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「初めての手術、緊張した」

 初めて病院に入院したときのことである。
 
 わたしは、病気がちであったのだが、運よくこれといって大きな病院へ入院することなく済んでいた。
 
 それが、アルコール依存症による、アルコールの飲み過ぎで、肝臓がほんとんどと言っていいほど働かなくなった。
 
 緊急入院であったので、昔、都立病院と呼ばれるところへ運ばれた。
 血液検査、尿検査、MRI、CT、エコーと検査は山盛りだった。
 肝不全に陥ったわたしは、意外と元気であり、自意識は明確で、きちんと話すことができた。
 
 50歳を過ぎたころの話である。
 
 赤血球が少ないとのことで、輸血が始まった。
 輸血が終わると朝方の2時過ぎになっている。輸血の次は点滴である。
 次の日、朝起きると担当医が挨拶に来た。
 40歳前後の医師である。消化器内科が専門と言っていた。
 消化器の中でも肝臓は特に難しい。
 心臓と同じく中心的な役割をし、数多くの酵素を出すからである。
 
 診察室へ移り、診断を受けた。
 今の状態は、肝臓移植を受けてもおかしくないと言われた。
 余命2年というところだね、と淡々と言われた。
 
 突然言われるので、実感がなく驚きはしなかった。呆然としていた。
 次に内視鏡手術の話しだ、
 
 肝臓の血液と胃が癒着し、そこから本来は肝臓の栄養分となる血液がいに流れ出してしまっている、そこの部分の手術と、脾臓が肥大化し、秘蔵の血液が胃に行くようになっている、そこの部分の数術が必要だと言われた。
 
 そこの手術が成功し、栄養分をもった血液が、肝臓に回れば余命4年だと言われた。
 わたしに取っては、わたしは短命で死亡することになるという考えでいっぱいで、2年も4年も対して変わりないように思えた。
 
 妻に、移植するのにおまえの肝臓を半分もらえないか、というと、妻は、嫌よ、痛いでしょう、わたし体が小柄だし、体力がないのよ、と断られた。
 
 日本は、欧米と違って臓器移植が遅れている。何たることだ、と思った。
 
 担当医が、診断書を書き、説明を受けました、という欄に、署名した。
 体が落ち着くまで入院してください、手術もその間に致しますから、と言われた。
 
 ちなみに、どういう手術か聞いた。鼠径部(性器と太ももの付け根の間)から、カメラとワイヤーを入れ、血管を結束(しばる)する簡単な手術ですと言われた。さらに、質問をした。性器をみられるのですか?と聞くと、手術に参加している女性、男性から全員から見られます、ですから、性器の毛を全部そり落とします。と言われた。
 
 死ぬ前の体なのにそんな辱めまで受けるのかと、思った。
 
 さらに質問した。手術中におしっこが出たくなったら、おむつか何かを着用するのですか?と聞くと、性器の尿道間に管を入れますから、尿はその管を通って出ます。と言われた。続けて、尿道間に管をいれるときは、痛いですけれど我慢してください。と言われた。
 
 その話のショックが大きく、余命のことなどは忘れていた。
 
 病室に戻り、休息である。
 
 妻は、一旦、自宅へ帰るとのことで、わたしに現金2万円を置いて行ってくれた。
 妻は、このとき、インプラント治療のため歯科医へ通っていた。
 さらに、わたしが立ち上げた塾は妻に任せた。
 
 寝てばかりいても暇である。都立病院の6人部屋だった。
 みなさん、テレビを観ていた。
 わたしの隣の患者さんはガン患者で余命幾ばくもない人だった。傷むようで苦しいと言われていた。
 
 わたしのベットの周囲には、テレビ、冷蔵庫、テーブル、引き出し、分厚いカーテンがついていた。
 
 妻からもらった2万円をもって病院の売店に行った。
 
 さすがに、ビールは置いていない。
 
 大きなお茶を2本、アイスコーヒーを4本、お鮨の握り弁当などを買い、新聞、週刊実話の様なエロ雑誌、太宰治の「人間失格」を購入した。
 
 こんな目にあった自分を「人間失格」と思ったのだろう。
 
 病室へ帰り、きれいに整理整頓してから、病院の図書館へ行った。
 子供向きの本ばかりが並べてあった。その隣に、検索専用のパソコンがあったので、メール検索をし、病室へ戻った。
 
 とにかく、動けて痛みを感じない人に取っては病院は退屈である。
 
 そうこうしているうちに、夕飯の時間だ。
 ホテルのルームサービスの様に運んでもらえるのだ。
 容器はすべてプラスチック。
 ごはんだけは、どんぶりですごく盛が言い。
 それと魚料理でシャケだ。ほうれん草と卵をあえたものがあった。後は、ヨーグルトとバナナである。
 
 食べ終わる頃になると看護師さんが入って来て、一人一人の患者さんがどれくらい食べたかを、A,B.Cとチェックしていく。Aが一番だ。そのことを知り、残してあった白ご飯に、おかずの汁をかけて呑み込みAをもった。
 
 Aをもらっ瞬間、エリートは大変だと妙なことを思った。
 
 夜は、9時に就寝である。
 
 ベットの脇にあるライトをつけ、週刊実話を読んでわらっていると、看護師さんに怒られ、本まで奪われてしまった。
 
 こういう日が続くうちにお風呂への入り方を覚えた。
 
 ナースステーションにあるボードに、自分の入りたい入浴時間を書くのである。そのうち、1日に3回入浴するようになった。事実である。
 
 また、妻に剃刀を持ってきてもらい、陰部の毛をきれいにそった。
 
 妻が、新しいパジャマを買ってきてくれ、それに着替えた。上品な感じがした。

 手術当日である。
 
 看護師さんと担当医が来た。
 
 T字帯という包帯の様な薄い生地をTバックの様にしてはいた。
 
 緩すぎて、性器がはみ出している。
 
 次に、性器に尿の管を入れる。女性の研修医がやろうとして失敗し、担当医がやって成功した。痛くはなかった。
 
 全身麻酔ではなく、下半身だけの麻酔であったので、意識はあった。
 手術に時間がかかり、8時間ぐらいかかったと思う。

 それから、やっと大学病院へまわされた。
 手術をしてみたかったのだろう、言うなれば、都立病院の手術の練習用である。
 
 大学病院は、東京慈恵会医科大学病院で、肝臓学会の評議員や肝臓学会の会員、肝臓移植の専門のプロとすごい医師たちばかりであった。

  肝臓移植専門の教授が担当医になった。
「肝臓の病気というのはね、特にアルコールが原因の場合は、独り身で肉体労働者に多いんだよ、あなたは違うだろう、こんなきれいな奥さんがいて、仕事もあるし、普通はありえないんだけどな」と言われた。
「肝臓が、止まったら死にます。ですから、お薬の力で動かしましょう」
と言われた。

 質問で、「シジミとかは食べた方がいいのですか」と聞くと、
「それは、江戸時代のお薬だろう」と言われ、笑われていた。

 それで診察は終わった。
 
 凄腕の先生という噂なので、何人も死にそうな人をみてきたのだろう。
 
 そうそう、都立病院で余命3年ほどと言われたのですが、聞くと余命診断学は遅れているから、誰にも死がいつやってくるかなんてわかりません、と言われた。
 
 現在は、軽く十年以上は生きている。
 
 お薬は念のために飲んでいる。

 やはり、病院によって医療のレベルが違うなあ、と身をもって感じた。
 
 
 

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