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自分の“思い込み”や“信じ込み”と、メディアの正しさを疑うこと

「自分の小説を盗用された」と、
一方的に、“思い込み”、
ガソリンをばらまいて放火し、
多くの人の命を奪った京都アニ放火事件。

過去に「誰かを殺せば、自分も死ねる」
などと発言をし、おそらく間違った、
強い“信じ込み”のなかで、
無理心中した大阪ビル放火事件。

今回の銃撃事件とは、
ターゲットを1人に定めている点では、
事件の性格が少し異なるが、
それでも、山上容疑者には、
怨恨という、強い“信じ込み”があった。

過去、他にも凶悪犯罪が多数、
国内で起こっているが、

その多くで、加害者が、
経済的な理由と精神的な理由で、
徐々に孤独になり、追い詰められていき、

激しい思い込みや、強い信じ込み中で、
周到な“準備と計画”によって、
大きな事件を起こしている。


残念ながら、
このような状態になってしまえば、

もはや社会として、
犯罪そのものを止めることはできない。

思い込みが激しく、信じ込みが強ければ、
まさしくカルト宗教のように、
マインドコントロールされたかのようで、
誰の声も聞こえないだろう。

それ以前に、
周囲と、なんら接点すら無いのが、
社会としても、大問題だろう。

ただ、たとえ接点があったとしても、
形式的なものであったり、
一時的なものであったり、
職業的なものであれば、、、

やはり、″浅いつながり”でしかなく、
人と人同士の接点としては、
ほぼ、無いのと同じだ。


信頼できるパートナーや、
相談相手、友人等、
頼れる人が誰もいないことは、

よほど、自分で自分を律せない限り、
よほど、自分と社会を見渡せない限り、
よほど、人間ができていない限り、

ますます、自分自身の“思い込み”だけが、
よくわからない、″自分の正義”だけが、
膨れ上がっていくことになると思う。


個人的に、最近よく思うのは、
いま、年配の方や、
中高年の、特に男性を中心に、

毎日、同じ新聞を読んで、
同じような番組を見て、

あたかも、自分の得た情報が正しくて、
“自分の意見が正しい”と、

本気で、勝手に、思い込んでいる人が
多くなってきているように思う。


例えば、新聞を1紙、2紙程度を、
定期購読したところで、
そこから得られる情報なんていうのは、
たかが知れているし、

情報源が、取材の記事内容そのものが、
そもそも各新聞社で、大きく偏っていて、
やはり、1紙、2紙程度の新聞の内容では、

記事内容の信憑性も含めて、
情報源としての価値は、あまり無い。

当たらない天気予報を、
違う複数のアプリで確認しているのと、
ほとんど変わらない状態だ。


今時、新聞やTVニュース、ネットニュース等の
薄っぺらな情報を鵜呑みにして、

政治や時事的な社会問題を、
あたかも自分の意見として、

困るのは、“感情的になってまで”語る、その姿は、
まったくナンセンスでしかない。


周囲にもいないだろうか?
新聞やTV・ネットニュースを見ているほど、
他にも、特定のYouTubeの、
切り取り動画を見ている人ほど、

なぜか、″自分が正しい”と思い込みやすく、、、
さらに言えば、
自分と意見や感想が異なるだけで、
無駄に、“感情的”になる。


身も蓋もないことを言ってしまえば、
NHKが全面的に“正しい”なんていうのは、
すでに神話の世界で、

それこそ、YouTubeの切り取り動画と、
質は変わらない。


オールドメディアという昭和のシステムが放つ情報に、
価値を置きすぎている人があまりに多すぎて、

一方で、ネットメディアという
切り取っただけの、分かりやすい薄い情報に、
飛びつきすぎている人も多すぎて、、、

すべての情報に価値が無い、とは言わないが、

それぞれ、無駄に信仰しすぎている人が、
世間に多すぎるような気がしてならない。


ある意味、どちらも小さな宗教で、
下手すれば、一歩間違えれば、
思い込み、信じ込みの
入口となってしまう危険すらあると思う。


すでに、世代によって、
住む場所によって、
職業によって、
まったく見ている媒体が違い、
情報源も違う中で、

自分だけが正しいとか、
自分が見ているものだけが
正しいと思い込むことに、
本当に、何の意味があるだろうか?


そういう面でも、
ある程度、見識のある人を、
ある程度、まともな人を、
ある程度、偏りのない人を、

友人や相談相手、
何らかの形で、
自分の近くには、いてほしいと思う。


過去の凶悪犯罪を、振り返れば、
犯人に、まともな相談相手や友人がいただけで、
防げたような事件は、多いと思う。

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