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随筆(2020/8/23):万人の持つ世界観を焼き尽くしたいがために、真実を愛し綺麗事や常識を憎む人たち(4)世界観から世界がどうこうされる話以前に、世界が世界観をどうこうする話がある

4.5.世界から世界観へのアプローチには、全部「自由であるか」という重大な条件がある。そこを損なうアプローチ、全部アウト

4.5.1.自由でないと、先人の世界観であるドグマを、ただ丸呑みするだけになる

ちなみに、世界「から」主観世界観「へ」関わるアプローチは、たくさんある。
信教の自由、学問の自由、そして表現の自由。日本国憲法で定められているそれらには、そういう意味合いもある。

どれも大事なポイントがある。
情報受容して実践する側の、受容や実践の自由は、保障されなければならない
と言うことだ。

***

正解のある問題は、とにかく正解すれば話は終わりだが、そうでない未知の領域なら、
「形式的には作法をちゃんとやっていて、それでも通説以外に、批判を耐え抜いて生き残った、考慮せざるを得ない内容が生えて来る」
場合、それは考慮しなければならない。と言うことだ。
科学的方法とは、そういうやり方の、ある種の精髄を志向しているはずだ。だからこそ、それに従って作られた学問である科学全体に、これほどの信用性が備わっているのだ)

そこで、
「そんなものはドグマ(教説)に反するから不正解」
とか言い出したら、未知の領域については何も分からなくなる。
そんなことを言い出すなら、宗教学問表現も全部、未知の領域について無力な、貧弱ドグマにしか支えられていない。そう言う話にしかならないではないか。

ドグマは、先人概念的な世界地図を描こうとした結果の、世界観の塊だ。
それは、必死に世界に合わせようとしたものかもしれない。
だが、それそのものが世界という訳ではない。
つまりは、丸呑みしていい性質のものではない、ということだ。
先人の努力の成果としてのドグマは、常に検証待ちのものとして、そこにある。
検証は、常に、より適正な方法で、なされなければならない。

そのために先人が編み出した解明のやり口が、科学的方法だ。
もちろんこれすら常に検証待ちだが、だからこそそれは後になればなるほど解明能力が爆上げになっていく。
最近は、科学的方法は、自然科学のみならず、観測からなる統計で扱える全てのジャンルに効き目がある。
一般に、信用性は高い。と言って差し支えないだろう。

(逆に、昔の科学的方法は、今の科学的方法の礎かも知れないが、非常に信頼性に乏しかった。という話は避けられなくなる。
この辺は、力の素粒子のうち、電磁気力と弱い相互作用を統合的に扱えるメカニズムを解き明かした、高名な物理学者であるワインバーグが、ものすごくネチネチ言って物議を醸したところでもある)

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一応は知っていることの集大成としての学問と、知らないことをまず解明するためのきれいなやり口である科学的方法は、そういうところでも違う。

真実を探求する姿勢として、自由否定して、盲信的にドグマ検証をも拒むか。
自由肯定して、己の目でドグマの検証を行うか。
どちらが真実に近づけるか。というと、そりゃあ後者でしょう。
じゃあ、真実のためには、後者は、断固守られねばならない。
(例えば、これは、北朝鮮とかの話をしている)

***

最悪の場合、自由な精神を持つ者が、「やっぱこれおかしくないですか」と思ってしまうこと自体について、学問科学の側からは「歪んだ世界観を持ったやつ」に見えることすらある。

でも、これ、学問科学の、そしてその重点的な伝達である教育の、構造的な敗北の話だ。
だって、これで世界観が歪んで見えるのは、そもそも世界の解明された部分重点的な伝達教育!)が十分に出来ていないからだ。
あるいは、もっと悪いことに、その解明に未知のごまかしがあり、それ自体が解明をドグマでごまかした説明であるかだ。
後者は特に危険な話だが、今も昔もよくある。

「ここから先は検証待ちの未知の世界で、そこは残念ながら分かりません。今から掘って行きましょう。でも大変な冒険ですよ」
そのような説明はしなければならないし、ごまかしの存在そのものを明らかにして、そのごまかしを解明されなければならない。それだけだ。
もし、学問科学が、「世界に極力近い世界観」であることを志向するのなら(そうでない学問や科学に、魅力、あるか?)そこはやらなきゃ話にならないところだろう。

