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死にがいを求めて生きているの

20240318

大きな変化を迎える直前の人間特有の生命力が眩しかった。

一人一人の人生にあまりに寄り添い過ぎてしまうと、きっとどこかで何かが破裂してしまう。

時計の針に乗って自動的に運ばれているだけの私

あの頃には遥か彼方であったけれど、まだ、ゴールがあった。だけど、今は違う。自動的に運ばれていった先にある何かあるのかわからない。
何があるのかわからない、と思いたい。転がっていったその先に、未知なる自分が存在してくれる、と思いたい。変化を信じられる自分でいたい。

どうすればいいのか、何を生きがいにすれば、いいのか、わからない。

毎日毎日同じことの繰り返しだなって、
自分も世界も、何にも変わらないなって

あらゆることが繰り返されている日々の中で、何が生きがいになり得るのか。

変化がない毎日を送っている人は、何を生きがいにしているのか。

今日は何かが変わる前日なのかもしれないと考える。毎日が辛くとも、ただの繰り返しにはならない。ああ、この瞬間のためだったんだって笑う日のための積み重ねだ、って思う。

絶対こうなる、と、未来に起こるはずの変化を力強く唱えられるような、そんな変化を引き寄せられる自分の力を信じていられるような、そんな日々をもう一度、自分で手に入れたかった。

絶対、なんて、ない。そんなことはわかっている。それでも絶対、と思わず唱えてしまうような瞬間が欲しい。

だけど、楽しいからいい。楽しいからいいのだ。

新しい何かに出会い、その新しさに出会った自分の戸惑い

自由という言葉は、すごく嬉しい言葉だった。

好きなことをしていいなんて、あまりの幸せに脳の理解が追いつかない。

14歳という季節は、毎日毎日、どうして、どうしてが積み重なっていく。目を瞑っていたって歩けるような校舎の中、わからないことがいっぱいある。そんなアンバランスな季節の真ん中を歩いている自分のことが嫌いではない。

そんなふうに考えるのは、そうなりたいと思っている自分の心にブレーキをかけるためかもしれないと思った。

人は競い合うことによって、自分の能力を伸ばすことができる。人と比べ、勝ち負けにこだわることによって、実力以上の力が発揮されることもある。

性別で分けられることって、そういうものだから、とかよく言われるけど、全然違うもので、人間が二つに分けられちゃっても、みんな、そういうもんだから、って簡単に諦められるのかな。

本人は意識していないだろうが、あらゆる局面での競争に勝ってきたという生物としての自信が全身から漂っている。

ここから、日本までとは言わなくても、半径5メートルを変えようと奮闘する若者たちに光を当てる。

酒、つまみ、友達、それだけでぎゅうぎゅうづめになる狭いアパート。高校3年間で味わうことができなかった、諦めたもののすべてが、そこにはある。

そもそも、「 帝国のルール 」という漫画が、俺たちを洗脳するために描かれてるかもしれない。漫画を通して、俺たち世代に、架空の伝説とか人間の対立とかを刷り込んでいる。それで、憲法変えたり戦争したり、そういうことを国がやりやすくしている。

洗脳とか陰謀って、俺らのわからないところで行われているからそう呼ばれている。今、俺らが当然だって思ってることって、誰かにそう思わされてることなのかもしれない。

引き寄せない。自分と、自分の周囲で起きていることとの間に、自然に線を引いている。世界を他人事だと思っている。

世の中にはいろんな人がいる。一つの塊みたいに見える人たちの中にも濃淡があるってことを考える。集団の中にあるグラデーションである。

頭が良かった。正しく言えば、日本の学校教育で用いられているテストで点数を取ることが得意だった。それはつまり、場面ごとのルールを見極め、押さえるべきポイントを見つけ出す能力に長けているということだ。

年齢を重ねていく中で、求心力となりうる要素は、変わっていく。自分が持ち合わせていた要素が、有効な時代が終わったならば、自分の中身を更新していかなくてはならない。
自分以外のすべては変わっていた。

お前は今、どれだけ注目されているの
社会のために何かしているの
価値のある人間なの
何もせずのうのうと自分だけのために図々しく生きてんの

偶然この世界の強者に生まれた俺たち男は、働くしか選択肢がないんだよ。
働き続けるしかないんだ。

今やっていることに身を捧げないといけない。おままごとじゃいけない。生きる意味を、生きがいを、もっともっと外の世界に向けていかないと、自分が自分でなくなってしまう。

結局、全部、全部自分のためにやっている。自分は生きる意味がある人間で、この人生には価値があるって思いたいだけ。

生きがい
それって、なきゃいけないの?

