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随筆(2020/6/16):基礎を固める「ための」動機作り(3)基礎固めに導く手段

5.もちろん、興味だけで突き進んで、自分なりの型を身に着けても、基礎抜きでは、貪欲な愉しみ方は出来ないし、勿体無いお化けになる

5_1.やはり後で善導はしなければならない

その後で、善導そのものは、導入が終わったら、やりましょう。
導入だけだったら失敗するからね。そこはそう。

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上のやり方がキマると、興味だけで勉強のテーマパークを見て回ることになる。
自分なりの型、我流を身に着けることにもなっていく。
これを、「変な癖がつく」と嫌う人もかなりいますし、私もそこは確かに懸念するところです。

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が、正直もっと恐れていることがあります。
「癖のない王道の型」を、無理矢理やらされて、嫌気がさして、勉強そのものから撤退して、勉強の要らない、出来ることを限った人生を送ることです。
こうなったらもう「王道の型」など何の意味もありません。それは、苦痛をもたらすただの呪いだ。

5_2.「自分の動きやすいように動いてみる」ことを、外野が摘むな

基本的には、「自分の動きやすいように動いてみる」ことを、外野が摘む。ということは、これは非常に避けねばなりません。

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実践結果が得られないことがある。
あるいは、得られても、それが失敗であり、成功とは呼べないこともある。(つまり、この場合それは、結果ではあるが、成果ではない)

だが、それでもなお得られる、一番最初の結果がある。
それが、実践の型、すなわち、習慣だ。
習慣熟練をもたらし、熟練がいつかは本当に結果をもたらしたり、それを成果にしたりするのだ。
これが基本形だ。ここから外れて、何かの成果、そしてゆくゆくは課題達成を目指す実践というものは、ふつうまず成り立たない。

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で。
実践の最初の結果である習慣や、その果ての熟練を、要するに早々に「そんなんじゃダメだよ」と否定したとする。
じゃあ、実践と、結果成果の間のつながりは絶たれる。そりゃそうだ。当たり前だよ。
実践しても成果が得られない、つまりは報酬がない。むしろ否定が、要するに罰がある。やればやるほどコスト損失損害がある。
これを「された側」が、なおも「やる」と思うか? 「やってられない」から、撤退するの、かなり当たり前でしょう。
そもそもここを「させる側」が勘違いしているのなら、もう勉強させること自体、まともに回る訳がない。

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「出来ることを限られた人生は、キツイ。だから、それを超えるために勉強しろ」
というのが大人の理屈でしょう。
だが、だったら、
キツイことを避けるために、今はもっとキツくなれ。我々は『カイジ』の『鉄骨渡り』めいて高みの見物をしておるよ。ルートから外れたら電流だからな(ニヤニヤ)」
というのが、どれほど憎たらしく見えるか、それすら分からんほどのバカになってはいけない訳です。

5_3.「我流の型」と「王道の型」の意義

さて、「王道の型」は手法の基礎を説くものです。そういう意味では基礎固めの一環ですね。
「我流の型」は、「自分にとって動きやすい」が、事態に適正に対処出来ているかは、かなり怪しい。
それをより適正な対処に近づけるために、「王道の型」は絞り込まれて練られて来た。
これはもちろん大きな財産です。是非継承していきたい。

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だから、「王道の型」を勧める方法としては、楽しいやつからやらせて、慣れさせるところから始めねばなりません。
慣れていくと、評価をより正確に下せるようになり、自分のやっていることを少し客観視出来るようになります。
そうすると、その人は、「慣れ」を通り越して、何らかの「飽き」を見せるようになります。
(これを「何やっても、成果に結びつかない」飽きと見分けることが重要です。もちろんそういう形で飽きさせてはならない)

そこで、さっき言ったように。
「より楽しむためには、うまいところを食い残さずに食う方法があり、基礎固めとはそういうのにバッチバチに効いてくるので、やっていきましょう」
と基礎をさせる。このパターンになります。

