追求 その4 須賀太一は、その足で、海沿いの道を毘沙門平へと急いだ。毘沙門平の大凡は一角に教わっていた。古来からの道は沢に沿って一本しか無く、当然のようにそこは守りを固めているだろうから、道をたどって近づくのは無理だと断言された。 海から断崖を登るのも、下を警戒している船の数を考えれば、期待は持てなかった。初背山から、岩場を伝うしか方法はないのではという結論に達したのだが、本当にそんな曲芸的な事が出来るか須賀本人も分からなかった。 しかし、毘沙門平には、重ノ木村の神隠
追求 その3 黒瓦、漆喰、柿渋、白黒の築地塀に沿って、細い溝が掘られ、御影石の橋が、門と往来をつないでいる。真砂土の路面が白く光り、往来を行く人々を黒く影にしていた。 影となった往来の人々に紛れ、道場へと歩いている梓草志郎に、影となった別の男が近寄り、 「振り返るな」 背後から、いきなり、命令口調。 「立ち止まるな、そのまま歩き続けろ」 「・・・おまえ・・・」 と、背後から気配が消えた。 梓が背中に手を回すと、袴の腰板に、折畳まれた、半紙一枚が捩じ込まれてい
追求 その2 …闇の彼方に薄ぼんやりとした微かな光。それが消えかかりそうになるたびに、墨黒とした海の深淵から手をのばし光を掴もうともがいた… 須賀はたしかにその目に光を感じていた。 体をもたげようと四肢に力を入れたところ激痛が走り、呻き声が漏れた。 「気付かれたか」 どこからか年配女性の声。天井を見つめる須賀の眼前に影になった顔が現れた。 「よう頑張られたのう」 状況が飲み込めない須賀は、しばらくその顔を見上げて聞いた。 「ここは」 「島じゃよ」年配の女性
追求 夜半の雨が忘れ去られたような払暁。深く垂れこめた海霧に墨がにじむように一角の漕ぐ船が灰褐色に滑って緩々と揺れている水面を滑っている。鶴と筏の上で気を失っていた女を城下まで送り届けた彼は島へ帰ろうとしていたが、折からの雨に足止めを食ったばかりか、雨上がりを待ったものの、霧に思うように船足を上げることも出来ずにいた。それでも長年の感覚で船を操り、霧の向こうに島影が浮かんでくるのは匂いでわかるのである。 一服つけようと櫓を漕ぐ手を休めたところ、不意にドンと船が何かにぶつ
女衒の六と梓草志郎 入舟に茜を刷いて築地まち 紅殻格子に、ぽつり、ぽつりと灯が点る ひとつ路地を入った、椿屋の玄関先で、お抱えの芸妓を送り出している鶴子。その陰に寄り添うように、小銀が控えていた。 吉野に「あの時の鶴が、今の小銀」と切と云われた、あの日から、小銀に対する迷いは消えていた。私が師匠にしてもらった様に、小銀に接すれば良いのだと、与し易く感じていた。小銀もそんな鶴子を慕い、懐いていた。 「それじゃあ、しっかりね」 「お姉さん、いってらっしゃい」小さくお
小銀 鶴子がここまで小銀を大事に連れてきたのも母性なら、「このままでいいのかしら」と思うのも鶴子の母性なのである。 置屋にいる芸妓にしろ、鶴子にしろ、この色街にいる大抵の芸妓は、親に見捨てられたか、親を見捨てたかして、流れ着いたのである。泣きたい時にも、一人で涙を拭い、生きてきたものばかりである。しかし、そういう芸妓も、自分が親になったときに、同じ様な境遇にだけはさせたくないと、そっと涙を拭いてあげようと思っているのである。 鶴子が、筏から助けだされた小銀を膝の上で抱
椿屋 小糠に濡れた薮椿 坪庭には大きすぎる程の枝ぶりで、下に手水鉢が埋もれるように置いてある。 色街を一本裏へ入ったあたりに、鶴子の営む置屋があり、この樹から屋号をもらい、椿屋と称していた。 座敷に座り、三味線の調子をとっているのは鶴子であった。 「ああ、だめだめ」 調子が上手くとれないのか、脇に三味線を置いて、島田に結い上げた簪を意味もなく抜いてはまた差した。 「どうしたものかしらねぇ、ああやって連れてきたのは良いものの」 急に、表が騒がしくなって、ダダダッ
不覚 脇田が開けた板戸の奥から、黒ずくめの男、榎巽が、無言で入ってきた。それを合図に、家の四方の戸が蹴破られ、男が雪崩込んできた。総勢五、六名といったところか。どうやら、この家は端から見張られていたらしい。雨が気配を消したのか、須賀太一は、気配を感じられなかったことを、悔やんでみたが、今となっては、遅い。 「脇田さん、あなたの手引きですか」 須賀は、脇田に投げかけたが、それには答えず、話し始めたのは、横に立っている榎だった。 「見事なご推察、すべて聞かせて頂いた。何