他人が救われることより、目の前の人のクマが消える方が、生きる意味とか、生きがいとか、感じられるかもしれない。

たった一人の大切にしたい人

変な体の私は、みんなみたいに誰かと幸せになって、結婚して子どもを産んでってことができないって思ってた。友達から結婚しましたとか、子どもができましたとか言われるたび、そういうことができないお前はダメだって言われてる気がした。
幸せそうな人たちがデートしてたり、小さな子どもが遊んでいるのを見るだけで、自分が責められている気がした。赤ちゃんを抱いて電車乗ってる人に会うと、わざわざ赤ちゃんを高く掲げて、生き物としての正しさを私に見せつけてきてるような気がしてた。
街を歩くだけで、ただ生きているだけで、罪悪感が積み重なっていくの。
どうやったらその罪悪感から逃れられるのだろうって考えたとき、新しい命を作ることができないなら、死んでいく命を救えばいいのかも、って思った。
死にかけのホームレスに感謝されるたび、だから私は生きてていいんだって思えた。結婚できなくても、子ども作れなくても、生きてていいんじゃんって。生きてる意味あるじゃんって。自分を否定しなくなった。生きていることへの後ろめたさが減っていった。
初めから、ホームレスの人たちじゃなくて自分を救うためだった。

自分のためにしか生きていないやつらとどんどん別の人間になれてる気がした。

今なら、生きる意味とか、生きがいとか、そういうのなくても、生きていけるかも。

川が海になるように。
木が森になるように。

海外の国へと旅をして、命の危険にさらされるたび、自分の生の限界点に触れ、これから訪れる1日、1秒を生きることに真摯に臨めるような気がした。

老人は、もう十年以上も無人島で自給自足の暮らしを続けていた。その島に通い、時には住み着いた。するとすぐに、名前が必要なくなった。 二人しかいない空間だと、まず名前が消えるのだと、初めて知った。それから順番に、そこにあって当たり前だと思っていたことが消えていった、お金、世間体、常識。島の暮らしに馴染み始めた。
老人は、自分の人生について言葉少なに語り始めた。サラリーマンとして働いていたが、上司との関係が原因で鬱になったこと。出世、稼ぎ、人間関係、社会的に大切とされていることが全てどうでもよくなり、今世間を作り上げている物差しでは測れない場所で残りの人生を送りたいと思ったこと。
全てを捨ててこの島に来て、あらゆるしがらみのない世界を生きてみて初めて、無駄なものが体から削ぎ落とされていると感じた。名もない一人の人間として、動物として、生きる意味を、命の本当の尊さをようやく感じることができた。

やりたい。無条件にそう思った。そういうものをやりたかった。ただただ興味がある。行ってみたい。この目で見てみたいと心の底から思う。好奇心のみを信じて動く。

何と戦っているんだろうって感じなんだけど、自分は絶対こうならないって言い切れない気持ち悪さがある、自分の中にもある。いつも何かと戦っているように見せかけて、本当は別のものから逃げ続けてる。
いつか、ついに、どこにも逃げ場がなくなって、無人島とか行っちゃって、俗世を捨てて初めて自分自身と向き合って、ここに来てやっと命の意味がわかった気がする。

