鉄紺の朝 #43
往還 1
鶴子と千江のいる瀬戸内から、山陰の御城下まで十数里の往還は、幾つかの峠を越える山道続きである。参勤の要路でもあるため、諸処石畳が敷かれ、行き交う人も少なくはない。五重の尖塔を垣間見て、一の坂を上り、峠を越えるあたり、碧碧とした雑木林の間から、遠く峰続きになった山稜が春に霞み、淡く溶けているのが望める。
道はやがて山峡へ続き、沢の流れに沿って延びている。僅かばかりな岩場の上に小ぢんまりと茶屋があった。裏手には淵があり、覆いかぶさった樹枝から、冠を戴いた山翡翠が獲物に狙いをつけ、一躍、水しぶきをあげた。
「お代はここに置きます」
手甲脚絆姿の鶴子と千江が、縁台を立った。
「ちょっと待って」
茶屋の女主人が、呼び止め、
「ここから先は暫く山が深くって、昼間でも暗いし、春先は熊が出る話を聞くから、これを持って行きなさい」
奥から手に熊避けの鈴を持って出てきてくれた。
懇ろに礼を述べ、往還へ出た。
茶屋の並びにある籠場から、それを見ていた男の目が鈍く光を宿した。
道はいよいよ、谷の底を這うように下り、八つ刻の陽も遮られ、人通りも絶え絶えになってきた。
チリリン、チリリン
「熊が出てくるなんて、ほんとうかしら」
チリリン、チリリン
「熊よけの鈴をもらったじゃない、だから大丈夫よ」
そうは言ったものの、鶴子も女二人では心許ない。この道は幾度となく通っているというのに、お茶屋の女主人の一言で、こうも不安になるものなのだろうか。今までだって、一度も熊になんか出くわしていないじゃない、そう自分に言い聞かせた。
ガサガサ、風が葉を擦れる音にも、はっとして立ち止まってしまう。
今降りてきた道から、えっはっと掛け声をかけて飛ばす駕籠かきのすがたが目に入った鶴子は、それを往なそうと千江の袖を引いて脇へ避けた。
と、脇を通りすぎようとした駕籠かきが、突然二人の横に止まり、空駕籠を降ろした。前を担いでいた男は鶴子をあっという間に谷になった藪に突落し、立ち竦む千江に睨みを効かせたままにやりと笑った。後ろの男は呆然としている千江を羽交い締めると駕籠に押しこみ、そのまま担いで山を降りて行った。
男が、道からは少し谷になった、藪の中に倒れている鶴子を見つけたのは、それから僅かの後である。藪をかき分け助け起こして、水を口に含ませると、咽せながらようやく、気がついた。
「千江ちゃん!」
あたりを見渡しながら、呼びかけたが、その姿がどこにもないと分かると、「いやぁ」と涙を流し、手で顔を覆い、藪の中に再び転びこんだ。
「何か力になれませんか」
男は、藪の中の鶴子に手を差し伸べた。
覆った手を滑らすようにずらし、男の顔を見た鶴子に、見覚えのある顔が映った。
「あなたさまは」
「・・・」
「梓さま」
梓は、福路村で榎に投げつけられた小柄の傷も癒え、急ぎ、佐波の道場へと帰って行く途中であった。
「何故、私の名を?」
訝しがる梓の差し出した手にすがって立ち上がった鶴子は、
「覚えていらっしゃらないんですね」と自らの顔も相手によくわかるように、正面から見据えた。
「・・・」
「以前も千江ともども、一度助けていただいたことが、ああ、そうだ、千江、千江ちゃんが、駕籠かきに」
「駕籠かきにその、千江さんが攫われたんですね」
「そうなんです」
梓は、鶴子を残し、往還を跳ぶように走り始めた。
― 先程すれ違った駕籠に違いない
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