雉も鳴かずば 山稜から湧き出た陽の光が、鴟尾を輝かせ始めた。 棟のセキレイが尾を跳ねて、石段をぽんぽんと降りていく園を見ていた。 長閑な風景とはまったく裏腹な園は辻を抜けてお春の元へと駆けていた。 一方、未明の出来事は露程も知らず、園と入れ違いのように、海沿いの街道を重ノ木村へと歩く脇田頼人と須賀太一がいた。 一刻ほど歩くと重ノ木村についた。入江の奥にある小さな村で、山側からの道をたどると、切通しを抜けた先に寄り固まるように、十軒程の集落があった。 泥鰌髭の様な
漂流 紫紺を映す絖の澪 潮が引くのに合わせて漕ぎ出した、沖に浮かぶ小島へ向かう一艘の船。 船の引く波が河口に吸い込まれる先、連なる稜線から乳白の朝が明けようとしていた。 舵取りの前に座った旅姿の女性が、刺し子を纏い潮を見ながら舵を操る男に話しかけた。 「角さん、いつも悪ねぇ。あたし一人しか客が居ないのに」 「それは言わないでください、姐さん」 角と呼ばれたのはこの船の船頭で名は一角。姐さんと呼ばれたのは鶴子という三十路を幾つか回った年増。かつて夕鶴という名で芸
のけもの 扉を開いた八呂は俄には信じられなかった。この寺に来て十何年もこのような部屋がここにある事を微塵も知らなかった。蝋燭の炎が妖しく揺れる部屋へ入り込んだ。 視線の先に蘇芳まみれの身体が横たわっているのを認め、忍足の八呂がぎょっとして竦み上がった。 「死んでるのか」 こわごわと近寄り、顔を覆っていた紗をずらした。 「千江!」 眼を閉じて蒼白な千江。 生きる糧にしていた千江が変わり果てた姿で横たわっているのである。 「なんてことを・・・千江!」 「・・・う
儀式 焚かれる香と地下の黴臭い匂いが混じり合い漂う部屋の中ほど、台に乗せられ、白の襦袢姿で横たわる一人の女性。燭台が左右一対、紫煙の帷が揺れる炎を散らして鈍く輝いている。向かいの壁際に祭壇が設えてあり厨子がひとつ、観音開きを開け広げて置かれている。中には赤子を抱いた観世音菩薩が鎮座してある。 伴天連の法衣を纏った耶蘇教の司祭であろうか、高さ三尺ほどある十字架の下部を両手で体の前に持ち、ゆっくりと台に乗せられた女性のまわりを回っている。その後ろを同じ法衣で、先端に小さな十字
忍び込み 湯を使い結い上げた髪も下ろしたお春。「ふう」溜め息を大きくついて、寝間でじっと手鏡の中の自分を見ている。いつしか鏡に映った自分の顔が、昼間じっと自分の顔を覗き込んだ須賀太一の顔に変わっていく。そしてまた溜め息ひとつ。 鏡の中の襖が、すぅーと音もなく開いた。ドキッとして振り返ると、 「須賀さん・・・」 「しっ」唇に人差し指を立ててお春がこれ以上声をたてるのを制した。 「やだ」あわてて乱れた襦袢の裾を直し、襟元を掻き合わせた。 そんなお春には構いもしないと
原願寺 太一は走りだしたものの、園の家も知らないし、どちらへ走っていったのか見当もついていない。とりあえず近くの辻へ立ちきょろきょろと村を見渡した。「あそこだ」山肌に埋もれるような石段を三人が登っていくのが見えた。どうにかそこへたどり着き、優に三十段を超えるであろう石段を見上げると、碧々とした竹林の中に隠れるように檜皮葺の三門が構えてあった。左右に見える破れ築地が、移ろいを感じさせた。 「寺か・・」 と、三門に人影が現れ「待て!」怒声がそれを追いかけてきた。 階段を降
福路村へ 黒鉛の針の如き枝から若葉がようやく萌葱の顔をのぞかせ始めた雑木林に切り取られた空へと続くなだらかな坂道を、藤色の着物をまとった若い女性がゆっくりとした足どりで登っている。坂の天辺になると途端、背の低い笹や夾竹桃の尖った葉が風に揺れている先に視界がひらけ、黒緑とうねり連なる海岸線の向こうに果てしなく海が広がり、先程までの切り取られていた空と遠くで溶け合っている。風の音に混じり、波の弾ける抑揚が微かに漏れ聞こえている。 坂を登りきった一人の女性、お春は、そこで足を止
須賀太一 薄墨が滲み刷かれるように、築山や池から光芒が消え入りはじめた庭の奥にある一室 「誰かおらんか」 座敷に一人端座し、閉じた瞼を開きもせずに、郡奉行、佐々木備後が声をあげた。やや間があって襖の向こうに誰かの気配がして、そこに向かって 「戻ってまいったか」 と、声をかけた。 「いいえ、まだ」 「帰ってきたら、すぐに知らせてくれ、夜半でも構わん」 はい、と声を残し、襖の向こうから気配が消えた。 佐々木備後は、瞼をゆっくりと開けると暗く沈んだ天井を見上げる