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卓 燈 夜 話  (一)

◆私は生れつき、長篇小說よりは

短篇小說に多くの親しみを持つ者

である。うまい長篇ならば讀んで

もみるが、それにしてもあゝ長々

と書くことはあるまいと、よくさ

う思ふことがある。私の好む長篇

は、そのどこをきり放して讀んで

も立派な短篇になつてゐるものだ

けである。であるから、私はいは

ゞほんたうの長篇小說といふもの

を餘り尊敬しないところの者なの

である。

◆人生の或る一日が――いや一日

よりも或る一瞬が、その人の一生

涯を暗示したり、深く動かしたり

するものであると同じやうに、わ

づか、一頁が、一章の文章で、人

生を十分に語ることが出來るであ

らう。人間の鼻一つ描いて、よく

その顔全体を眼に浮ばしめる繪が

あれば、それは私が最も喜ぶとこ

ろの藝術の形式に他ならない。自

分はこの意味で、佐藤春夫氏の作

品――そのうちでも「都會の憂欝」

をこの上なく愛するものである。

◆自分はあれを讀んでをどり上つ

たほどである。外國作家の翻譯ば

かり讀んで頭が重々しかつた私が

すつきりと心地よい藝術陶醉にひ

たつたのはあの作品であつた。「佗

しすぎる」や「剪られた花」などは

餘りに私の生活そのものに近寄り

すぎてゐるし、作者の心境が餘り

に銳く私をこづき廻すので、私に

「都會の憂欝」には殆んどさういふ

點がないので私には氣持のよいも

のであつた。多くの翻譯には、そ

れが翻譯であることを割引しても

あれほどすぐれた藝術快感はあり

得ないと思ふ。あれだけのタッチ

がないのである。タッチのないも

のを私は藝術品だと思はない。

◆私は又武者小路實篤氏の一幕物

や短篇が好きである。それは變ぢ

やないかと或る人々は云ふかも知

れない。然し、私はそれらの人々

に向つて次ぎのやうに答へるであ

らう。武者小路氏の作品は、内容

と形式とが不即不離であつて、そ

れが私に素晴しいタッチとしてふ

れてくるからである。作者の魂そ

のものを、抉り出す爲には、氏の

へんなスタイルの文章をのぞいて

他になにがあらうか。作者の表現

しやうとする内容は、實に、ぴつ

たりとあの朴訥な文章と一致して

それが、立派に氏の生命のリズム

ををどらせ、よく人生の深いとこ

ろに觸れ、さうして猶、それは决

して藝術的價値を失はないからで

ある。――と。

◆私は近頃、里見弴氏の「多情佛

心」の前篇を讀んだ。そこに書か

れてゐる世界は私達にとつて無緣

であり、又親しみうすき人間の生

活諸相である。然し乍ら、私はあ

の作品をよんで、われ/\の生き

てゐる世界が、いかに廣いもので

あるか、私達の知らないところに

こんな人間生活が營まれてゐるの

であるか――さういふことを泌々

考へさせられた。

 佐藤春夫氏や谷崎潤一郎氏は決

してまともでない人間の生活を、

いちど映畫のやうな靑白い光彩の

中にとほして私達に知らせてくれ

る人だちである。所が里見氏はど

つちかといふと、まともな人間を

正面からたち割つて、刃先の銳さ

をまざ/\と感じさせる方の作家

である。きび/\してゐる。活字が

浮き上つてをどるやうな作品とは

實に里見氏の書くもの、又は書き

方の快適な評言であらう。

◆私は嫌ひな作家も多いが、好き

な作家も随分と多い。そして私は

日本の作家を、外國作家より親し

み易く思ふ。それは私が語學が出

來ないからばかりではない。日本

の文字も文章も、世界に獨立して

一つすぐれた個性を持ち、それが

藝術品として十分に美しいもので

ある以上、日本に生れ、日本に成

長した私が、生國の文字で書き現

はされた文學を愛する所以である

といつたところが、さう大して嫌

味でもあるまいと思つてゐる。

       (十三年六月稿)


(越後タイムス 大正十三年六月廿九日 
      第六百五十七號 四面より)


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