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コーチング進化論

自分がすでに始めていることをこれから始める人のために解説すると、その人はその分野のコーチになる。長年投資をしている人が投資を始めたばかりの人に投資を教えればその人は投資のコーチということだ。

コーヒーの知識や技術を教えようとすると、基本的にはコーヒーの知識や技術がまだ十分にない人たちがやって来なくてはいけない。マナー講師も「そんなことは存じてます」と生徒が思っては生業にならない。ということは「ある程度マナーのない人」がたくさん来なければならないだろう。自動車教習所の営業は基本的には免許を持っていない人が対象であり、ゴルフレッスンも空手道場も、ギター教室も、起業塾も、基本的には同じことだと思う。

子供の頃から疑問に思っていたことが一つある。先に述べたこれらの構造は決まっていつも、「前を走る人間が、後ろを走る人たちに助言する」、という形をとるが、果たして「後ろを走る人間が、前を走る人間に助言すること」は理論的に可能だろうか?そんなことを考えた頃は子供だったのでせいぜい思い付いたのは、新聞を読んで朝食を食べた父親が、自分より先に駅に向けて出発したとする。自分は少し長く家にいられるのでテレビのニュースを見ていたら、夕方は雨の予報だという;そこで駅に向かって歩く父を後ろから追いかけ、傘を渡す。これは時間軸上で、後ろに残った人間が先に出発した人間よりも有益な情報を得たために先の人間を助けることができた例だと考えた。

レンブラントは有名な画家だったが、大勢いた自分の生徒のうちたった一人として二流にすらなれなかったという話が残っている。時に人は前だけを見て、安易に後ろを向いていてはいけないのかもしれないと考えさせられる。一方でモーツアルト、ベートーベンがいた黄金時代、ウィーン最高の音楽教師は自分では練習用の曲ばかり作っている凡庸な音楽家、アントン・ディアベリだった(*)。

この対比は非常に興味深い。あなたはどちらか、私はどちらか。誰かに何かを教えたいという欲求が自分の中に芽生えた際、そういうことを考えさせられるからだ。

( 文・西澤 伊織 / 画・ピエートロ・A・ロレンツォーニ )


(*)は以下の書物より引用

ピータードラッカー著・「傍観者の時代」第3章 P.74 「教師としての能力」より









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