「君の名は。」と、かつての友人。
「すずめの戸締まり」公開記念で再上映された、新海誠監督作品の「君の名は。」を見に行った。休日の映画館は混雑していて、IMAXの大きなスクリーンでもほぼ満席。友だちが取ってくれた席に座り、上映を待った。
「君の名は。」が公開されたのは2016年で、私が中学3年生の時だ。当然話題になっていて、普段遊ばないけど学校ではよく喋る友だちと見に行った。
・ ・ ・
と、そのときの記憶を書きそうな雰囲気を出したけど、正直言うとなんにも覚えていない。誰といったのかもあやふやで、何を食べたか、どんな風に出かけたのかすら忘れている。もはや映画の瀧と三葉状態。何かしたことは覚えているけど、それ以外は全く。ここまで書いてみると、「え、あれ夢だったのかな……」と不安になってくる。
ただ、映画館の後ろの端っこあたりの席だったこと、途中から泣いたこと、途中のシーンの音にびっくりしたこと、それだけは覚えている。
改めて映画を見て、縁についての物語だったんだなぁ、と感動してしまった。その前に「秒速5センチメートル」を見たせいか、最後でまたぐっと来てしまった。そしてRADWIMPSの曲のなんといいことか。色褪せない映画の魅力を再認識させられた。
そのおばあちゃんの言葉を聞いて、一緒に映画を観に行ったかつての友人の言葉を思い出す。
それは、たぶん映画を観に行く前、中学2年生の頃だったと思う。学校に行くのも難しくなっていたときだったか、そんな気分の落ち込みがひどかった時期のこと。秋になっていく校庭で行われた体育の授業中だった。みんなが楽しそうに授業を受ける中、盛り上がっているところとは少し離れた場所でかったるいねなんて言いながら話していた。
ふと、落ち込みがひどいことを言った。その子なら、たぶん重く受け止めることもなく会話を続けてくれそうだと思ったからだ。「死にたいときもある」、そんなことを言ったと思う。
「自分が死んだら、世界もなくなるんだよ」
その言葉が、どのくらいの重みを持って言われたのか、今の私にはわからない。自分が死んだら、世界もすべてなくなる。私が死んでも当たり前に続いていきそうな世界が、突如としてなくなり、無になり、終わる。それはあまりにも残酷な想像だった。
でもどうしてか、その想像に救われた自分がいた。私がいなくなったら全部終わるんだ。言われたときに思い浮かべた、その突拍子もない空想が、今でも思い出せる。
私は安心した。自分だけが苦しんでいると思いたかった。それぞれの辛さはあるものの、私以上に苦しんでる人なんていないと信じたかった。それでも、私以上につらい思いをしている人はたくさんいるし、この気持ちがありきたりなものであることは何となくわかっていた。そういう私の、どうしようもないエゴが救われた瞬間だった。
生きていたくないと思うとき、たまにその言葉を思い出す。さすがにそれを空想し安心することはもうないけれど、あのときどこかで救われた自分がいることは記憶に残り続けている。
・ ・ ・
その子にとっては何気ない一言だったと思う。お互いに中二病が発症していた時期だ。思い出したくもない過去かもしれない。でも覚えているその言葉が、あのときの自分にとって大切な言葉だったことは確かだ。
その子とは中学以来、会っていない。その子とまた会う日が来たら、映画を観に行ったときのことを聞こう。なんの話をしたのか、何を食べたのか。その子も忘れているかもしれないけれど、それなら「うちらお互いに忘れてるじゃん!(笑)」と笑いあいたい。
忘れることと、覚えていること。覚えていることは大切かもしれないけど、忘れてしまった何気ない会話だって今の私を支えている。
忘れることはどこか神秘的で、本当に素敵なことだなぁと、最近、よく思う。
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