4.5.2.自由は直ちには応答責任ではないが、ふつう自由には応答責任が影のようについて来る。それは、やらなければならない

ただし、これは、「お前らの言っていることはごまかしだ」言い出した側「が」、責任を持って明らかにするのだ。
だって、何で「ごまかしだ」と思ったのかは、「ごまかしだ」と見抜いた人の方が詳しいんだから。
そういう人たちが解明して、ごまかしの解明の方向性がはじめて定まる訳だ。
だからそこは、どこがダメか、どうすりゃいいのか、という説明は、しなきゃならない訳です。
もちろん、これは、上でも書いた、「検証待ちの未知の領域を掘っていく」話の、しかも初手の話だ。これだけでももう大変だ。

でも、何かを「ごまかし」と言うことは、それくらい、重たい。
存在の可否すら揺るがすんだから。
自分以外の他の何かの存在の可否に関わるところは、非常に誠実にやらねばならない。
「気分や思い付きで、他者を滅ぼす権利が、自分に備わっている」
という話には、決してならない。

4.5.3.おまけ。人間関係、特にパートナーシップでは、自由を全開にすることには、良し悪しがある

例えば、パートナーシップについてだ。

動機や意図の「合意」極めて重大な指針だが、「どうすれば合意に至るか」の道筋は、「自由意志」と、それ以上に、自分に対する無知による、得体の知れないブラックボックスの中だ。
極めて自然な成り行きとして、好意信頼があるかどうか、いまいちピンと来ない相手に対しては(当然、出会いお見合いは、ほとんどの場合、そうだ)、
「最大限応答を引き延ばして、最終的に合意を拒絶する」
ということにどうしてもなりがちだ。
それは当然の自由であるが、引き延ばされている間、相手から、

「これ一体どうなるんだ。
さっさと諦めて次行けばいいのか、それともそんなことをしたら成功の可能性を自分で叩き潰すことになるのか。
当方としては、わざわざ出会いやお見合いをするからには、パートナーシップや結婚に何らかの価値があるとは感じているから、成功はさせたいとは思っているんだが。
そもそも先方は、ひょっとして、パートナーシップや結婚に価値を見出していないか、ピンと来ていないのに、出会いやお見合いに来ていたりするのか?
それすら分からんの、メチャメチャ困るし、まさか先方がそこまで分かってないまま何度も出会いやお見合いをやっているのなら、それは当方もまともに付き合ってられないぞ。
アピールする気ももりもり削げていくなあ。
先方が出会いやお見合いに興味がないのに、アピールしても、それは余程の気合いの入ったアピールにならないと、届かないだろう。
当たり前だけど、こんな状況で、気合いなんか、入らんよ。
そこまでしてやることか? とどうしても思っちゃうな。
だって、当方に興味のない人に、興味を持たれて、楽しいか?
当方だって、意気の投合がない先方に、興味なんか持てない。
ごくありふれた話をしていると思うのだが…」

という風に、戦々恐々とされる。
これが高じて、最悪の場合、相手から見捨てられることにもなる。(当然メチャクチャよくある話だ)
そりゃあそうだろう。そんな風に、そういうブラックボックスを前に、相手が戦々恐々としながら人間関係をすると、相手は疲れてしまうし、相手からの「信頼」など到底成り立たない。
自由意志もさることながら、自分に対する無知によって、信頼損なわれていると、これはもう、それ以上の人間関係は、無理だ。
短期的な人間関係をやりたいのなら、それもいいかも知れないが、出会いや、特にお見合いで、継続的な関係を結びたいのなら、こんな態度を取れば取るほど、話はまとまらずにご破算になるしかなくなる。
そうして、他に活かしようのない経験値だけが積み上がって、時間も労力も無駄に流れていく。
活かせる人もいるのかも知れないが、そういう人は、つまりは最終的に出会いやお見合いに成功しちゃうから、無駄でも何でもないんだよね)

***

あ、金品を巻き上げたり、あるいは短期的な接待やイチャイチャや性を愉しんだりして、最終的に捨てるためにやっているケースも、もちろんあります。
それは相手にとっては当然、最終的には大損であり、最悪に近いので、そりゃあ猛烈に忌み嫌いますよ。当たり前ですよ。
「そんなことはしていない」と言いたい人もいるでしょうが、一旦相手からそう思われたら、ふつうはもうおしまいだ。
だって信頼が損なわれているんだから、最悪のケースは常に疑われうるもの。
「そういうことだ」と決め打ちで切り捨てられる
の、当たり前なんですよね。

だから、信頼を損なっちゃいけないんですよ。

***

そもそも「自由」は、ある意味、人の群れによる雰囲気に流されて知情意を制約することから、自分の知情意を切り出して自分でやっていく話だ。
逆に、自分を切り出した人同士の人間関係では、自由なんてものはただの前提で、今やっているのは人間関係なのだから、そういう恣意では困る。という局面に立っている。
もし、抑圧されない人間関係をやりたいのなら、それは自立者同士の人間関係という形をふつうとるし、そこで「自由」当然の前提であるが、それ以上に大事になってくるものがたくさんある。
例えば、そこでは「誠実」「信頼」などが大きな意味を持ってくる。

