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私が古本をすきな理由/エッセー


 古本。古本のページの左端に何箇所か、三角に折り目がついていると、おかしな気持ちが湧いてくる。まるでそこに折り目をつけた人と重なって、一緒に読んでいるような気がしてくるのだ。
 そこで読んでいるのは私だけなのに、幽霊みたいにその人は「ここ」にいて一緒に朗読をしている。そして文中の、ここぞ、と思うところは不思議とわかるような気がして、ああ私も折り目つけちゃうかも、なんて思うのだ。
 たしかに興味深い内容で、きっとここの文章のためにこのページの角を三角にしたんだ、とちゃんと確信できるような気がする。そしてよくわからないページに折り目があると一層深く読み込んで、私は「その場所」を探そうとする。どうしても納得できないと、三角の折り目は長方形に戻してやるのだ(それでもその跡は残るから)。結局は、前に読んでいた人とまるでつながるような体験が妙に楽しいってだけ。

 古本に思いめぐらせ、ひとつ思い出したことがある。大学の頃、ある先生が「本の大盤振る舞い」をしたときのこと。退職するからといって、本がたくさん詰まった段ボールを学生たちに振る舞った。私は大好きな分野の本ばかりだったからすごく興奮して、二回ほどバッグに詰め込んで帰った!

 持ち帰った本たちの多くには「読んだ形跡」があった。わざとらしく何枚もレシートやハガキがはさまっていたり、ぱらぱらめくると、あるページで必ず開くような跡が残っていたり。表紙にある大きなカッターの傷が思い出させるのは、その先生の研究者としての姿。先生は集中すると、他のことを全然気にしないような印象があった。きっと本でいっぱいの机の上でカッターを使って、うっかり下にあった本を切ってしまったんだと思う(そしてそのことは微塵も気にしなかったと思う)。
 本の中にはもちろん、先のやわらかい鉛筆で引いた線や、コメントもはいっていた。ある一冊、私が好きだったのは、専門書の内容に下線を引いて内容を訂正している箇所だった。英文を引用して解説する文章に下線が引かれ、そこには先生の意見が書かれていたのだ。そしてそれは訂正文だった!本に訂正文を入れるなんて、と私はとてもカッコよく思ったものだ。とはいえ最初は内容への一方的な意見だったから、やや傲慢で、なんだか勝手な行為だと思ったが、今はそれは大事に読んだからこその行為で、作者とその内容に対する、ある種の尊敬がないと書けやしないと思う。だって私がそれを真似しようと思ったら、そうしないと無理だったから。私はそんな先生のコメントが好きだった。

 コメントや形跡を通して、その「意見を書いた人自身(つまり先生)」についてほんの少し、知ることができるのも楽しい。同じ本を読んで感想や意見をいう機会がない今だからこそ、そんな小さなつながりがとても貴重で、あまりにもなにもわからない状況に心はどきどきするのだ。シンパシーを感じながら、暗闇で音読する手紙をやり取りしているみたいな気分になる。
 私自身あまり書き込むことはなかったけど、あの先生は言っていた。そこにいる学生たちをチラリとにらんだあとに(もちろん私もそこにいた)、「本を読むのに、ペンも持たずに読むなんてなんのために読むの?」と。そうだった、ああそう言っていたと思い出す。三角の折り目のことを考えながら、私はその時のことをちゃんと思い出すことができた。

 きれいに読むことと、本の大切な部分を「自分のもの」にすること、どちらが大事だろうか。まっさらな本に書きこむ一筆目は抵抗があったとしても、その中へ飛び込めるなら。こんなこと、すっかり忘れていたけれど、思い出したが吉日だ。さっそく、先の丸い鉛筆で作者か、どこかのあなたか、未来への私かわからないけれども、秘密の対話を始めようと思ったりした。



エッセー:私が古本をすきな理由
isshi@エッセー

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たくさん書きます。描きます。たくさんの人の心に届きますように