【初代ゴジラ】あらすじを三幕構成で読み解く(恋愛ドラマ編)
一幕(約20分)
一場:状況説明(イケメン野郎・尾形)
恵美子を待たせて事務所で豪快に頭を洗いオーケストラ鑑賞の支度をしていた尾形。しかしそこに電話が鳴り、自社の貨物船の沈没事故に対応するためにデートはキャンセルになる。忙しいなら仕方ない、と仕事に理解がある恵美子。
二場:目的の設定(陰気な婚約者・芹沢)
大戸島を未知の巨大生物が襲った疑惑があるとして、日本政府は科学調査団を派遣する。娘である恵美子は山根博士の助手として、尾形は海上警備の主任として同行する。恵美子の幼馴染で親が決めた婚約者である芹沢は静かに出港を見送る。
二幕(約50分)
三場:一番低い障害(ゴジラを目撃する二人)
大戸島で恵美子と尾形はゴジラを目撃する。
四場:二番目に低い障害(恵美子が芹沢の秘密を知る)
恵美子は芹沢に尾形との交際を伝えるつもりで訪問するが、会話の流れで芹沢の秘密の研究を見せてもらい、恐怖する。
五場:状況の再整備(恵美子は尾形に謝罪する)
帰宅しても恵美子は元気がない。
そんな折にゴジラが一度目の東京上陸。避難のどさくさで恵美子は尾形に、芹沢に破談を切り出せなかったことを詫びるが、尾形は機会を改めようと優しく応じる。
六場:一番高い障害(尾形が山根博士と険悪になる)
尾形は今日こそ恵美子との結婚を前提とした交際の許しを貰おうとしていた。しかし、一度目の上陸でゴジラに憎悪を抱いていた尾形は、ゴジラの保護を主張する山根博士と口論になってしまう。
そんな折にゴジラが二度目の東京上陸。火の海になる東京を恵美子と尾形はただ見守ることしか出来なかった。
三幕(約30分)
七場:真のクライマックス(芹沢の決意)
破壊された東京と苦しむ人々を見て心を痛めた恵美子は、芹沢との約束を破り、尾形に研究内容を暴露する。二人は芹沢を訪ねてゴジラ退治への利用を説得するが、そこで芹沢は二人の関係に気づく。芹沢は二人に根負けしてゴジラへの使用に合意し、戦争利用を防ぐために研究成果を全て破棄処分して情報漏洩の可能性を断つ。目の前で書類を燃やす芹沢を見て号泣する恵美子。
八場:すべての結末(芹沢の自決)
芹沢はオキシジェンデストロイヤーで海中のゴジラ抹殺に成功する。そして情報漏洩の最後の可能性である自分自身を断つために、芹沢はその場で空気ケーブルを切り自殺する。最期の言葉は尾形と恵美子への「幸福に暮らせよ」であった。
FIN
▼解説:
ゴジラ映画には人間ドラマが無い…なんて誰が言ったんですか?
1954年の他ならぬゴジラ映画第1作では人間ドラマ、それも三角関係の恋愛をがっつり描いた映画でした。
隻眼のマッドサイエンティストとハンサムな熱血漢、二人の男に愛された恵美子の決断とは!?…と十分に人間ドラマで見せてくれます。
この映画は《怪獣奇譚》と《人間ドラマ》という、異なる2軸の物語が同時進行する形を取っています。
上記のように筋書きを整理すると、むしろ恵美子という一人の女性が、親が決めた陰気な婚約者と心身ともに健康な男性との間で揺れる恋愛ストーリーであることが明白になります。さらに最終的に陰気な婚約者は自殺して、恵美子をイケメンに譲るという劇的な終幕。令和のエンタメ映画では書きにくい「結局は顔」という残酷な実力主義エンディングですが、ここまで濃厚な人間ドラマを観ていると、もはやゴジラや水爆などの社会問題は舞台装置でしかないとさえ言えます。
キャプテン翼はサッカーを主題としたスポーツ漫画だけど、タッチは野球を舞台装置にした恋愛漫画だよね、と言うならば初ゴジはタッチ型だと言えるでしょう。(笑)
今でこそ《ゴジラ映画》というジャンルが十分認知されているので、ゴジラが暴れていれば人間ドラマなど不要だ(そもそも期待してない)というアグレッシブな主張もよく見かけますが、日本に特撮怪獣映画が存在する前ではそんなオタクの後援もないので、本多猪四郎監督は《大前提として人間ドラマを描いた普通の映画》として成立させていた、という側面はあるでしょうね。
