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鉄紺の朝 #32

お守り その2

 鶴と千江は、次の日、とりあえず八橋道場に、出かけることにした。
 畦道を抜けて、川をわたり、ようやく、渓燕流八橋道場の大きな表札が吊るされた道場が現れた。かなり手前から、掛け声、床を踏む音が響いていたので、迷うことは無かった。
 脇の戸が開け放たれていたのを見た鶴子は、千江に、「ちょっとここで待ってて」と制して、一人、そっとそこに近づいて、中の様子を探り始めた。
 「あんな顔ではなかったはねえ、あれはちょっと若すぎるし」値踏みをするように、一人ひとり、順に顔を追った。
 玄関脇で、鶴子の背中を心配そうに見ていた千江の後ろから
 「何か?」
 どこか不審そうな面持ちの、女性が肩を叩いてきた。
 ビクっと、振り返った千江は、「あっ・・・」咄嗟に言葉が出ず、また、鶴子の背中に向いて「女将さん」と鶴子を呼んだ。
 その声に「どうしたの」少し迷惑そうに振り返ると、千江の横に立つ、もう一人別の女性の視線をひしと感じ、ぴんと背筋が伸びた。が、何事もないといった面持ちで一揖し、千江の横へ戻った。
 「お声をおかけしたんですけど、どなたも出て来られなかったもので」
 芸妓として、座敷で散々揉まれた成果であろうか、鶴子は、しれっと前置きを創って、話を続けた。
 「これを拾いましたもので、お届けに」
 懐から、袱紗に包んだお守り袋を取り出し、女性の前で広げた。
 鶴子の手にある、煤けたお守り袋に目をやった女性は、思い当たる節があるのか、すぐに袋を手に取り、大事そうに、表、裏と確かめて
 「確かに、これはこの道場に通う子供たちの為に私が作ったもの、でも、誰のものかは、ちょっと」
 分からないと首を傾げて、「少しお待ち下さい」とお守り袋を持ち、一人道場へ入って行った。
 ややあって戻って来て「今、稽古をしているものの中には誰もおりませんでした」と、伝え「ここは、この通り、騒がしく・・・向こうでお茶でも、どうぞ、こちらへ」道場脇に建っている、母屋へと二人を案内した。
 鶴子と千江の向かいに、お茶を運んできた先ほどの女性が座り「当道場の師範、八橋蒼吾の妻のお滝です。蒼吾は只今、萩の道場へ行っており、留守にしております。代わりに私が、そのお話をお伺いさせていただきます」と挨拶した。
 「今稽古をしている者の中には、これの持ち主は居りませんでしたが、他の者に尋ねるときの参考に、これはどちらに落ちておりましたか、お聞かせ願えませんか」
 「ええ、勿論」
 鶴子はようやく、ここへ来た理由を話せる機会を、逃すまいと、力んだ。
 「私は築地町で椿屋という、置屋をやっている鶴子ともうします。この子は、故あって、私のところへ居る、千江です。十日ほど前の夕暮れ時、私と千江が家におりますと、女衒の六という鼻つまみ者が来て、突然暴れだしたんです。私を突き飛ばして、この子に襲いかかり、もう少しで大変な事になる既の所で、ある御方が助けに入ってきて、その女衒の六を捻りあげて、御番所へ付き出してくれたんです。私たち二人にとっては大恩人のその御方は、名乗りもせずに出ていかれたきり、お礼をしたくとも、どこの何方か分からないでは、お礼の仕様もありません。そんな折、玄関に落ちていたのが、このお守り袋でした。きっと、私たちを助けてくれた、あの御方のものだと考えて、刺繍してある八橋の文字を頼りに、こちらへお伺いした次第です」
 「それは災難でした、しかし二人共ご無事そうでなによりです・・・築地町といえば、港の近く。その辺りから通っているのは、はて、誰かいたかしら」
 お滝は俯いて、考えを巡らせていた。

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