうと。本にあなたの名前を載せましょうと。ぼくは個人で上場したみたいなものだ。彼らは株主であると同時に従業員でもある。ぼくの使用料、利用料を払ってるわけだ。だからぼくを自由に操れる。

芸大で作ってるものはやっぱり作品なのだ、商品じゃなくて。
社会に出ていく作品というのは作品と商品の中間みたいなものである。

日本はこれからどうなるのかというと、間違いなく、少子・高齢化が進んでゆく。市場が縮んでゆく。もう成長戦略というのはありえない。社会全体がゆっくりと勢いを失ってゆく。この趨勢はもう回避できない。

もともと日本っていうのはこんなに働かなくてもよい社会だったのに、働かなくちゃいけない社会に追い立てられた。その結果として経済的繁栄を手に入れた。そうすると経済的な繁栄というのは、個々人の強制的な労働参加=貧困化の代償だと考えることができる。

基本的に、ぼくらが他人に対してできることは、わりと単純なことだ。ご飯を食べさせる、服を着せる、寝るところを用意する。それに尽きるわけだ。比喩じゃなくて、文字どおり、お腹が空いている人にご飯を食べさせる、裸の人に服を着させる、寝るところがない人にベッドを提供する。それができたらもう十分なのだ。他人のためにそれができる人を「豊かな人」と呼ぶ。「豊かな人」になるために努力するのが社会人の義務だ。

1980年代以降のイデオロギーは、他人が同じ家の中にいるせいで、可動域が制約される、自由なふるまいが許されない、自己実現が妨げられている、だから 「家族は解体すべきだ」という考え方を流布した。自分の欲望を実現すること、好きな生き方をすることが人間の最優先の目標だと言われてきた。
でも、そんなイデオロギーが大声で言われるようになったのって、本当にごくごく最近の話である。「自己実現があらゆることに優先する」なんて言ったら、気が狂っていると思われた。あらゆることに優先するのは「集団が生き延びること」である。単独で「誰にも迷惑をかけない、かけられない」生き方を貫くより、集団的に生きて「迷惑をかけたり、かけられたり」するほうが生き延びる確率が圧倒的に高い。

義務教育でもなんでも、「勉強したい」って思わなかったら、子どもは勉強しない。自分が学びたいことしか学ばない。自分が学びたいことは、「やめろ」と言われても学ぶ。そういうものなのだ。自学自習なんのだ。だから、教師の仕事はどうやって学びを起動させる「トリガー」を見つけるかだけなのだ。トリガーは子ども一人ひとり全部違う。

飯を食わせる、服を着せる、ベッドを提供するっていう身体ベースで。飢えとか寒さをしのぐための集団って、簡単には形成できないんだけども、一回成立すると強い。なかなか崩れない。

身体ベース、生活ベースの関係は、惰性が効いているから、簡単には変わらない。衣食住の生活にあまり激しく変化されたら、生身の人間はついていけない。

人の世話をするということを、自分が 「持ち出し」でやっていて、その分「損をしている」というふうに考えるところに最初のボタンの掛け違いがある。贈与からはじまるのではない。人のお世話をするというのは、かつて自分が贈与された贈り物を時間差をもってお返しすることなのだ。反対給付義務の履行なのだ。貨幣も情報も評価も、動いているところに集まってくる。貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられる。

価値があるのは、モノ自体ではなくて、物語の方である。

「いまオレには働く理由なんてない、働けば働くほど損だ」って思っている人たちをどうしていくべきか。生きる根拠というか、そういうふうなものがない人たち。彼らは、まず他人に与えないと、生きている手応えを感じるのは無理なのだ。彼らが供給側に立たないといけない。
だから例えば、親から面倒を見てもらっている子はペットを飼うことで初めて自分を確立する。あるいは、弟や妹の面倒を見ることで自分を確立する。自分より弱い人間がいて、つまり自分が養う人間がいて初めて自分が確立する。人間は強いものに導かれて強くなるんじゃなくて、弱いものをかばうことでしか強くなれない。
生きる根拠がないと悩んでいる人たちは、他人に生きる根拠を与えることでしか、その悩みは解消されない。

人間の働く意味は、誰かを養うためであり、贈り物をするためである。

仕事をしたいところに行って勝手にお手伝いをはじめてしまえばいい。そして大切なのはそれに対して見返りを求めない、ということだ。報酬というのはいつかどこかから必ずやってくるのだから。まずはお手伝いというかたちで起点を作る。そういう行動を起こせるかどうかがポイントになってくる。

