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鉄紺の朝 #44

往還 2

 谷を抜けると、森にポッカリと口を開けたような山里が開けて、小さな宿場がある手前、梓の目に一挺の駕籠が映った。筵の垂れが下ろされ誰が乗っているのかは分からなかった。
 「待たれい」
 梓が背後に近づき、呼び止めたが、気づかぬふりで、そのまま、えっほっと担いでいる。
 さらに、梓が近付くと、
 チリリン、チリリン
 駕籠から熊避けの鈴の音
 徐に駕籠の横に跳び、筵を切り落とした。
 「なにしやがんでい」
 流れ者の雲助か、後ろを担いでいる男が威勢のいい声をあげ、駕籠を止めた。前を担いでいる駕籠かきは、後ろの男が突然止まったので、よろけ、弾みで、駕籠を落とした。
 垂れの切り落とされた駕籠には、千江が眠る様に座っているのが見てとれ、駕籠が落とされたことに、半眼になり苦悶したのが分かった。
 梓は、駕籠の横に抜刀して、後ろを担いでいた雲助の眉間に剣先を合わせた。
 途端、男は「俺は、この男に金で雇われだだけだ。関係無いんだ」と、踵を返し、脱兎の如く逃げ出した。
 前を担いでいた男は、八呂であった。望西和尚と定兼吉次に邪魔をされ、行方をくらましていた八呂は、駕籠かきに身を変えていた。それが、今日、目の前に千江が現れたのである。またしても、千江を奪いたいという衝動が押えきれなくなり、仲間の駕籠かきを目先の金で釣り、駕籠に押し込んだのであった。
 「ち、またしても邪魔者か、千江、さあ、俺と行こう、逃げよう」
 八呂は梓の背後に隠れるように座っている、千江に呼びかけた。
 「な、俺とどこかへ逃げよう」
 千江は、意識が戻り、目を開いて、八呂を見ていた。
 「誰?あなたは、誰ですか」
 勿論、千江の記憶喪失のことは八呂は知らない。
 「何言っているんだよ、俺だよ、八呂だよ。ずっと一緒に暮らしてきた八呂だよ」
 千江は駕籠を抜け、梓の脇に寄り添い立った。
 「知りません」冷たく断言した。
 八呂は狂ったように、梓の剣先も構いもせず、
 「戯言はよせ」千江に近づこうとした。その時
 「往還で何事かっ!殿の御前を血で汚すようなことがあっては、何とする」
 宿場町の変事に駕籠のまわりには、人だかりが出来ていた、その中から、代官が三人の前に進み出た。
 梓は、その言葉に刀を鞘に収めた。
 三人は宿場にある代官所へと連れ行かれた。
 連行される三人の後を、ようやくそこへ辿り着いた鶴子が追い、
 「千江はその駕籠かきに連れ去られただけで、こちらのお方にお助けいただいたんです。だから、お願いです、その二人は連れていかないでください!」声を限りに叫んだが、とうとう三人はそろって、代官所の門へ引き入れられた。閉じられた門の前で、鶴子は「お願いです、どうか千江を返してください。千江は関係ありません」と鼻水と涙の区別もつかないほど、泣き叫び、やがて、門にもたれ崩れ落ちるように、地面に座り込んだ。
 半刻程後、ひと通り取調べも終わったとみえ、千江は潜門から出てきた。千江を連れて出た役人が、鶴子に、「お待たせして申し訳なかった」と詫びた。
 鶴子は、無事な千江を抱きしめた。千江はその腕の中で
 「女将さんの声、中でもよく聞こえました。私は女将さんに出会えて、本当に良かった」
 と囁き、ありがとう、と付け加えた。
 鶴子は先程で枯れ果てたと思われた涙を、もう一度湧き溢れさせ、さらに強く抱いた。
 気の済むまでそうして、ようやく、落ち着きを取り戻した鶴子は、「梓さんは、まだかしら」と梓を心を配った。
 「私も、あのお方は私を助けてくれただけですので、何の落ち度もありません。とお役人さんに伝えたんですけど、往来で刀を抜いたのは、咎められるかもしれない、と言っておられました」
 「そうかい、刀を抜いただけで、誰も切ってもいないのにね」
 少しの間そうやって待っていた二人も、日が暮れる前にはと、近くの宿へ身を休めた。
 「また、あの方に、助けていただいたのに、やはり、お礼を言えなかったわね」
 宿から往来を見下ろしていた、鶴子が千江を振り向いた。
 梓も、実のところ、代官が渓燕流の師範八橋蒼辰をよく知っており、梓の素性に怪しいところも無いので、お咎めは無かった。ただ、鶴子と千江が手ぐすねを引いて待っているところへ、どうもと言って、飛び込むのは気が引け、裏門から二人に隠れるように出させてもらっていたのだった。
 八呂は、充分に取り調べを受け、牢屋へと放り込まれた。今度の牢は、寺と違って、どこにも動かせる余地は無かった

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