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日本語が下手な両親が恥ずかしかった



祖父が残留孤児でした。


満州事変とかその辺りの出来事だと思います。
日本人として満州で暮らしていた
まだ幼かった祖父はソ連軍の侵攻などから
逃げ回る生活の中で
家族と離れ離れになり、
中国の家庭に預けられました。



幼い頃から成人し、
結婚して子どもを育てるまで、
ずっと中国で暮らしました。
日本語ももうわからなくなっていました。

祖父は運がいいことに預かってくれた家庭が
優しかったので仲良く暮らせましたが、
運が悪いと粗悪な環境でギリギリ生き延びる。
みたいな残留孤児もたくさんいたようです。

戦争中ですから、どこも余裕はないですよね、、
厳しい世界です。



幼い頃に家族と離れ離れになったので、
親の顔も兄弟の存在も
自分の誕生日もわからないそうです。
日本で探しても見つかりませんでした。

毎年祖父の誕生日として祝っていたのは
中国の家庭に引き取られた日
だったと思います。
それか日本に帰ってきた日。


「残留孤児を救済する。的な制度」を利用して
日本に帰ってくることができたのです。
当時は中国よりも圧倒的に
日本の給料の方が高かったです。
暮らしもいいし、
出稼ぎのような感覚で
言葉も文化も違う日本に
戻ってきたのだと思います。

救済措置があるので、
いろんな手当も出ますしね。


戦争という国と国の争いの中で
生まれた悲劇ですから、
国に救済してもらうのは
当たり前のことだと思います。


そして私はその息子の子ども。
私の父は中国生まれの中国育ち。
母もそうです。

私は日本生まれの日本育ち。


もうなんかややこしくなってきますね。


祖父母が日本に帰るというので
その息子たちも日本についてきました。
日本の方が暮らしがいいのです。
そして、末っ子が両親の面倒を見る
という習わしが中国には根強いそうで、
私の父は末っ子でした。


そして私の母も夫についていき、
中国に全ての家族を残し、
1人で、私の父と共に日本にやってきたのです。


そこで、言葉がわからない中
働いて、妊娠し、出産し、
娘を大きく育て上げました。
女って強い。
うちの母すげえ。
リスペクト。
異国の地で人生初の出産を迎えるなんて、、
しかも帝王切開、、
実母は中国で、
夫はお金を稼ぐためにギリギリまで働き、
言葉も分からなくて1人で検診に向かう日々。

偉すぎるし、
よく乗り越えたな、、、。


そして娘の私は転勤族の嫁なので、
母によく、話を聞いていただいております。



そして大学にもいかせてくれました。
私が大学に合格した時は
両親共に泣いて喜んでくれました。
父は嬉しすぎて羽目を外して
酔い潰れて吐いてました。笑

「うちの娘が大学生だぞ!親は2人共馬鹿だけど、娘だけはしっかりと教育を受けさせるんだ!」

私は、
貧しくて学校に行けなかった両親の
希望の星だったのです。


両親には尊敬と感謝しかないです。
立派に育て上げてくれました。



しかしこう思えるようになったのは、
大学生くらいかな?

小学生の頃はこの両親のことが
コンプレックスでした。

(この文章を自分で書いてるのに、複雑な気持ちで泣けてくる)

授業参観
懇談会
三者面談
運動会

など、小学校は保護者が参加するものが
いろいろありますよね。

そこで、カタコトの日本語を話す母が
すごく引け目に感じていたのです。
「なんでうちのママは日本語下手なの!」
「何で日本に来たの、中国にいればよかったのに!」
「日本語上手なママがよかった」


当時、本気でそう思ってました。


日本語がへたっぴなので、
携帯の契約とか、外食の注文とか
ぜーんぶ、
「じじ、お願い」

小学生の私に託されていました。
携帯会社の営業マンも、「おや?」とした様子で
小学生の私にプランの説明をします。


私はまだ子どもなのに、
なんでこんなことしなきゃいけないの。
普通のママのパパは
こういうこと全部やるのに!
なんでできないの、

恥ずかしい。



こんな風に思っていました。
幼いからこその
まっすぐな思いですよね。



「なんか日本語変?」

という周りの視線も
痛いほど感じ取ってしまって、
それも嫌で嫌で。。


そんな小中学校でした。


大人になれば
こういう境遇だったことで
学べたことがたくさんある!
と胸を張って言えますが、
気づくまでだいぶ時間がかかりました。


差別的な視線

異文化の肩身の狭さ

ど田舎での暮らし
(帰省で中国の祖父母の家に泊まることもありました)
水道がない生活
ぼっとんトイレ、お風呂もない
全部井戸水で
しゅぽしゅぽ汲み上げてました。


アスファルトのない舗装されていない道

豚や鶏を捌いて食べるご飯

貧しい思いをしたからこそ
より一層一生懸命働く両親の姿
(小さい頃お金がなくて
毎日とうもろこしを食べてた時期があって
とうもろこしは嫌いになったそう。父エピ)


全てが今に繋がっています。


いろんな人生がありますが、
私はこの境遇で良かったと大人になって思えます。


悲しい経験
悔しい経験
辛い経験をした人は

その分、人に寄り添える力が
育まれると思います。

私の両親がそういう人です。
過去の経験から
他の人の気持ちを汲んだり想像したりします。
人の心に本当に寄り添える2人です。


そして、忘れたい過去があっても
過ぎてしまえば、思い出になって
消化できる日が来るんだな、ということも
自分の今までの人生をもって
体験することができました。


何でもかんでも
消化できるということではないかもしれませんが
消化できる可能性は大いにあるということです。



私の大きすぎる夢は

「世界平和」

生きてる間に戦争なくなってほしいな。
生まれた国や土地が違うというだけで
死んでしまうなんて。
人間にはそんな平和なことできないのかな。


最近よく、
だいすきな両親もいつかは死んでしまう。
と考えるようになりました。
歳ですね.
ふと涙が出てきます。


旦那もいるし、旦那にも愛されてるけど、
やはり両親の無償の愛っぷりは
唯一無二だなと思います。
幸せな血のつながりは尊いな、と
大人になって本当の意味で理解できた気がします。

だからその血を残したい。
血の繋がりを途切れさせたくない。
子孫を残したい。
子ども産みたい。


今このフェーズです。


急にすごい結末。

と自分でも思いましたが、
なんとも人間的な
なんとも動物的な
大人に成長したのだと思います。


祖父から繋がったこの命。
大切に生きます。

そして、次世代にも続けていきたい。
子孫繁栄したい!


と意気込むも、不妊治療で
なかなかそう簡単にはうまくはいかない、
そんな27歳でした。

読んでいただきありがとうございました。



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