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気恥ずかしい、めんどくさい、『あいさつ』や『礼儀作法』  でもね、、、

礼儀やあいさつって必要?


ねぇ、礼儀って必要だと思う?
なんか、めんどくさくない?
形式ばって、わざとらしさ満載!

それに、
大声であいさつなんてなんか気恥ずかしいし、
できればやりたくないよね?

なんて思う人いませんか?

かく言う僕も、あいさつは苦手。
人見知りや恥ずかしがり家にとって、
なんだか大げさな礼儀って、ハードルが高かったりします。


一方、
世間や会社などの説教臭く形ばっかりの礼儀なんて

“苦痛でしかない”

っていう方も多いと思います。


でも、
実は、その気恥ずかしさやめんどくささが、
逆に恥ずかしさや苦痛をやわらげているのかもしれませんよ。


どういうことでしょうか?



礼儀やあいさつは実は便利


僕は、礼儀作法やあいさつは

コミュニケーションの『ショートカット』

だと思うんです。

ショートカットです。


なぜなら、
相手の人って、いろんな背景や考えや気分をもっています。
そんな人と親密になったり、信頼や安心できる関係を築くには、たくさんの時間とコミュニケーションが必要だと思うのです。

でも、
お互いに礼儀を交わせば、
そんな努力や時間を使わなくても、ある程度の関係性を築けます。

めちゃくちゃ便利だと思いませんか?


こんな風に、
礼儀やあいさつはある意味

煩わしいコミュニケーションや多くの時間を短縮できる便利な道具

だと思うんです。


それに、
しっかりあいさつすれば、相手へ敬意が伝わります。
逆に、
あいさつなしに敬意を表すのは、とても大変です。

また、

いちいち、

私は“こういう理由”で、“こうこう思って”いて、あなたに“こう感じている”ことを伝いたいし、“こう思って欲しい”

なんて言わなくても

ありがとう

ごめんなさい

と目を見て言えば気持ちも伝えられます。

とても役立つ言葉や態度です。


礼儀作法もそう、
たとえ形式的でも、ずいぶんと関係性を保つための近道になっているのです。



一緒に生きていくために


ただ、コミュニケーションの最終目的を忘れてはダメですね。
コミュニケーションの最終目的は、

「一緒にこの社会を生きていこう」

です。


コミュニケーションは人と一緒にこの社会を生きていくための手段。
そのコミュニケーションのための手段として礼儀作法があるんだと思います。


でもよくあることで、
もともと手段だったはずのものが、目的になってしまう。

いつしか、礼儀作法を守ることが目的になっていませんか?


目的って果たされたら、それで終わりになってしまうと思うんです。
だから、礼儀が目的化してしまうと、本来のコミュニケーションにたどり着けない。

最終目的の
「一緒に社会を生きていこう」までなんて到底ムリになってしまうんです。


だから本来の目的、
「一緒に社会を生きていこう」を決して忘れてはいけないと思います。

それがあってこそのコミュニケーションであり、
それがあってこそ、礼儀やあいさつがショートカットとして便利に役立つのです。

礼儀はあくまで手段です。



しっかりあいさつしてみよう


いろいろ書いてきましたが、

礼儀作法はめんどくさい?
大きな声であいさつは気恥ずかしい?

たしかにそうですね。
僕もそうですし、みんなもそうかもしれません。

けれど、
もっと大変な
もっと時間もかかり、
もっとめんどくさかったり、
もっと恥ずかしい
そんなコミュニケーションを気軽にする

礼儀やあいさつは便利なショートカットだ

と思えば、
ずいぶんとハードルがさがったり、気軽にできたりするのではないでしょうか?



お読みいただきありがとうございました。

コミュニケーションが苦手な人ほど、あいさつや礼儀をしっかりしたほうがいいかもしれません。

人見知りだと、最初はちょっと気が重いかもしれませんが、苦手な深いコミュニケーションの負担を軽くするショートカットだと思えば、苦手なコミュニケーションより面倒でもないし、もっと気楽にあいさつもできます。

深いコミュニケーションへのステップとしても役立ちます。


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こっから先は僕なりの考察で本題じゃないので読まなくてもいいです ^^)

長ったらしく面倒なので、、、

広く考えたらプレゼントやお土産なんかもそう、べつに相手はほしがっているから渡すのが目的ではなく、いつもの感謝や仲間意識や好意が言葉を並べ立てなくても、一発で伝わる。

「なんかそういった形式ばったものは面倒だし」と思うかもしれませんね。

けど、形式をしないってことは、
ショートカットせず、コミュニケーションをしっかりしないといけないと思うんです。
だけど忙しい中、いちいちみんなに会って、言葉を交わしてられない。

じゃあ、礼儀なんてしないというのは、コミュニケーションを放棄して、
「あんたなんかと一緒に生きていかないよ」
というメッセージを発するか、

形式的な礼儀はしないけど、しっかり向き合って、じっくりお互いを信頼できるように会話などをしていくしかないんですね。

個人的には、しっかり信頼関係が結ばれていれば、礼儀は多少おろそかにしてもいいと思っています。

よく年下が年上の人にため口で話しているのを見たりもしますが、信頼関係があればそれもいいと思います。
逆に、信頼関係がなければ、年上が年下に丁寧に礼儀をつくしてもいい。

礼儀には相手に敬意を表す効果もありますからね。


だから人と人とのコミュニケーションのやり方はいろいろあっていいけど、
最終目的だけはしっかり意識したほうがいいです。
「この社会を一緒に生きていく」

ところで、
日本人は礼儀正しいといいますが、外国人はショートカットを使っていないのでしょうか?

日本人は“安心好き”だと僕は考えています。
礼儀を使い合える人同士だと“安心”できます。

けど、礼儀を重視するということはショートカットに頼っているんです。

それに比べ、外国人はなにかあったら会話や議論や自己主張をしっかりする。
つまり、ショートカットに頼らずコミュニケーションをしているんだと思います。

ショートカットに頼ると“安心”はできるけど、自分の細かな意見や考えが伝わらない。
自分の意見を大切にするなら、ショートカットせず、しっかり伝えたいですよね。

それに、
外国人は相手と“安心関係”はないけど、しっかりと意見を言いあったり議論に応じてくれるという“信頼関係”はあるんだと思います。

「一緒にこの社会を生きていく」ためにしっかり深いコミュニケーションをしあえるという”信頼関係”です。
だから、議論や会話が前提なのでショートカットつまり礼儀は少なくていい。

いっぽう、
日本人は、相手が本音や自分の意見をしっかり言ってくれたり、議論に応じてくれたりしてくれるという“信頼”はない。
だから、一緒に生きていくために、お互い礼儀というショートカットを使いあって“安心”しあっているんだと思うのです。

でもこれからは、そうはいかないですよね。

世代によって、昔のような同感覚で生きてはいないです。
価値観も多様性の時代だからバラバラ。


ショートカットだけではもう十分じゃないと思うんです。
だから“安心”できる世の中ではなくなったのかもしれません。

でも一緒に生きていかないといけないので、
相手を“信頼”して、もっと会話や議論が必要になると思います。

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