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ふつうの人にとっては、
「先人のパターンだと、ここでこうすると、実はこのキツイところがスムーズにやれるようになる。快適」
が効くし、才能のある(しばしばキツイところでキツイと思っていない)人には
「先人のパターンだと、ここでこうすると、実は爆発的に効き目がある。爽快」
が効くでしょうね。

5_4.手段は高度な達成のための基礎ではあるが、初歩的な達成のための動機に替えることは出来ない

ある種の人たちにとってはたいへん嫌な話をします。

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「王道の型」は手段であり、それを土台、基礎としたら、その目的は高度な達成に近づく。要は、手段とは「より高度な」課題達成基礎だ。
が、たいていはそれがなくても、別の基礎があれば、「初歩的な」課題達成やれるようになっている。
というか、「初歩的な」課題達成を済ませた人たちが、それまでの道が非効率的だったことを憂いて、事後的に手段をひねり出したのだ。

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つまり、手段最初から基礎だった訳ではない。
どんなに「基礎固め」が、ある種の「基礎」に見えたとしても、それは手段なのだから、それを初期の動機替えることは、基本的には出来ない。それらは別のものなのだから。
課題達成しようという動機は、最初から別にあった。ということをすっ飛ばしたら、最終的には課題達成のプロセスは崩壊するだろう。
もし動機等を損なうなら、手段を呑ませることに血道を上げようとしてはならない。ここは勘違いしてはならない。

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「すごそうな目的に向かって、やっていきましょう、となって、自分の手でやってたら、成功した」
というのが、まずは真の王道であり、
「工夫したらもっと爆発的に効き目があることを教えられ、工夫も効き目も黄金のサイクルを回し始めた。
そのうちもっといい『王道の型』の工夫を教えられ、じわじわと効き目があり、フィーバータイムになっている」

というのがその望ましい延長としてあるのだから、
「最初から、自分の手と関係ないことを、やってたら、成功した」
というの、まずその時点で何の当事者性もないし、そんなものに身を捧げる訳がない。
他人事ですよ。そんな勉強は。ダメなんだってば。

5_5.勉強はプロセスが大事なのであり、内容はその成果に過ぎない。成果はもちろん大事だが、そこまでのプロセスが「やれる」ことが大事なのだ

勉強は、内容だけ見ていたら、ただの知識、動かないものであるかも知れないが、プロセスとして見れば、これは断固として実践、動くものだ。

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実践そのものにももちろん様々な段取りがある。
課題、動機、意志力、実践、努力、持続的実践、習慣、熟練、結果、評価、成果、より冷静な評価、ある種のメタ的な自己客観視による飽き。
そしてようやく、手段の改善のための上位手段としての基礎固め。
からの、高度な課題達成。

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そこをすっ飛ばして、基礎固めをいきなりさせるの、
「何の自発的な手段も持たせず、いきなり手段の型や内容だけフォアグラのように詰め込む」
ということと同じですよ。そりゃあ、嫌がるよ。ふつうに。

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知識だけ詰め込むのが勉強ではない。そんなものはただの成果に過ぎない。
勉強は全体のプロセスを持つものだ。
基礎固めをさせたいのなら、基礎固めをするタイミングの前後を、キッチリ押さえておかねばならない。

動機意志力努力折ってはならないし、成果を得ないうちに習慣熟練他人が要するにもぎとるの、最終的にはただの妨害に過ぎなくなるし、それが「ためになる」という話、何の説得力もない。
人が何かすることを初手でへし折ってくる人に、信頼なんか持ちたくないんだから、こんなもん当たり前だ)

ある種の客観視による飽きが見えたら、そこがチャンスだ。(あくまで興味を持たせる言い方はしなければならない。ここで何も考えずにフォアグラ行為をするの、お話にならない)

そういったところが大事になってくるのだと考えられます。
やっていきましょう。

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