自分は何のために生きているのかなんて、悩む必要はない。自分が生きていることに対して疑問や後ろめたさを感じる必要もない。

だって、生きる意味を、人生に価値を与えてもらえるのだから。もう何も考えなくていいのだから。

少年のような細い顎は、歯応えのある経験を飲み下したことのない人生を象徴しているかのようだ。

無人島に行って命の大切さに気付いたのではなく、本当は、命の大切さに気付いた人になりたくて、無人島に行っただけなのだ。順序が逆なのだ。

今、自分の人生経験から得た学びや気付きを還元したいとか言って金を稼いでる奴がゴロゴロいる。ろくに社会人経験のない奴が、自分を仕事にしています、私がこれまでの経験から得た気付きを皆さんに伝えたいです、とか偉そうに語っている。

人間本来の生きる意味なんて、普通の暮らしの中で見つけられるのに。命の使い方なんて、生きがいなんて、どこにいたって感じられるはずなのに。

何かを成し遂げた人になりたかった、もう一度自分も。
自分から何も言わなくても、今、自分が何をしているのか認識されるような人で在り続けたかった。

いつも何かに立ち向かってたけど、その先にあるものは何だろうか。そもそも何かを成し遂げるって、何かに立ち向かうことだけじゃない。自分のやりたいことをやり通すことでも成り立つはずだ。必要もないのに、無理やり立ち向かう相手を生み出している。

自分自身と向き合えなかっただけ。

無人島行きは、社会で培った負のオーラを煮詰めて煮詰めて出来上がる。すべてを捨てて無人島に行くっていう、常識から外れて見える決断さえすれば、その常識の中で競争してきた人たちに対して、一矢報いることができると考えた。常識に縛られ過ぎた人間がする、典型的な行動である。

今でこそやっと、人それぞれ自由に生き方を選べる。でも、誰もが自分だけの確固たる物差しを持てるほど強くはない。人と比べなくていいよと言われても、結局は、どうしたっていろんなものと自分を比較してしまう。

何も生んでいない。支える家族もいない。そんな自分が生きている意味とは何なのだろう。この人生の価値とは何なんだろう。守られたこの場所で生産はせず消費だけし続け、のうのうと生きていていいのだろうか。

勝手に、自分の周りの誰かと比較して、そんな気になっているだけだ。やりたくないなら、やらなくていい、やらない自分を認めてあげれば。

生きてる意味なんてなくていい、人間は生きているだけで十分っていうのは、生きる意味を見つけてるやつばっかりなんだ。

生きてるだけでいいんだよとか言ってる奴は、その状態には絶対にならない。

3種類の人間


生きがいがあって、それが、家族や仕事、つまり自分以外の他者や社会に向いてる人。これが一番生きやすい。家族や大切な人がいて、仕事が好きで、生きていても誰からも何も言われない、責められない。自分が生きる意味って何だろうとか、そういうことを考えなくたって、毎日が自動的に過ぎていく。


生きがいはあるけど、それが他者や社会に向いてない人。仕事が好きじゃなくて、家族や大切な人がいなくても、それでも趣味がある、好きなことがある、やりたいことかある、自己実現人間。こんな風に生きていていいのかなって思うときが、たまにある。だけど、自分のためにやってたことが、結果的に他者や社会をよくすることに繋がることもある。


生きがいのない人。他者貢献でも自己実現でもなく、自分自身のための生命維持装置としてのみ存在する人。

辛くても愚痴ばっかりでも、みんなとりあえず働くのは、金や生活のためっていうよりも、③の人間に堕ちたくないからなんだろう。自分のためだけに食べて、うんこして、寝て、自分が自分のためだけに存在し続ける方が、嫌な仕事するより気が狂いそうになること、どこかで気付いている。

