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真っ暗な道の歩きかた/エッセー


 ずいぶんと長い間、歩き続けた気がする。真っ暗な中を、根拠もなしにひたすら「大丈夫」と言い聞かせるだけだった。それから目指す先に小さな光が見えて、半ば狂気的にそこへ走る。その光で振り返るとこれまでの足跡は陰をつくり道となっていた。どこに続くのかもわからない中で「大丈夫、なんとかなる」と言い聞かせた自分に「ありがとう」と声をかけた。

 もしもひとりで、真っ暗な中を歩くならどうしよう?ぽんと背中を押され踏み出した世界は真っ暗で、正しい道はない。学生の頃は先生がいた。社会人になってからは上司がいた。でも、どちらもいない時、私は孤独で、どうやって前に進むのだろう?ゆらゆら水が揺れるように適応できたなら。
 人生にも先生がいてくれたらいいのに、と思う。上司でもいてくれたら決めることが少なくて楽だ、なんてつまらない見方だけど、いないなら?ひとりでやるしかないときは、どうしたらいいんだろう。いつだって助け合いながら、協力できるわけじゃないのか。自分でやるしかない、だけどやり方もわからない、自信もないのにどうやって!



そんな悩みも1年が過ぎて、私にできることは、わからないまま自分らしく進んでいくことだったと、そう思った。そうすることで、今しているように「あの時、泣いていた私」を救ってあげられるのかも。同じようにお困りの誰かさんがいたら助けてあげることもできる。見えなくても、立ち止まっていたくない。手さぐりで進み続けたあの頃の自分を、私は抱きしめたい。そして手さぐりで進むしかない誰かの心を、いっしょに支えたいと思う。暗闇の中を進むのは、ものすごく不安だ。だけど自分が信じたならば、それを選んだ自分を信じてあげたい、たとえ誰も信じてくれなくても。

 色々な歩き方がある中で真っ暗な中を導いてくれるのは、火を持った人かもしれないし、火を持ったことのある人かもしれない。もちろんどこかの自分かもしれないし、月の光か、ホタルか。どれも「これでいいのか」の答えを保証するものはない。これでいい?これがいいのだ。
 答えの正しさや、周りの視線が気になってどうしようもないときは、別の道、先行く人に聞いてみてみたい。わからないまま進むより、できることはあるのなら。
 どうせ後からしか分からないのなら、暗闇の中を歩くコツは「みえないものは、みえない」と割り切ることかもしれない。一種の諦め、でもそれは明らかにしていくための決断と同じ。わからないままじゃ進めないけど、決めることはできる。そう信じる、と「決める」ことで、残るのは踏みだす勇気だけになる。

 そんな真っ暗な中を進むとき、楽しい見方もできると気づいた。誰かといっしょに歩きながら道を作ってもいいし、火を分け合って別の道を歩いてもいい。自分でこしらえた火は、誰かの光になるかもしれないし、ならないかもしれない。この暗闇の中、いったいなにが見えるんだろう?なにが起こるんだろう? そんなことを楽しみにしていたい。
 不安よりも、喜びの方がいい。花火が上がる、眩しい朝日が昇る。もしかしたらザッハトルテの上で踊る金箔のように星が瞬いたり、ときには流れ星だって見えるかも。夜の嵐が過ぎたら、凪いだ風はどんなふうに頬をなでる?道の先が蜃気楼のように見えるとき。晴天、澄んだ空気は青と緑を映し出すかもしれないでしょう。ずっと目を閉じているだけかも、わからないのにね。

 私は歩き続けたこの身体に、前を向くことを選んだその意志に感謝している。「今」を生きてあの時の自分を救う、今を生きてこれからの自分につなげる。そうして周りを見渡したい、等身大でリラックスしながら。今、自信はなくても、「これからの自分」がここへきて、そんな自分を信じてあげられるのかも。ぜんぶ同じ自分だ、ぜんぶお隣さんのお話だ。時間なんてないようでふしぎだ。
 誰が導いてくれようか。揺れ動きたくなったら、まっすぐ寄り道することにしよう。そこで誰かとぶつかったなら、素直な自分で雑談でもしたい。なにかをたくさん落としながら、走ったり、転んだり、止まったりしたい。落としたものを拾いに戻るのも、自由なのだから。



エッセー:真っ暗な道の歩きかた
isshi@エッセー

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◎エッセーはここにまとまってるよ
https://note.com/isshi_projects/m/mfb22d49ae37d

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