そこで、「自由」固執して、そこからもたらされる恣意的な振る舞いにまつわる問題を、「でも自由は絶対的価値だから」正当化する人、たくさんいる。
「誠実」「信頼」を、要するに「抑圧」と区別が出来ないまま、足蹴にする人も。
これはつまり、自立者同士の人間関係を、要するに足蹴にしている訳だ。
自由「に」目覚めたのは大きな到達だが、自由「から」目覚めること未だに出来ていない。そういうところで、こういうつまづきに遭う。

自分のニーズとかに無知な人が、少なくとも自分自身のニーズに鑑みて、誠実にそのニーズを相手に伝えることは、これはもちろん途方もなく難しい。
まして、そんな曖昧な人を前にして、相手が、
「多少の面倒なお願いを、信頼があるから、聞いてくれて、ちゃんとやってくれる」
などということが、あると思うか?
何で? 無理でしょ。ふつう。
そんな信頼を、築くための努力、何か、したか?
あるいは、相手がそういう努力をしていたとして、これを
「信頼のない相手が築く、信頼を築くための努力、0をかけたのと同じで、全部無意味」
と思いながら、鼻息一つで切り捨てていなかったか?
そりゃあ、信頼なんかある訳がないし、ニーズなんか聞いてもらえないの、当たり前でしょう。

***

継続的な人間関係をやるなら、
「自分が何を欲しているのか」
「自分は相手に何を要求しているのか」

そして
「相手がそれをある程度したら、自分は相手に少し報いるのか」
ということは、これははっきりさせておかねばならない。
(最初から、条件に合わないから、二回目会わない。というのなら、話は簡単だが。もちろんこれはよくある話だ)

一般に、最後の要件が、信頼において決定的に重要だ。
これをしないなら、継続的な人間関係において、信頼の加護を受けることは出来なくなる。

そうなんですよ。ここは。
だってこれをしないと相手コスト持ち出しになるんだから、損をするんだもん。
信頼を築くことが強く望ましいフェーズで、損をさせたら、信頼をサクリファイスするだけだ。そんな行為をやっている時点で、論外じゃん?
そうなると、ふつう、継続的な人間関係そのものが、自分の度量では手に負えない。
もしそうなら、最初から、そういうの、やらない方がいいですよ。求めるだけ有害だ。

そういう、信頼関係に足る、「要求に応えたことに報いる」ということを、そもそも出来なさそうなパートナー候補、たくさんいたでしょう。
出来そうなパートナー候補も、たくさんいたはずだ。
どちらがより、継続的にやっていけそうだったか?
 そういうことです。

(おまけの話にしちゃ、ずいぶんと長かったな)
(お見合いの件で、私もかなり痛い目見て来たからです)

4.6.危険な壁に、深入りする気にならないように描かれた、ストリートアートとしての、綺麗事や常識。そして、危険な壁に備え付けられた、対巨人砲弾としての、真実

ざっくりまとめると、こうなります。
危険な壁にぶち当たらなくて済むように、綺麗事常識を言うことがある。
しかし、危険な壁にいざぶち当たると、何の留保もなく叩き潰されるので、真実を言うことがある。

つまり、危険な壁に近寄らなくていい限り、綺麗事や常識というものは、何ら問題ではない。むしろ、大いに適応的に役に立っている。
むしろ、危険な壁に近寄らない人に、危険な壁に備え付けた砲を、よっこらしょ、と市街地に運び込んで、真実の弾丸を五月雨式に浴びせかけるの、頭おかしくないですか。

砲は強いよ。
だが、それを、市街地で、人に向けて、撃つな。

砲は、危険な壁で、迫り来る脅威である巨人に向けて撃つ。そういう時にこそ、ものすごく役に立つんだ。
綺麗事常識にも、真実にも、それぞれの価値観それぞれの用途がある。
それを履き違えないようにしなきゃならん。

ここを揺るがせにしたら、真実を運用する人たち自身が、決定的に信用をなくす。
妨害? されるに決まってる。


そういうことです。
「歪んだ世界観を世界の正しさで叩き潰したい」人、歪んだ世界観を世界の正しさで叩き潰すのは、やめましょう。
そんなことをしていると、そのうち、真実を追求することすら妨げられる。メチャクチャ困ったことになるでしょう。
だから、やめときましょうね。

(いじょうです)

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