自分のためにやりたいことと、誰かのためにやりたいことも、何もない。決められたルールがないと、自分からは何も出てこない。

俺は、死ぬまでの時間に役割が欲しいだけなんだよ。死ぬまでの時間を、生きていい時間にしたいだけなんだ。

生きがいじゃなくて、死にがいを求めている。

何か没頭できるものを見つける。そんなことは何度も何度も試している。見つけだそうとして見つかるもんじゃないことも、痛いくらいにわかっている。

どうして、そんな風にたらたら生きてられるんだって思った。

何もない。何もなきゃ生きてちゃダメなのか。

無理やり生きがいなんて探さなくていい。

無理やり生きがいを捏造する。

死ぬとき、最後まで機能しているのは、聴覚である。

時間をX軸、空間をY軸としたこの世界の中で、自分がどの座標に存在しているのか。

自分の身体の形をした暗闇を、記憶を掘り出すことで満たし続ける。

何でも順位付けて誰が勝ったとか負けたとか、やらなくていい。

違いがあると、争いが生まれる。宗教の違い、貧富の差、人種、文化、性別、今世の中で起きている対立は、突き詰めれば、人と人との違いが原因になっていることが多い。

体の中の心臓の位置をぐっと整えた。

違いは、あらゆる対立の原因となる。だから、違いは、隠さなければならない。

違いを隠すのではなく、違うことを認め合う。理解し合うことはできなくても、そういうものだから、と片付けない。

自分が自分でなくなるような、未知の自分が、既知の自分を塗り替えようとしているような、血が沸騰するような。

血という、生まれながら決まっているもの、自分が選べないものが原因で何かが決定付けられるなんて、あってはならない。

自分から対立を求める女の子はたくさんいる。無理やりターゲットを見つけて、反発する理由をどうにか生み出して、対立構造作って、ハブる。そうでもしないと、生きがいがなくなってしまう、本人は無自覚であるけど。そういったものがないと、自分がどこにいるか自分で確認できない。

あらゆる対立の種が排除され、ナンバーワンよりオンリーワン、それぞれの個性を大切にしようという風潮が強くなり、誰とも競わなくていい、比べなくていい、対立なんてしなくていい世界が訪れるものと信じていた。
だけど人間は、自分の物差しだけで自分自身を確認できるほど強くない。そもそも物差しだってそれ自体だけでこの世に存在することはできない。ナンバーワンよりオンリーワンは素晴らしい考え方だけれど、それはつまり、これまでは見知らぬ誰かが行ってくれた順位付けを、自分自身で行うということでもある。見知らぬ誰かに「お前は劣っている」と決めつけられる苦痛の代わりに、自ら自分自身に「あの人より劣っている」と言い聞かせる哀しみが続くという意味でもある。

やるべきこと、やりたいと思うことが何一つない自分だとしたら、内なるエネルギーを何に注いでいただろうか。

自分も、立ち向かう何かに対して命を注ぐことで、死ぬまでの時間に何かしらの意味を付与していないと不安でたまらない。

年齢、性別、国籍、思想、そう名付けることもできないような細かなこと、自分とは何かが必ず違う誰かと共にこの世界で生き続けるしかない今、その方法を考え続けることは、考え続けながら生きることは、言葉にできるような生きがいなんて目じゃなくなる。
何も特別なことはしなくていい。自分だけにできることも、世の中への多大な影響力もいらない。自分とは必ず違う誰かとここで暮らし、対立しては対話する。その繰り返しの先には、対立を生む原因だった「 違い 」こそが、実は大きなつながりをもたらすのだという実感が待っているはずだ。

生きがいを感じられない、人生の意味も価値もわからない、誰もいない道をたった独りで歩いている。そう感じても、この世界で生きている以上、誰もが必ずつながっている。

人は「 生きている 」というだけでは満足できない。あなたはそのままでいい、ありのまま生きているだけでいいと言われても、いつしか目に見えない毒素のようなものが体内に溜まっていく。その毒素は「 自滅 」だ。目に見える形での個人間の競争、対立が奪われていき、自分で自分の意義や価値と向き合い続けた結果、謙虚とも違う、自己否定が積もっていってしまう。その先には、自分なんてこの世界に存在していたって意味がないと思い込む「 自滅 」が待っている。

私にとって社会との「 つながりの糸 」を、保ってくれていたのはきっと小説で、それがなかったら何に「 つながりの糸 」を託していたのだろう。

時代はとんでもない速度で変化した。世の中が便利になるというのは、つまり、効率や有用性、生産性がますます重要な物差しとして機能するということだ。その中で、人間だけが「 ありのままでいい 」という精神状態を保つというのは、実は、相当の思考や胆力が求められる難しい営みである。




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