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鉄紺の朝 #33

お守り その3

「十日ほど前の夕刻とおっしゃいましたか」
 お滝が、顔をあげた。
 「はい」鶴子が頷いた。
 「もしや、梓さんでは・・・丁度十日前、梓さんという、剣術修行で江戸に行かれていた方が、戻って来られました。ここに挨拶に来られたとき、船で港へ着いたと言われておりましたから、恐らく彼かしら」
 「それに」とお滝が言葉をつないで「このお守り袋、まだ私が若い頃作ったものだと思うんです。出来がまだまだ拙いでしょ、梓さんに、渡したの頃は私もまだ若かったものですから」恐らくそうだと、念を押した。
 「きっとそうですね・・・その、梓さんはどちらへ」
 鶴子が待ち構えたように聞いた。
 「せっかく来ていただいたのに、折悪しく、萩の御城下へ行かれております」
 「御城下なら近いわね」
 鶴子は千江に話を向けた。
 「近い?御城下へは、山を越えて、十里以上ありますよ」
 お滝が横槍をいれた。
 「いえいえ、ここからの事ではないんです。千江の育った家が、御城下近くの、山陰の福路村というところで、近いうちにそこへご挨拶に伺おうと思っていたものですから。その福路村からなら、御城下は近いねと話したんです」
 「ああ、そうでしたか」お滝は納得した。
 世間話などをしていたお滝が、ひとつ伺ってもいいですかと、千江の方へにじり寄った。
 「千江さんは見たところまだ若いし、芸子さんでもなさそうだし、どうして、鶴子さんのところへ居らっしゃるの?家を出て来たの?余計なお節介かもしれないけど、娘を持つ母親としてはどうしても気になって・・・」
 立ち入ったことをと、すまなさそうな顔で千江を見た。
 「いいんですよ、奥様。まだ右も左もわからないような、年端もいかない乙女が色街の中にいるのは、傍から見ればおかしなこと。奥様が訝しがられるのも、無理はありません」
 千江への問いかけを、鶴子が引き取った。
 「この子は、私と会った時、かなりな仕打ちを受けたのか、昔の事をまったく思い出せない状態で、筏の上に倒れて、海を漂っていたんです。自分の名前も言えない、この子の面倒を見ようと、築地町に連れて帰り、半月ばかり暮らしておりました。」
 千江を見遣った鶴子の目に、千江自身が語り始めるのが映った。
 「女将さんに拾われなければ、今ごろは私は藻屑になっていたんです。女将さんは、私を助けるために、あの家に置いてくれているんです」
 強い口調の千江に、面食らったお滝は
 「御免なさいね、そんな理由があったなんて知らなかったものだから、変なことを聞いてしまって」素直に謝った。
 そんな千江に面食らったのは、お滝一人ではなかった。鶴子は自分のことを庇ってくれる千江の言葉が、涙に変わり、目から流れでるのを必死に堪えた。
 お滝が、今度は千江の記憶が戻らなくなった事を心配してきた。
 「まだ、昔のことは?」
 「少しずつ」
 千江は先ほどとは、打って変わったように、小さい声で答えた。
 鶴子は、袂で目元をそっと拭い、言足した。
 「こちらの梓さんとおっしゃる方にに助けられた、あの日、その一件が引き金になって、自分の名前が千江で、福路村のお寺で育ったとか、いろいろと思い出して、私に教えてくれ始めました」
 「それで、千江さんを届けてあげる為に、近々ご挨拶にと言われていたんですね」
 得心が行ったお滝だったが、
 「いいえ、千江はお寺には戻りません。私のところに養子に来てくれる事になったんです。」
 「養子に?」
 この話を続けても平気かと、目配せをした鶴子に、千江は頷いた。
 「この子の育ったお寺というのは、この子をはじめ他にも何人か、孤児のいるところなんです。御住職夫妻が親代わりで、育てていらして、ある程度の年齢になれば、皆、そこから見習い奉公に出たり、嫁いだり、養子になったりして、旅立っていくのが、決まりごとだったんでしょ?」
 と、千江に振った。
 「はい」とだけ答えた。
 「それなら、私のところに来てくれないかしら、とお願いしたら、そうするって言ってくれて」
 いかにも嬉しそうな、ふわふわとした声だった。
 そんな声とは相容れないような声のお滝が、三度千江に尋ねた。
 「千江さんもそうなの」
 「はい・・・湊さんというお侍さんに、お寺へ連れてこられたと聞かされました。そのお侍さんが私の父親なのかもと思って生きてきましたが、会えないと思うと、余計に辛くなるだけなので、今はもう、父親だとは思っていません」
 「まあ、そうだったの・・・ところで千江さんは、今お幾つ?」
 「十六です」
 「佐和と同じ・・・私にも千江さんと同い年の娘がありました、それがある日、父親と共に攫われてしまって、まだ佐和がひとつの頃でした・・・今ごろは千江さんの様に大きくなっていたのね」
 しみじみと千江を見るお滝の優しさが、執拗に千江の事を尋ねさせたんだろうと、鶴子は痛感した。

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