自分が他人からなにをしてもらえるかより先に、自分が他人になにをしてあげられるかを考える人間だけが贈与のサイクルに参入できる。

簡便性や効率的な取引のために貨幣というものを運用してきた。贈与経済はスピードが遅かったから、うまくいかなかった。
発展的な高度経済情報化社会に向かうことこそが、非効率だった贈与経済を効率化する。デジタルネットワークに個人の情報が蓄積されていって「この人だったら信用できる」とか「この人はこんなことをしてきた」といった情報を手軽に入手できるようになれば、贈与経済のスピードは格段に上がる。信用に関する複雑な情報を効率的に処理できれば、貨幣に頼らなくても済む。フェイス・トゥ・フェイスの取引に戻してゆく。贈与経済から貨幣を媒介にした市場経済に移ったことで経済活動が次第にその本道から逸脱してきたわけだから、もう一度贈与経済の背骨を通すということは、経済システムの再生のためには有効である。

インターネットによる商取引の高速化、無時間モデルの考え方が貨幣経済を破壊しはじめた。インターネットって近代的資本主義を壊滅させた最終兵器かもしれない。ある戦争が終わるときには最終兵器が登場して、その技術が新しい世界を作る。 インターネットによって従来型のビジネスみたいなものが終わっていき、インターネットによって新しい世界がはじまる。

従来の雇用形態って、そろそろ終わりである。3月に卒業して4月に一斉に入社して、先輩にいじめられながら、身体が壊れるまで勤めるというのは、もう制度として賞味期限が切れている。
8割とか9割の人が就職できた時代はそのシステムでよかったが、6割くらいになった時点でもう限界に来てると考えないといけない。

社会人というのはスキル、ネットワーク、そして人柄の三要素からできている。贈与経済というものがもし復活するのだとしたら、最後に人柄が出てくるから、やっぱりいいやつという認知が欠かせない。人となりを知ってもらわないと贈与経済は作動しない。スキルもネットワークも大切だけど、贈与経済を見据えるなら最終的に「いいやつなんだ」と思ってもらうことが大切だ。

近代的資本主義では、情報を一切カットして、クレジットカードみたいなものを作って、信用のシステムを簡略化して流通させようとした。クレジットカードというものが導入されることで、元々あったクレジット=信用という人間社会の概念の中身がなくなってしまった。人と人のつながりという社会的インフラのようなものを環境と呼ぶなら、ビジネスによってそれを破壊してしまった。

空を自由に飛びたいという願望があって、それが実現する手段ができたら、それは夢でなくてもう目標なのだ。

人間は、まず気持ちがあって、次に理性が働いて、最後に身体がついてくる。

夫婦は非対称的な関係にあったほうがいい。自分ができることが相手にはできず、相手が得意なことが自分は苦手というのがバランスいい。
お互いにいつも貸し借りがアンバランスで、妻と夫それぞれ相手に贈与して、反対給付義務を感じて、それを相殺しようと絶えず動き続けることで夫婦のバランスが保たれる。

男が結婚生活に求めているのは安心して幼児化できる場である。裃を脱いで、でへーってなってるときに、そういう自分を許してくれるような人を求めて結婚するわけだから、結婚したあとであらわになる男の姿って、赤ちゃんと似たようなものだ。女の子にも幼児化したい、甘えたいっていう願望があるから、お互いに相手に求めているものって、実は一緒なのだ。つまり「母親」なのだ。男も女も配偶者に母親的なものを求めている。違うのは、女の子は母親を演じ慣れてるので、男が甘えてきたときはすぐに母親になれるけど、男は訓練されていないから、なかなか母親になれない。その点がいささか不公平である。
この「母親と赤ちゃんのゲーム」は役割がどんどん交代するので、さきに「バブバブ」と言ったものが赤ちゃんになれる。先手を取られたほうは我慢してしばらくは母親役をやるしかない。
モテる男って母親になれる。相手の幼児性を温かく許容することができる男。 モテる男ってだいたいそうだ。

あ、この言葉は自分に向かって言われているんだと思わないと、人って話を聞かない。

「みんなに話す話法」っていうのは人によってそれほど技術レベルが変わらないので、急に近づいて「あなたに話す話法」を使えるかどうかに書き手の力量が表れる。
大作家のすごいところは、あることを言いながら同時に違うことを言うことができることだ。複数の声が一斉に響く。だから、読者はその中のどれかとは波長が合う。

パートナーがいなくても、仲間がいなくても、お金さえあれば、ひとりで愉快に暮らしていけた。むしろひとりの方がずっと自由気ままで快適に暮らすことができた。












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