その証拠としてゴジラ映画は第2作からは怪獣同士が決闘して、日本各地を模した精巧なミニチュア模型を壊しまくるエンタメ性の高いシリーズになっていきます。特に第2作『ゴジラの逆襲』では監督が本多猪四郎でないので、かなり怪獣エンタメ活劇に振り切った内容になっていますし、第3作以降に本多猪四郎が戻っても大きな方向性は怪獣プロレスになっていきました。
●恋の行方について
初ゴジの人間ドラマは、主人公を誰におくかで印象が変わってきます。
芹沢を主人公として見ると、これは悲恋の話です。戦争にまつわる何かが原因で隻眼になった科学者。人付き合いもあまり得意そうではなく、幼馴染で親同士が許嫁(いいなづけ)にしていたとはいえ、自分とは異なり眩しくて幸せな人生を送る恵美子を見て、同時に起きたゴジラという未曾有の危機に際して、芹沢は自分から身を退いてしまうことを考えます。なんていじらしいことか。伝統的でわかりやすいマッチョイズムのヒーローとは正反対のキャラクターですね。
対して、尾形と恵美子のステレオタイプな明るさ、悪く言えばチャラさと無責任さが際立ちます。手厳しい言い方をするならば、本作は《幼馴染の婚約者が戦争で障害者になったから別の健康優良男子に乗り換えた女の物語;戦争の功労者から許嫁を略奪した男の物語》ですからね。
しかも自分達の口からははっきり言わず、ゴジラ退治の大義名分を盾に地下の研究室まで押し掛けて、目の前で仲睦まじい様子を見せるだけで、相手に諦めさせるというやり口の汚さ。(苦笑)
しかし当時の映画のプロモーションで、ゴジラの着ぐるみと一緒に日本各地を行脚していたのはこの二人を演じた宝田明と河内桃子でした。昭和29年ではこうした明るくてハンサムな人達が、少しばかり他人に無頓着だろうと、ヒーローとしてでかい顔して闊歩していました。
21世紀の令和ではちょっと考えにくいシンプルさです。当時の東宝のニーズというか販売戦略も読み取れて面白いですね。当時の子供には尾形と芹沢では、やはり尾形の方が人気があったのでしょうか。気になります。
●自立する女性像として
恵美子がこのような、親が決めた婚約ではなくて、自分の自由恋愛を尊重するという姿勢は、昭和29年(1954年)の女性の社会的権利が強くなりつつあった世相を反映していたというのも大いにあるでしょう。
第二次世界大戦を契機として大東亜戦争に臨んだ日本帝国は昭和20年(1945年)に米国による広島・長崎への原子爆弾投下を受けて無条件降伏し、日本は米国の占領下となり、それまでの社会の常識が大きく変わりつつありました。見合い結婚から恋愛結婚への移り変わりもこの流れの中で起きたものです。
昭和30年の数字ではまだ恋愛結婚が少数派ですが、折れ線グラフの傾きを見れば判るように、社会の在り方を変えてしまう大きな潮流は始まっていました。映画は現代そして未来を写す鏡でもあります。変わりゆく恋愛や結婚の価値観を示すキャラクターとして、恵美子が芹沢ではなく尾形を選ぶのは、たとえゴジラが出現しなくても必然だったのでしょう。
ちなみに、こちらの記事でも深掘りしましたが、芹沢は間違いなく当時の日本で最高に優れた若手科学者として描かれているので、彼と結婚すれば約束されていた将来の地位と名誉を捨てて、警備会社勤務のハンサムだけが取り柄のバカ男である尾形に乗り換えた恵美子は、かなりの恋愛バカだと正直思います。(笑)
●シンゴジやゴジマイとの比較
さて、ここで事実上の初ゴジのリメイクであるシンゴジとゴジマイについても考えてみたいです。
下手に作るくらいなら人間ドラマは一切排除した方がマシだという極端なアプローチを取ったのが庵野秀明のシンゴジラでしたし、逆に第1作の基本に先祖返りして人間ドラマを全力で描いたのが山崎貴のゴジラマイナスワンでした。まさにうそれぞれが初ゴジから自分達が欲しい部分を厳選して抽出した映画だったと言えるでしょう。
(了)