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鉄紺の朝 #42

いざ決戦 7

 「ドッボン!」
 その音に海でずぶ濡れになって争っていた二人も、動きを止めた。
 「一角さんじゃないか」
 組み合っていた相手が自分の名前を知っていた。
 「・・・弥平さん」
 一角も相手が自分のよく知る弥平だと察した。
 「先生」
 走り来た須賀太一が呼んだ。
 八橋蒼吾は、軽く手を挙げて応えた。
 「もう一人は?」
 手を横に出して、「あっちだ」と指さした。
 「一角さん」びしょ濡れの一角を見つけ、走り寄った須賀が、もう一人のびしょ濡れの男に向かい、刀に手をかけようとしたのを、一角が「やめて下さい」と止めた。
 「この方は、悪い方ではない。弥平さんといって、私の恩人でもある御方です。昔、私が加賀見屋という廻船問屋に居た頃、弥平さんは番頭をされていて、いろいろと世話になったんです」
 須賀も、それならばと、押し止めた。
 
 過日、弥平を案内にして、毘沙門平へと、佐々木備後をはじめ、藩の改方が入った。弥平はその後、取調べを受けたが、皆が舌を巻くほどの弁舌と、その思慮深さに感じ入った佐々木備後の計らいで、腰縄も解かれ同道しているのである。
 一角の操る舟で断崖の間に入ると、小さな浜があり、そこに細い道が延びていた。奥に、鎖で釣られた網籠があり、上の滑車に繋がっていた。
 「あれで、荷物を引き上げる他、人も乗れます」
 弥平の言ったとおり、人が一人、駕籠に乗って、昇り始めた。驚く佐々木などもそれに乗り、毘沙門平へと上がった。
 毘沙門平は、広く開けた土地で、人が甲斐甲斐しく働いていた。
 一角はその中に妹を見つけ、名前を呼ぶとそちらへと駆け出し、久方ぶりの邂逅においおいと泣いていた。
 「もう、私達が居なくとも自立してやっているんです」
 弥平が人々に目をやりながらつぶやいた。
 「あの村の一名も余さずか」
 佐々木備後が、与平に聞いた。
 「はい」
 重ノ木村の住民全員がそこに暮らしていた。
 そこへ、一人の農民が、佐々木備後の前に進み出た。
 「聞いてください。わしら皆重ノ木村に居ったんだが、この弥平さんにここへ連れてこられました。初めは、帰りたいと泣いておった者もおったが、今では皆、ここがええ、ここでずっと暮らしていきたいと云うております。あそこに帰ったところで、食うものにも困るだけ、だけれどここは米もあるし、病気になれば薬餌だってもらえる。弥平さんのお陰だと、皆口を揃えて云うておるんです」
 「弥平、人徳だな」
 「ありがたいお言葉です」
 「お前に、この者たちを預ける事にしよう。今まで通り、面倒を見てやれ」
 弥平は耳を疑った、藩に隠れ、ケシを栽培し、御法度の阿片を製造しようとしていたのにも関わらず、それへの咎めがないばかりか、今まで通りというのである。
 「ただ、ケシはいかんぞ。阿片は御法度じゃ。他のものを作付けしてやれ」
 「しかし、佐々木様、藩の財政も苦しい時だと、伺っております。あれは儲かりますぞ」
 佐々木備後は、意味ありげに弥平を見た。
 
 脇田の書き遺した日記により、阿片密造に関わったとして、家老椋野は、職を追われ、川田の後見で、椋野に賄賂を送っていた加賀見屋は、藩から取引を止められ、船問屋の株を没収させられた。その他、小者を含めると十名近くの譴責者を出し、重ノ木村から始まった一連の騒動は一応の解決をみた。その中で、弥平の放免だけは唯一の例外であった。
 毘沙門平はその後、藩内でも秘密にされ、実際そこで何が造られていたか、不明である。

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